伊豆國の三島:その2―氏子を抱える祓所神社―
三島の街路網は潤沢な湧水や天然の水系の流路が基準となっているのでしょうか概して自然体で、難を言えば実に方位のつかみづらい市街地でありました。...
View Article伊豆國の三島:その3―三嶋大社の境内と祭神論争―
広葉樹の社叢に覆われた三嶋大社、祓所神社側からの参道をすすむと、右手に緋鯉真鯉が群雄する本来の御神池がみえてまいります。 『類聚国史』には、この池の枯渇が天下の旱魃の兆しとなっていることを憂いて三嶋大神を鎮祭している旨の記事が天長四(827)年と元慶七(883)年の二度ほどあります。すなわちこれは三嶋大神が当地の湧水への崇敬と密接であることを示唆するものと思われ、留意すべきでしょう。...
View Article鹽松勝譜をよむ:その2―印象に残った20の譚―
舟山萬年の『鹽松勝譜』―厳密には鈴木省三編『仙臺叢書別集第四巻―解譯鹽松勝譜―』―の全体をざっと通読してみたわけですが、その中で印象に残った譚を20例に絞って挙げておきます。 1、「千賀(ちが)」の由来 2、鹽竈神起源御釜社説 3、荒脛(あらはばき)神の鎮座地 4、東鹽氏の傳 5、先代旧事本紀大成経のこと 6、松島葉山神祠の山上の怪異 7、上岡・下岡の東明神・西明神 8、松島最古の松島八幡...
View Article鹽松勝譜をよむ:その3―千賀の由来―
1、「千賀(ちが)」の由来 塩竈湾には「千賀(ちが)ノ浦」という別名があります。甲子園大会の常連校である仙台育英高校の校歌でも耳にしますが、江戸後期の旅行家「菅江真澄」などはこれを「血鹿の浦」と表現しておりました。 『鹽松勝譜』は、その「ちが」を「千家」と表記し、家がおよそ千戸あったから「千家鹽竈」という俗称が生じた旨を記しております。...
View Article鹽松勝譜をよむ:その4―御釜神社鹽竈神起源説:前編―
『鹽松勝譜』は、「神竈祠―御釜神社―」の項にて、「神廟ヲ去ル南二丁餘。店ノ間ニ祠アリ之ヲ祀ル。蓋シ古昔ハ神廟此地ニアリ當時神釜ヲ以テ神ノ體トナスト、僧宗久東遊紀行ニ見ユ」、すなわち、宗久の紀行文から鹽竈神社は元々御釜神社の地に鎮座していたとする説を主軸としております。...
View Article鹽松勝譜をよむ:その5―御釜神社鹽竈神起源説:中編―
現在、仙臺藩主四代伊達綱村による元禄の造営によって左宮・右宮の両宮に別宮を併せた二拝殿三本殿形式の社殿になっている鹽竈神社ですが、少なくとも貞享三(1686)年頃の「塩竈大明神絵図―宮城県図書館所蔵『御修復帳』に所収―」には別宮の社殿はみえません。そこには、左右宮と思しき拝殿・本殿の一式のまとまった社殿の脇に、現存しない貴船社と只洲社の祠があるのみです。...
View Article鹽松勝譜をよむ:その6―御釜神社鹽竈神起源説:後編―
伊達家の記録と留守家の記録で鹽竈神社の社人を見比べると、御釜神社の立ち位置に変化が見受けられます。 寛永二十一(1645)年の『知行目録』は、御釜神社の竈守たる「鈴木隼人」について「社人竈太夫隼人」と記しておりますが、百年ほど遡った天文年間(1532~1555)に作成されたと思われる『留守家分限帳』の三巻「宮さとの人數」―鹽竈社人名簿―にはその名が見えません。...
View Article鹽松勝譜をよむ:その7―荒脛神の鎮座地―
3、荒脛(あらはばき)神の鎮座地 陸奥総社宮―宮城県多賀城市―の向側、やや塩竈寄りの道端の路地口に、「あらはゞき神社」と刻まれた石碑があります。 路地を入ると、左手奥の民家の入口に鳥居があり、庭の奥にはたくさんの下足類が奉賽された異様な祠が見受けられます。 それが「荒脛巾(あらはばき)神社」です。...
View Article鹽松勝譜をよむ:その8―東鹽氏の傳:前編―
4、東鹽氏の傳:前編 鹽竈神社の國幣中社加列の翌年となる明治八(1875)年、その立役者となった当代権宮司の遠藤信道は、当代宮司の落合直亮の校正を経て『鹽竈神社考』なるものを世に出しました。...
View Article鹽松勝譜をよむ:その9―東鹽氏の傳:中編―
『鹽松勝譜』所載の『東鹽氏傳』の逸文らしきくだりを前後の文脈も含めて眺めてみます。―意訳― 延喜式神名帳に載る宮城郡四座の一となる多賀神社は、武甕槌命・経津主命の二神を祀り、すなわち今の鹽竈神社左右宮がこれにあたる。 往古武甕槌命は浮島にあり、故に浮島明神と呼ばれてきた。...
View Article鹽松勝譜をよむ:その10―東鹽氏の傳:後編―
少しおさらいをしておきます。 同じ東鹽氏の傳を引用しているはずの舟山萬年の『鹽松勝譜』と遠藤信道の『鹽竈神社考』でありましたが、共通の時事に触れた唯一のくだり、すなわち明応年間(1492~1500)の留守氏による鹽竈神社の社殿造営の顛末に関して、両者はまるで正反対の結末を記しておりました。...
View Article鹽松勝譜をよむ:その11―先代旧事本紀大成経のこと―
5、先代旧事本紀大成経のこと 『鹽松勝譜』には、『先代旧事本紀』から引いてきた旨を明記した部分が少なくとも二ヶ所あります。 いずれも、松島湾の雄島に触れたくだりですが、例えば二ヶ所目のそれは以下のとおりです。―引用―...
View Article鹽松勝譜をよむ:その12―松島葉山神祠の山上の怪異―
6、松島葉山神祠の山上の怪異 『鹽松勝譜』によれば、松島陽徳院西北の山の上には遠喜津彦神命と遠喜津姫命の二神が祀られている祠があり、土人はこれを葉山権現と称しているとのことです。 松島陽徳院は、仙臺藩祖伊達政宗の菩提寺瑞巌寺の北東に隣接する「陽徳院」、すなわち政宗の正室「愛姫(めごひめ)」の菩提寺のことです。...
View Article鹽松勝譜をよむ:その13―上岡・下岡の東明神・西明神―
7、上岡・下岡の東明神・西明神 『鹽松勝譜』によれば、瑞巌寺の北には、上岡・下岡と並び称される一対の岡があり、その両岡の上には祠があり、各々東明神・西明神と言われ、それらは貴船祠と加茂祠とされていることです。...
View Article鹽松勝譜をよむ:その14―松島最古の松島八幡―
8、松島最古の松島八幡 松島の総地主とされる葉山神に対して、松島の神祠仏閣中の最も古きものとされているのが松島八幡でありました。『鹽松勝譜』にもそう記されております。 このあたりについての私論は既に触れましたが、この社の本来の姿は、おそらく「松島明神」か「葉山権現」であって、それが多賀城時代の坂上田村麻呂によって多賀國府に近い八幡(やはた)地区にも持ち込まれたのでしょう。...
View Article鹽松勝譜をよむ:その15―高城川河口に鹽場を開いた松島明神―
9、高城川河口に鹽場を開いた松島明神―紫明神― 松島湾の独特の景観は、湾内に流入する河川が少ないことで保たれているという一面があるのですが、それは逆に、瑞巌寺や五大堂などがある松島海岸地区においては慢性的な水不足の要因でもありました。だからこそ、「独鈷水」や「一脈霊泉」、「湯の原」といった数少ない清水にはそのあまりの有難さからか、すべからく慈覚大師円仁伝説がつきまとっていたのでしょう。...
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