『夷隅風土記(千葉県文化財保護協会)』の森輝さんは、「勝浦」の地名について次のように語っております。
―引用:『夷隅風土記』―
勝浦の語源については、隣郷上野村神話から、神事をつかさどる勝占忌部(かつらいんべ)から出たとの説をなすものもあるが、これは口碑にまつわる牽強付会の説とも思える。勝浦の地名は、福岡県・徳島県・和歌山県等にもあり、港湾を誇って呼称したものとも考えられる。
文禄三年(一五九四)、慶長六年の水帳にも出るが、中世から近世へかけては、伊保荘勝浦郷と称した。
勝浦の語源については、隣郷上野村神話から、神事をつかさどる勝占忌部(かつらいんべ)から出たとの説をなすものもあるが、これは口碑にまつわる牽強付会の説とも思える。勝浦の地名は、福岡県・徳島県・和歌山県等にもあり、港湾を誇って呼称したものとも考えられる。
文禄三年(一五九四)、慶長六年の水帳にも出るが、中世から近世へかけては、伊保荘勝浦郷と称した。
文禄三年云々のくだりは今特に必要ありませんが、さしあたり当地が「伊保荘」であったことをあらためて認識しておくために触れておきました。
さて、森さんは「勝占忌部」由来の説に「牽強付会の説とも思える」と迷いを見せております。
しかし、いみじくも森さんが例に挙げた福岡県・徳島県・和歌山県は、いずれも忌部氏との関わりを取沙汰される各県でもあります。
特に徳島県は、いわずもがな「阿波國」であり、阿波(安房)忌部氏の根拠地です。
房総勝浦以南、すなわち「伊甚國」の南に隣接する「安房國」がこれに由来していることは、『古語拾遺』の記すところですが、悩ましいのは、『先代旧事本紀』の『國造本紀』に「阿波国造 志賀高穴穂朝御世。天穂日命八世孫彌都侶岐・孫大伴直大瀧定國造」、すなわち先の「伊甚國造」同様、「出雲國造」と同祖系譜―天穂日命裔族―とされているところです。
なにしろ前にも触れたとおり、ここには「忌部氏」と「天穂日命」のみならず、「大伴氏」の系譜も含めた混乱があります。
さらに、『日本書紀』の景行紀や『高橋氏文』などを考慮するならば、「膳臣」の祖たる「磐鹿六雁(いわかむつかり)命」を輩出したとされる「大彦命」の系譜―孝元天皇皇子系譜:阿部氏同祖系譜―も当地の國造氏族候補として有力であり、安房の東半分に想定されている「長狭國」まで考慮するならば、「神八井耳(かむやいみみ)命」の系譜―オホ氏同祖系譜―の可能性も混乱に拍車をかけます。
このあたり、『姓氏家系大辞典(角川書店)』の太田亮さんは、安房忌部氏が奉斎したとされる「安房神社」への疑問を呈しながら次のように論じております。
さて、森さんは「勝占忌部」由来の説に「牽強付会の説とも思える」と迷いを見せております。
しかし、いみじくも森さんが例に挙げた福岡県・徳島県・和歌山県は、いずれも忌部氏との関わりを取沙汰される各県でもあります。
特に徳島県は、いわずもがな「阿波國」であり、阿波(安房)忌部氏の根拠地です。
房総勝浦以南、すなわち「伊甚國」の南に隣接する「安房國」がこれに由来していることは、『古語拾遺』の記すところですが、悩ましいのは、『先代旧事本紀』の『國造本紀』に「阿波国造 志賀高穴穂朝御世。天穂日命八世孫彌都侶岐・孫大伴直大瀧定國造」、すなわち先の「伊甚國造」同様、「出雲國造」と同祖系譜―天穂日命裔族―とされているところです。
なにしろ前にも触れたとおり、ここには「忌部氏」と「天穂日命」のみならず、「大伴氏」の系譜も含めた混乱があります。
さらに、『日本書紀』の景行紀や『高橋氏文』などを考慮するならば、「膳臣」の祖たる「磐鹿六雁(いわかむつかり)命」を輩出したとされる「大彦命」の系譜―孝元天皇皇子系譜:阿部氏同祖系譜―も当地の國造氏族候補として有力であり、安房の東半分に想定されている「長狭國」まで考慮するならば、「神八井耳(かむやいみみ)命」の系譜―オホ氏同祖系譜―の可能性も混乱に拍車をかけます。
このあたり、『姓氏家系大辞典(角川書店)』の太田亮さんは、安房忌部氏が奉斎したとされる「安房神社」への疑問を呈しながら次のように論じております。
―引用―
神名帳安房郡に安房神社(名神大、月次、新嘗)あり、~中略~されど忌部氏が、かかる僻地に祖靈社を経營せしと云ふ事は甚だ疑ふべし。又天富命の東征と云ふ事も古語拾遺並みに之を史料とせし舊事本紀以外、古典に徴證なく、又此の地以外途中に氏族的遺跡の見るべきものなければ、當然凝義を挿まざるべからず。殊に安房神社鎮座の安房郡は、文武紀に「安房郡大少領、父子兄弟の連任を許す」と云ひ、延喜式當郡を神郡とす。而して安房郡は古代安房國の地にして、出雲系伴姓、その國造となり、下って承和三年紀この地の人・伴直家主を載せ、又嘉祥三年紀・安房國々造伴直千福麻呂を擧ぐ。當郡々司の人名は一も國史に見えざれど、郡の大少領は一般に國造後裔なるを恒とし、而して平安期に至るも伴直が國造と稱するを見れば、此の神郡の郡領は伴姓なりしや想像するに難からず。然らば安房社は安房國造の奉斎神にして、出雲族關東経營の宗社かと考へらる。然るに其の神戸に齋部氏ありと云ふ一理由より古語拾遺が、當社を自家の祖靈社(當時は氏神と混ず)となしてより、遂に忌部氏の神社となりしにあらざるか。斯くの如く中央官人が多少の縁故を理由として地方に勢力を張れるは古今を通じて然り、中臣氏が香取、鹿島の二大社を自家の神社の如くなしたるも同例とす。猶ほ中央齋部氏の氏神と見るべき大和國高市郡太玉命神社四座は貞観十六年の太政官符に「飛鳥神の裔、天太玉、櫛玉、白瀧、加夜鳴比女神」と明記すれば(類聚三大格)、出雲神系統の神なりしや明白なりとす。即ち此の神社は飛鳥神社の分社にして、忌部氏の崇敬を受けたるものと解すべきが如し。
~以下省略~
神名帳安房郡に安房神社(名神大、月次、新嘗)あり、~中略~されど忌部氏が、かかる僻地に祖靈社を経營せしと云ふ事は甚だ疑ふべし。又天富命の東征と云ふ事も古語拾遺並みに之を史料とせし舊事本紀以外、古典に徴證なく、又此の地以外途中に氏族的遺跡の見るべきものなければ、當然凝義を挿まざるべからず。殊に安房神社鎮座の安房郡は、文武紀に「安房郡大少領、父子兄弟の連任を許す」と云ひ、延喜式當郡を神郡とす。而して安房郡は古代安房國の地にして、出雲系伴姓、その國造となり、下って承和三年紀この地の人・伴直家主を載せ、又嘉祥三年紀・安房國々造伴直千福麻呂を擧ぐ。當郡々司の人名は一も國史に見えざれど、郡の大少領は一般に國造後裔なるを恒とし、而して平安期に至るも伴直が國造と稱するを見れば、此の神郡の郡領は伴姓なりしや想像するに難からず。然らば安房社は安房國造の奉斎神にして、出雲族關東経營の宗社かと考へらる。然るに其の神戸に齋部氏ありと云ふ一理由より古語拾遺が、當社を自家の祖靈社(當時は氏神と混ず)となしてより、遂に忌部氏の神社となりしにあらざるか。斯くの如く中央官人が多少の縁故を理由として地方に勢力を張れるは古今を通じて然り、中臣氏が香取、鹿島の二大社を自家の神社の如くなしたるも同例とす。猶ほ中央齋部氏の氏神と見るべき大和國高市郡太玉命神社四座は貞観十六年の太政官符に「飛鳥神の裔、天太玉、櫛玉、白瀧、加夜鳴比女神」と明記すれば(類聚三大格)、出雲神系統の神なりしや明白なりとす。即ち此の神社は飛鳥神社の分社にして、忌部氏の崇敬を受けたるものと解すべきが如し。
~以下省略~
なるほど、相変わらず学ばせられる内容で、基本的に納得しております。
ただし、「此の地以外途中に氏族的遺跡の見るべきものなければ、當然凝義を挿まざるべからず」云々については、そうとも思っておりません。
何故なら、初めから房総を目指して“漂着―漂流ではない―”した可能性も十分あろうかと考えるからです。
いみじくも、太田さんは香取・鹿島の例を挙げておりますが、この両神宮は、『常陸國風土記』や各々の由緒などを信ずるならば、その創始は神武天皇の時代よりも遡ります。
それに対して、房総への安房忌部の漂着は神武以降であり、もちろん必ずしもそれらの由緒等を真に受けて論を展開していいものとも思いませんが、おそらく忌部氏が目的としたものは中臣氏に先を越されてしまった両神宮文化圏への侵食ではなかったのでしょうか。
神武以前からの伝統ある香取・鹿島の重要な祭祀を簒奪することが目的であるならば、中臣氏にせよ忌部氏にせよ、真っ直ぐ当地を目指して来たとしてもおかしくはありません。
太陽を神と崇めて日が昇る方位に限りなく近づこうとするならば、紀伊半島同様、房総半島も重要な終着点であったことでしょう。
どこか伊勢志摩地方に似ている上総地方―伊甚國・長狭國・安房國―ですが、鮑(あわび)や真珠の献上によって朝廷と繋がっていたことも類似しております。
そしてなにより私が注目しているのは、当地に「丹生文化」があったらしい、ということです。
前に触れたように、伊勢は古来国内随一の丹生水銀の産地でありましたが、夷隅郡―伊甚國―にもまた、丹生文化の痕跡が濃厚なのです。
ただし、「此の地以外途中に氏族的遺跡の見るべきものなければ、當然凝義を挿まざるべからず」云々については、そうとも思っておりません。
何故なら、初めから房総を目指して“漂着―漂流ではない―”した可能性も十分あろうかと考えるからです。
いみじくも、太田さんは香取・鹿島の例を挙げておりますが、この両神宮は、『常陸國風土記』や各々の由緒などを信ずるならば、その創始は神武天皇の時代よりも遡ります。
それに対して、房総への安房忌部の漂着は神武以降であり、もちろん必ずしもそれらの由緒等を真に受けて論を展開していいものとも思いませんが、おそらく忌部氏が目的としたものは中臣氏に先を越されてしまった両神宮文化圏への侵食ではなかったのでしょうか。
神武以前からの伝統ある香取・鹿島の重要な祭祀を簒奪することが目的であるならば、中臣氏にせよ忌部氏にせよ、真っ直ぐ当地を目指して来たとしてもおかしくはありません。
太陽を神と崇めて日が昇る方位に限りなく近づこうとするならば、紀伊半島同様、房総半島も重要な終着点であったことでしょう。
どこか伊勢志摩地方に似ている上総地方―伊甚國・長狭國・安房國―ですが、鮑(あわび)や真珠の献上によって朝廷と繋がっていたことも類似しております。
そしてなにより私が注目しているのは、当地に「丹生文化」があったらしい、ということです。
前に触れたように、伊勢は古来国内随一の丹生水銀の産地でありましたが、夷隅郡―伊甚國―にもまた、丹生文化の痕跡が濃厚なのです。
―引用:前述『夷隅風土記』―
昭和四十五年度の、県教育委員会「千葉県東南部地区文化財総合調査」において、大原町大原土屋門次郎家に、古代の多量の朱塊が保存されていたことが立証された。大正七、八年ごろ、大原駅北側同家倉庫わきの土中から発見したものという。その中に須恵器の破片が二個あった。内側に強く朱の染着が残っているので、おそらく朱の容器であったと考えられる。この須恵器は、古墳時代後期六、七世紀ごろのものであろう。
江戸時代の『房総志料』『房総志料続篇』などにも、朱瓶の発見などが書かれてあるが、明治以降郡内で、古来の朱及び朱に関連するものが発見されたのは、大多喜町台古墳群の前方後円墳から、朱のにじんだ粘土床が、岬町三門の豆塚古墳からは、埴輪のほか朱のはいった土師器が、勝浦市守谷の本寿寺洞穴からは、後期縄文式土器と、鮑貝に入れられた朱も発見されている。また、中期縄文式土器や、弥生式土器が多数出土した夷隅町引田峯越台からも、朱彩型土器が発見されている。
昭和四十五年度の、県教育委員会「千葉県東南部地区文化財総合調査」において、大原町大原土屋門次郎家に、古代の多量の朱塊が保存されていたことが立証された。大正七、八年ごろ、大原駅北側同家倉庫わきの土中から発見したものという。その中に須恵器の破片が二個あった。内側に強く朱の染着が残っているので、おそらく朱の容器であったと考えられる。この須恵器は、古墳時代後期六、七世紀ごろのものであろう。
江戸時代の『房総志料』『房総志料続篇』などにも、朱瓶の発見などが書かれてあるが、明治以降郡内で、古来の朱及び朱に関連するものが発見されたのは、大多喜町台古墳群の前方後円墳から、朱のにじんだ粘土床が、岬町三門の豆塚古墳からは、埴輪のほか朱のはいった土師器が、勝浦市守谷の本寿寺洞穴からは、後期縄文式土器と、鮑貝に入れられた朱も発見されている。また、中期縄文式土器や、弥生式土器が多数出土した夷隅町引田峯越台からも、朱彩型土器が発見されている。
なにしろ、勝浦市内には「丹生神社」があります。
勧請年月や当初の祭神は不明のようですが、夷隅風土記の森さんは、前述した古来の丹生文化の痕跡などからみて、当初の祭神は「丹生津姫命」であろう、と考えておりました。私もそう思います。
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森さんによれば、丹生神社西方の小丘上の小祠は通称「てんとう様」というらしく、思うにこれはおそらく「お天道様」のことでしょうから、当地の丹生も伊勢同様、なんらかの形で太陽信仰と密接であったのだろうと推察するに難くありません。
もしかしたら、古くに伊勢を追われたなんらかの一派が移住していたのではないでしょうか。それは、もしかしたら『伊勢國風土記』の逸文に登場する「伊勢津彦」にも関係しているのではないしょうか。
伊勢津彦は、伊勢の地主神であり、「出雲の神の子、出雲建子命」とあります。
同逸文によれば、神武天皇は長髄彦征伐と同時に伊勢津彦の国も平らげるように勅しており、伊勢津彦は降服して波浪に乗って東の海に去っております。
このあたりいろいろと思うところもあるのですが、ここでの深入りは避けておきます。
さしあたり、房総安房國を開き安房大神を奉斎していたのが阿波忌部氏ではなかったのだとしたならば、他のなんらかの氏族の経歴に忌部氏自らの経歴を上書き保存したものが『古語拾遺』の当該譚なのかもしれません。
勧請年月や当初の祭神は不明のようですが、夷隅風土記の森さんは、前述した古来の丹生文化の痕跡などからみて、当初の祭神は「丹生津姫命」であろう、と考えておりました。私もそう思います。
森さんによれば、丹生神社西方の小丘上の小祠は通称「てんとう様」というらしく、思うにこれはおそらく「お天道様」のことでしょうから、当地の丹生も伊勢同様、なんらかの形で太陽信仰と密接であったのだろうと推察するに難くありません。
もしかしたら、古くに伊勢を追われたなんらかの一派が移住していたのではないでしょうか。それは、もしかしたら『伊勢國風土記』の逸文に登場する「伊勢津彦」にも関係しているのではないしょうか。
伊勢津彦は、伊勢の地主神であり、「出雲の神の子、出雲建子命」とあります。
同逸文によれば、神武天皇は長髄彦征伐と同時に伊勢津彦の国も平らげるように勅しており、伊勢津彦は降服して波浪に乗って東の海に去っております。
このあたりいろいろと思うところもあるのですが、ここでの深入りは避けておきます。
さしあたり、房総安房國を開き安房大神を奉斎していたのが阿波忌部氏ではなかったのだとしたならば、他のなんらかの氏族の経歴に忌部氏自らの経歴を上書き保存したものが『古語拾遺』の当該譚なのかもしれません。