伊達家の記録と留守家の記録で鹽竈神社の社人を見比べると、御釜神社の立ち位置に変化が見受けられます。
寛永二十一(1645)年の『知行目録』は、御釜神社の竈守たる「鈴木隼人」について「社人竈太夫隼人」と記しておりますが、百年ほど遡った天文年間(1532~1555)に作成されたと思われる『留守家分限帳』の三巻「宮さとの人數」―鹽竈社人名簿―にはその名が見えません。
とはいえ、同書の一巻「御館之人數」には「鈴木隼人以町さいけ一けんくら二 御かまの神領五百かり」とありますので、決してこの家が名簿から漏れていたわけではありません。
天文年間に社人に数えられていなかった竈守の鈴木隼人が、なんらかの事情で寛永二十一(1645)年までには竈太夫隼人として社人に数えられることになっていたことがわかります。
この竈太夫家や男鹿島太夫家の鈴木姓について、『一森山叢書第二編』所載の「古代中世の鹽竈神社」の執筆者である豊田武さんは、「紀州藤白湊にある熊野王子の神職鈴木一族を中心とする鈴木党に由来する」、としております。
豊田さんが説くとおり、鈴木党は熊野漁業と熊野信仰の発展とともに太平洋沿岸に沿うて北上し、熊野社のあるところ、必ず鈴木姓の神職を見るまでに広く伝播しました。
豊田さんは、鹽竈社に鈴木姓の神職がはいりこんだのは、源頼朝の社殿経営と関係があるかも知れない、としながら、次のような注釈を加えております。
寛永二十一(1645)年の『知行目録』は、御釜神社の竈守たる「鈴木隼人」について「社人竈太夫隼人」と記しておりますが、百年ほど遡った天文年間(1532~1555)に作成されたと思われる『留守家分限帳』の三巻「宮さとの人數」―鹽竈社人名簿―にはその名が見えません。
とはいえ、同書の一巻「御館之人數」には「鈴木隼人以町さいけ一けんくら二 御かまの神領五百かり」とありますので、決してこの家が名簿から漏れていたわけではありません。
天文年間に社人に数えられていなかった竈守の鈴木隼人が、なんらかの事情で寛永二十一(1645)年までには竈太夫隼人として社人に数えられることになっていたことがわかります。
この竈太夫家や男鹿島太夫家の鈴木姓について、『一森山叢書第二編』所載の「古代中世の鹽竈神社」の執筆者である豊田武さんは、「紀州藤白湊にある熊野王子の神職鈴木一族を中心とする鈴木党に由来する」、としております。
豊田さんが説くとおり、鈴木党は熊野漁業と熊野信仰の発展とともに太平洋沿岸に沿うて北上し、熊野社のあるところ、必ず鈴木姓の神職を見るまでに広く伝播しました。
豊田さんは、鹽竈社に鈴木姓の神職がはいりこんだのは、源頼朝の社殿経営と関係があるかも知れない、としながら、次のような注釈を加えております。
―引用:『一森山叢書第二編(志波彦神社 鹽竈神社 社務所)』―
熊野信仰はすでに名取の熊野社のように、平安末期仙台地方に伝わっているが、それがひろがったのは、頼朝の奥州遠征後であろう。源氏の水軍として活躍した鈴木三郎は、頼朝から所領まで賜っていたが、妻子を熊野に送って義経の死出の供をした。陸中江刺郡片岡村多門寺薬師堂は正治年中鈴木重家の子の創建であるという。したがって三陸沿岸に鈴木党の発展したのは鎌倉の中期以前であったと考える。
熊野信仰はすでに名取の熊野社のように、平安末期仙台地方に伝わっているが、それがひろがったのは、頼朝の奥州遠征後であろう。源氏の水軍として活躍した鈴木三郎は、頼朝から所領まで賜っていたが、妻子を熊野に送って義経の死出の供をした。陸中江刺郡片岡村多門寺薬師堂は正治年中鈴木重家の子の創建であるという。したがって三陸沿岸に鈴木党の発展したのは鎌倉の中期以前であったと考える。
たしかに、熊野鈴木党の伝播はそのようなものであったことでしょうし、熊野信仰が広がったのも頼朝の奥州遠征後であったことでしょう。
ただ、陸奥國府周辺においてのそれは、むしろ先住の名取熊野の広がりではなかろうか、という思いがあります。
平安末期云々と引き合いに出されているところの名取熊野は、頼朝に滅ぼされた平泉王国の残り形見のごとき存在でありますが、これこそが主家の滅亡によって広がったのではないか、と私は考えるのです。
何故そう考えるのかというと、陸奥國分荘玉手崎―仙台市青葉区小松島周辺―の「小萩伝説」が平泉王国滅亡の恨み節に思えるからです。
この伝説は、奥州藤原三代秀衡の三男「和泉三郎忠衡」の遺児とその護持仏―俗に小萩観音―を保護しながら陸奥國分荘に落ち延びてきた乳母小萩の物語なわけですが、その護持仏が、名取那智宮本尊―俗に閖上(ゆりあげ)観音―の漂着譚に結び付けられた伝説もあります。
それらを流布していたのは、当地に落ち延びて尼寺を営んでいた平泉系の貴女たちと、旧荒巻邑の総鎮守たる熊野神社―仙台市青葉区通町―の巫女たちであったものと思われます。※拙記事「泉と清水と白水と―その3―」参照
この熊野神社は、土御門天皇(1198~1210)の勅宣によって創建されたと伝わるものでありますが、後の仙臺城普請にともない境内地に換地された「玄光庵」の鎮守でもありました。
創建時期こそ頼朝進出による熊野信仰伝播の時期とも合致しますが、別当寺の玄光庵が藤原秀衡創建と伝わる龍泉院から分かれたものであることを鑑みるならば、やはり名取熊野の流れをくむものであった可能性が高いと考えます。
思うに、男鹿島太夫なり竈太夫なりの鈴木姓は、むしろこの先住の名取熊野に由来するのではないでしょうか。
先に割愛しましたが、『留守家分限帳』を秘蔵していた留守氏の執事たる佐藤氏は、その分限帳において筆頭に記された佐藤玄蕃頭を名乗る家柄でありました。
『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』によれば、佐藤氏の先祖は、陸奥国留守職伊沢家景の入府に際して、「当国の案内者」として特別に随行したのだそうです。
同辞典は、「多賀国府の事情に通じた立場を買われたものか」としており、また、『餘目記録』には、佐藤氏の当主が留守の当主から「御父」と呼ばれていた旨が記されており、佐藤玄蕃頭家が留守家中にあって特別な地位を占めていたことが知られます。
なにしろ『宮城県姓氏家系大辞典』は、宮城県内の佐藤氏が信夫荘の佐藤荘司から始まったとされている旨を記しております。
信夫荘司の佐藤基治は、奥州藤原氏の重臣であったわけですが、二代基衡の姪の夫でもありました。一方で、『封内風土記』は陸奥國分荘―現在の仙台市内―の領主でもあったとも伝えます。
ただ、佐藤荘司と呼ばれる存在は、有名な信夫荘の佐藤基治ばかりではなく、本吉や名取にも存在していたようです。
例えば、本吉荘は奥州藤原三代秀衡の四男高衡の領とされ「本吉冠者四郎高衡」と冠されるほどの名高い大荘であったようですが、『郷土研究としての小萩物語』の藤原相之助は、高衡の年若き故に佐藤の一族を置いてこれを宰知させたものとしております。
なるほど、兄である和泉三郎忠衡が文治五(1189)年に23歳の若さで亡くなっているわけですから、高衡はそれよりも若い時分から大荘たる本吉荘を領していたことになります。
以前私は、鹽竈神社に文治の燈籠を寄進した和泉三郎忠衡は奥州藤原王国における対多賀国府の外務大臣で、まだ若い忠衡を補佐し、その実質を担っていたのは義父である佐藤荘司基治であったのだろう、と推測しておきました。※拙記事「佐藤基治一家の哀歌」参照
ただ、陸奥國府周辺においてのそれは、むしろ先住の名取熊野の広がりではなかろうか、という思いがあります。
平安末期云々と引き合いに出されているところの名取熊野は、頼朝に滅ぼされた平泉王国の残り形見のごとき存在でありますが、これこそが主家の滅亡によって広がったのではないか、と私は考えるのです。
何故そう考えるのかというと、陸奥國分荘玉手崎―仙台市青葉区小松島周辺―の「小萩伝説」が平泉王国滅亡の恨み節に思えるからです。
この伝説は、奥州藤原三代秀衡の三男「和泉三郎忠衡」の遺児とその護持仏―俗に小萩観音―を保護しながら陸奥國分荘に落ち延びてきた乳母小萩の物語なわけですが、その護持仏が、名取那智宮本尊―俗に閖上(ゆりあげ)観音―の漂着譚に結び付けられた伝説もあります。
それらを流布していたのは、当地に落ち延びて尼寺を営んでいた平泉系の貴女たちと、旧荒巻邑の総鎮守たる熊野神社―仙台市青葉区通町―の巫女たちであったものと思われます。※拙記事「泉と清水と白水と―その3―」参照
この熊野神社は、土御門天皇(1198~1210)の勅宣によって創建されたと伝わるものでありますが、後の仙臺城普請にともない境内地に換地された「玄光庵」の鎮守でもありました。
創建時期こそ頼朝進出による熊野信仰伝播の時期とも合致しますが、別当寺の玄光庵が藤原秀衡創建と伝わる龍泉院から分かれたものであることを鑑みるならば、やはり名取熊野の流れをくむものであった可能性が高いと考えます。
思うに、男鹿島太夫なり竈太夫なりの鈴木姓は、むしろこの先住の名取熊野に由来するのではないでしょうか。
先に割愛しましたが、『留守家分限帳』を秘蔵していた留守氏の執事たる佐藤氏は、その分限帳において筆頭に記された佐藤玄蕃頭を名乗る家柄でありました。
『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』によれば、佐藤氏の先祖は、陸奥国留守職伊沢家景の入府に際して、「当国の案内者」として特別に随行したのだそうです。
同辞典は、「多賀国府の事情に通じた立場を買われたものか」としており、また、『餘目記録』には、佐藤氏の当主が留守の当主から「御父」と呼ばれていた旨が記されており、佐藤玄蕃頭家が留守家中にあって特別な地位を占めていたことが知られます。
なにしろ『宮城県姓氏家系大辞典』は、宮城県内の佐藤氏が信夫荘の佐藤荘司から始まったとされている旨を記しております。
信夫荘司の佐藤基治は、奥州藤原氏の重臣であったわけですが、二代基衡の姪の夫でもありました。一方で、『封内風土記』は陸奥國分荘―現在の仙台市内―の領主でもあったとも伝えます。
ただ、佐藤荘司と呼ばれる存在は、有名な信夫荘の佐藤基治ばかりではなく、本吉や名取にも存在していたようです。
例えば、本吉荘は奥州藤原三代秀衡の四男高衡の領とされ「本吉冠者四郎高衡」と冠されるほどの名高い大荘であったようですが、『郷土研究としての小萩物語』の藤原相之助は、高衡の年若き故に佐藤の一族を置いてこれを宰知させたものとしております。
なるほど、兄である和泉三郎忠衡が文治五(1189)年に23歳の若さで亡くなっているわけですから、高衡はそれよりも若い時分から大荘たる本吉荘を領していたことになります。
以前私は、鹽竈神社に文治の燈籠を寄進した和泉三郎忠衡は奥州藤原王国における対多賀国府の外務大臣で、まだ若い忠衡を補佐し、その実質を担っていたのは義父である佐藤荘司基治であったのだろう、と推測しておきました。※拙記事「佐藤基治一家の哀歌」参照
本吉荘にせよ國分荘にせよ、往々にして、佐藤荘司には奥州藤原王国の対外政策の実務を担う執行役員的な要素があったように思われます。
なにしろ、佐藤姓については、『嚢塵埃捨録』が奥州藤原二代基衡を「佐藤左衛門尉藤原基衡」、同じく三代秀衡を「佐藤陸奥守兼鎮守府将軍藤原秀衡」と記しており、奥州藤原氏そのものが「佐藤」とみなされていた例があることも留意しておきたいところです。
いずれ、留守家の執事とされていた佐藤氏については、少なくとも多賀国府に通じていたと思われる事情からして、この佐藤荘司の一族であったとみて良さそうです
奥州経営に乗り出した源頼朝は、おそらくはそういった経歴に裏付けられた熟練の実務能力を利用すべく、この一族を陸奥國留守職伊澤家の家老に置いたのではないのでしょうか。
有名な信夫の佐藤荘司基浩は、28万の総鎌倉軍との最も壮絶なファーストインパクトに砕け散り、阿津賀志山に首を晒されたわけですが、名取の佐藤荘司は名取郡司と熊野別当とともに投降して赦免されたことが『吾妻鏡』に記されております。
『嚢塵埃捨録』には、本吉冠者四郎高衡と志波日詰五郎頼衡といった三代秀衡の四男五男が二万五千の兵を率いて名取高館で応戦した旨が記されておりますが、もしかしたら彼らがそうなのかもしれません。
いずれ私は、頼朝に生かされた佐藤荘司と熊野別当が新参の留守職伊澤氏を補佐することによって、佐藤玄蕃頭と竈太夫鈴木隼人による塩竈経営の基礎が発祥したのではないか、と考えるのです。
なにしろ、佐藤姓については、『嚢塵埃捨録』が奥州藤原二代基衡を「佐藤左衛門尉藤原基衡」、同じく三代秀衡を「佐藤陸奥守兼鎮守府将軍藤原秀衡」と記しており、奥州藤原氏そのものが「佐藤」とみなされていた例があることも留意しておきたいところです。
いずれ、留守家の執事とされていた佐藤氏については、少なくとも多賀国府に通じていたと思われる事情からして、この佐藤荘司の一族であったとみて良さそうです
奥州経営に乗り出した源頼朝は、おそらくはそういった経歴に裏付けられた熟練の実務能力を利用すべく、この一族を陸奥國留守職伊澤家の家老に置いたのではないのでしょうか。
有名な信夫の佐藤荘司基浩は、28万の総鎌倉軍との最も壮絶なファーストインパクトに砕け散り、阿津賀志山に首を晒されたわけですが、名取の佐藤荘司は名取郡司と熊野別当とともに投降して赦免されたことが『吾妻鏡』に記されております。
『嚢塵埃捨録』には、本吉冠者四郎高衡と志波日詰五郎頼衡といった三代秀衡の四男五男が二万五千の兵を率いて名取高館で応戦した旨が記されておりますが、もしかしたら彼らがそうなのかもしれません。
いずれ私は、頼朝に生かされた佐藤荘司と熊野別当が新参の留守職伊澤氏を補佐することによって、佐藤玄蕃頭と竈太夫鈴木隼人による塩竈経営の基礎が発祥したのではないか、と考えるのです。