Quantcast
Channel: はてノ鹽竈
Viewing all articles
Browse latest Browse all 165

伊豆毛

$
0
0
 「伊豆(いず)」という地名なり言霊なりの由来には幾通りかの説があるようです。
 海に「出(いず)る」半島の形状に由来するとする説、同様にアイヌ語で岬を意味する「エトゥ」に由来するという説、温泉が豊富なことから「湯出(ゆいず)る」に由来する説、同様の由来であろう熱海の「井津(いつ)」の表記が変ったという説、はたまた、忌み恐れられた火山活動が古来斎(いつ)き祀られてきたことなどからの「斎(いつ)」に由来するという説、同様に、荒魂なり祟り神的な意味を包摂する「厳(いつ)」に由来するという説、委奴国(いとこく)に縁あるとする説の延長から「委奴(いと)」に由来するという説、「出雲」の万葉仮名表記「伊豆毛(いづも)」に由来するという説、などなど・・・。
 賢しらに列記はしてみたものの、ウェブ上でさらりと検索してみただけで各々の詳細を検証したわけでもないので無責任な批判をすることは避けておきますが、「伊豆毛」という万葉仮名が実在していたことについては倉野憲司さん校注の岩波文庫版『古事記』の巻末に古事記所載の歌謡全句の索引があって、なるほど、「出雲健が」は「伊豆毛多祁流賀」、「出雲八重垣」が「伊豆毛夜弊賀岐」と表記されていたことがわかります。
 尚、私論ながら、陸奥國栗原郡―宮城県―には「天香語山」に関係する「「比治(ひじ)≒伊治(いじ)」が訛って「伊豆(いず)」となったと思しき事例もありますが、はたしてそれが伊豆國―静岡県―にもあてはまり得るものかはわかりません。
 いずれ私見としては、伊豆國が伊勢を追われた出雲神の裔孫たる伊勢津彦一族の新天地であったらしきことや、その彼らが事代主神を祀る三島大社を創建したものとみるならば、「伊豆毛」なる万葉仮名表記によらずともその韻が出雲に由来しているとみることは至極妥当ではなかろうかと思っております。
 一方で、古来伊豆が遠流(おんる)の地であったこと、例えば、文武天皇三(699)年には怪しげな言葉で人民を惑わせたという讒言によって「役小角(えんのおづの)」が、承和九(842)年には恒貞親王を擁して謀反を企てたとされる「承和の変」の濡れ衣で「橘逸勢(たちばなのはやなり)」が、貞観八(866)年には平安京大内裏の南面正門たる応天門を放火した「応天門の変」の主犯として「伴善男(とものよしお)」が、さらに下って 永暦元(1160)年には「平治の乱」における敗軍の重鎮源義朝の子として「源頼朝」が伊豆に流されております。
 このように白鳳時代から平安時代に至っても尚伊豆が重大な政治犯の流刑地とされていたことを鑑みるならば、それはいわば古来切り離せない宿業とでもいうべき伊豆ブランドのアイデンティティであり伊豆の存在そのものとみてもあながち間違ってはいないでしょう。
 伊豆國が成立したとされる神功皇后の時代、既に三島大社は創建されていて前期相模國も成立していたわけですから、朝廷からみてまるっきり化外の地ということでもなかったことでしょうが、それでも平安時代以前の朝廷からみた伊豆はただただ遠流の地であったことでしょう。
 ある意味では後の伊豆國を包括する相模國造家の祖たる伊勢津彦にこそ当地の遠流の起源をみるべきものなのかもしれませんが、古代の政治犯などというものは得てして旧体制の実力者が新体制によって無実の罪を着せられていた事例が多いわけであり、いずれその周辺の活発な火山活動への忌み恐れは、彼ら冤罪の輩の怨念に対す新体制側の忌み恐れを投影し得るものでもある故、「斎(いつ)」説なり「厳(いつ)」説についても捨てがたいものがあります。
 少なくとも三島大社への別格な待遇にはおそらくそういった思惑が反映されていたことでしょう。

イメージ 1

イメージ 2


 そもそも「出雲」の語源自体が「斎(いつ)」なり「厳(いつ)」に包摂され得るものではなかろうか、という思いも頭をよぎります。
 『古事記』において、「伊邪那岐(いざなぎ)命」が亡き妻「伊邪那美(いざなみ)命」を追って踏み入ってしまった「黄泉(よみ)の国」から逃げかえり禊ぎをしたときに生まれた神の中に、「伊豆能賣(いずのめ)神」の名がみえますが、岩波文庫版『古事記』の注釈はこれを―「厳の女」の意か―と記し、次田真幸さん全訳注の講談社学術文庫版に至っては―「厳(いづ)の女(め)」の意で、「禍を直す女神であろう」―と記しております。
 『古事記』は伊邪那美命が出雲国と伯耆国の境に葬られたとしておりますが、講談社版は「黄泉国を出雲国にあるとする思想と関連があるであろう」と解説しております。
 倉野さんや次田さんのような権威ある識者が「伊豆」を「厳(いつ)―禍(まがこと)―」の表記例であるとみるのは、記紀における出雲の立ち位置への鋭い洞察が働いた上での結論であるのでしょう。
 ところが、実は当の出雲側には全く意外な伝承があるようです。
 『出雲と大和のあけぼの(大元出版)』の著者で出雲神族の継承者と思しき斎木雲州さんによれば、イザナギ命が禊ぎをした時に生まれた「伊豆能売(いずのめ)神」は本来「出づの芽の神」なのだそうです。
 そもそも「出雲」とは、日本で初めて文化の芽が出た土地、「芽が出づる国」への誇りを表わす「出づ芽(いづめ)」が語源と考えられているようです。
 これには全く意表を突かれました。単に斎木さんの希望的由来譚ではなかろうか、などとも思ったのですが、出雲族の祖霊神たるサイノカミが、いみじくも「出づの芽の神」とも呼ばれていたのだといい、また、出雲では大祭の最後に一同そろって永遠(とわ)の弥栄(いやさか)を祝う万歳三唱をする際、「イヅメ!イヅメ!イヅメ!」と唱和していたというのですから、さすがにそこまで具体的な習俗的事例を突き付けられてしまうともはや信ずるしかなさそうです。
 大和朝廷が出雲に抱いていた後ろめたさは出雲自体を黄泉の国として忌み恐れさせてしまっているようですが、それによって出雲における縁起の良いはずの言霊までもが全く逆の意味に変質してしまっているのだとしたら、なんとも皮肉で哀しいものです。
 ふと、宮城郡の式内社「伊豆佐賣(いずさめ)神社」も、もしかしたらその「出づの芽の神」なる出雲の祖霊神「サイノカミ」であったのではなかろうか、という思いもよぎります。
 同じ陸奥国の栗原郡―現:宮城県栗原市―を中心とする宮城県北の「伊豆」が「伊治」と混乱していること、「伊治城」のことと思しき「此治城」と記された漆紙文書が多賀城から出土していること、伊豆佐賣神社鎮座地の「飯土井」の地名などを鑑みるならば、ここでの「伊豆」は出雲というよりも天香語山に関わる「比治の眞名井」の「比治―伊治―」に由来するとみた方が自然だとは思うのですが、これだけ名称の酷似する両者を全く異質なものと捉えるのも不自然な気がします。
 もしかしたら、「比治」も本来は出雲につながる「出づ」であったのでしょうか。
 なにしろ、天香語山の母「天道日女(あめのみちひめ)命」は、『海部氏勘注系図』や『播磨國風土記』において、「大巳貴(おおなむち:大汝)」の子とされております。
 つまり天火明―饒速日―の子とされる天香語山の母系が出雲神族であることを鑑みれば、それもあり得ないことではないでしょう。
 しかし斎木さんは、前述書の中で『丹後風土記』を引用して天香語山縁の「比治」が「泥(ひじ)」に由来することを述べております。
 より多くの類例をもって検証する必要はあるものの、やはり現段階では伊豆と比治―伊治―は別物とみておくべきなのかもしれません。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 165

Latest Images

Trending Articles