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鹽松勝譜をよむ:その9―東鹽氏の傳:中編―

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 『鹽松勝譜』所載の『東鹽氏傳』の逸文らしきくだりを前後の文脈も含めて眺めてみます。

―意訳―
 延喜式神名帳に載る宮城郡四座の一となる多賀神社は、武甕槌命・経津主命の二神を祀り、すなわち今の鹽竈神社左右宮がこれにあたる。
 往古武甕槌命は浮島にあり、故に浮島明神と呼ばれてきた。
 一方の経津主命は多賀崎にあり、高崎明神と呼ばれてきた。わずか百余歩しか離れていない両社の鎮座地は、往古多賀城の砦の内であったが、多賀城が廃された後、城域は市川・浮島・多賀崎の数村に分けられ、多賀崎は高崎とも表記された。故に経津主命は土人から高崎明神と呼ばれたのである。
 鹽竈神社の縁起によれば、今の鹽竈神社は多賀國府にあった。
 すなわち、この國に天降った武甕槌・経津主・鹽竈神の三柱は祠が多賀國府内に設けられていたが故、総称して多賀神社と號されたのである。『封内名蹟志』は、多賀神社は今の鹽竈一之宮のことであり、郷説にいうところの浮島明神のことであるという。
 旧祠官の東鹽氏の傳によれば、明応中(1492~1500)、鹽竈神社、及び多賀両社は、共に損壊していた社殿の建て替えを領主である留守氏に申請した。
 しかし留守氏は特に鹽竈神社を営み、浮島・多賀崎の両社を遷して鹽竈神社に合祀した。これによって式内多賀神社は永廃することとなった。現存する祠は、各々の跡地に村人が祠を建てて祀っているものである。然るに、現在の多賀神社はその旧称を継承したもので、多賀崎のそれは更に神明祠とも称している。
~中略~
 『東鹽氏傳記』所載の「多賀神社古祭礼」によれば、例年三月二十六日には宮城一郡の士が多賀城に一同に会し、翌二十七日には会するところの士を二軍に分けて、片方を神軍、もう片方を賊軍に見立て、各々に将帥を立て、神軍は武甕槌命・経津主命・岐神の三神輿と、神庫に秘蔵された神代より伝わる天盤砂劔・十束知劔・八束利劔の三神劔を奉じて賊軍に向かう。両軍兵刃交わらば、賊軍甲冑を捨て、兵を率いて遁走し、舟に乗る。神軍これを追って塩竈に至り、舟で宰相島に至る。宰相島に上陸した神軍は、大きな鬨(とき)の声を三呼し、凱旋する。これが多賀神社の例祭であり、少なくとも奥州藤原氏の時代まではこれを行っていた。三代秀衡の子、和泉三郎忠衡等がこれを奉行していた事が古記にみえる。
 すなわちこれは、太古二神―武甕槌・経津主か?―の夷賊征討に因むものである。
 しかし、留守氏の時代に至ってこの例祭は全廃された。

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浮嶋神社


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高崎多賀神社

 以上が、ひととおり目を通してみた限りでの『鹽松勝譜』における東鹽氏の傳の全容、及びプラスαです。
 後半の多賀神社の神事は、他の史料にも先の遠藤信道の『鹽竈神社考』においても全く語られていないものであり、貴重です。奥州藤原時代までこの神事が執り行われていたという情報にはなにかしら示唆めいたものを感じますが、それはまた後に触れたいと思います。
 いずれ、多賀神社にまつわる顛末が先の遠藤信道のそれと大いに食い違っていることは気になります。
 遠藤は、留守氏による明応年間の造営の際、木舟只洲の二宮と多賀の仮宮のみが建てられて、國別大神、すなわち鹽竈大神の宮の建て替えについては、留守家重臣鎌田何某の妬みによって頓挫した旨を説いておりました。
 しかし、この舟山萬年の『鹽松勝譜』では、むしろ鹽竈社のみが留守氏に顧みられ、鹽竈社に合祀されたとされる式内多賀社はここに永廢した旨が語られているのです。
 また、遠藤のいう國別大神、すなわち鹽竈大神が合祀されたとされるところの木舟只洲については微塵も触れられておりません。
 引用元は同じのはずですが、全く正反対の話になっているのです。これは如何に解すべきでしょうか。
 仮になんらかの隠蔽された事実があるとするならば、遠藤なり舟山なりが、それを掘り起こして正確に伝えていく方向に向き得るものか、あるいはその曖昧さを利用して鹽竈神社に益する方向に向き得るものかを見極めることは重要です。
 とはいえ、その判断は極めて難しいものがあります。
 しかし少なくとも、鹽竈神社の所伝の継承に関して、その当事者たる遠藤信道が、第三者の舟山萬年に比べて主観的であったことは疑う余地もないでしょう。
 逆にいえば、仮に真実が捻じ曲げられていようとも、別当法蓮寺や仙臺藩から睨まれるリスクを背負ってまでその是正を訴える必然性など、少なくとも舟山萬年にはなかっただろうということでもあります。
 それらの可能性を鑑み、かつ東鹽家の古文書の実在を前提としたうえで考えるならば、舟山が淡々と記しているような多賀神社に関する廃滅譚を、遠藤がなんらかの思惑があって國別大神なり東鹽家のそれにすり替えたものかもしれません。
 あるいは、遠藤の説くところこそが社家に内々に伝わる本来の秘伝であり、東鹽家の古文書にはそれが反映されていなかっただけなのかもしれません。
 そして、舟山はそれを原典としてそのまま引用したに過ぎなかっただけなのかもしれません。
 江戸時代の舟山萬年、明治期の遠藤信道といった時代を超えた両者によって引用された東鹽氏の傳の内容を、最大公約数的に推定するならば、一森山における鹽竈神社の“かたち”が、明応年間の留守氏による当地への式内多賀神社の遷座劇によって大きく変革した、といったところでしょうか。
 ただここでひとつ釘を刺しておきます。
 この流れだと、鹽竈神社が延喜式神名帳に記載されていないのは、その本質が宮城郡の式内多賀神社であったから、などともなりかねないわけですが、件の多賀社は式内社といってもせいぜい小社に過ぎません。延喜式主税式において、正税から祭祀料を割かれていた鹽竈社以外の三社、すなわち、出羽月山大物忌社、伊豆三嶋社、淡路大国魂社は、いずれも名神大であり、小社に過ぎない多賀社にその錚々たる三社の合計額をも上回る別格の祭祀料が割かれていたとは到底考えられません。式外社であることよりもむしろ矛盾の広がるものであり、したがって私がその説をとることはありません。

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