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荒雄川の河畔:後編―三十六所明神―

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 荒雄川(あらおがわ)―江合川(えあいがわ)―流域は、奥州藤原政権下においては照井王国でもありました。
 度々触れているとおり、「大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)」を輩出したと自称する照井氏は、高句麗系渡来人と密接、あるいはそのものであったのではないか、と私は考えております。
 例えば、照井太郎高直を供養したものとされる宮城県栗原市金成(かんなり)町有壁(ありかべ)の五輪塔は、このあたりでは珍しい“積石塚”の上に立てられておりました。
『日本歴史大辞典(小学館)―CASIO製電子辞書「EX-word」所収―』は、「積石塚」を次のように説明しております。

―引用―
つみいしづか【積石塚】
墳丘を石で覆った墓。河原(かわら)石や山石、割石(わりいし)で墓槨(ぼかく)を覆うという風習は世界各地で普遍的であるが、一定の地域・時期に発達する積石塚には系統関係がみられる。遼東半島の積石塚は紀元前8~4世紀の青銅器時代の多葬墓である。高句麗(こうくり)では紀元前後に遼東半島の積石塚や⇨支石墓を祖型として出現し、円形の積石塚から方形の基壇積石塚に変化する。高句麗の積石塚は大同江・漢江流域にまで分布し、文化圏・政治的領域圏を表わす。~以下省略~

 これが論証というわけでもありませんが、少なくとも積石塚が高句麗に顕著な埋葬習慣であったということくらいは留意しておきたいところです。
 先に触れた「王昭君(おうしょうくん)」は、「匈奴(きょうど)」の「呼韓邪単于(こかんやぜんう)」に嫁がせられたとのことでした。匈奴とはモンゴル高原に一大勢力を築いた遊牧国家であり、歴代中国王朝を脅かしていた北方騎馬民族でありました。それ故に歴代の中国王朝は「万里の長城」の整備を怠るわけにはいかなかったのです。
 匈奴からすれば世界一の文明国たる中国王朝は垂涎の存在でもあり、中国王朝からすれば北方の匈奴はおとなしくしていてもらいたい筆頭の存在であったようです。なにしろ匈奴は強く、武闘派の楚王「項羽」を下して皇帝の座についた「漢の高祖―劉邦―」ですらも完敗しております。北方へ退却する囮の匈奴軍を追撃した高祖はまんまと謀略にはまり、「白登山」にて匈奴軍精鋭の騎兵に包囲され、そのまま七日間も孤立するという絶体絶命の危機を体験しております。高祖は贈賄作戦によって辛うじて脱出に成功し首都長安に逃れたものの、これ以上の匈奴との対峙は不可能と悟らざるを得ず、以降様々な貢物はもちろん、帝室の女を匈奴の単于(ぜんう:君主の意)に贈り姻戚関係を結び続けるというおよそ皇帝とは思えない屈辱的な外交政策をとらざるを得なかったようです。「前漢(=西漢)」の「元帝」が匈奴の呼韓邪単于に皇女の王昭君を贈ったのもその代表的な例といえるでしょう。

 さて、陸奥の栗原に土着していた信濃系の馬産民は、元をただせば「天武天皇」の政策に基づき信濃に徴集養成された亡国の高句麗系騎馬民の裔であろうというのが私の仮説ですが、それらと極めて密接な存在と思われる照井一族の英雄「阿弖流為(あてるい)」を降伏に導いたのは、「東漢(やまとのあや)氏」の裔である征夷大将軍「坂上田村麻呂」でありました。
 大和の「檜隈(ひのくま)」を本拠地にしていた「東漢(やまとのあや)氏」は、「後漢(=東漢)」の「霊帝」の裔を称しておりますが、その実は扶余系の騎馬民族と思われます。事実、彼らは藤原広嗣の反乱の際に騎兵として登場しております。
 彼らの本拠の「檜隈(ひのくま)」については、『日本書紀』に「呉人(くれひと)を檜隈野(ひのくまの)に安置(はべらし)む。因りて呉原(くれはら)と名(なづ)く」とあるのですが、「呉原」は現在の奈良県高市郡明日香村の「栗原」のことで―『日本書紀(岩波書店)』―、「呉人」は高麗、百済の扶余系朝鮮人をさします―大和岩雄さん『日本古代試論(大和書房)』―。
 その扶余系騎馬民族の裔とみられる坂上田村麻呂が、阿弖流為の投降を実現させたわけですが、いくら英雄田村麻呂とはいえ、多賀城への就任まもない彼が、10年以上も前任者らの手に負えなかったまつろわぬ勇者阿弖流為との交渉を短期間で円滑に進めることが出来たのは、他ならぬ阿弖流為が田村麻呂の氏素性に親近感を覚えたからではなかろうか、と私は考えております。
 ともあれ、その東漢氏が後漢霊帝の裔を称していることから推察するに、北方騎馬民族の流れをくむ扶余高句麗系帰化人は漢族たらんとするフシがあったようです。
 青塚古墳の被葬者の属性は今一つわかりませんが、少なくとも「青塚」の名は漢族気分を気取る彼らによって名づけられ、伝えられたのではないでしょうか。

 ところで、藤原秀衡の命によって照井太郎高直が造営したとされる「佐沼城―宮城県登米市佐沼―」には「照日権現(てるひごんげん)」が祀られております。これは照井氏の守護神とされておりますが、長崎県対馬市の「阿麻弖留(あまてる)神社」の例から、照日権現は「天照御魂(あまてるみたま)神」のことと考えられます。すなわち『日本書紀』でいうところの尾張氏の祖神「天照国照彦天火明(あまてるくにてるひこあめのほあかり)命」のこととはよく言われるところです。『先代旧事本紀』はこの神を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひ)尊」と表記し、物部氏の祖神「饒速日(にぎはやひ)尊」のこととしております。
 はたして、それらが本当に同体異称の神であるのかはわかりませんが、少なくとも男性太陽神への信仰―アマテル信仰―であるという部分は共通しております。
 だからといって、これらが全て「好太王碑(こうたいおうひ)―広開土王碑―」なり「檀君神話」などにみられる朝鮮系の日光感精神話なり天神信仰なりに起因するものと判断するのは早計でしょうが、環日本海エリア全般に、各々近似する太陽信仰が浸透していたことは疑いようもない事実であり、物部氏や尾張氏の祖神とされる饒速日(にぎはやひ)尊なり火明命が日本に発祥したのか朝鮮に発祥したのかはわかりませんが、少なくとも天照御魂神という性格をもって日本に帰化した有力な渡来系氏族からも崇敬されていたフシがあったことは間違いないでしょう。
 それを踏まえたうえでの戯言ですが、もしかしたら、大崎市の中核「古川(ふるかわ)」の地名の本来の表記は「布留川」であったのではないでしょうか。
 すなわち、それは奈良県天理市の「石上(いそのかみ)神宮」の鎮座地「布留」を流れている川の名と同名ということです。布留は「布留御魂(ふるのみたま)大神」を意味しますが、それは、「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)」なる十種の神宝に宿る御霊威を称えた神名で、『先代旧事本紀』や、神宝がおさめられた所と由緒に伝う石上神宮では、それらは天降らんとする饒速日(にぎはやひ)尊に天津神(あまつかみ)が授けたものとされております。
 平成の大合併で生まれた大崎市にあって「古川」はその中核で、東北新幹線の駅もある宮城県北の旧「古川市」のことであるわけですが、『古川市史』が記すその地名の由来は、「昔、荒雄川は、現在の市街地を流れていたといわれる。その川跡に人が住み、やがて村が形成された~」ことにあるようです。
 当然ながら「布留」のことなどどこにも出てきませんが、その地名由来にからむ荒雄川の川筋には、かつて「瀬織津姫神」が三十六ヶ所にわたって祀られ、「三十六所明神」と呼ばれておりました。
 瀬織津姫を饒速日の后神とみるイデオロギーがそこに介在していたならば、古川の古は布留であったのではないか、という推測もあながち外れてはいないように思えます。
 三十六所明神は、江戸時代寛保三(1743)年に荒雄川上流岩出山池月地区の式内社「荒雄河(川)神社」に合祀されました。
 かつて私は、鎮守府将軍となった奥州藤原氏三代秀衡がこの荒雄河(川)神社を奥州一之宮に定めたことをもって、奥州藤原氏の崇敬する神が瀬織津姫であったと断定して論を進めましたが、あらためて考えてみるに、三十六所明神の合祀が江戸時代のこととするならば、その500年以上も前の奥州藤原時代の荒雄川神社の祭神には瀬織津姫が含まれていなかった可能性もあります。
 もちろん、瀬織津姫を祀る三十六所明神が同じ瀬織津姫を祀る件の荒雄川神社に集約されたという可能性もありますが、例えば、境内案内に「祭神は須佐雄尊と瀬織津姫尊で~」とあるところの「須佐雄尊」を祀っていた荒雄川神社に、三十六所明神が合祀されたことをもってはじめて瀬織津姫神が加わっただけである可能性もあります。
 なにしろ、荒雄川源流の地「鬼首(おにこうべ)」の「荒雄岳」にも同名の社があり、岩出山池月の社が里宮と呼ばれているのに対して、鬼首のそれは奥宮ないし嶽宮と呼ばれているのですが、この奥宮の祭神は大物忌神であり、須佐雄尊ですらなく、瀬織津姫の名はみられません。奥宮と里宮がまったく異なる神を祀っているというのもいかがなものか・・・。
 しかし、『古川市史』に奥宮・里宮・三十六所明神ともに荒雄川そのものを祀ったものという旨が記されていることを鑑みれば、やはりそれらの本質はすべて同じ性格の川神とみるべきでしょう。
 例えば、三十六所明神が里宮に合祀された150年後の明治二十五・六年ごろ、古川小林地区の有志が、鬼首におもむき、荒雄川神社より分神を勧請し、地区の河添いに石の祠を建てて奉納し、河川の安全を祈願した、という逸話が『古川市史』にあります。この逸話からすると、少なくとも流域の住民は“河川の安全祈願”のために、あえて奥宮から分神を勧請したわけであり、奥宮を荒雄川の水神の最たる存在とみていたことが推察されます。

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荒雄川神社の里宮
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 いずれ、川神の性格を有する瀬織津姫神が三十六ヶ所にもわたって祀られていた事実は、荒雄川がかなりの暴れ川であったことを物語っており、もしかしたら、そのあたりが流域の悲劇の美女伝説に関係しているのかもしれません。
 三十六所明神の一社が祀られていたという古川清水地区の「抑の池(おさえのいけ)」の伝説には、村一番の怜悧(れいり)な娘が大蛇に人身御供として差し出されるくだりがあります。物語は月並みながら大蛇を出し抜き娘も村も助かるというハッピーエンドなわけですが、当地には大蛇を切り刻んだ「マナ板橋」と伝わる場所があり、何を隠そう、それより上流の岩出山真山地区の諏訪神社入口の「マナ板橋」では、「ここを通る女のうち、三人目の女を捕えてマナ板橋で切り刻んで諏訪神社に犠牲として供献した―『古川市史』―」と伝わっております。おそらく抑の池でも本来はそれに近い生々しい祭祀が行われていたのでしょう。
 思うに、そういった村の娘たちの悲劇が、王昭君や小野小町などの悲劇的な美女伝説を甘受しやすい民心の下地になっていたのではないでしょうか。
 石上神宮の由緒によれば、先の布留御魂大神、すなわち天璽十種瑞鳳に宿られる御霊威は、「死(まか)れる人も生き反(かへ)らむ」と天津神が饒速日命に教え諭して授けられたものでありました。荒雄川の旧河道に名付けられたフルカワの地名には、娘を人身御供に差し出した邑人のせつない思いが反映されていたのでは、などと勘繰るのはあまりに抒情的すぎるでしょうか。

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主祭神を瀬織津姫とする大崎神社。
 最上氏や大崎氏の祖となる奥州管領「斯波家兼(しばいえかね)」が「名生(みょう)城」を築いた際にその守護神とされたもので、三十六所明神の一社に旧大崎村内の各神社を合祀し、名生城内の熊野神社の社地に遷座、合祀されたもののようです。
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