Quantcast
Channel: はてノ鹽竈
Viewing all 165 articles
Browse latest View live

伊甚國めぐり―その5:古代房総の開拓者

$
0
0
 『夷隅風土記(千葉県文化財保護協会)』の森輝さんは、「勝浦」の地名について次のように語っております。

―引用:『夷隅風土記』―
 勝浦の語源については、隣郷上野村神話から、神事をつかさどる勝占忌部(かつらいんべ)から出たとの説をなすものもあるが、これは口碑にまつわる牽強付会の説とも思える。勝浦の地名は、福岡県・徳島県・和歌山県等にもあり、港湾を誇って呼称したものとも考えられる。
 文禄三年(一五九四)、慶長六年の水帳にも出るが、中世から近世へかけては、伊保荘勝浦郷と称した。

 文禄三年云々のくだりは今特に必要ありませんが、さしあたり当地が「伊保荘」であったことをあらためて認識しておくために触れておきました。
 さて、森さんは「勝占忌部」由来の説に「牽強付会の説とも思える」と迷いを見せております。
 しかし、いみじくも森さんが例に挙げた福岡県・徳島県・和歌山県は、いずれも忌部氏との関わりを取沙汰される各県でもあります。
 特に徳島県は、いわずもがな「阿波國」であり、阿波(安房)忌部氏の根拠地です。
 房総勝浦以南、すなわち「伊甚國」の南に隣接する「安房國」がこれに由来していることは、『古語拾遺』の記すところですが、悩ましいのは、『先代旧事本紀』の『國造本紀』に「阿波国造 志賀高穴穂朝御世。天穂日命八世孫彌都侶岐・孫大伴直大瀧定國造」、すなわち先の「伊甚國造」同様、「出雲國造」と同祖系譜―天穂日命裔族―とされているところです。
 なにしろ前にも触れたとおり、ここには「忌部氏」と「天穂日命」のみならず、「大伴氏」の系譜も含めた混乱があります。
 さらに、『日本書紀』の景行紀や『高橋氏文』などを考慮するならば、「膳臣」の祖たる「磐鹿六雁(いわかむつかり)命」を輩出したとされる「大彦命」の系譜―孝元天皇皇子系譜:阿部氏同祖系譜―も当地の國造氏族候補として有力であり、安房の東半分に想定されている「長狭國」まで考慮するならば、「神八井耳(かむやいみみ)命」の系譜―オホ氏同祖系譜―の可能性も混乱に拍車をかけます。
 このあたり、『姓氏家系大辞典(角川書店)』の太田亮さんは、安房忌部氏が奉斎したとされる「安房神社」への疑問を呈しながら次のように論じております。

―引用―
神名帳安房郡に安房神社(名神大、月次、新嘗)あり、~中略~されど忌部氏が、かかる僻地に祖靈社を経營せしと云ふ事は甚だ疑ふべし。又天富命の東征と云ふ事も古語拾遺並みに之を史料とせし舊事本紀以外、古典に徴證なく、又此の地以外途中に氏族的遺跡の見るべきものなければ、當然凝義を挿まざるべからず。殊に安房神社鎮座の安房郡は、文武紀に「安房郡大少領、父子兄弟の連任を許す」と云ひ、延喜式當郡を神郡とす。而して安房郡は古代安房國の地にして、出雲系伴姓、その國造となり、下って承和三年紀この地の人・伴直家主を載せ、又嘉祥三年紀・安房國々造伴直千福麻呂を擧ぐ。當郡々司の人名は一も國史に見えざれど、郡の大少領は一般に國造後裔なるを恒とし、而して平安期に至るも伴直が國造と稱するを見れば、此の神郡の郡領は伴姓なりしや想像するに難からず。然らば安房社は安房國造の奉斎神にして、出雲族關東経營の宗社かと考へらる。然るに其の神戸に齋部氏ありと云ふ一理由より古語拾遺が、當社を自家の祖靈社(當時は氏神と混ず)となしてより、遂に忌部氏の神社となりしにあらざるか。斯くの如く中央官人が多少の縁故を理由として地方に勢力を張れるは古今を通じて然り、中臣氏が香取、鹿島の二大社を自家の神社の如くなしたるも同例とす。猶ほ中央齋部氏の氏神と見るべき大和國高市郡太玉命神社四座は貞観十六年の太政官符に「飛鳥神の裔、天太玉、櫛玉、白瀧、加夜鳴比女神」と明記すれば(類聚三大格)、出雲神系統の神なりしや明白なりとす。即ち此の神社は飛鳥神社の分社にして、忌部氏の崇敬を受けたるものと解すべきが如し。
~以下省略~

 なるほど、相変わらず学ばせられる内容で、基本的に納得しております。
 ただし、「此の地以外途中に氏族的遺跡の見るべきものなければ、當然凝義を挿まざるべからず」云々については、そうとも思っておりません。
 何故なら、初めから房総を目指して“漂着―漂流ではない―”した可能性も十分あろうかと考えるからです。
 いみじくも、太田さんは香取・鹿島の例を挙げておりますが、この両神宮は、『常陸國風土記』や各々の由緒などを信ずるならば、その創始は神武天皇の時代よりも遡ります。
 それに対して、房総への安房忌部の漂着は神武以降であり、もちろん必ずしもそれらの由緒等を真に受けて論を展開していいものとも思いませんが、おそらく忌部氏が目的としたものは中臣氏に先を越されてしまった両神宮文化圏への侵食ではなかったのでしょうか。
 神武以前からの伝統ある香取・鹿島の重要な祭祀を簒奪することが目的であるならば、中臣氏にせよ忌部氏にせよ、真っ直ぐ当地を目指して来たとしてもおかしくはありません。
 太陽を神と崇めて日が昇る方位に限りなく近づこうとするならば、紀伊半島同様、房総半島も重要な終着点であったことでしょう。
 どこか伊勢志摩地方に似ている上総地方―伊甚國・長狭國・安房國―ですが、鮑(あわび)や真珠の献上によって朝廷と繋がっていたことも類似しております。
 そしてなにより私が注目しているのは、当地に「丹生文化」があったらしい、ということです。
 前に触れたように、伊勢は古来国内随一の丹生水銀の産地でありましたが、夷隅郡―伊甚國―にもまた、丹生文化の痕跡が濃厚なのです。

―引用:前述『夷隅風土記』―
 昭和四十五年度の、県教育委員会「千葉県東南部地区文化財総合調査」において、大原町大原土屋門次郎家に、古代の多量の朱塊が保存されていたことが立証された。大正七、八年ごろ、大原駅北側同家倉庫わきの土中から発見したものという。その中に須恵器の破片が二個あった。内側に強く朱の染着が残っているので、おそらく朱の容器であったと考えられる。この須恵器は、古墳時代後期六、七世紀ごろのものであろう。
 江戸時代の『房総志料』『房総志料続篇』などにも、朱瓶の発見などが書かれてあるが、明治以降郡内で、古来の朱及び朱に関連するものが発見されたのは、大多喜町台古墳群の前方後円墳から、朱のにじんだ粘土床が、岬町三門の豆塚古墳からは、埴輪のほか朱のはいった土師器が、勝浦市守谷の本寿寺洞穴からは、後期縄文式土器と、鮑貝に入れられた朱も発見されている。また、中期縄文式土器や、弥生式土器が多数出土した夷隅町引田峯越台からも、朱彩型土器が発見されている。

 なにしろ、勝浦市内には「丹生神社」があります。
 勧請年月や当初の祭神は不明のようですが、夷隅風土記の森さんは、前述した古来の丹生文化の痕跡などからみて、当初の祭神は「丹生津姫命」であろう、と考えておりました。私もそう思います。
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3

 森さんによれば、丹生神社西方の小丘上の小祠は通称「てんとう様」というらしく、思うにこれはおそらく「お天道様」のことでしょうから、当地の丹生も伊勢同様、なんらかの形で太陽信仰と密接であったのだろうと推察するに難くありません。
 もしかしたら、古くに伊勢を追われたなんらかの一派が移住していたのではないでしょうか。それは、もしかしたら『伊勢國風土記』の逸文に登場する「伊勢津彦」にも関係しているのではないしょうか。
 伊勢津彦は、伊勢の地主神であり、「出雲の神の子、出雲建子命」とあります。
 同逸文によれば、神武天皇は長髄彦征伐と同時に伊勢津彦の国も平らげるように勅しており、伊勢津彦は降服して波浪に乗って東の海に去っております。
 このあたりいろいろと思うところもあるのですが、ここでの深入りは避けておきます。
 さしあたり、房総安房國を開き安房大神を奉斎していたのが阿波忌部氏ではなかったのだとしたならば、他のなんらかの氏族の経歴に忌部氏自らの経歴を上書き保存したものが『古語拾遺』の当該譚なのかもしれません。

伊甚國めぐり―その6:蟹と蛇

$
0
0
イメージ 1

 千葉県勝浦市の「丹生神社」の近くに、「蟹田」という地名があります。
 その地に「蟹田山蟹連寺」という寺がありますが、山号は地名でしょう。
 おそらく寺名の「蟹」もその地名に由来するのでしょうし、「連」は「妙法蓮華経」の「蓮」、あるいは「日蓮」の「蓮」に、同音の「連」を充てて組み合わせたものでしょうか。
 なにしろ、鎌倉仏教の一角をなす「日蓮宗」の祖「日蓮」は、房総安房小湊―現:鴨川市小湊―で生まれた傑僧です。
 「小湊」は、現在の行政区域でいえば勝浦市との境界に位置する漁村ということになりますが、その縁もあってか、勝浦を含む古の夷隅郡においては、特に室町時代、日蓮宗に改宗される寺院が多かったようです。
 蟹連寺も、永禄二(1559)年十一月、池上本門寺八世日現によって日蓮宗に改宗されたのだといい、それ以前には山伏寺であったようです。
イメージ 2


 さて、私の考察の方向性からすれば、地名、山号、寺名を貫く「蟹(かに)」の言霊に興味を抱かざるを得ないわけですが、期待に違わず示唆深い伝説が寄り添っておりました。

――引用:森輝さん著『夷隅風土記(千葉県文化財保護協会)』――
 また、蟹田にはその昔、小姓に扮して豪族の娘を強いた蛇を、蟹がこれを殺して救ったという伝説があり、大楠には、七面山麓の大小二つの堰が竜神の棲む所と言い、雨乞い祈祷の説話があり、~以下省略~

 先に触れた魔の寺「柳沢寺」―宮城県宮城郡利府町―の伝説とは逆に、ここでは、蟹が善玉として登場しております。
 付近に丹生神社が鎮座していたことから考えて、このあたりにも赤土があったと想像できますし、「てんとう様」と呼ばれた小祠の存在から太陽信仰も浸透していたものと思われます。
 また、丹生神社から国道を2キロメートル余りほど勝浦市街に向かうと左手に「玉前神社」も存在しております。
 玉前神は「豊玉姫命」なり「玉依姫命」のことであるとされておりますが、「斎部(いんべ)広成」による『古語拾遺』には、豊玉姫が「彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)―鵜葺草葺不合(うかやふきあえず)命:神武天皇の父―」を生む際に「掃守連」の遠祖「天忍人命」が箒を作って蟹を掃う故事が拾われておりました。それ故私は蟹の言霊に「掃部(かもん)氏」すなわち「天忍人命系譜―天香語山命系譜―」の面影を探り続けているわけですが、ここにはその示唆がよく揃っているように思えます。
 一方、悪玉として登場している蛇については、竜神の伝説も鑑みて、月並みながら出雲系氏族の示唆と取れそうです。
 考えてみれば、海神の娘とされる「豊玉姫命」も、「八尋(やひろ)のワニ」というキーワードを通じて「事代主命」と共通します。
 『古事記』によれば、豊玉毘賣は、神武天皇の父である「鵜葺草葺不合(うかやふきあえず)命」を産む際「八尋の和邇(わに)」に化けております。
 一方、『日本書紀』によれば、事代主命は、神武天皇の后である「姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)命」の母、三嶋の「溝樴(みぞくい)姫―玉櫛姫―」と通じる際「八尋熊鰐」に化けております。
 ワニの言霊については、つい、人皇五代「孝昭天皇」系譜の「和爾氏」の方向からばかり語ってきましたが、この事代主命の逸話に代表されるように、竜蛇族たる出雲神族の代名詞でもあることを認識しておく必要がありそうです。一説に竜は顔のモデルがワニで、体のモデルが蛇ないし川、あるいは瀧そのものであると聞いたこともあります。
 いずれ、蛇が豪族の娘を強いるといった話のつくりは、三嶋の娘に通じる事代主なり三輪の大物主なりの姿を彷彿とさせます。
 したがって、玉前神社と丹生神社が鎮座するこの一帯における「蟹」対「蛇」の伝説は、古代における当地支配者の複雑な交代劇を垣間見せているものなのかもしれません。

 とりあえずの想定を試みるならば、出雲神族の支配地であったところに、いわゆる鹿島神奉斎氏族たる神八井耳命系譜―オホ系氏族―の常陸への土着があり、それと競い合うように香取神奉斎氏族――和爾氏などのカグヤマ系氏族、あるいは物部氏か?――の下総への土着があり、伊勢を追われた出雲神の子伊勢津彦の一派が落ち延び、國造の制度化に伴い出雲國造と同系の天穂日命系氏族が入り房総をヤマト化し、その後、物部守屋が蘇我馬子に敗北したことによって守屋縁の物部一族が落ち延び、やがて中央における藤原鎌足一族の専横に連動して鹿島・香取両神宮が藤原化し、それに抗する忌部氏が平城天皇の思惑に乗じて上総支配の既成事実化を図り・・・。
 いや、忌部氏とは、もしかしたら出雲神族の傍系なのだろうか・・・。
 既成事実化などというまやかしではなく、純粋にあるべき復権を試みただけなのだろうか・・・。
 闕史八代の頃以前に大和盆地で大掛かりに三輪山祭祀の仕掛けを構築したと思しきオホ氏の正体もそうなのか・・・。
 実はそんな想像も頭の中で発展しております。
 「富大明神」などの“トミ”といい、中央忌部氏の祖神とされる「天太玉命神社―奈良県―」の祭神が史料によっては出雲系の神々であることといい、「安房―阿波―」が、「少彦名命」なり「事代主命」なりを示唆する「粟」と同音であることといい、忌部氏を大胆に出雲神族系の氏族と仮定してみることによって解釈しやすくなることも少なからずあることは事実です。
 仙臺藩主四代「伊達綱村」が定めた「鹽竈神社」の祭神は、左宮が「武甕槌命」、右宮が「経津主命」、別宮が「岐(ふなど)神」、すなわち、「鹿島神」、「香取神」、「出雲神」でありました。
 ここには、ある意味で常陸と房総の先代史が凝縮されているようにも思えます。
 出雲神族はベーリング海を渡り東北地方を経由して出雲に到達したと伝わっているようですので、鹽竈にはその記憶が残されていたのか、はたまた、房総をも追われて最後にたどり着いたのが鹽竈であったのか、それはわかりません。
 綱村が影響を受けたであろう『先代旧事本紀大成経』の記す「射甚國」が何を示唆していたのか、おぼろげに見えたような見えないような、なんとも脳内が混沌としたままではありますが、備忘録としての伊甚國めぐりを終えたいと思います。

『奥州餘目記録』が語る「しほがまの大明神」

$
0
0

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

 『奥州餘目(あまるめ)記録』―以下『餘目記録』―が伝える鹽竈の神についての記述を振り返ってみたいと思います。以前にも触れましたが、それはこんな内容でした。

―引用―
いまだ年號はじまらざる時に候。しほがまの大明神仁王十四代仲哀天皇御孫。花ぞのゝ新少将にて流人として宮城高府に下給ひて。其後歸洛し。東海道十五箇國北陸道七箇國両國御知行有て。御一期之後しほがまの明神とあらはれて。大同元年に宮城のこほりに立給ふ。當永正十一年まで七百九年に成給ふ。昔は當國諸郡に神領有。行方保にも。宇多庄にも。そとのはまに有。ぬかのぶにあり。三迫に有。黒河は不及申候。小田保に有。しかま(色麻)の保にも有。大谷保。羽生よりは七月御神事にあふ。屋代同御へい(幣)かみあがる。三迫。高泉よりは~以下省略~

 この後、留守氏、葛西氏、伊達氏など奥州における歴代有力者の概略が書き連ねられているわけですが、ここで私が注目しているのは「東海道十五箇國北陸道七箇國両國御知行有て。御一期之後しほがまの明神とあらはれて。」という部分です。
 「東海道」と「北陸道」――。
 これはいわゆる「四道将軍」のうち、「武淳川別(たけぬなかわわけ)命」と、その父「大彦命」の遠征ルートに重なります。
 言うなれば、秋田氏や藤崎氏など、「前九年の役」で討たれた奥六郡の酋長「安倍貞任」の子孫を自称する一族らが、公的な系図において自分たちの祖として掲げている両名の遠征ルートということです。
 したがって私は、これを、鹽竈神社左宮一禰宜「安太夫家」すなわち「阿部家」の示唆と捉えて論を展開しておきました。安太夫家と奥六郡の安倍氏が同祖系譜であろうことについては度々論じているとおりです。
 『餘目記録』は、胆沢郡水澤―現:岩手県奥州市―の「餘目(あまるめ)氏」に伝えられた記録です。
 餘目氏とは、奥州藤原氏滅亡後、陸奥国司の代行を務める陸奥留守職に任ぜられた「留守氏―伊澤氏―」から分かれた一族です。
 奥州藤原氏の時代、奥州には、在地奥州藤原政権の「平泉」と中央政権の「多賀」という二つの首都が存在していたわけですが、奥州藤原氏を滅ぼした鎌倉幕府は平泉をいわば武人の「葛西清重」に、多賀をいわば文人の「伊澤家景」に預けました。
 葛西氏は、奥在地御家人の奉行、および平泉郡内検非違使所管領の重職をもって藤原秀衡・泰衡の権限を引き継ぎ、すなわち奥州における「源頼朝」の実務の代行を務めることになりました。
 一方の多賀城を預けられ、陸奥留守職として国司の代行を務めることとなった伊澤氏は、その職をもって二代「家元」以降「留守氏」を名乗るようになりました。『餘目記録』はその留守氏から分かれた餘目氏によって残されたのです。
 国衙を管掌することとなった留守氏は鹽竈神社の大神主として奉幣祭祀も司ることとなっており、今見た『餘目記録』の記述は、言うなれば、当時の鹽竈神社の正式な由緒と見ることも出来ます。
 引用文中にもあるように、これは永正十一(1514)年に記されたもののようですが、その内容はおそらく留守氏―伊澤氏―が従前の由緒を継承し言い伝えてきたもの、すなわち奥州藤原時代にまで遡るものと推察します。
 相当な権限を委任されたとはいえ、留守氏は国司の代行者にすぎず、「遠の朝廷」の守護神として伝統的に祀られてきた鹽竈神社の由緒を改ざんできる立場にはなかったことでしょう。
 したがって、おそらく仙臺藩主四代伊達綱村が厳格に再調査するまでは、この『餘目記録』の内容に限りなく近いものが鹽竈神社の由緒として一応の公式なものであったのではないでしょうか。
 その古い記憶が、「しほがまの大明神」について、なにやら四道将軍大彦命と武淳川別命の経歴をにおわせているわけです。もちろん、それは左宮一禰宜安太夫家阿部氏の記憶であろうかと考えているわけですが、おそらくは陸奥安倍氏の滅亡に連動して社会的に機能しなくなった安太夫家阿部氏に代わって、あるいは補佐として、平安時代中期から鹽竈神社の祭祀を担うこととなった右宮一禰宜新太夫家小野氏の記憶でもあるのかもしれません。それは、大彦命の経歴に小野氏の祖である和爾(わに)氏の経歴とみられる部分も少なからずあることなどから、もしかしたら阿部氏と小野氏の根っこは一緒であるのかもしれない、という私の想像によるものです。
 そこであらためて気になってくるのは、安倍貞任の裔を自称する秋田氏や藤崎氏による「安日彦」系図です。
 彼らは、先の「大彦命」に連なる系図と合わせて、自らの始祖として長髄彦の兄「安日彦」に連なる系図も添えておりました。
 彼らがこのダブルスタンダードな系図になんらかの主張を忍ばせておいたことは想像に難くないことですが、どうやらそれは、大彦命の正体が長髄彦であるとする衝撃的な主張であったらしきことが、以前に触れた伯耆(ほうき)に逃れた自称陸奥安倍氏の裔の伝承によって知り得ることとなりました。さらにその家の伝承では、大彦命すなわち長髄彦が「事代主命」の系譜であるとのことでした。
 そういえば、『日本書紀』において事代主命はワニに化けております。
 いずれ、私はこの伯耆の伝承を信じます。
 何故なら、これを認めることで、大和盆地における葛城と磯城の属性の混乱や、伊甚國なり長狭國、安房國など上総の國造や開拓者の混乱の解明にも一応の道筋が見えてくるものと思われるからです。もちろん、既に私の頭の中にはある程度の私論が形成されております。
 しかし、残念ながら裏付け不足の感が否めないため、記事化についてはあきらめております。

 尚、この件に関するウェブ上での情報提供やご質問についてはあらかじめお断り申し上げておきます。

旅篭町のこと―仙台市青葉区小田原―

$
0
0
 仙台市青葉区宮町は、藩政時代「仙臺東照宮」の門前町として栄えました。
 いわゆる「仙台七夕」がここから発祥したという噂も聞いたことがありますが、真偽のほどはわかりません。
 ただ、たしかに一昔前の宮町商店街の七夕は、それなりに華やかで、仙台七夕の起源を偲ぶ上では一番町や中央通りといった都心アーケード街の全国区のそれよりもむしろ古体を残していた感はありました。
 今回私が触れておきたいのは、その宮町から一筋東に入った「旅篭(はたご)町」などと呼ばれたエリアの話です。
 当街区は、戦前までは東京の吉原のような「遊郭街」、すなわち「いろまち」でありました。
 明治二十七(1894)年、北一番丁の西のはずれ、広瀬川河畔の「常盤丁」にあった遊郭街が、なんらかの事情によって同じ北一番丁の東はずれにあたる当地に移されました。それに伴い、このあたりは「新常盤丁」などと呼ばれていた時期もあったようです。
 『増補 仙臺鹿の子』によれば、「樓左右に立ならひ晝夜共絃歌の聲湧くか如し繁昌いふはかりなしそれより以前は此地寂しかりしか遊廓出たるか爲め表町なる宮町まて俄かに繁昌の地となれり」とのことです。往時の隆盛ぶりが伺えるというものです。
 第二次大戦後、これらの遊郭は廃止され、旅篭町はその風情を残しながら旅館街に変わりました。
 少なくとも昭和40~50年代に、このあたりの旅館は大相撲仙台準場所関係の宿泊地としても大いに利用され、時節になるとよくお相撲さんの姿も目にしました。
 個人的な記憶と印象で語れば、浴衣を着たお相撲さんたちが木造旅館の二階の窓の手すりにもたれかかっている姿は、古めかしい町並みとあいまってあたかも浮世絵のごとき風情を醸し出しておりました。
 ちなみに、二十年くらい前、仙台出身の人気漫画家「荒木飛呂彦」さんの名作『ジョジョの奇妙な冒険』に、「オーソン」なるコンビニエンスストア、およびその脇に地縛霊が跋扈する不気味な脇道が描かれておりましたが、これはきっと当地旅篭町のローソン―現在は100円ローソン―とその東側の路地がモデルに違いない、などと勝手に決めつけたりもしておりました。
イメージ 1
        明治時代遊郭街だったころの旅篭町のイメージ:今野画

イメージ 2
現在の旅篭町
イメージ 3

 さて、親戚が住んでいることもあって、一帯は個人的にも少なからず縁のある地域であるのですが、古くから馴染みのある「旅篭町」という地名は、実は俗称のようで、『封内風土記』や先の『仙臺鹿の子』によれば、明治以前の正しい地名は「蜂宅(はちやしき)―蜂屋敷―」であったようです。
 この地名について、両文献史料共、仙臺藩主二代伊達忠宗の時代に当地で養蜂が着手されたことに因む旨を記しております。
 特に『仙臺鹿の子』はより具体的です。
 承応元年五月に西国より蜜蜂を仕入れ、当地に百間四方―182m四方―の屋敷を構え、おおよそ高さ三尺、廻り五~六尺の榎の木に蜂の親子ともどもを飼い留めて、周辺にはいろいろな花木を植えたのだそうです。
 しかし翌年七月、蜂が飛び立つや突如雷と暴風が襲い、蜂は散逸し、そのまま養蜂も途絶えて荒れて元禄八年―『仙臺鹿の子』の編纂時期?―まで四十四年も経てしまったのだそうです。
 『忘れかけの街・仙台(河北新報出版センター)』には、それと異なる興味深い説が併記されておりました。
 それは、延暦七(788)年に「蜂谷俊延」という豪士が山城国―京都―から落ち延びてこの地に牧場を開き、馬を飼育した、というものです。のち、鎌倉時代にこの牧場は日本一の名馬「木ノ下鹿毛(かげ)」を産出し、源頼政に献上されたとも伝えられているのだそうです。
 荒巻から小田原、宮城野原など旧仙台市内のほぼ全域とも言える陸奥國分寺の西北一帯が広く荒駒の放牧地であったこと、古来当地が全国屈指の名馬の産地であったことは度々触れているとおりで、ここであらためて驚くほどのものでもないのですが、山城から落ち延びた蜂谷なる人物が産馬に関わっていたとする伝説は、思いのほか示唆に富みます。
 何故なら、ここには「蜂」と「山城」というキーワードが出てきているからです。私論上「蜂」は秦氏あるいは「任那(みまな)」の示唆である可能性を疑っており、それが秦氏の本拠ともいうべき山城から落ち延びているのだとすれば、そこにはなんらかのメッセージ性があるものと捉えておきたいのです。大化以前に山城國に建立された秦川勝の私寺「広隆寺」の別名が「蜂岡寺」であることを忘れるわけにはいけません。
 いかなる事情があったのかはわかりませんが、「蜂」を冠する人物が陸奥國に落ち延び、博労(ばくろう)―馬喰―のようなことをしていたという伝説は、私の脳内ハードディスクにしっかり保存しておこうと思います。

外記丁(げきちょう)―仙臺藩の007が住んでいた街―

$
0
0
 かつて「外記丁(げきちょう)」という地名が、宮城県庁の東側にありました。
 現在は「本町―仙台市青葉区―」という住居表示に併合されてしまいましたが、路線名としてはそこはかとなく生きているようです。
 個人的な思い出を語るなら、少年時代、母の口から時折その「げきちょう」という地名を耳にすることがあり、当時の私の頭の中で、それは「劇町」という漢字に変換されておりました。
 単純に、言葉の響きからそうイメージしていたものに過ぎないのですが、母がうわごとのように繰り返していた昔話がそのイメージを確定させてしまったのだと思います。
 母は、仙台に疎開していた女子高校生時代の若尾文子さんと多少なり交流があったらしく、その事はちょっとした自慢でもありました。
 母が言うには、若尾さんはなにやら舞台公演にはまっていたのだそうで、仙台市内の劇場に公演にきていた俳優さんの大ファンであったとかないとか、必死にファンレターを書いていたのだそうです。
 あのとおりたいそうな美人さんでありますから、熱心にアプローチしているうちにスカウトでもされたのでしょうか、東京に帰るや、女優の道を歩まれたことは周知の事実です。
 母から聞いた話なので、どこまでが本当であるのかはわかりませんが、日本を代表する大女優の一人にまでのぼりつめられたことは否定しようのない事実ではあります。
 そのエピソードと関係あるか否かはおぼろげなのですが、外記丁に隣接した錦町のあたりに昔「劇場」があったという話も、母からよく聞かされておりました。
 いつしかそれらが私の頭の中で混乱して、「げきちょう」の地名が勝手に「劇町」と変換されていたのだと思います。
 その一方で、地図好きの私は、訓みがわからないながら「外記丁」という地名表記自体は文字として知っておりました。
 しかし、それが母の言う「げきちょう」とは全く結びついておりませんでした。
 つまり、訓みのわからない「外記丁」の他に「劇町」があると思っていたのです。
 何がきっかけであったかは覚えておりませんが、ある日、地図を眺めていた私の頭の中で突如「外記丁」と「げきちょう」が結びつきました。単に閃きというほかはありません。
 (そもそも外記ってなんだ?)
 気になって調べてみると、「斎藤外記永門(げきえいもん)」という江戸時代初期の人物に由来していたことがわかりました。このあたりに彼の屋敷があったようです。
 しかし、おらが街のお殿様「伊達政宗」のことすらよくわかっていない少年時代の私でしたから、それを知ったところで、それ以上の興味が湧いてくるはずもなく、そのままフェードアウトしていったのでした。
イメージ 1


 結局、この人物がどういう人物であったかを知ったのは、今から約20年ほど前のことでした。
 その頃、郷土史家の紫桃正隆さんにたいそう惹かれており、郷土出版物の充実した『宝文堂』にて氏の著書をことごとく買い求めていたのですが、その内の『政宗をめぐる十人の女(宝文堂)』に斎藤外記のことが詳しく触れられておりました。
 特に次のくだりは私を惹きつけました。

「斎藤外記は伊達政宗に仕え、藩の創始期において活躍した伝説的な豪勇である。藩が解決しかねる厄介な事件が発生するたびに彼に出番が回ってくる。何か暗黒街の仕置人を思わす裏社会の首魁だったような印象を受ける。藩が表沙汰に出来ない難問を苦もなくやってのけるのだから、彼一人の単独行動は無理で、やはり大きな組織を動かしたのであろう。政宗が若い頃の米沢時代には無禄で仕えたというから、組織を養う特別な資金が別に出ていたのであろうか」

 なるほど「暗黒街の仕置人」―。
 かつて『必殺仕事人』なり、その現代版的な『ザ・ハングマン』というテレビシリーズがありましたが、行動の裏に伊達藩という一国の権力があることからすれば、むしろ国家の諜報機関、例えるなら映画『007』シリーズのイギリスのMI6なりジェームズ・ボンドあたりを思わせられなくもありません。
 伊達藩には「黒脛巾(くろはばき)組」という特殊部隊、すなわち“忍び”の組織があったとも言われておりますが、それとの関係はどうであったのでしょう。同一組織であったのか、はたまた使い分けがされていたのか、私にはわかりません。
 黒脛巾組が文献史料に現れるのは江戸時代半ば以降であり、架空の存在であるとする歴史家もいるようですが、私は間違いなく実在したと思います。この類はあくまでトップシークレットであって当然同時代の公の記録には出てくるはずもなく、たしかに伝説との境界は難しいところではありますが、むしろ謀略にたけた政宗であればこそ、そういった組織を抱えていなかったはずがないと思うのです。
 ただ、黒脛巾組については、情報収集や流言を撒いて攪乱させたりすることのみの役割であった、とも言われておりますので、実際に重要犯罪者を捕縛したり、時に首をとったりしていた斎藤外記は一線を画した存在であったのかもしれません。
 外記の活躍はすさまじく、行動範囲は全国におよび、行動自体も奇想天外であったことから、黒脛巾組同様架空説があるのですが、伝説にだいぶ尾ひれがついた可能性も否定できないとはいえ、仙臺藩の家臣台帳たる『伊達世臣家譜』にその名がみえる以上、実在の人物であったことは間違いありません。
 外記はたびたび禄を得ては没収されておりますが、一方で、政宗から千石の禄を約束されても、その必要はないとして成功報酬の半知、すなわち五百石を返却したりと、そもそも出世に興味がなかった風にもとれます。
 その最たるものは、おそらく松平忠直―家康次男―事件のことであろう越前における幕府への謀反事件のときのことです。
 外記に真相究明の特命が下り、外記は変装などあらゆるノウハウを駆使して北の庄の城内に潜入し、かなりの情報を収集したようで、さらに、逐電脱走していた元伊達家臣の下郡山清八郎なる人物が越前公に仕えていることも判明し、政宗の命によりこれを捕縛することとなりました。外記はこれらの難解な仕事を見事にやってのけ、政宗から称賛され、「望む所のもの、遠慮なく申せ」と問われたのだそうです。
 しかし外記は「恐れながら自分には財物は敢えて所望しない。若し叶えば自分の住む地に自分の名を冠していただければ無上の光栄である」と言上したのだそうです。
 もちろん、それは認められました。
 すなわち、これが「外記丁」の地名由来ということになります。
 「仕置人」という意味では、伊達家臣に「屋代勘解由兵衛景頼(やしろかげゆびょうえかげより)」なる人物がおります。NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』ではなんとあの江夏豊さんが演じていらっしゃいましたが、この人物は伊達家奉行筆頭にまで上り詰めました。
 外記も十分その地位を得られるほどの手柄をあげていたと思われますが、何故その権利を自ら放棄したのでしょうか。
 想像をたくましくするならば、伊達の家臣になりたくなかったのではないのでしょうか。
 お家を守るためには最大限の貢献はするが、支配はされたくなかったのかもしれません。
 外記は一応藤姓の人物とされておりますが、伊達郡あるいは米沢における先住の大物一族であったのではなかろうか、とも思うのです。
 いえ、もしかしたら羽黒修験の僧兵であったのかもしれません。
 先に触れたように、紫桃さんは「彼一人の単独行動は無理で、やはり大きな組織を動かしたのであろう。政宗が若い頃の米沢時代には無禄で仕えたというから、組織を養う特別な資金が別に出ていたのであろうか」としておりましたが、もともと独立性の高い財力が潤沢にあったのではなかろうか、とも思うのです。

甲良彦の系譜

$
0
0
 以前、越の魔王「阿彦」のライバルとして、「甲良彦」と「美麻奈彦」という二人の人物について触れました。
 ※参照:拙記事:越中散歩――阿彦のライバル美麻奈彦――

イメージ 1

 ライバルとはいえ、越中―現:富山県―に伝わる諸々の伝説を鑑みるに、彼等各々の単独の力ではとうてい阿彦には及ばなかったようです。
 とはいえ、戦闘力においては甲良彦が、また、知略においては美麻奈彦が、各々それなりに阿彦に匹敵していたフシがあります。それだけにさすがの阿彦も両者の連携には警戒していたようです。
 甲良彦と美麻奈彦――。
 いかにも物言いたげな名前ですが、いずれも渡来系の豪族のようです。
 語感からの印象では、前者は高麗系か、あるいは高良山なり香春岳など北部九州の秦氏関連の言霊との因果を、後者についてはそのまま任那(みまな)との因果を想像させられるところではあります。
 しかし、甲良彦を突き詰めようとするとなにやら任那人とも新羅人とも思わせる属性が錯綜してきます。どうにもすっきりしないところではあるのですが、それについては後に触れるとします。
 いずれ、以前の記事では特に後者の美麻奈彦に注目をしておきました。
 軽くおさらいしておくならば、美麻奈彦は、『喚起泉達録』によれば「速川の神」の神裔を自称しておりました。
 速川の神が本拠地―現:氷見市―の延喜式式内社の論社「速川神社」の祭神であるならば、それは「瀬織津姫」ということになります。
 また、『肯搆泉達録』によれば、美麻奈彦は阿彦討伐後に「越国造」の地位を獲得したことになっております。
 『先代旧事本紀』の『国造本紀』を中心とした検討では、「越国造」はおそらく加賀国―現:石川県―にあったのであろうと想定していたので、それとは必ずしも整合していないのですが、『喚起泉達録』なり『肯搆泉達録』の編纂者が富山藩士であることから、伝承の舞台がほとんど富山藩内で帰結せざるを得なかっただろう事情も考慮しなければなりません。
 前回の私は、そこに謎多き阿彦の実像を絞り込む上でのなんらかの示唆を浮かび上がらせることができるのではないか、と期待し、美麻奈彦についてやや多くの字数を割いておきました。
 その後、「伊治」や「瀧澤」といった私が注目している言霊への考察の流れから「カブト」という言霊をも意識せざるを得なくなり、現在に至っております。
 よって、甲良彦についてももう少し掘り下げておこうと思うのです。
 何故なら、甲良彦はその“カブト”の言霊と密接な一族であるからです。
 彼の遠祖が、能登の「加夫刀彦(かぶとひこ)」という名であることは、越中や能登の神話伝説によって既に認識はしておりましたが、当時の私は祖たる加夫刀彦などよりも、高麗なり高良の言霊との因果の有無を探ろうとして言及を保留にしておりました。
 しかしもしかしたら、そもそも甲良という響きも、当初私が想定した「高麗」や「高良」ではなく、素直に“甲(かぶと)”に由来しているのかもしれません。
 いや、あるいはその逆で高麗なり高良に甲良が当て字され、その文字の印象からカブトに発展したのかもしれません。
 加夫刀彦を祀る能登国の延喜式式内社「加夫刀比古神社」は、『石川県神社誌』によれば「甲大宮」とも称されていて、祭神は大巳貴命、迦具土命、少彦名命、倉稲魂命、蛭児命、速玉之男命とされているようですが、『能登国式内等旧社記』や『能登志徴』によれば、祭神は「ツヌガアラシト」で、「阿曽良明神」なる別称であることが併記されているようです。
 特に『能登志徴』には、古く都努我阿羅斯等神一座を祀る神社であったものが、『文政社号帳』以降現祭神に変えられている旨も補記されているようです。―棚元理一さん著『「喚起泉達録」に見る越中古代史(桂書房)』より―
 ツヌガアラシトは、『日本書紀』の「垂仁紀」の任那と新羅の因縁が始まったくだりにおいて登場しておりますが、「額に角有ひたる人」と記されております。
 これについて、岩波文庫版の『日本書紀』は次のように解説しております。

―引用―
冠り物とか冑など即物的合理的に解釈するより、都努我阿羅斯等という名称が角がある人というように聞こえることから起こったと解するのが当たっていよう。

 なるほど、とすれば、もしかしたら、私が着目しているカブトの神格化はここに端を発したものなのでしょうか。
 ちなみに、「角がある人」と聞こえる「都努我阿羅斯等(つぬがあらしと)」の名の由来について、同書は別枠の補注を設け次のように解説しております。

―引用―
三品彰英は、都努我は新羅や金官加羅の最高官位号「角干」をツヌカ(ン)と訓んだものかという。阿羅斯等は、下文の阿利叱智と同語。継体紀にも加羅王阿利斯等の名が見える。阿羅=阿利、朝鮮語のarには、知る・開くの義がある。斯等は次項阿利叱智―引用書に又の名の「于斯岐阿利叱智干岐」についての補注あり―の叱智と同語とすれば、新羅・加羅で人名に後付して尊敬をあらわす辞。この人の後裔と称するものは姓氏禄に大市首、清水首、辟田首、三間名公など。

 つまり、ツヌガアラシトとは、実際には朝鮮の官位なり尊称であったのだろう、ということのようです。
 書紀における当該記事では、ツヌガアラシトは「意富加羅国の王の子」ということになっており、垂仁天皇に三年仕えて帰国した後、本国を「弥摩那(みまな)国」と名付けたとされております。そしてこの一連のくだりは任那と新羅の因縁が勃発したことを記すものでありますから、ツヌガアラシトが新羅人ではあり得ず、任那の王であると考えるのが自然です。
 しかしその一方で、ツヌガアラシトは新羅王の王子たる「天日矛(あめのひぼこ:天日槍)」と同一視されているフシもあります。
 おそらくそれは、『古事記』が記す神功皇后の祖系としてのアメノヒボコの立ち位置が、『日本書紀』においてツヌガアラシトの立ち位置になっているからでしょう。
 つまり、神功皇后の母「葛城の高額比賣命」を輩出するタジマモリの系譜は、『古事記』においてはアメノヒボコとアカルヒメの間に生まれた子孫ということになっているのですが、『日本書紀』においてアカルヒメと結んでその系譜を発生させたのは、アメノヒボコではなくツヌガアラシトになっております。
 思うに、正史としての『日本書紀』編纂当時、新羅は明確に敵国であったため、新羅に連なってしまう皇后の系譜伝承が適宜修正されたのではないでしょうか。
 ツヌガアラシトとアメノヒボコが同一人物か否かはわかりません。
 それ故に、加夫刀彦系の甲良彦が高麗系なのか任那系なのか新羅系なのかについても混乱するばかりなのです。
 しかし、アラシトとヒボコが仮に全くの別人であったとしても、ツヌガアラシト伝説がアメノヒボコ伝説から派生した、あるいは混乱した、いや、あえて混乱させられた物語のいずれかであろうことは間違いないと思います。
 あくまで想像に過ぎませんが、私は、アラシトはやはり任那系であり、ヒボコは新羅系であり、両者は別人格ではなかろうか、と思っております。任那は新羅に滅ぼされ、併合されておりますので、そのあたりも混乱に拍車をかけている部分はあるでしょう。
 高麗との絡みでいえば、『釈日本紀』引用の『筑前国風土記』逸文に、熊襲討伐のため筑紫に現れた仲哀天皇を出迎えた「怡土(いと)の県主」らの祖「五十跡手(いとて)」が、「高麗の意呂(おろ)山―蔚山(うるさん)―に天降った日鉾(ひぼこ)の末裔」である旨の自己紹介をしており、ヒボコと高麗の因果にも触れておりますので、そのあたりになんらかの真相が潜んでいるのではなかろうか、と勘繰っております。
 さて、加夫刀彦は、『肯搆泉達録』上、「能登姫」に味方したために、当地のトラブルに介入した「大巳貴命」によって懲役の憂き目にあわせられております。
 そのあたりについて、もう少し字数を費やしておきたいと思います。

ヤフーニュース【広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン(関口威人さん/ジャーナリスト)】を拝読して―前編―

$
0
0
 このところ連日報道されている広島の土砂災害――。
 またしても私たちを震撼せしめる悲劇となっていまいました。
 なんの心の準備もなく、一夜にして明日以降の人生を奪われてしまった方々はさぞご無念なことでしょう・・・。ご冥福をお祈り致します。
 また、ご家族やお住まいを奪われて、未だ今後の道筋を見失ったまま途方に暮れていらっしゃるであろう被災者の皆様が、一日も早く平穏な日常を取り戻せますよう、陰ながらお祈り致します。
 東日本大震災以降、毎年のように記録的な自然災害が列島を襲っているわけですが、かつて多賀城を壊滅させた貞観年間の大津波の前後にも、列島各地で台風や大雨洪水、火山の噴火などが相次いでいたようです。それは諸々の史料で確認できます。少なくとも現代科学の観点からは、それらの各々に因果関係などみられないと言うべきなのでしょうが、ここ数年の状態と妙によく似ていて薄気味悪いという皮膚感覚はぬぐえません。
 そのような中、ここにきて古い地名からの教訓を見直す動きが活発化してきているように思います。昔からの地名が現代人の都合で安直に変えられてしまうたびに眉をひそめていた私としては、さしあたり歓迎すべき風潮と捉えております。
 ひそかに広島の災害の報道で頻繁に耳にする「八木(やぎ)」という地名が気になっておりました。私論上、八木は「龍(りゅう)」あるいは「瀧(りゅう)」が「柳(りゅう)」と当て字され、「柳(やなぎ:やぎ)」が「八木(やぎ)」と当て字されたものである可能性が高いと考えているからです。
 実は、広島は少なからず我が仙台と似ている部分があるということもあって、そもそも私にとってはいろいろな意味で興味を刺激される都市なのです。
 25年前、都市地理学的な興味から広島を訪れたことがありました。
 当時の私は、都市を訪れた際、出来るだけ市街地全体を眺められる場所なり高層ビルに登ってみることを自らに課していたのですが、広島においては「比治山」を選択しました。
 そうです。
 「伊治(いじ)」の言霊と「比治(ひじ)」の言霊は同義であろうと仮説を立てて考えている今の私には、ここにきてあらためてその「比治山」の存在が気になり始めているのです。
 広島近郊の「宮島」は言うまでもなく「日本三景」のひとつでありますが、残りのふたつは、「天橋立」と我らが「松島」であります。
 天橋立附近には「比治の眞名井」があったとされておりますが、松島の近くには「石巻」があります。石巻の地名由来は、おそらく「伊治(比治)の馬柵」であり、ひょっとすると日本三景は「比治」つながりの霊地とみなされていたのではないか、と邪推してしまうところなのです。
 ましてや、『先代旧事本紀』の『國造本紀』において、現在の福島から宮城にかけての國造が、おしなべて現在の広島にあたる「阿芸國」の國造と同祖系譜であるとされているだけに、ますます広島への興味に拍車がかかります。
 しかし、残念ながら今のところ、私には広島を現地調査する余裕がありません。
 もちろん、あきらめるつもりなどさらさらなく、したがって、そのあたりは後の楽しみにとってあるところなのですが、このほど、被災した広島市内八木地区の地名に関わるコラムがヤフーニュースに取り上げられておりました。せめてその所感を語っておきたいと思います。
 まず、記事は以下のとおりです。

―引用:『ヤフーニュース《THE PAGE 9月4日(木)15時3分配信(関口威人さん/ジャーナリスト)》より』―
【広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン】
広島の土砂災害で最も大きな被害に見舞われた安佐(あさ)南区八木地区が、崖崩れの多発地帯を表す「蛇」や「悪」のつく地名だったと言われています。日本の地名の多くは過去の災害を伝え、後世に警鐘を鳴らすサインですが、時代とともに消えつつあることも事実です。現代の私たちは先人のメッセージをどう受け止めるべきでしょうか。
■「蛇落地(じゃらくち)」が「上楽地」に?
八木地区がかつて「八木蛇落地悪谷(やぎじゃらくじあしだに)」と呼ばれていたことは、災害発生から約1週間後の8月26日、フジテレビの情報番組「とくダネ!」が伝えて反響を呼びました。
番組で住職が証言していた地元の浄楽寺に確認すると、13年前に亡くなった前住職の桐原慈孝さんが、山にすんでいた大蛇の首を戦国時代の八木城主が刀で切り落として退治したという「蛇落地伝説」を語り継ぎ、1976(昭和51)年に八木小学校の創立100周年記念誌に書き残したそうです。地元にはこの伝説を基にしたとみられる「蛇王池(じゃおういけ)の碑」が建てられています。また、昭和40年代までは「上楽地」という地名が古地図にも残っていて、「蛇落地」が転じたと考えられるというのです。
「前住職はこの土地の開発の歴史を伝えようとしていました。ただ、今回のような大きな災害と結びつけていたわけではないようです。『悪谷』という地名までは書かれていません」と現住職の妻の桐原伊織さん。
広島市郷土資料館に問い合わせると、「蛇落地」や「悪谷」を記す文献などはないと言われました。番組放送後、多くの問い合わせを受けたという安佐南区役所地域起こし推進課も、広島市に合併する前の佐東町史などを調べましたが、そうした記載は見つからないとのこと。「役所としては把握できていません。今回の被災地は、もともと川のはん濫による水害が多かった地域。伝説としてはあるのかもしれませんが…」と言葉を濁します。
テレビに出た住民の一人は「悪谷」が「芦谷(あしや)」に変わったと証言していますが、こちらは戦前の古地図にも見つけられません。しかし、「八木」だけでも「山間の狭い小谷」(東京堂出版『地名用語語源辞典』)を指し、地理空間情報アナリストの遠藤宏之さんが著した『地名は災害を警告する』(技術評論社)では「『ヤギ』が転石地を示す崩落地名」で、東日本大震災時も仙台市郊外の「八木山」という住宅地で地滑り被害があったと指摘されています。
広島の八木地区で現在、最大の避難所となっている梅林小学校は「ばいりん」と呼ばれていますが、「梅」は土砂崩れなどで埋まった「埋め」が語源であることが多いとか。また、八木地区と並んで被害の大きかった安佐南区緑井地区の古地図には「岩谷」の地名が、安佐北区可部地区には崩落地に多い「猿田彦神社」が見当たります。やはり地名は丹念に読み取ることで「警告」を浮かび上がらせることができそうです。
■負のイメージも包み隠さず
名古屋大学減災連携研究センター長の福和伸夫教授らの研究グループは、鉄道の駅名やバス停の名前と地盤との関係を調べてきました。近年、市町村合併による地名変更や、「希望が丘」など不動産価値を高めるためのイメージチェンジが各地で進んでいますが、駅名などは比較的変わることがなく、特にバス停名は公式の地名でなくとも、地元住民になじんだ通称が使われることが多いそうです。
東京、名古屋、大阪の三大都市圏にある3000以上のバス停名を分類した2009年の研究では、固く締まり、水はけのよい良好地盤のバス停には「山」や「台」「曽根」などが、地震時に揺れやすく、液状化の恐れもある軟弱地盤には「川」や「江」「橋」「深」などの漢字が使われている傾向が分かりました。これらを地図に落とし込んでみると、標高や過去の地震による震度などと地名が見事に対応するそうです。
また、鉄道路線はもともと住宅の密集地を避け、町の外れに沿ってレールが敷かれてきました。そのため、大都市の主要な駅は軟弱地盤の上にあることが「八重洲」や「梅田」などの地名に表れています。「そうした“ずぶずぶ地盤”であるという先人の教えを無視して、地面をアスファルトで覆い、高層ビルを林立させている現代の都市づくりは非常に危うい」と福和教授は危惧します。
一方、福和教授が気に入っているのは千葉県の「津田沼」。明治期に5村が合併したとき、中核となった谷津、久々田、鷺沼の3村の地名から一字ずつ取ったそうで、「災害危険度の高い漢字だけを組み合わせた点に先人の知恵を感じる。西東京市などといった不可思議な地名を好む現代人とは感性が異なっていたのでは」。
同様に、福島県の浪江町も「危険度の高い」地名をあえて残しています。実際に震災で津波の直撃を受け、さらに原発事故という困難に直面しましたが、「なみえ」というやわらかい響きを生かしたまちづくりに健闘していると言えるでしょう。こうした負のイメージを包み隠さないことをむしろ評価する価値観の転換が今、私たちに求められているのかもしれません。
なお、福和教授らの研究は地盤に注目しているため、前述の土砂災害を警告する「山」や「岩」はむしろ良好な地名に分類されます。さまざまな情報を重ね合わせて判断する「読解力」も必要だと言えそうです。

 引き続き、後編にて所感を語りたいと思います。

ヤフーニュース【広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン(関口威人さん/ジャーナリスト)】を拝読して―後編―

$
0
0
 ヤフーニュースが掲載した関口威人さん執筆の前述記事は、「八木」地名に関して次のような見解をとりあげております。
 まず、『地名用語語源辞典(東京堂出版)』は、「八木」が「山間の狭い小谷」を指すとしているそうです。
 そして、地理空間情報アナリストの遠藤宏之さんは、著書『地名は災害を警告する(技術評論社)』の中で、「ヤギ」は「転石地を示す崩落地名」を指すとしているそうです。
 記事はその流れで、東日本大震災時に仙台市郊外の「八木山」という住宅地で地滑り被害があったと指摘されている件についても触れております。
 しかし恐縮ながら、仙台市郊外の八木山の件については一言異議を申しあげておかなければなりません。
 何故なら、その「八木山」は当地を開発した「八木久兵衛―五代目―」の名に因んだ地名であるからです。
 いや、もし古くからそこに八木家があったのだとすれば、八木家自体が当地の「八木」地名を苗字にしたのかもしれないではないか、という指摘があるかもしれません。
 しかし、それは考えにくいものがあります。八木家初代久兵衛―同家の当主は久兵衛を襲名する―は、寛延二年に京都の八木村に生まれ、明和六年に仙台に移ったとされているからです―『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』より―。八木家の苗字は、京都において発祥したもののようですから、八木山は八木家によってもたらされた比較的新しい地名であるということになります。当地のかつての地名は「越路(こえじ)山」であるのです。
 また、震災で地滑りがひどかったのは、八木山地区というよりはむしろ周辺の緑ヶ丘地区という印象があり、うろ覚えですが当地の地質は珪藻土と聞いたこともあります。たしか八木山の地質とは異なっていたと記憶しております。
 それはともかく、「ヤギ」が「山間の狭い小谷」や「転石地を示す崩落地名」とみられていることには惹きつけられます。これらの論者は、おそらく多くの事例における因果をつぶさに調べた結果としてこのような結論に至っているのでしょうから、当然に重視すべきでしょう。
 度々申し上げているとおり、私は、「八木」や「柳」などで表記される「ヤギ」地名の多くは、本来「龍(りゅう)」あるいは「瀧(たき)」を冠する氏族が、なんらかの事情でそのままの表記を憚り、「リュウ」と同訓の「柳」などの表記へ変更してきたものである可能性もあると推定しております。
 つまり彼らは本来「龍」や「瀧」への崇敬心が厚い氏族であり、「ヤギ」地名はその縁故地に因んでいるものと推定しているのです。
 とすれば、彼らは瀧や渓流など、河川周辺に居住する可能性も高いはずです。
 その事情がもたらす結果として、ヤギ地名の多くが「山間の狭い小谷」や「転石地」、「崩落地」周辺に集中してみられるのではないのでしょうか。
 記事によれば、「上落地」地名の古い表記が「蛇落地」であったという伝説もあるようです。現存する文献・史料・地図等にはそのような記載は見当たらないようですが、私は口伝であれそう伝えられていたことが事実なのであれば、それを重視します。おそらく蛇に例えられた落人がその地にいたのでしょう。ひょっとしたら、それは出雲系の人たちなのではないでしょうか。
 出雲人は龍蛇族であると自覚しているようですから、蛇は龍に通じますし、そこに「龍」に関連するだろう「八木」地名が存在していること自体が、私論に基づく見解ながら大きな傍証になっていると思います。
 「悪谷」という伝説地名も、蛇に例えられた人たちに関連していることでしょう。
 討たれた先住権力者が「悪」や「鬼」と表現されている例は、我らが蝦夷地では珍しくありません。
 また、「猿田彦神社」が崩落地に多いという法則(?)はこの記事で初めて知りましたが、我が宮城県周辺で「猿田彦」が少なからず「岐神(ふなどがみ)」と同一視されている事例をあてはめてみるならば、やはりここにも先住民族としての出雲の姿が垣間見えているように思えてまいります。
 考えてみれば、広島は北に一山越えれば出雲の国であるのでした。

古代越中の神話

$
0
0
 越中―富山県―の古代史には大きく4つの転換期があったようです。あくまでご当地伝説にある程度の信を置いた上での話ですが、おおよそ次のとおりです。

1、出雲からの支援を受けた「布勢神」と越中豪族連合軍たる「日置神」の戦い
2、越中船倉山の「姉倉比賣神」と、能登杣木山の「能登比賣神」の戦い
3、四道将軍「大彦命」の越中平定
4、阿彦の乱

 さしあたり時系列順に並べてみました。
 これらを、多少の主観を交えながら概観しておきますと、「1」は越中豪族同士の争いではあるものの、超大国の出雲と縁戚関係にあった「布勢神―倉稲魂(うかのみたま)神:阿彦の祖―」が、出雲の支援を得て、「日置神」と争ったもののようです。出雲の越中侵攻計画の先兵が布勢神であったとみることも出来るでしょう。
 対する日置神には、「雄山神―天手力雄(あめのたぢからお)神?―」、「事勝国勝長狭―鹽土老翁神(?)―」、「早月神:八心大市彦(やごりおおいちひこ)―都努賀阿羅斯止(つぬがあらしと)子孫―」らが加勢したとされております。
 しかし、そのまま受け止めるには時代設定が支離滅裂と言わざるを得ません。出雲が勢力の拡張を図っているということは、少なくともいわゆる国譲り以前のことと思われるわけですが、だとすれば、この早月神が垂仁天皇時代の人物とされるツヌガアラシトの子孫のわけがありません。したがって、このように時間軸に矛盾がある場合は、さしあたり同系譜の混乱と捉えておきたいと思うところです。
 次に「2」の争乱は、既に「姉倉比売と伊須流伎比古の夫婦喧嘩」と題した拙記事にて触れているとおりですが、出雲の「大巳貴命」の介入によって収束しました。言うなれば喧嘩両成敗の仕置きがなされ、両比賣神ならびに各々両者に加担した勢力は処罰され、以後、越中と能登は出雲に支配されることになりました。
 このとき、「姉倉比賣」には「布倉姫」が、「能登比賣」には「加夫刀彦」が加勢したとされております。乱の鎮定にあたった大巳貴命に協力したのは、越中雄山の「手刀王彦(たちおうひこ)―雄山神の裔:天手力雄神の裔?―」、同船倉山の「オサヒメ命」、同篠山の「貞治(さだち)命」、同布倉山の「伊勢彦」、能登鳳至(ふげし)山の「釜生(かまなり)彦」の五神とされております。
 古代越中の精神基層とでも言うのでしょうか、言うなれば、越中人のアイデンティティ-が定まったのはこの頃かと思われます。
 越中には、「越中を造り賜いし大巳貴命」という概念が根強いようで、『「喚起泉達録」に見る越中古代史(桂書房)』の棚元理一さんは、出雲による支配は「諸豪族や国人には好意的に受け入れられた」としております。
 越中人である棚元さんは、越中に大巳貴命を祭神とする神社が今尚多い理由はそこにあると考え、大和から来た「大若子命」が地主神たる姉倉比賣の神託による出雲支配を認め、「阿彦」討伐を成し遂げた件もまた然り、というスタンスのようです。
 このことを意識すると、次の「3」の「大彦命」の越中平定がかなり示唆深いものに思えてきます。
何を隠そう、当地の伝説を眺めている分には大彦命が越中・能登勢力と戦火を交えた様子は見られません。
 既存勢力が温存されたままに越中・能登エリアが大和化されていったこと自体それを表していると言えるでしょう。
 つまり、出雲の大巳貴命の敷いた組織なり勢力を、大彦命は温存した、ということです。
 棚元さんは、「大彦命は、各地豪族たちを威圧し大きな戦火を交えることなく越中を平定し~」とし、「統一国家を目指す大和王権への素直な期待感もあったのであろう」としておりますが、「越中を造り賜いし大巳貴命」と称えているような反骨の越中人が、はたして出雲を滅ぼした侵略者の尖兵を素直に受け入れたものでしょうか。
 また、新王権の支配を推し進めるべく進軍してきた将軍が、先代の王権に固執する反骨の既存勢力をそのまま温存するものでしょうか。
 ちなみに、「布勢の円山」に鎮座する延喜式式内社「布勢神社」の祭神は大彦命とされているわけですが、当地において大彦命は布勢一族の祖先神と伝えられております。
 先の「1」において、出雲の支援を得て日置神一族と争った布勢一族は、いわば阿彦の祖先であるわけですが、伝説を信じるならば、越中を平定した大彦命は後に反乱する阿彦の祖先神であるということになります。
 ここでの深入りは避けておきますが、いずれ、戦火を交えることなく大彦命が越中を平定できた意味、出雲色の越中既存勢力が温存された意味は、小さからぬものがあると私は見ております。
イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5


 さて、大彦命によって大和化されたとされる越中の統治を託されたのは、「手刀摺彦(たちずりひこ)命」でありました。彼は、姉倉比賣と能登比賣の争いの際、そのいずれにも与せず、鎮定に介入した大巳貴命に協力した「手刀王彦」の裔です。
 この一族は、なにやら「天手力雄(たぢからお)神」の一族を示唆しているようなのですが、言わずもがな、天手刀雄神は、「天照大神」が弟「素戔鳴(すさのを)尊」の狼藉に辟易して「天石窟(あまのいわや)」に引き籠ってしまった際、あえて騒がしく宴に興じた外の神々の様子を覗き見ようとした天照大神が、わずかに磐戸(いわと)を開いた刹那すかさずその手を掴み、力任せに外界に引き出したとされる神です。
 この神話が何を示唆しているのか正確なところはわかりません。皆既日食に恐怖を抱いた古代人の神事・祈祷の描写であるという説も何かの本で読んだことがあります。いずれにせよ天手力雄神が暗闇の地上に光を取り戻した最大級の功労者として伝えられていることは間違いないでしょう。
 大巳貴命の越中平定に協力した「手力王彦(たちおうひこ)」、そしてその裔の「手刀摺彦」は大彦命に越中の統率を託されました。これだけの輝かしい経歴であれば、この一族も十分「越國造」の候補として挙げることが出来るでしょう。
 富山市太田南町の「刀尾(たちお)神社」は、この一族を祀っていると思われます。
 『越中国式内等旧社記』は祭神を「立山第一之御子神」とし、『富山県神社誌』は「天之手力男神」他を祭神としているわけですが、神社誌によればこの神は「刀尾権現」とも呼ばれているようです。
 実は私は、「刀尾(たちお)」は本来「刀尾(とび)」であったのではなかろうか、とも思っているのですが、今のところそれを裏付けるものはありません。
 ただ、「富山」の地名が「外山(とやま)」に由来していることを鑑みるならば、あながち的外れでもなさそうに思うのです。
 富山地名については拙稿『富山の地名由来を追う』にて語っているので割愛致しますが、なにしろ「外山」の表記は大和盆地にあって「トビ」と訓まれております。
 先の棚元さんは、医師で郷土史家でもある飛見丈繁(ひみたけしげ)さんの著書『富山県郷土史年表』に「神武四年、天香語山命、越の国造となり、今の富山市掛尾地方を開拓す。命は饒速日命の長子」とあるのを受け、「出典は不明であるが」としたうえで「太田本郷地方は早くから開けていたのであろう」としております。
 たしかに、その掛尾地方の「掛尾町集会所」には隣接して旧村社の「弥彦神社」があります。
 いえ、正確には弥彦神社の境内に集会所が建てられたのでしょうが、弥彦神社は言わずもがな天香語山命を祀る社であり、おそらくは飛見さんの語る情報と無関係ではないでしょう。
 いずれ、大彦命に越中の統率を託された手刀摺彦に、越中最強の豪族「阿彦」が反乱しました。それが「4」の「阿彦の乱」で、それを鎮定したのが度會氏の祖「大若子命-大幡主命―」であったと伝えられているのです。

鶴ヶ谷の鎮守

$
0
0
イメージ 1

 先日早朝、国道4号仙台バイパスを車で走行していると、私の視界の片隅にふとカーナビ地図画面の「志賀神社」の文字が映りました。
 思えば七年前の秋、私は何度もこの神社に願をかけておりました。母の胃に悪性の腫瘍、すなわちガンが発見されたからです。
 よく歩きよく運動し、すこぶる元気で老いによる白内障以外には健康状態になんの問題もなさそうに見えていた母だけに、早々に胃を摘出しなければならないという事態には少なからず動揺を抑えきれませんでした。
 もちろん、私が中年になってしまっているのですから、親もそれなりのお年頃になっていることは受け入れざるを得ない事実であって、遠からず訪れるだろう老・病・死とも向き合わざるを得ないのはわかっていたつもりでした。
 しかし、いざ具体性を帯びてくると怖気づいてしまうもので、ただ経過を見守るしか出来ない自分の無力さに苛立ちすら覚えました。かつて唯物論者とまで揶揄された私が、皮肉にも四六時中神頼みでもしていなければ落ち着かなくなってしまい、フィールドワークの神社探索もいつのまにか母の無事を祈ることが主目的になっておりました。
 母が入院した「仙台オープン病院」は、仙台市によって造成された「鶴ヶ谷(つるがや)団地―仙台市宮城野区鶴ヶ谷―」の一角にありました。
 かつては東北最大と言われていたこの団地も、その造成から半世紀の時が経とうとしております。母の見舞いに訪れると、病室の窓の下には整然とした区画が広がり、成熟した多種多様な街路樹の帯が鶴ヶ谷中央公園の森林と融合して上品な住宅街を演出しておりました。公園には俗に「ひょうたん沼」と呼ばれる沼があり、そこには冬になると白鳥も舞い降ります。少年時代からよく慣れ親しんだ風景ではありましたが、意外にも高いところから見下ろすのは初めてで、あらためて美しい団地であると気づきました。
 ひょうたん沼の先に目をやると、ひときわ目立つ高層市営住宅のやや左手、宅地化された丘陵地の稜線にささやかな森が見えるのですが、そこは件の「志賀神社」の鎮座地でありました。
 今でこそ申しわけ程度の森になってしまいましたが、かつては鶴ヶ谷全域を包むひと続きの大きな森に連なっていたことでしょう。
 なにしろ志賀の神は旧鶴ヶ谷村の鎮守でありました。
 この地の鎮守なのであれば、窓から見える鎮守の森に坐す神様なのであれば、この病院の母をしっかり見守ってくれるのではないか――。
 そう思った私は、母の手術を前に初めてこの志賀神社を訪れました。

 この志賀神社の由緒等は不明で、『封内風土記』も「不詳何時勧請」と記すのみです。
 明治期に岩切―仙台市宮城野区―の八坂神社に合祀されてしまったようですが、昭和五十四(1979)年に元の場所に再建されたようです。
 由緒は不明ながら、「志賀」という社名から考えて、筑紫の「志賀島」に関係する神様が祀られているのだろう、と思っておりました。すなわち、安曇(あずみ)族、安曇磯良(いそら)など、海人(あま)系氏族の祖神とされる「綿津見(わたつみ)三神」と同系の海神と考えてほぼ間違いないのではないでしょうか。
 ひとつ興味深いことがあります。
 天明年間に鹽竈神社祠官藤塚知明が解読して物議を醸しだした「モクリコクリの碑―蒙古の碑―」が発見されたのは、前にも触れたとおり、安養寺跡の土中とも、燕沢寺跡に通じる路傍とも言われておりましたが、いずれも鶴ヶ谷団地の縁辺部で、特に後者はかなり志賀神社に近づきます。
 したがって、志賀神社を奉斎していた一族が、なんらかの形でモクリコクリの碑にも関わっていたのではないか、と私は勘繰っているのです。
 志賀神社の境内には、去る昭和五十三年、仙台市政八十八周年を記念して「杜の都の名木八十八選」の一つに指定されたご神木のイチイがあります。樹齢が600年であることからすると、少なくともその起源は南北朝時代くらいまでは遡れそうです。

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4


 島津陸奥守勧請の天神社の霊地を穢さぬように國分彦九郎盛重が植えたという樹齢620年のクロマツ―高山樗牛瞑想の松―よりややお若いようですが、前に、その天神社なり島津陸奥守なる謎の人物がモクリコクリの碑となんらかの関係があるだろうと推察し「國分荘史考」と称した書庫の中で論を展開しておきました。このイチイとて、モクリコクリの碑が建立されたとされる時期―約700年前―からそう遠くはありません。
 穏当に考えれば、志賀神社は当地を根拠にしていた「鶴ヶ谷氏」が祀ったのだろう、といったところでしょうが、すっきりしないことに、その鶴ヶ谷氏自体も謎めいております。
 史料から窺えるわずかな情報をいくつか取り上げておくならば、『仙臺領古城書立之覚』の鶴ケ谷邑の項に「笹森城」なる城があり、城主は鶴ヶ谷氏である旨が記載されております。
 城の所在地は仙台オープン病院の北側、仙台市教育センターの東側にあたりますが、残念ながら一帯の造成によって姿はとどめておりません。
 また、『秋田藩家蔵文書』において、鶴ケ谷氏は「國分氏一家衆」に名を連ねております。
 一方、『留守分限帳』にも「鶴か谷豊前十四貫八千文」という記録がみられ、留守氏の家臣でもあったようです。
 もちろん、天皇家や足利将軍家が二つに分かれて争っていた尋常ならざる混乱の時代であります。時の情勢によって二転三転することもあったでしょうし、一族が生き残るために戦略上兄弟同士が敵味方に分かれることも少なからずあったことでしょう。
 それはともかく、鶴ケ谷の地名についても、この鶴ケ谷氏に因むとも、鶴がたくさんいる湿地帯であったことに因むとも言われておりますが、結局はなにもかも今一つ明確ではありません。
 ここで私は、七北田川―冠川―を挟んで向き合う「松森城」に注目しておきます。
 松森城は、前にも触れたとおり「鶴ヶ城」と呼ばれ、定説では鶴翼の城構えに因むとされておりますが、私は國分氏の白鳥信仰に因むものであろう、と推察しておきました。附近の鶴が丘団地の地名はこの鶴ヶ城に因んでいるようです。
 もし鶴ヶ谷の地名が、鶴がたくさんいる湿地帯に因む地名であったのならば、当然冠川―七北田川―対岸のこのあたりの湿地にも鶴が乱舞していたのでしょうから、鶴ヶ城の俗称もそれに因んでいた可能性はあるでしょう。
 しかし仮にそうであっても、私は、やはり國分氏の白鳥信仰の下地があればこそ鶴の名が採用されたのではなかろうか、と思うのです。その延長で、鶴ヶ谷氏も國分氏の同族であったのではないか、と考えております。
 もちろん私は、國分氏の本質を女系一族と疑っているので、同族とはいえ、必ずしも血統的に同系譜というわけではないという前提になります。
 ついでに言えば、先の「國分一家衆」というのも、あたかも広域暴力団が盃を交わしたかのような呼称ですが、その実は歴代入り婿の実家リストではないのでしょうか。
 謎の「仁和多利(にわたり)大権現」が國分氏の氏神であったとする伝承が、当の仁和多利大権現を前身とする「二柱神社―仙台市泉区―」に伝わっているわけですが、旧宮城郡において、モクリコクリの碑とニワタリ信仰、更に白鳥信仰がなにやら隣り合わせに存在していたことは前に語りました。
 そして、ニワタリ信仰―ミワタリ、オニワタリなども含む―の分布が、道嶋(みちしま)宿禰なり牡鹿(おしか)連を輩出した丸子(わにこ)氏の分布に類似していることも指摘しておきました。
 丸子氏が和邇(わに)臣系の氏族であったとしたならば、牡鹿連の「牡鹿」は、和爾臣の母系から連なる言霊であったのではないか、と以前推察しておきました。
 すなわち、人皇六代「孝安天皇」の后で七代「孝霊天皇」の母でもある「押媛(おしひめ)」は一説に「忍鹿比売(おしかひめ)」とも称されていたらしいのですが、発祥時の和爾氏によく用いられた「オシ」「オシカ」は、彼らにとって大切な言霊であったのだろう、というのが私の試論です。
 『万葉集』に「牝鹿の須売神―めしかのすめかみ?―」と詠まれているのは、筑紫志賀島の「志賀海神社(しかかいじんじゃ)」の綿津見三神のことであるとされているようですが、志賀島の神は女神であるのでしょうか、メシカと詠まれております。思うに、おそらくオシカの言霊とも無関係ではないでしょう。

 なにはともあれ、病院の帰り足に志賀神社を訪れた私は、二礼二拍手に続けて母の無事を切に願いました。
 最後に一礼をすると、鈴の緒の五色の布が急に強い風に煽られ、私の頭を撫でながら首に絡まってしまいました。
 誰かに見られたら恥ずかしいと思ってあせってしまったのか、ほどくのに手こずりました。
 はて、これは頭を撫でられたのか、首を絞められたのか・・・。

イメージ 5


 七年後の現在、母にガンの転移の様子はありません。
 きっとあのとき、志賀の大神さまは優しく頭を撫でてくださったのだろう――。そう思うことにしております。

イメージ 6

茶棚にあった『七ヶ浜町誌』

$
0
0
 和風のローボードのような茶棚が、我が家の和室にあります。
 14~15年も前になりますでしょうか、新聞チラシで見かけて気に入り購入致しました。渋く煤けたようなこげ茶色の建具が、炭のような黒い天板や側板でトリミングされた、言うなれば古民家風の茶棚です。
 幸い大変財布に優しい商品で、したがって材質的にカラーボックスとなんら変わりのないものであったこともまた事実です。
 簡素な組み立て図を確認しながら組み立てを完了し、微妙におさまりの悪い天板を然るべき姿に微調整せんと軽く小槌で叩いたてみたのですが、きっと私の力加減が悪かったのでしょう、いとも簡単に陥没してしまいました。
 損傷した天板の断面は、素材の抽出繊維―まぁ、紙―が露出しておりました。それを確認した私は、この茶棚のお手入れには花王さんのクイックルワイパーか、金鳥さんのサッサあたりにお世話になろう、と決意を固めたものでした。
 それにしても、なにしろ腰窓の開口を遮らないローボードゆえ、いたずらに目立つ痛ましい天板部分――。
 思案の末、30年来のおつきあいをしている北海道は白老(しらおい)生まれの二ポポ人形さんご夫妻に隠していただくこととなりました。最初は20年来のおつきあいの九州は福岡生まれの博多人形さんにお願いしようと思いましたが、ご婦人おひとりには荷が重かったようで、台座が小さく損傷範囲をうまく隠しきれないご様子でした。そこで二ポポさんご夫妻にお願いした次第なのです。二ポポさんにおかれましては、色合いが茶棚と同系ということもあり、なんの違和感もなく、今尚よいお仕事をしてくださっております。
イメージ 1

 さて、茶棚のアクリルガラスの扉の中の棚には、市町村誌や辞典の類が並べてあります。
 この茶棚に原色系の装丁は似合わないと判断し、お堅い無機質な書物の置き場所に選んだのです。
 ふと見ると、そこにはいつのまにか『七ヶ浜町誌』も並んでおりました。
 はて、私はいつの間にこれを入手したのだろうか・・・、どうにも思い出せません。
 たしかに「鼻節神社」を調べていたときには、図書館にて神社関係の部分のコピーをとらせてはいただきましたが、購入にまでは至ってなかったと思います。
 例えば、『古川市史』は、大崎市の図書館の方から、古川市は大崎市に変わったので在庫は希少だ云々という能書を賜った記憶や、『利府町誌』は利府にお住まいの知人の奥さまがなんらかの事情で謹呈されたものの、特に読むこともないからお役に立つなら、と私にくださった記憶、また、『松島町史』は積極的に古書店で探し求めた記憶、その他、旅先の書店や土産物売り場で見かけたものをとりあえず購入した、などなど、他の市町村誌については、入手経緯の各々の物語を思い出せるのですが、何故か『七ヶ浜町誌』についてはそういった記憶を呼び起こせないのです。
 もしかしたら、東北歴史博物館で『多賀城市誌』を購入したときに、おそらくその隣に置いてあったのだろう『七ヶ浜町誌』も併せて購入しておいたのかもしれません。
 何はともあれ、今私は「よくやったそのときの自分!」と自らをほめております。
 何故なら、確認したいことがあって図書館に行くはずだったとある休日、弱い自分に流されて、甲羅干しをいているカメさんを眺めながら「キリン一番搾り」をグラスに注いでしまったからです。
 確認したかったことは、中世の花淵浜(はなぶちはま)を領していた花淵館の館主花淵家が、その花淵浜に鎮座する名神大社「鼻節神社」の祭祀に関わっていたか否かの一点でした。もちろん関わっていたと考えるのが自然であり、殊更に疑う余地もなさそうですが、あらためて確認したこともなかったのです。
 鹽竈神社よりも先に鹽竈大神を祀っていたとも言われる鼻節神社は、『続日本紀』や『延喜式神名帳』において既に「鼻節神社」の名のままに記載された古社である一方で、清少納言の『枕草子』には「はなふちの社」とあり、本来は「花淵(はなぶち)神社」であったものが猿田彦の鼻にこじつけて鼻節神社と呼ばれるようになったのではないか、といった旨の説があったりもします。いずれそれほど「花淵浜」の地名は鼻節神社と密接なものであり、その言霊を冠する花淵家とは一体どのような一族であったのだろうか、とにわかに気になってきたのです。
 このようなときにいつも私が真っ先に頼るものは、太田亮さんの『姓氏家系大辞典』です。
 ところが、この辞典は、淡泊に「陸前に此の地名あり」と記すのみでありました。
 そんなことわかってるわい、と独り言をつぶやきながら、次に『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』を引いてみると、「留守氏の直臣に~」と少しはマシに記されておりました。
 しかし、私の知的好奇心を満足させるような情報はなく、もちろん鼻節神社に関する記述などありませんでした。
 『七ヶ浜町誌』ならもう少し詳しい情報があるのではなかろうか・・・と、とりあえず以前図書館でとった鼻節神社関連部分のコピーを引っ張り出すと、次のような記述がありました。

「花淵浜の館主花淵紀伊も、代々たいへん鼻節神社を崇敬したようであるが、時移り代変り、多賀国府有名無実となり、花淵紀伊も当地を去って以来神社は衰運をたどり、遂に塩釜神社の末社となり、明治維新以後、本社、末社の関係が断たれ、明治三年には神仏混淆(こんこう)が正され、神社の新しい制度によって、五年五月村社に列せられた」

 これです、私が欲しかったのはこういう情報です。
 もちろん、この情報はだいぶ前には得ていて、ある程度は自分の知識になっていたからこそ、花淵家のことも頭に浮かんだのでしょうが、ほぼ忘れておりました。あらためてコピーを読んでみて、もしかしたら花淵家のことを掘り下げればもう少し鼻節神社のことを、ひいては鹽竈神社のことを深く知ることが出来るかもしれない、と思ったのです。
 では、前述の姓氏家系大辞典以外で花淵家のことをより詳しく書いていそうなものは何か・・・、それはやはりこの『七ヶ浜町誌』でしょう。
 おそらく、この『七ヶ浜町誌』の他の項目に七ヶ浜に関係ある名だたる人物についての記述があることは間違いなく、そこに「花淵紀伊」の偉人伝のようなものがあるかもしれません。
 これはもう図書館に出向いて、あらためてこの『七ヶ浜町誌』の他の項目を確認するしかない、と決意したのです。
 なのに、私としたことが窓際のカメさんの甲羅干しなんぞを眺めながらキリン一番搾りを空けてしまいました。無防備に足を伸ばして油断しきったカメさんがじっとこちらを見ています。心なしか鼻で笑われた気がしました。
 そんな自己嫌悪な私の目に、ふと茶棚の『七ヶ浜町誌』が飛び込んできたのです。その瞬間の私の昂揚感をおわかりいただけますでしょうか。自宅でくつろぎながらビールを片手に目的を果たせるのです。

 結論から言えば、期待どおり花淵家に関してより詳しく書いてありました。
 ただ、未だ系譜についてはわかりません。
 しかし、自宅にて町誌を全編にわたってじっくり目を通してみたことで、思った以上にいろいろな情報を得ることができました。神社の情報は、神社の項目でのみ語られているにあらず、なのです。前述のコピーもそうですが、がむしゃらに神社伝承を調べていた頃は、市町村誌を手にとっては神社の祭神や由緒ばかりを見ておりました。元々、史料だけではわからないことを社寺の伝承から補足して考えていこう、と思っていたはずが、いつのまにか、本末転倒になっていたのかもしれません。
 よく考えてみれば当たり前のことながら、神仏はそこに住む人々からの信仰があってこそそこに即物的な神社仏閣の姿で現れているわけで、その地の人々の現実的な動き、功績、様々な民俗・歴史・地誌にもバランス良く目を向けなければ、いつまで経ってもわからないことがあるな、と思い知らされた今回の一件でありました。

花淵浜の旧家

$
0
0
 「源頼朝」は、「奥州藤原氏」を滅ぼした後、言うなれば奥州における幕府の代理人として「葛西清重」を、同じく朝廷の代理人として「伊澤家景」を任命しました。この伊澤氏が、二代家元以降「陸奥留守職」の職を姓として名乗るようになり、「留守氏」が誕生したのです。
 『七ヶ浜町誌』は、留守職の職掌の主たる任務として次の三つを挙げております。

1、在庁官人と共に先例により国務を沙汰すべきこと
2、陸奥国の復興を計ること(特に勧農)
3、地頭等が国務に従わざるときは、家景自身、実地に検分して下知し、なお、不承引の者あるときは、これらを幕府に注申し、命を受けて処罰すべきこと

 特に、最初の「在庁官人と共に先例により国務を沙汰すべきこと」には、多賀国府の守護神とみなされた鹽竈大神の祭祀のことも含まれているのでしょう。事実、没落して伊達氏にとって代わられるまでの約400年の間、留守家は代々「鹽竈神社」の大神主家でもありました。
 その鹽竈神社よりも早くから鹽竈大神を祀っていたとも言われる「鼻節神社」のお膝元、「花淵浜―宮城郡七ヶ浜町―」の領主は「花淵紀伊」なる人物でした。花淵氏の当主は代々「紀伊」の名を襲名し、留守氏着座の列にも加わる重臣でありましたが、いつから花淵浜にいたのか、また、鼻節神社の祭祀には関わっていたのか否かまでは確認できておりません。
 ただ、少なくともその経営を大いに保護していたらしきことは、花淵紀伊が当地を去って以来神社は衰運をたどった、とされていることからも間違いなさそうです。

イメージ 1


 花淵氏が当地を去ることになったのは、主家の留守氏の滅亡に関係します。
 天正十八(1590)年、留守氏は、豊臣秀吉の小田原征伐の際、葛西・大崎の両家同様、伊達政宗が秀吉に与するか否かの動向を窺っておりました。
 もし先走って小田原に参陣し、仮に秀吉が小田原の北条氏を倒せなければ、彼らは稀代の風雲児“独眼竜政宗”に滅ぼされかねません。
 結果的に、政宗はぎりぎりで秀吉に従う判断を下したため、留守家は、葛西・大崎の両家とともに参陣の機を逸し、十八万石ほどとされる領土は秀吉にとりあげられてしまったのです。
 ここに、鎌倉時代以来の名門留守氏の時代は終わり、家臣もみな離散してしまいました。
 もちろん花淵家も例外ではなく、父祖伝来四百年の花淵浜を離れ、高砂村福室―現:仙台市宮城野区福室―に移り、農業を営んだのだそうです。
 花淵浜には、花淵紀伊の重臣遠藤氏の長男が残り、紀伊の下に馳せ参じた父に代わって当地での農漁を生業に存続していったようです。少なくとも『七ヶ浜町誌』編纂現在まで800年の家系を維持しているようですが、もしかしたらこの家こそが古くから鼻節神社の祭祀に関わる家系であったりするのでしょうか。
 前述町誌によれば、花淵浜の旧家には、その遠藤家の他、鎌田家、鈴木家などがあるようですが、少なくとも鎌田家からは鼻節神社の社司を勤めた人物も出ているようです。
 年代は定かでありませんが、その人の名は「鎌田三太夫藤原則光」といい、「御前の家」ともいわれたそうです。
 町誌によれば、「その頃からか、花淵浜で出生した生児が七日過ぎると鎌田家に行き、氏子札の下付を受けて氏子となる習慣があったという」とのことですから、事実とすればいかにも鼻節神社を代表する家柄の感があります。
 しかし、元は黒川郡粕川村に居たものが花淵浜に移住してきたということですから、鼻節神社の衰運を憂いた何某かの権力によってあえて神職として派遣されてきたものなのかもしれません。
 興味深いのは、この鎌田家、本来は「小野姓」であったものが、花淵浜に移住してきてから「鎌田姓」を名乗っていることです。
 前に触れましたが、私見では、鼻節神社はワニ系の氏族によって奉斎されたものという見立てでありました。―拙記事:『鹽竈神社と鼻節(はなぶし)神社』参照
 小野姓は和邇(わに)系春日臣を祖とする氏族であり、以前、鹽竈神社の右宮一禰宜新太夫家小野氏を絡めて鼻節神社と鹽竈神社の関わりを模索しておいたわけですが、輪郭はあっているように思えます。
 そして、今ここであらためて注目すべきは、それが花淵浜においてあえて鎌田姓を名乗ったことです。 鎌田姓といえば、元禄以前の鹽竈神社において、社家の上位に位置づけられて「神主」とまで呼ばれた鎌田氏を思い出さずにはいられません。
 その鎌田氏は、仙臺藩主四代伊達綱村によって鹽竈神社のあり方が見直された際、鎌田氏はそもそも在庁官人であり、境内の貴船社と只洲社は鎌田氏の私的な祭祀である、として鹽竈神社の職を追われております。
 しかし鎌田氏は、鹽竈神は鹽竈の浦に降りた竜神で、山城の貴船も鹽竈神を勧請したものである、という旨の衝撃的な家伝を残しております。―拙記事:『鎌田氏の衝撃的な秘伝』参照
 時期の前後関係はわかりませんが、花淵浜の鎌田氏は小野姓であるにも関わらず何故あえて鎌田姓を名乗ったのでしょう。このあたり相当根の深い話なのかもしれません。

イメージ 2


 一方、伊達家をたよって政宗に引きたてられた留守家十六代当主の政景は、磐井郡黄海(きのみ)―岩手県―の城主を任され、二万石の領主としてささやかに返り咲きました。
 元々、伊達家から迎えた政景を擁していた留守家は、以降、伊達の一支族として命脈を保っていくことになります。
 その際、離散した旧臣中、再び集まって仕えた者が857人もいたといい、その一人には花淵家の次男もいたようです。
 ちなみに花淵家の長男は福室に残り、その後三百余年の時を経て、明治を迎えてから「東宮浜(とうぐうはま)―宮城郡七ヶ浜町―」に移住したようです。
 東宮浜は、かつての所領花淵浜が七ヶ浜町の南東部、外海の太平洋に臨む部落であるのに対し、正反対の北東部、内海の塩竈湾に臨む部落です。地名は、当地に鎮座する「東宮明神」に因みます。東宮明神はその名のとおり、鹽竈神社の方位神、東方鎮護の神とも言われ、鹽竈神社十四末社の一に数えられております。
 一方、留守家は、政景の子宗利が大阪冬の陣における出兵の少なさを責められ、一万石に減ぜられ、磐井郡金ヶ崎城に移されますが、寛永六(1629)年、伊達家が幕府から命ぜられた江戸城石垣の修築を監督した功によって一万八千石に復され、寛永八(1631)年八月以降、水沢に移ったのだそうです。
 明治に入り、留守家は水沢伊達家として家名を残すことになりますが、おそらくは、先の花淵家次男の子孫も共に水沢に移ったのでしょう。
 いずれ『七ヶ浜町誌』によれば、「花淵氏は、延喜式内社の鼻節神社を崇敬し、産業に意を用い、領民をいたわったと思われる遺構と伝説が伝えられている」のだそうです。
 遺構とは、防波堤や魚付場として築かれた磯を指し、なるほど、それらにより領民の船着きの利便性が高まり、海藻や貝類の繁殖も計られていたことがわかります。
 また、「悩める蛇の難を救い、その報いとして、昆布苗と光絹を授けられ、蛇薬を製して、領民をその苦悩から救ったという伝説の生まれたことで、良き領主であったことを物語るものであろう」とあり、花淵氏がなんらかの形で蛇と関わりのある一族であることが窺えます。
 花淵氏と蛇に関連する伝説は幾とおりか存在します。
 しかも、七ヶ浜とはゆうに100キロメートル以上離れている「水沢―現:岩手県奥州市水沢区―」にも飛び地的に展開していることから、花淵氏あるところに蛇伝説がついてまわっていた可能性もあります。
 それらの伝説には、「花淵紀伊」が主役のものと、「花淵善兵衛」なる人物が主役のものなどがあるようですが、もしかしたら、七ヶ浜周辺の伝承では「紀伊」で、「水沢―現:岩手県奥州市水沢区―」では「善兵衛」なのでしょうか。
 といいますのは、滅びた主君の留守家があらためて伊達の一族―水沢伊達家―として再興した際、先に触れたとおり花淵家から臣従した人物が次男であったからです。
 つまり、後の水沢伊達家に臣従した花淵家の次男は、その名が「花淵善兵衛」か否かは別として、世襲の「花淵紀伊」ではなかったものと考えられます。
 いずれ、蛇との関わりを伝える口承伝説の類は、今一つ不明瞭な花淵氏の出自を推察する上で重要視すべきものと考えております。

花淵氏と福室

$
0
0
 「仙台市生涯学習支援センター」のホームページから、「高砂市民センター運営協力委員会」発行の『高砂をあるく』を閲覧できるのですが、そこに、次のような仙石線高砂駅誘致の逸話が語られております。

―引用―
大正14年、仙石線(当時は、宮城電気鉄道株式会社)が福室東作町より中野出花を経て、多賀城市八幡や塩釜市に通じた。当初の駅設置計画では福田町駅と中野駅であったが、北福室出身の高砂村々長花渕源吉氏は、北福室に高砂駅の設置運動を起こした。設置が決まると、花渕氏は北福室の人々に檄をとばし、地区民の絶大な犠牲によって駅の造成等を行った。

 これによると、大正十四年時点の高砂村村長は、北福室出身の花淵姓の人物であったようです。
 北福室にあってこの苗字とあらば、やはり花淵浜から移住した花淵紀伊の家系から出た人物と考えるのが自然でしょう。
 ただ、『七ヶ浜町誌』によれば、花淵家は明治を迎えて東宮浜に移住したとのことでしたので、大正時代には既に福室を離れている、ということになります。
 とはいえ、花淵家が花淵浜を離れ、福室に移住してから東宮浜に移住するまでの時間の厚みは三百余年、世代にして十世代くらいでしょうか、それだけ土着していれば、相当数の分家が展開していたことでしょう。その中からあらたな名士が輩出されていてもおかしくはありません。
 あるいは、引用記事にはあくまで北福室の“出身”とあるだけなので、単に、花淵家が東宮浜に移住する前に生まれた人物なのかもしれません。花淵家が明治のいつ頃に福室を離れたのかまでは調べておりませんが、仮にこの村長の生年が明治元年であったとしても、大正十四年時点ではまだ68歳という計算になります。あり得なくはないでしょう。
 いずれ、檄をとばし、地区民に絶大な犠牲を強いることが出来たというのは、この花淵源吉村長が元々相当な親分肌であったからと思われます。
 少なくとも花淵浜における花淵紀伊は、その遺構や伝説から、代々相当に領民をいたわってきた領主であったことが推察されました。そういった歴史があってこそ、北福室の地区民も犠牲を厭わずに協力をしたという部分があったのではないでしょうか。かつての名門留守家の着座に名を連ねた花淵家の威光は、翌年には昭和になろうというこの時代においても尚健在であったのかもしれません。
 それにしても、花淵家の移住地は何故福室であったのでしょうか。
 ひとつ注目したのは、その時代、冠(かむり)川―七北田(ななきた)川―の河口が花淵浜に近い湊浜にあったという事実です。
 冠川は、慶長年間から寛文十(1670)年までの流路改修以前、南安楽寺―多賀城市新田―あたり、すなわち福室の北側から左に折れ東進し、高橋―多賀城市―の北側から八幡(やはた)―多賀城市―に流れ、湊浜―七ヶ浜町―で仙台湾注いでおりました。下流はほぼ現在の砂押川の流路と一致します。
 流路が東向きに変わる福室北側の南安楽寺あたりから上流へは、湊浜からの川舟が遡ることが出来ず、商人船なども荷揚げせざるを得なかったものと考えられ、このあたりに陸揚げ港と市場―冠屋(かぶりや)市場―が開かれていたものと考えられます―参考:『仙台市史』―。

イメージ 1


 中世の多賀国府はこのあたりの左岸に展開していたものと考えられており、もしかしたら奥州で最も人々の集まる繁華なエリアであったのかもしれません。
 思うに、留守氏の重臣で冠川河口周辺の領主であった花淵氏は、特権的に冠川下流の船運を司り、海藻や貝類などの海産物や、光絹、蛇薬など、すなわち伝説上で助けた蛇から恩返しに賜ったとされる品々を、このあたりで荷揚げして商取引していたのではないのでしょうか。
 なにしろ、福室移住のきっかけは主家の滅亡なので、あまり自由意志が働いていたものとも思えませんが、花淵家は水運商社的なつながりを背景に古(いにしえ)の国府対岸の当地に移住したのではないか、と想像するのです。
 また、先の『高砂をあるく』によれば、「この地区には古くより人が住み、福室の西光寺を中心として福室邑、中野邑、高橋邑、新田邑等の住民が神仏の信仰を通じてよく団結していたことが、寛文8年に建てられた字庚一番地に現存する庚申塔の偈文によって伺い知ることができる」とのことです。
 その中心となる西光寺には、『封内風土記』に「正平親王之碑」と記されたところの板碑があります。

イメージ 2
西光寺
イメージ 3

イメージ 4
正平親王之碑
イメージ 5


 この板碑は、北朝との激戦で戦死した南朝の皇子を供養したものと伝えられております。
 すなわち、正平元(1346)年―『宮城郡誌』―ないし正平二(1347)年―『封内風土記』―に同寺を開山した雲光和尚が、板碑に正平七(1352)年三月十八日の日付を追刻して皇子の冥福を祈ったものらしく、皇子の名が不詳のため、「年号をとって正平親王と申し上げた」と伝えられております。
 木村孝文さんの『宮城野の散歩手帖(宝文堂)』には次のようにあります。

―引用―
正平親王の伝承について、明治になって大槻文彦教授が古文書、結城氏の「白河文書」によって、山野村宮王子の墓碑として大差がないと、著書「伊達行朝勤王事歴」第三巻(奥州に於ける南朝皇胤(こういん)の御遺蹟)に記している。(宮城県史蹟名勝天然記念物調査・大正十四年鈴木省三報告)

 「山野村宮王子」とは、仙台市泉区実沢の「山邑城」の皇子という意味でしょう。すなわち、結城氏の文書などの記録との整合性から、正平親王と山野村宮王子を同一人物と考えて差し支えないということになるのでしょうか。
 いみじくも、ここに結城氏の名が出てまいりましたが、偶然か否か、福室には結城姓の方がたくさん住まわれております。
 結城氏といえば、伊達氏とともに南朝勢力の雄という印象がありますが、もちろん、南北朝時代は時勢に反応して同族内部においても敵味方が激しく入れ替わっていた時代なので、単純な勢力図を描いて論じることは出来ません。
 ただ、『高砂をあるく』には、「この寺が南朝に味方したと歴史にありますので、西光寺の和尚がこの皇子の遺体を境内に入れ葬ったのではないかと考えられます」ともあります。
 福室周辺に結城姓が多いことと関係があるのか否かはわかりませんが、もしかしたら寛文年間あたりまでは、このエリアに南朝皇子の供養というアイデンティーが根付いていて、それによって西光寺中心の強固な団結力が維持されていたのかもしれません。
 仮にそうだとした場合、花淵家はどのような立ち位置で当地に土着していたのでしょう。
 いずれ、私としては、鼻節大神につながるような痕跡を、花淵家土着三百余年の福室の地に期待して探してみたのですが、残念ながら今のところこれといった情報にはめぐり会えておりません。

花淵源吉と北福室の鎮守

$
0
0
 今、私の手元に『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』があるのですが、大きく分けて「第一部 歴史・人物編」と「第二部 姓氏編」の二部構成になっております。
 先に私は、「花淵姓」について第二部の姓氏編で調べてみたわけですが、そこには留守氏の直臣ないし外様の家臣に花ふし何某が見えることと、花淵浜の領主であったこと、そして近世に水沢―岩手県―に移ったことが淡々と記されておりました。
 その時は気づかなかったのですが、あらためてよくみると、それとは別に、第一部の歴史・人物編に「花淵源吉」のことが記されておりました。高砂駅を誘致したあの旧高砂村の村長です。
 それによると、1866年が生年、1936年が没年で、明治二十六(1893)年に宮城郡高砂村の村会議員、同三十四(1901)年に村長になったようです。
 事績としては、村内中野の原野を開き、蒲生に養魚場を設け、中野蒲生耕地整理組合を設立、大正四年退任後も水利事業を推進した、とあり、時期は定かではありませんが、高砂郵便局長も務めたようです。
 とすると、高砂駅を誘致した大正十四年は、既に村長を退任して十年経過していたということになりますが、やはり村長の権力とは無関係に強烈なリーダーシップで地元を引っ張っていたことが容易に推察されます。西洋的近代的概念の村長にはなるべくしてなったといったところでしょうか、むしろ領主や守護・地頭といったほうがふさわしそうです。
 そんな花淵源吉は、『高砂をあるく』によれば「北福室」の出身であるとのことでした。
 北福室とは、旧福室村の内、冠川(かむりがわ)―七北田川(ななきたがわ)―の左岸、すなわち北側半分の地域です。先の正平親王之碑がある西光寺もそちらのエリアになります。花淵紀伊の本拠も北福室であったのでしょうか。
 ともあれ、もともと一つの村であった福室は、寛文年間以降、流路の変えられた冠川によってコミュニティーが南北に分断されました。
 川に阻まれ行政が不便となった福室村は、明和六(1769)年六月、北福室邑、南福室邑に分けられ、肝入りもそれぞれ別に立てられたのだといいます。
 となると、鎮守の神様についてはどうであったのでしょうか。
 木村孝文さん著『宮城野の散歩手帖(宝文堂)』には、北福室の鎮守が「深山神社」、南福室の鎮守が「住吉神社」、とあります。
 はたして川で分断される前の福室村の鎮守はどちらであったのでしょう。
 あるいは、どちらでもなく、その他の神社だったのでしょうか、いえ、普通に考えれば、川で物理的に分断されたからといって、元の鎮守が格下げされる謂れはないので、やはり深山神社か住吉神社のいずれかが村の鎮守であったとみるべきでしょう。
 念のため、『封内風土記』がとりあげている「福室邑」の神社をすべて挙げておきますと、記載順に、「住吉神社」、「稲荷社」、「深山権現社」、「熊野神社」の四社になります。
 しかし、住吉神社は「不詳何時勧請何神」、稲荷社は「同上」、深山権現社も「同上」、熊野神社もまた「同上」、と記されてあり、結局は四社とも風土記編纂時点では祭神も勧請年月も不詳であったということになります。
 これらの記載順に意味があるのかどうかはわかりませんが、ともあれ、その村の鎮守についてだけは最低限筆頭に記しておきたいのが人情(?)だと思います。私は、住吉神社こそが分断前の福室村の鎮守であったのだろう、と考えました。
 そして、それはどうやら妥当でありました。
 昭和五十一年発行の『宮城縣神社名鑑(宮城県神社庁)』の住吉神社の項には、創祀年月不詳ながらも「一村鎮守」と記されておりました。
 もちろん、昭和五十一年発行の名鑑でありますから、その「一村」が必ずしも流路変更前の「福室村」を指しているとは限りません。後に福室全域を包括した「高砂村」のことかもしれませんし、単に「南福室村」のことかもしれません。
 しかし、『宮城野の散歩手帖』巻末の一覧に「旧福室村鎮守 旧高砂村社」とありましたので、やはり「福室村」を指しているとみて問題ないでしょう。
 ちなみに、旧『仙臺市史』には「部落の鎮守」とありますが、これはおそらく「南福室の鎮守」、という意味なのでしょう。

イメージ 1


 問題は、肝心な「北福室の鎮守」たる深山神社です。
 神社名鑑も旧市史も共に「由緒不詳」としております。
 しかしこれは奇妙な話です。
 北福室の鎮守として古くから祀られてきた、というならば由緒が忘れられていても納得がいくのですが、そもそも北福室という概念は、冠川の流路が変えられたことによって寛文年間以降に新たに発生したものです。
 そこに新たな村の鎮守を祀るならば、それなりに村人も納得できる由緒が必要であったのはなかろうかと思うのです。
 それが不詳とあらば、一体、何をもって鎮守に定められたというのでしょうか。もともと小部落単位の氏神として古くから機能していたのでしょうか。あるいは、花淵家なり結城家なりの個人的な邸内社の類であったのでしょうか。
 念のため宮城県神社庁のホームページで「深山神社」を検索してみると、思いのほか詳しい事情が記されてありました。
 驚いたのは、鎮守としての歴史が極めて浅かったことです。
 何を隠そう、またしてもあの人物の名が現れました。深山神社を北福室の鎮守としてプロデュースしたのは、花淵源吉であったのです。

―引用―
福室地区の護り神として此の里に鎮座する深山神社の詳細は不明なれど、元深山講の記録台帳によると文政年間(1718~1732年)より既に講の会合が開かれていた事により、それ以前に神社は創建されていたと考えられる。当時、福室の大浪氏なる豪族が、宮城郡沢乙村の鈴木氏の氏神から分神を勧請して現在地に社殿を建立し、大浪家-三浦家-結城家-花渕(ママ)家の氏神として継承され、信仰を得て来たと思われる。大正8年の頃、時の高砂村村長花渕(ママ)源吉翁が、北福室地区に鎮守の神なきを憂い、北福室部落民に謀り、浄財の拠出によって境内地180余坪を、別当であり地主である花渕(ママ)松吉氏より譲り受ける。同時に石の鳥居も建設し、北福室地区の鎮守の神として現在に至る。現在の社殿は、平成9年に本殿と拝殿を改築したもので、本殿は荘厳・流麗にして日本建築の最も美しい姿を表現している「流れ造り」と言う社殿である。子宝、安産、家内安全の神として崇敬されている。
イメージ 2

イメージ 3


 利府の鈴木家から分神を勧請した深山神社は、大浪家から三浦家、続いて結城家、そして花淵家に継承された氏神であるとのこと―。
 大浪家、三浦家、結城家が、天正十八(1590)年以降の花淵家よりも早くに福室に土着していた、ということでしょう。
 利府の鈴木家は、その姓からみておそらく熊野信仰の一族でしょう。
 大浪家は、さしあたり藤原秀郷裔流信夫氏と思われます。ここでの深入りは避けておきますが、私見では、國分荘玉手崎の小萩伝説と密接な信夫荘司「佐藤基治」との因果を勘繰っております。すなわち、奥州藤原氏の時代来の所縁ではないでしょうか。
 三浦家は、おそらく三浦半島を根拠にした鎌倉武士の名門三浦氏系の一族でしょうし、結城家は言わずもがな、南朝の雄であったあの結城氏の一族であろうと考えております。
 この得も言われぬ面々がいかなる事情から福室の有力者として土着したのかは、今のところ特に検証しておりませんが、やはり、当地に供養された正平親王なる南朝皇子の伝説と関係するのではないでしょうか。
 もしかしたら、彼らはこの深山神社を崇敬するということにおいて、時代を超えて共通する面々なのでしょうか。

福室と洪水

$
0
0
 北福室における古い信仰を推察する上で、注目しておくべき伝説があります。
 木村孝文さんの『宮城野の散歩手帖(宝文堂)』によれば、「西光寺」の「正平親王之碑」には、碑面の苔を削り取って煎じて飲めば百日咳に効くという「いい伝え」があるのだそうです。
 度々触れておりますが、同様の信仰は、特に仙臺藩領内に点在する「モクリコクリの碑―蒙古・高句麗の碑―」によく見受けられ、多分にニワタリ信仰と密接なフシがありました。
 もしかしたら、この付近にも「ニワタリ信仰」の痕跡があるのでしょうか。
 実はあるのです。
 正平親王之碑のある北福室の西光寺からみて、ほぼ真西、「七北田川(ななきたがわ)―冠川(かむりがわ)―」の対岸宮城野大橋の袂(たもと)に、「二木(にき・ふたき)神社」が鎮座しております。
 『宮城懸神社名鑑(宮城県神社庁)』によると、この神社には、境内社として「見渡(みわたり)神社」が存在するようなのです。

イメージ 1
二木神社付近から七北田川対岸の福室の朝焼けを望む

イメージ 2
二木神社
イメージ 3


 「ミワタリ」は、「ニワタリ」と同義とされる呼称の一つであり、『封内風土記』の「田子邑」の項には「二本木明神社」に続いて「二渡明神社」とあります。
 ちなみに他の呼称としては「ミアタリ」、「ニワタシ」、「ミワタシ」、「ニワトリ」、更に尊称の「オ」が付されたのでしょう「オニワタリ」や「オミワタリ」などが見受けられます。  
 紛らわしいことに、それらの訓には往々にして「鶏」やら「荷渡し」やら「鬼渡り」やら「三輪」やら「御神渡り」やらと、地域によって各々それらしい漢字があてはめられているものですから、その漢字表記に影響されたとしか思えない副次的な由緒や解釈が多く、いたずらに混乱させられます。
 しかし、はっきり言えば正体は不明です。
 管見の範囲では、その分布は岩手県南部から宮城県及び福島県の全域、すなわちほぼ陸奥国に限られており、少なくとも、日本地名研究会の三文字孝司さんの地道な調査によって得られた旧仙臺藩領域における統計から、私は「ニワタリ」という表現を代表的なものと捉えております。
 さて、かつて多湖明神社と呼ばれた二木神社は、福室の隣村「田子(たご)邑」の鎮守です。
 この「田子」の村名は、往古海邊で「多湖」の浦であったことに由来するようですが―『風土記御用書出(≒安永風土記)』―、海辺であったかどうかはともかく、古くは村域全体がほぼ湿地帯なり湖沼であったことは間違いないでしょう
 福室邑と田子邑は七北田川によって隔てられた対岸同士であり、全く別個のコミュニティーが成立しているものとして区別したくなりますが、そもそも対岸という物理的な概念は、江戸時代前半に七北田川―冠川―の流路が変えられてから生じたものにすぎません。
 往古の北福室は、冠川と多湖浦に囲まれた自然堤防上の部落であって、二木神社の前身たる多湖明神社にしても見渡神社にしても、その水際に祀られた水神であったのではないかと考えるのです。
 ちなみに田子邑のさらに西は「小鶴(こづる)邑」ですが、『封内風土記』によれば、こちらにも「小鶴池」という大湖があったと伝えられております。
 現在でこそいっぱしの市街風景となりつつありますが、ほんの一昔前までは広大に広がる田園風景でありました。
 前にも触れましたが、以前、小鶴に生まれ育った昭和ヒトケタ生まれの御婦人との会話の中で、彼女が子供の頃、津波に備えた丘陵地への避難訓練をさせられていたという話を聞かされたことがあります。
 東日本大震災の大津波など予想もしなかった頃の会話であり、このような内陸でも津波の避難訓練をしていたのか、という驚きと、多賀城を壊滅させた貞観の大津波の記憶は昭和になってもまだ生きていたのか、という驚きが掛け合わされて、妙に心を揺さぶられた覚えがあります。
 今思えば、それはどちらかといえば慶長の大津波の記憶であるのかもしれませんが、いずれ、流路が変えられる前の冠川を遡った海嘯は、田子にあふれ、小鶴池にも到達したのでしょう。
 もしかしたら、田子が海辺であったという伝説は、大津波によってもたらされた潮の臭いの記憶が混濁しているのかもしれません。
 実際、東日本大震災の大津波の後も、あちらこちらの低地に引き際を忘れた海水がしばらく残っておりました。
 いずれ、津波が来ずとも、大雨さえ降ればすぐに水浸しになりがちな田子・福室界隈は、古来水神に祈る思いが強かったことでしょう。
 木村孝文さんの『宮城野の散歩手帖(宝文堂)』によれば、南福室の鎮守「住吉神社」の隣にある「松堂観音堂」は、元々「北福室字松堂」にあったものが、洪水に流されて当地―平柳―に漂着した、と伝わっているようです。
 「北福室字松堂」は正平親王之碑がある西光寺あたりの古い地名でありますが、住吉神社までの距離は直線でも3キロメートルほどあります。その距離を流れてきたとあらば、かなり激しい大洪水であったことが窺われます。
 この記述に目を通したとき、これも津波の仕業か、と思ったのですが、『高砂をあるく』によると、「古くからこの辺(松堂)に立派な観世音菩薩の堂宇がありましたが、明治初年の洪水で流失」したそうなので、津波ではなく大雨による冠川の氾濫の仕業のようです。
 また、鶴巻の熊野神社も、「以前は現高砂支所南東にあったものが、洪水で流れ着いて今この地にある」、という説があるようです―『高砂をあるく』―。
 もしかしたら、松堂観音堂については、なんらかの事情で北福室から南福室の住吉神社境内に移されることになったことへの正当化の詭弁の可能性も無きにしも非ずという気もしておりますが、いずれ、福室周辺が常に冠川の水神のご機嫌を窺わずにはいられなかった地域ではあったことは間違いないでしょう。

イメージ 4
松堂観音堂

 あくまで推測ですが、水神たるニワタリ神こそが北福室の産土神であって、「正平親王之碑」がある「西光寺」は、その鎮座地に開かれた寺であったのではないのでしょうか。
 その推測が正しければ、村人は西光寺にもニワタリ神の面影を見ていたわけで、百日咳への霊験はその名残と言えるでしょう。
 一方で、北福室の鎮守に設定された由緒不詳の「深山神社」は、おそらく西光寺の守護神として勧請されたのだろうと思うのですが、それが何故深山神社なのかへの解釈が今のところ思い浮かびません。
 深山神社とニワタリ信仰に、なにか直接的な接点はないものか――。
 それがあるならば、私の仮説にも一応の道筋が見えるのかもしれません。
 ニワタリ信仰は、その分布域や集中エリアの傾向からみて陸奥大国造たる「道嶋一族」の祖系「丸子(まるこ・まりこ・わにこ)氏」の信仰であろう、というのが私の見立てであるわけですが、この系譜は、生物的血統はともかく、少なくとも意識としてはワニ系氏族であったと思われます。
 ここに、花淵源吉や鼻節神社とのせめてもの接点を見出せるのではなかろうか、というのが私の期待です。
 いろいろ頭を働かせてはみましたが、結局、期待ありきの推測の上塗りでしかないことは、他でもない私自身が認識するところです。いずれ、後の研究課題にしておくとします。

霧の阿川沼―宮城郡七ヶ浜町―

$
0
0
 久しぶりに訪れた七ヶ浜(しちがはま)は霧に包まれておりました。

イメージ 1

津波で仲間を失った松林も霧にむせび泣いているかのようです。

イメージ 2


 七ヶ浜町の菖蒲田浜(しょうぶたはま)地区に、「コータコート汐見台南」という美しい新興住宅街があります。
 もう20年近くも前になるでしょうか、そこにマイホームを手に入れた某氏が、御子息とよく釣りに出かけるようになったと優しい笑顔で話していたことを思い出しました。
 てっきり海釣りかと思いきや、獲物はフナであるとのこと――。
 なにやら私の表情に「?」マークが点灯していたようで、氏はすぐさま近くに沼があることを補足してきました。
 なるほど、ほとんど気にも留めておりませんでしたが、地図にはたしかに「阿川沼」なる大きな沼がありました。

 その阿川沼こそが、今回の私の目的地です。

 この沼には大蛇の伝説があるのです。
 はたして、花淵家との関係はいかなるものか――。

 阿川沼について、『七ヶ浜町誌』には「鮒・鯉・スズキ・鰻を産し、付近二十余町歩の灌漑用水となっている」とありました。
 スズキや鰻(うなぎ)ということは、幾ばくか海水の出入りもある、いわゆる「汽水湖」の類にあたるのでしょうか。
 そのあたり、町誌は、「有史以前の火口湖か海跡湖かと思われる。この沼に褐色球状の植物が繁殖しているが生態は不明である」と記し、また、「近年機関排水の設備を施し、海水の出入を阻止したので鹹水性の魚族は減っているかもしれない」ともありました。
 尚、現地の案内板には「昔は菖蒲田浜への入り江でしたが、昭和33年に土砂を堆積して浜へ流れ出る水路がふさがれてしまい、ため池となりました」とありました。
 なるほど、某氏親子がフナ釣りに興じていたわけです。

イメージ 3


 しかし、七ヶ浜町産業課水産商工係が2013年に発行した『七ヶ浜町観光ガイドブック』には、「東日本大震災以前は20種類以上のとんぼ、さらに蛍の生息も確認されていました」と記されておりました。
 そこはかとなく哀愁漂う過去形です。
 どうやらこの沼も大津波に飲まれ、しばらく海水が残ってしまい、淡水の生態系は一旦破壊されてしまったのでしょう。

イメージ 4

現地で見かけた「機関排水の設備」らしきものは、津波に破壊されたままでありました。

 いずれにせよ、町誌の推測どおりこの沼が“有史以前”に形成された“天然”の沼であるならば、私の懸念の大きなひとつは払しょくされたことになります。
 すなわち、大蛇の伝説が花淵家の出自を窺い知るよすがに成り得るか否かを見極めるうえで、沼自体の形成時期は重要な鍵です。
 仮にこの沼が伊達藩時代以降に開拓されて初めて出現したものであったならば、大蛇の伝説も花淵家が他の場所に移った後にしか生まれ得ないものであり、私の中での価値は割り引かれます。

 それにしても霧が濃い――。

イメージ 5


 今回七ヶ浜を訪れた目的は、他でもないこの阿川沼の視察であったわけですが、湖面や全体の風景が見えません。
 結局私は、あらためて晴天の日に出直すことにしました。

姉妹の沼神

$
0
0
 『七ヶ浜町観光ガイドブック(七ヶ浜町産業課水産商工係)』に、次のような民話伝説が紹介されておりました。

――引用――
沼神の手紙
昔、菖蒲田浜では、「阿川沼の主は大蛇だ」と伝えられていました。あるとき、村の男がお伊勢参りの帰りに、奈良の猿沢の池のほとりにさしかかったら、美女が現れ、「どこまで帰るのっしゃ」と尋ねたので、男は「菖蒲田浜の阿川沼の近くさ帰んでがす」と言いました。すると女は「あの阿川沼には私の妹が居んでがす、橋のたもとで手ばたけ三回すっと、妹が出て来っからこの手紙ば渡してけさえん」と言って男に手紙を託しました。男は大事に懐にしまい、村に帰りました。そして家の人にお伊勢参りの土産話をしているとき、つい美女から手紙を預かったことを話してしまいました。不思議に思った家の人たちは、男が寝てからこっそり手紙をみると、そこには「この男、少しのんびりしてるので捕って食ってしまえ」と書いてありました。家の人達は驚き、「他人に用事を頼んでおぎながらとんでもねえごった」と言い、「この男、根っからの正直者だから、一番良い褒美を与えよ」と手紙を書き改めました。そうとは知らない男は、翌朝阿川沼へ行き教わった通り手ばたけすると、沼から美女が現れました。頼まれた手紙を渡すと、それを見た美女は「ちょっと待ってけさえん」と言い沼へ戻りました。しばらくすると、たくさんの宝を持って再び現れ男に与えました。おかげで男は村一番の大金持ちになったといいます。

 この民話に、私は大変興味を覚えました。
 最も注目しているのは、手紙を渡す姉が「猿沢の池」の畔に現れていることです。
 猿沢の池は、奈良の興福寺の隣にある池のことでしょう。
 したがって、お伊勢参りの帰路に立ち寄ったというのは不自然と言わざるを得ません。
 あえて立ち寄ったか、あるいはあえてその名称が差し挟まれたかのいずれかでしょう。
 すなわち、主人公、あるいは民話を創作した者のなんらかの意図がそこにあったと考える他はありません。

イメージ 1
「どこまで帰るのっしゃ」、「妹が居んでがす」、「渡してけさえん」・・・。
奈良でありながら、仙台出身のようです・・・。

イメージ 2
阿川沼へは晴天時に再訪しました。

イメージ 3

 
 この民話に花淵紀伊ないし花淵善兵衛は登場しませんが、阿川沼のある菖蒲田(しょうぶた)浜は旧花淵浜に隣接し、村の男が、蛇―美女―から恩返しの品を受け取り大金持ちになった、という大筋でみるならば、花淵紀伊や花淵善兵衛にまつわる蛇の恩返し伝説を思わせます。
 蛇の伝説というと、たいていは三輪山のそれの類型であったり、八岐大蛇(やまたのおろち)の神話の類型であったりすることが多いと感じているわけですが、それらとは毛色が異なるようです。
 ここで私が考えている類型とは、三輪系は蛇が人間の娘に恋をしたり、正体がばれて恨みに思ったり、娘のホトに突き刺さる云々といったエッセンスが散りばめられている類のもの、八岐大蛇系は、村の娘を要求する大蛇が英雄によって成敗される類のもの、という仕分けです。
 しかし花淵家にかかわる蛇の伝説は、どちらにもあてはめきれない感があります。
 決定的な違いは、蛇の性別です。
 三輪系や八岐大蛇系の蛇が女性を求める男性の人格であるのに対し、花淵氏に恩返しする蛇は女性の姿で現れます。
 阿川沼の大蛇は今みたとおり、猿沢池の姉同様、美女の姿で顕現しております。

 おそらく、この民話のモデルは謡曲「采女(うねめ)」でしょう。

 謡曲「采女」のあらすじは、春日明神を参詣した旅僧の前に、帝の寵愛を受けていながらも、やがてその心変わりに涙を飲んで猿沢の池に身を投じた采女の幽霊が現れる、といったものでした。
 かつて私は、この采女について、記紀最多の皇妃輩出氏族であるワニ臣系譜の女がモデルであろう、と推測しておきました――拙記事『ワニの女』:参照――。
 この采女への哀悼歌、「我妹子が 寝くたれ髪を 猿沢の 池の玉藻と 見るぞかなしき (あのいとしい乙女のみだれ髪を猿沢の池の藻と見るのは悲しいことだ)――謡曲史跡保存会説明板より――」を詠んだ「柿本人麻呂」も、ワニ臣系譜の人物であります。
 菖蒲田浜の西、湊浜には「采女」の悲劇と「蛇」を結び付けるような「お菊沼」伝説もあります。
 「お菊沼」は、湊浜の西端、仙台市との境付近にあるらしいのですが、『七ヶ浜町誌』によれば、「沼というよりも池というべきか。低湿地の窪地に水の溜まった程度の沼である。昔は深さも広さもあったのであろう」とのことです。
 その沼に、恋に悩んだお菊という若い女が身を投じ、蛇体になったと伝えられているそうです。
 おそらく、これらの民話伝説はワニ系の人たちが発祥させたのでしょう。
 既に、花淵浜の「鼻節神社」はワニ系の人たちに奉斎されたものだろう、と推測しておきました。
 エリアからみて、彼らは同一でしょう。

 ここで、阿川沼の畔に鎮座する「諏訪神社」についても触れておかなくてはなりません。

阿川沼の畔のお諏訪さま

$
0
0
 阿川沼の畔に鎮座する「諏訪神社」―。
 この神社が阿川沼と密接であろうことは察するに難くありませんが、とりあえず『宮城懸神社名鑑(宮城県神社庁)』を引くと、「創祀年月不詳。古く菖蒲田浜の村鎮守として尊崇されてきた~」とのことで、祭神は「建御名方神」と至極妥当なところでありました。
 『七ヶ浜町誌』にも祭神は「建御名方富命(たけみなかたとみのみこと。大国主命の第二子)」とあり、次のような説明が記されてありました。

―引用―
 阿川沼にのぞむ丘の上で、老松古杉生い茂り、神気襟に迫るものがあったが、惜しむらくは最近樹木は伐採された。
 古い昔は狩猟神として、武家時代には武神として信仰されている。祭日には神輿渡御・相撲の奉納を例とし、以前は近郷近在から力自慢の若者が集まり、飛び入り相撲もあって大いに賑わったが、今日ではその事もなく、奉納相撲さえ中止することがあるようである。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5


 町誌は昭和四十二年の発行でありますが、その時点で既に「神気襟に迫る樹木」が伐採されていたとのことで、残念な気がしております。

イメージ 6

イメージ 7

 それでも、半世紀の時がそれなりの神々しさを取り戻しているようにも見えました。

イメージ 8


 「古い昔は狩猟神として~」という部分からすると、本来は蝦夷の神であったのか、などと思わされますが、相撲については国譲りの際の建御名方富命に因むのか、あるいは同じ出雲系の野見宿禰(のみのすくね)に由来するものなのか、いずれ信州の諏訪大社などでもみられる特徴なので、素直に諏訪神が祀られているものと信じてもよさそうです。
 しかし、古くは創祀年月どころか、祭神も詳らかではなかったようです。
 『封内風土記』の記すところは相変わらずの「不詳何時勧請」であり、それを受けてのことでしょう、かつての『七ヶ浜村誌』所載の『宮城郡塩釜村支村菖蒲田浜村誌』にも、「祭神詳らかならず」とあります。
 もちろん、社名が「諏訪神社」なのだから、祭神が「建御名方富(たけみなかたとみ)命」ということになんら疑問を挟む余地もないのかもしれません。
 しかし、同じ宮城郡の西方、「愛子(あやし)―現:仙台市青葉区上愛子―」に鎮座する國分荘三十三ヶ村総鎮守の「諏訪神社」の例を鑑みると、もう一段深読みしておいてもよさそうな気もしてくるのです。
 愛子の諏訪神社は、現在でこそ「建御名方命」を祭神に掲げておりますが―宮城県神社庁HP―、昭和三年発行の『宮城郡誌』においては「白幡大神(中宮)黒鳩大神(左宮)禰度大神(右宮)住吉大神」の四柱が祭神であり、いわゆる「諏訪神」たる「タケミナカタトミ」や「ヤサカトメ」の名がありませんでした。
 これは何を意味するのか―。
 宮城県神社庁のホームページによれば、元々、延暦年中に氏子一統山神として崇め奉られたものが、「源頼朝」の奥州征伐戦勝祈願の報賽の為に「伊沢四郎家景―留守家の祖―」によって社殿を建立され、その際に諏訪社と改称されたとのことです。
 ということは、元々祀られた神々にいわゆる諏訪神が含まれていなかったことも考えられますから、祭神にタケミナカタトミやヤサカトメの名が見えなくてもある意味当然といえば当然なのかもしれません。
 しかし、諏訪社と改称されてから700年あまりも経た昭和三年に至って、尚、諏訪神が祭神とされていない、というのはやや異質な感じもします。
 それに対する私なりの回答は以前触れました。
 おそらく愛子の諏訪神社は、本来「志波(しわ)神社」であったのではないのでしょうか。
 何故なら、志波神こそが往古より陸奥國分荘の産土神であっただろうと考えられるからです。
 仙臺藩祖「伊達政宗」は、木ノ下―仙台市若林区―の陸奥國分寺境内にある「白山神社」を仙台の総産土神と定めたわけですが、この白山神社は、陸奥國分寺の創建以前から勧請されていたと伝えられており、何を隠そう、往昔は志波彦神社であったとも言われているのです。
 そういった事情を鑑み、愛子の諏訪神社も志波神社であったのではなかろうか、と思い至ったわけです。
 特に、右宮の「禰度大神」は、「ねわたり」と訓むのか「みわたり」と訓むのか、いずれ「ニワタリ大神」のことと思われます。
 國分氏の氏神と伝わる「仁和多利(にわたり)大権現」が変質した「二柱神社―仙台市泉区―」には、かつて境内社として「志波彦神の冠伝説」の「石留神社」が祀られておりました。
 また、本来は志波彦神社であったと言われる木ノ下白山神社は、國分氏の氏神と言われておりました。
 「國分氏の氏神」というキーワードを通して、志波彦神とニワタリ神は重なり合います。
 ある方は、「そもそも志波神社自体が、諏訪神社の訛ったものではなかろうか」、と言っておりましたが、東北人の私の感覚として、「し」が「す」に訛ることはあっても、「す」が「し」に訛るというのはなじめません。
 仮に、今後結局は志波神と諏訪神が同じ神を指すという結論に達したとしても、諏訪が訛って志波になったとする理屈とは別問題です。
 むしろ、特に宮城県内の「諏訪神社」については、ひとまず「志波神社」が訛って「諏訪神社」に変質した可能性こそを疑ってもいいのでは、というのが私の考えです。
 極論を言わせてもらうなら、私は古代の陸奥国になんらかの形でインドの「シヴァ神」が入りこみ、それが当地の産土神と習合し、「志波(しば)神」と当て字され崇敬されてきたのではなかろうかと勘繰っております。
 以前に語った記憶もありますが、一部のニワタリ神の由来の中に、“古代天竺(てんじく)云々”といったものが見受けられたことからの着想です。
 その勘繰りが妥当であった場合、仮に当地の元々の産土神が諏訪神であったのだとしても、志波の名の由来はあくまで「シヴァ」であり、「諏訪(すわ)」ではないと思うのです。
 もしかしたら、そもそも出雲の竜蛇信仰自体にシヴァ神が習合していた可能性もありますが、話が広がりすぎるのでやめておきます。
 何はともあれ、いずれの神も「蛇」と密接です。
 そして、いみじくも、阿川沼の主は大蛇でありました。

 ひとつ重要なことに触れておきます。

 阿川沼の畔の諏訪神社は、花淵氏が義理堅き報恩の大蛇を祀ったところとも伝えられているようです。

 花淵氏と鼻節神社を考えるうえで、かなり重視すべき伝説と私は思います。

「志波」の語源

$
0
0
 「志波(しわ)」の語源について、少し話を引き摺らせていただきます。

1、「物のシワ―端―」説
 「志波彦神社・鹽竈神社」のホームページは、「志波彦大神」が如何なる神であるかは詳らかではないとし、志波とは「物のシワ」つまり端を指す言葉、と解説しております。

2、「塩」説
 享保四(1719)年に完成をみた佐久間洞厳の『奥羽観迹聞老志』は、「志波彦神」が社家や里俗に「岐神」と伝えられているとし、すなわちそれは「鹽竈神」でもあることを踏まえ、その流れで「志波志保訓相通」と記しております。
 つまり、「志波(しわ)」は「塩」を指すというのです。

 この説に関して、元禄八(1695)年亥六月付で、神主の加藤氏および別当の光学院、社家の永野幸太夫、阿部連治、千葉勇、遠藤忠八らの署名がある志波彦神社『社傳』の「別傳」にも同様の記述がありました。
 これを洞厳が採用したのだろうか、とも思ったのですが、よくみるとこの「別傳」には「封内名蹟志~」という記述がありましたので、その考えは捨てました。
 何故なら、『封内名蹟志』は『奥羽観迹聞老志』の訂正版的性格を担って佐藤信要の手によって寛保元(1741)年に成立したとされているものだからです。
 したがって志波彦神社『社傳』の「別傳」は、「元禄八年亥六月」と付されているとはいえ、後世になんらかの手が加えられたものと考えるしかありません。

 ところで、この『社傳』に「社傳云、本社延喜式内ニテ、最初孝昭天皇御代勧請云々」という記述があって、孝昭天皇の御代に勧請、という部分を今回初めて意識しました。
 何を隠そう「孝昭天皇」はワニ臣の祖とされる天皇です。

イメージ 1


※「饒速日」説
 ちなみに、『封内名蹟志』の「志波彦神社」の項には、「風土記曰。志津彦神社圭田六十八束三字田所祭饒速日也。天智天皇三年。始て奉圭田を行神禮を。但し作志津彦と、津は波の草字を誤れるか」とあります。
 聞老志にもある「志津彦神社」を「志波彦神社」のこととして展開しており、この記述によって「志波彦神」を「饒速日神」とする伝説があることも知ります。

イメージ 2

イメージ 3


3、「島」説
 一方、正徳四(1714)年に没した度會延経の『神名帳考證』は、「志波」を「伊弉諾(いざなぎ)尊」が生んだ「大八州(おおやしま)國」の「島(しま)」に通じるものとし、「志波彦神社」の神は「大八州(おおやしま)の“靈”―生島(いくしま)―」であり、「活津彦根命」であり、「松島明神」であり、「柴明神」であるとしております。
 度會延経は、越前國―現:福井県―の「柴神社」も同じ神であると見ております。
 「柴(しば)神社」の表記から連想させられるのは「紫(むらさき)神社」です。
 『奥羽観迹聞老志』や『封内名蹟志』には、「松島明神」が郷人に「紫(むらさき)明神」と呼ばれていた旨が記されており、現在も松島町高城に「紫(むらさき)神社」として祀られております。「紫(むらさき)」と「柴(しば)」の文字が酷似していることは偶然なのでしょうか。

4、「柴」説
 時代が下って、幕末、明和四十(1907)年に成立をみた吉田東吾の『大日本地名辞書』などは、志波彦神社にみられる岐神、道祖神的な性格から、「にはなかの阿須波の神に小柴さし~」といった『萬葉集』の上總國の防人の歌を引用し、小柴をさして道の往来を祝うことに因むものとし、すなわち、これも「柴」を語源としております。

 「島(しま)」が訛って「しば」なのか、「柴(しば)」そのものが語源なのか、あるいは私の勘繰りどおり「シヴァ神」に由来するのか、その議論は置くにしても、たしかに、「志波」の訓みは「しば」が本来ではなかったか、と思わされる例は少なからず見受けられます。
 「大崎氏」や「最上氏」の祖である奥州管領「斯波(しば)氏」の名もその一例と言えるかもしれません。
 鎌倉時代、「斯波(しば)氏」の始祖である「足利家氏」は、足利本宗家から分かれ、「斯波郡」を所領としたわけですが、その末裔は、室町時代以降、所領の地名「斯波」を苗字として名乗り始めました。
斯波郡は、現在の岩手県紫波(しわ)郡から盛岡市の一部に相当しますが、その地名は「志波城」に関係するものとされております。
 志波城は、「多賀城」の後継を担うべく築かれた陸奥国最大の城柵です。
 「大墓公(たものきみ)―阿弖流為(あてるい)―」を投降させた征夷大将軍「坂上田村麻呂」が造営したとされております。
 その名称が、北に追いやられた蝦夷が奉斎していたであろう志波神に因んでいることは疑う余地もないでしょう。
 斯波氏は蝦夷の裔ではありませんが、苗字の「斯波」の元を辿れば「志波」です。
 現在に生きる斯波家の末裔の方々も自らの苗字を「しば」と訓じており、それ自体、志波が古来「しば」と訓まれ続けてきた生きた証拠であると考えます。
 それと類似する例ながら、東宮浜―七ヶ浜町―の「柴(しば)家」の存在はより直接的な証拠と言えるでしょう。
 この柴家が先の斯波家と同系譜であるか否かはわかりませんが、『七ヶ浜町誌』によれば鹽竈神社の社家を勤めたこともある家柄であったといい、何より、志波彦神を氏神としているのです。
 しかも、本来は志波姓とすべきものを、神号と姓を同じくすることをはばかり、柴姓にしたと代々言いつがれております。
 東宮明神境内の「稲殿ノ崎」にある柴家の氏神「柴根明神―町誌のママ―」の祭神は志波彦神であるのだそうです。

 やはり、「志波」は本来「しば」と訓まれていたのではないのでしょうか。

※ 柴家の氏神「“柴”根明神」は、町誌の他の項、及び神社名鑑の情報からみて「“紫”根明神」、すなわち「柴(しば)」ではなく「紫(むらさき)」の誤植と思われます。重要な部分と考えているので、くどく補足を入れておきます。

東宮浜の「紫(むらさき)石」

$
0
0
イメージ 1
東宮浜の港

 明治のいつ頃か、「花淵家」は「福室―仙台市宮城野区―」から「東宮浜―宮城郡七ヶ浜町―」に遷りました。何故父祖伝来の「花淵浜―同七ヶ浜町―」ではなく、「東宮浜」に遷ったのかはわかりません。
 当地には「鹽竈神社」の東方鎮護として、「鹽土老翁(しおつちのおじ)神」に従い功があったという「東塩根老翁」と「東塩根老女」の二柱が、「東宮明神―東宮神社―」という名で祀られております。
 はじめは「猿田彦大神」を祀っていたと里人に伝わっていたそうですが―『七ヶ浜町誌』―、もしかしたら、東宮神社境内に祀られている「紫根明神」がそうなのでしょうか。
 紫根明神は、東宮浜の旧家で最も古い「柴家」の氏神「志波彦神」であるわけですが、志波彦神も一説に猿田彦神と言われております。
 しかし、志波彦神を猿田彦神とするのはあくまでひとつの学説であるので、勇み足は慎まなくてはなりません。公的には、志波彦神社の祭神はあくまで「志波彦神」としか掲げられておりません。
 それであれば、むしろ花淵浜の「鼻節神社」こそが「猿田彦神」を祭神に掲げているわけですが、花淵家が東宮浜に遷ったことと何か関係があるのでしょうか。

イメージ 2
東宮神社

イメージ 3

イメージ 4


 いずれ、紫根明神を氏神とする「柴家」は、鹽竈神社の社家を勤めた家柄であったともいいます。先に触れたとおり、本来は「志波」姓を名乗るべきところ、神号と姓を同じくすることをはばかり、「柴」姓にしたと代々言い継がれてきたようです。
 「紫根明神」の「紫(むらさき)」も、本来「柴(しば)」であったのでしょうか。
 仮に「柴(しば)根明神」であったとしたならば、「根」は「ルーツ」、すなわち「祖先」の意でしょうから、“柴家の祖先の明神”となり、辻褄が合います。
 紫根明神と関係があるのかどうかはわかりませんが、東宮神社の北側の海中に「紫石」があり、『七ヶ浜町観光ガイドブック(七ヶ浜町産業課水産商工係)』には、次のような言い伝えが紹介されております。

―引用―
 東宮明神の北側、切り立った崖の裾(すそ)が海に沈んだあたりに、紫石という石があります。東宮浜の人達は、「紫石には魂が宿ってで、生ぎでんだ、毎年少しずつおがってんだ」といって大事にしていました。あるとき、この話を聞いた若者達が、盗み出そうとひそかに舟を出し、やっと引き揚げ舟に積んで逃げ出そうとしたら、舟がにわかに動かなくなってしまいました。押しても突いてもまるで根が生えたようにびくともせず、手の施(ほどこ)しようがなく困ってしまいました。石が少しずつ大きくなって重くなり、そのうえ血がにじみ出そうに赤くなっていたのでびっくりして、「すぐ元さ戻すから堪忍してけさえん」と何べんもお詫びをして、ようやく元に戻して振り向きもせずに逃げ帰ったといいます。
イメージ 5

イメージ 6


 おそらく同じ言い伝えでしょうが、『七ヶ浜町誌』には、「いつの頃か、誰かが船を雇い、この石を持ち去ろうとして船に積んだが、船は少しも進まなかった。それは、この石の精か或は明神の神力のためかと内心おそろしく思い、遂に海に捨ててしまった」とあります。
 これからすると、紫石に宿る魂はなんらかの明神の可能性もあり、この場所で明神といえば、東宮明神か紫根明神、いえ、ここは紫根明神と捉えておくのが自然でしょう。
 「海に捨ててしまった」とあることから、始めは東宮神社の境内にあった、あるいはそう考えられていたのではないでしょうか。
 もしかしたら、地震などの自然災害によって境内から崩落したものかもしれませんし、東宮明神を勧請する際に他所に遷座させようとしたものの、心理的にも物理的にも動かせなかったことが、こういった言い伝えになっているのかもしれません。
 何より、そもそも鹽竈神社からみた朝日の方向にこの紫石があったればこそ、この岬が神域になった可能性もあると思います。
 よく猿田彦神に関連して、おそらくは興魂(おきたま)―≒日の出―に通じるのであろう「赤石(あかいし)―明石―」の伝説を見受けられますが、この紫石も「血がにじみ出そうに赤く」なったと言い伝えにありました。
 さすれば、里人に「はじめ猿田彦大神を祀っていた」と伝わる東宮明神の本質は、紫根明神にこそあるのかもしれません。
Viewing all 165 articles
Browse latest View live