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鹽松勝譜をよむ:その11―先代旧事本紀大成経のこと―

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5、先代旧事本紀大成経のこと
 『鹽松勝譜』には、『先代旧事本紀』から引いてきた旨を明記した部分が少なくとも二ヶ所あります。
 いずれも、松島湾の雄島に触れたくだりですが、例えば二ヶ所目のそれは以下のとおりです。

―引用―
先代舊事本紀ニ曰ク。陸奥ニ至リ松島ヲ見ル。又海中ニ奇島アリ。往昔日本武尊此島ニ至ル。國首國民之ヲ宗ンテ御島ト言フ。上宮太子ノ國風ニ曰ク「松島哉御島者不見止日標方之月之都之外于尋者」彼ノ書ノ妄ハ前巻己ニ云々ス今復贅セス

 なにやら、ヤマトタケルが松島に来たことになっております。
 そして、上宮太子、すなわち聖徳太子の詠んだ國風(くにぶり)―諸国の風俗歌―もあったとされているとのことですが、舟山萬年はそれらが妄説であると釘を刺し、その理由については既に前巻で触れているので殊更に繰り返さない旨を述べております。
 しかし、そもそも『先代旧事本紀』の中にそのような記述など存在しただろうか・・・。少なくとも私の記憶にはありません。
 いぶかしく思った私は、安本美典さん監修、志村裕子さん訳の『先代旧事本紀 現代語訳(批評社)』を引っ張り出して、ヤマトタケルの譚を確認してみました。
 すると、やはりというべきか一通り斜め読みしてみた限りではそのような記述はみられません。
 そもそも、もしそのような記述が史料に残されていたのであれば、ヤマトタケル上陸地の「竹水門(たかのみなと)」を松島湾の「竹城保―高城(たかぎ)―」のことと推測する昭和35年版『松島町誌』は、そこに2ページ強もの紙数を割かずともよかったことでしょう。
 ともあれ、妄説たる理由を解説しているという“前巻”の記述をみてみます。

―引用―
或ハ曰ク先代舊事本紀。一名大成經中コロニ載セテ曰ク。豊聰王此ノ地ニ到リ。國風ヲ賦スト。而シテ此書ハ即チ豊聰王自撰スル所ニシテ。其達磨ヲ待所ト為ス者。徴アリト為サルヲ得ンヤト。余曰ク然ラス彼ノ舊事本紀ノ書ハ。上州黒瀧ノ僧。潮音ナル者ノ僞作スル者ニシテ。先賢既ニ其妄ヲ駁セリ。而シテ近コロ多田義俊氏。辨明詳悉セリ。子未タ之ヲ深考セサル耳。其人唯々。蓋シ松島ハ此地ノ統名ニシテ前海後山。南ハ鹽浦ニ接シ。北ハ磯崎ニ隣リ。雄島ヲ右ニシ。五大堂ヲ左ニシ。寺観・浮屠山麓ナリ。~

 『先代旧事本紀大成経』―以下:大成経―の焚書発禁事件のほとぼり冷めやらぬ時代にあって、大成経を「辨明詳悉」していたという「多田義俊」なる人物にも興味が湧いてきますが、ここで最も注目しておきたいのは、「一名大成經」という補記です。
 度々引用されている『先代舊事本紀』―以下:旧事紀―は、なにやら徳川幕府から焚書発禁に処された大成経を指していたようです。
 舟山はここで滔々と旧事紀の妄たる旨を説いているわけですが、「上州黒滝ノ僧潮音ナル者ノ偽作」などという逸話は紛れもなく大成経にしかあてはまらないものです。


 もしかしたら、比較的史料としての評価の高い旧事紀10巻本と、トンデモ本として表社会から葬られた大成経72巻本との区別が舟山にはなかったのかもしれません。
 ただそもそも、その時代には旧事紀10巻本自体の評価も低かったようです。
 例えば、先の『先代旧事本紀 現代語訳(批評社)』において安本美典さんは、旧事紀本文の最終編纂者は平安時代(833~834年頃か)の興原敏久(おきはらのみにく)であろうとみているわけですが、聖徳太子の撰禄云々とする旧事紀の序文は、「興原敏久の編纂時にあったわけではなく、さらに後世につけくわえられたものであろうと考えられる」、とした上で、次のように語っております。

―引用:『先代旧事本紀 現代語訳(批評社)』―
『先代旧事本紀』の「序」の文は、『先代旧事本紀』の信用をいちじるしく毀損するものである。このようなことがあるため江戸時代以降、『先代旧事本紀』偽書説がおきる。しかし、『先代旧事本紀』についてくわしい考察を行った国学院大学の鎌田純一教授が、『先代旧事本紀の研究』(吉川弘文館、一九六二年刊)のなかでのべておられるように、『先代旧事本紀』の「本文」じたいには、とりたてて偽書と疑うべき根拠はない。編纂時まで、存在した諸文献を、物部氏の家記編集という立場から、まとめなおした本というような形をしているのである。

 もちろん旧事紀と大成経を混同している舟山はそれ以前の問題でありますが、大成経が禁じられた書であったことを鑑みるならば、その内容を認識していたこと自体がむしろ奇跡であったのかもしれません。
 それはともかく、実は旧事紀のみならず、舟山が触れているようなヤマトタケルの松島譚は私が探した限りでは大成経にも確認できておりません。
 確認に用いたのは、宮城県図書館書庫内資料の『神道大系 先代舊事本紀大成経(神道大系編纂会)』(武田本)ですが、全文漢文であり、私の読解力が低いがために見落としている可能性も否めませんが、少なくとも神皇本紀の垂仁天皇から、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后までの、すなわちヤマトタケルを指すところの、小碓(おうす)尊、日本童男(やまとおぐな)尊、日本武(やまとたける)尊の登場譚の前後を含む41ページ、400字詰原稿用紙にして約130枚相当約五万文字はあろう漢字の羅列に目を通してみた限りで、「松島」の文字を確認できていないのです。
 同書の小笠原春夫さんによる解題によれば、小笠原さんが確認した延宝四(1676)年、ないし同七(1679)年の刊記のある版本は、1頁17字詰8行で、同書の元となった武田本のそれとおおよそ等しいとみられるようなので、もしかしたら舟山の知る旧事紀は大成経ですらなく、二次的三次的に発生した正真正銘のトンデモ本なのかもしれません。
 東鹽氏の傳といい、舟山は一体どこからそういった地下鉱脈的な情報を収集していたのでしょうか。

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