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桂島の馬場主殿(ばばとのも)

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 「東宮浜―宮城県宮城郡七ヶ浜町―」のそれほど大きいものではありませんが、同郡松島町高城の「紫(むらさき)神社」にも「紫(むらさき)石」があります。

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    紫神社の紫石

 現在「天御中主(あめのみなかぬし)神」を祀るとされるこの紫神社は、かつて「紫明神」あるいは「松島明神」と呼ばれておりました。
 「松島明神」と言えば、遠く九州は筑前大島に流された「安倍宗任(あべのむねとう)」が配流先の同地にて望郷の念をこめて祀っていた神でもあります。
 その事は、奥六郡の安倍氏が衣川を越えて勢力を南に拡張したことが「前九年の役」の原因であるとする定説を否定せざるを得ない理由の一つでありました。
 何故なら、松島明神は、その名のとおり衣川よりはるか南の松島の地主神であるからです。
 なにしろ、安倍宗任の出生地は「阿武隈川(あぶくまがわ)」河口の「鳥の海」であったと伝わり、また、奥六郡の酋長「安倍頼時(よりとき)―貞任(さだとう)・宗任の父―」の娘たちは宮城県南「亘理(わたり)郡」の「藤原経清(ふじわらのつねきよ)―奥州藤原氏初代清衡の父―」や、同「伊具(いぐ)郡」の「平永衡(たいらのながひら)」といった多賀城以南の豪族―あるいは官人―らと結ばれているのです。
 “衣川を越えた”どころの話ではありません。
 “遠の朝廷(とおのみかど)多賀城をも越えた”その先にある南の有力者と結ばれているわけですから、衣川を越えただけで制裁措置に動くほどの危機管理体制が陸奥國府にあったというならば、この多賀城挟撃の恐れがある忌々しき婚姻などは全力で阻止したはずです。それが特に咎められることもなく平穏に成立したということは、前九年の役の直前までは陸奥安倍氏の勢力がごく当たり前に多賀城以南にまで及んでいたと考えるしかありません。
 何はともあれ、安倍宗任が配流先の筑前大島で祀っていたのは、奥州松島の地主神、「松島明神」でありました。
 『奥羽観迹聞老志』で「松島明神」をひくと、「在高城驛西樹林郷黨曰之紫明神」、すなわち高城の紫明神がそれであると記されているわけですが、一方で、「或曰松島明神以在桂華島~」、すなわち、松島明神は「桂華島(かつらしま)―桂島―」にあるとも言われていたようです。
 そこで、「桂華島」の項にも目を向けてみると、「曰桂島明神或曰是乃松島明神也」、すなわち、「桂島明神」が松島明神であるとも言われていたようです。

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 「桂島(かつらしま)」は、仙臺藩祖「伊達政宗」の時代、「伊賀重吉」とその母「楚乃」が一時隠棲していた場所でありました。
 伊賀重吉は、國分家に養子として入った政宗の叔父「國分彦九郎盛重」と、「国分院主坊黨天峰法印」の女「楚乃」との間に生まれた子でありますが、父盛重が「伊達政宗」の逆鱗に触れ、常陸―茨城県―の「佐竹義宣」の下に逃れた際、母と共に一族の「馬場主殿(とのも)」を頼って桂島に隠棲したとされております。
 その後、母子は桂島を離れ、母の実家である陸奥國分寺の「院主坊」に移り、身を隠しておりました。
 近世の陸奥國分寺では、學頭・別當・院主の三者が交代で住職を務めており、院主坊はその一者にあたります。

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かつて陸奥國分寺薬師堂寺務所に掲示されていたポスターより

 院主坊は陸奥國分寺南大門―木ノ下薬師堂仁王門―門前東寄りにあって、貞観年中に慈覚大師によって中興されたとも伝わっているわけですが、かつて、そのすぐ南西には「椌木(ごうらき)」と呼ばれた大木がありました。
 つまり椌木なる大木の位置は、陸奥國分寺南大門―薬師堂仁王門―の真正面にあたり、その一事だけでもこれがただならぬ神木であったことを知らされます。
 大木の傍には祠があり「椌木明神」なる神が祀られていたといいますが、なにやらその神は松島高城から勧請された「邑境(むらさき)明神―紫明神―」であったようなのです。

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前述ポスターより


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 東宮浜の旧家たる「柴(しば)家」の氏神は「紫根明神」であったわけですが、それは「志波彦神」でもありました。
 紫(むらさき)と柴(しば)がどう関連するのか、単に漢字表記が似ているだけなのか、柴(しば)と志波(しば・しわ)はどう関連するのか、単に訓が共通するだけなのか、いずれ、陸奥國分寺境内の「白山神社」が、古く「志波彦神社」であったことを鑑みるならば、松島明神と志波彦神社、及び國分氏の間になんらかの濃厚なつながりがあったと推察するに難くありません。
 伊賀重吉とその母の隠棲については、既に幾度か触れてきたところでありますが、今振り返ってみてあらためて思うに、母子を匿っていた桂島の縁戚「馬場主殿」とは如何なる人物であったのでしょうか。
 院主坊と學頭坊の間に「馬場本坊」があったとされておりますが、これと何か関係があるのか、何故「主殿(とのも)」を称していて、桂島に居住していたのか、よくよく考えてみると、実に興味深い存在であります。
 念のため、『広辞苑(岩波書店)』で「主殿」の意味を引くと、次のように解説されてあります。

――引用――
【主殿】(古くは「とのもり」)
ー臈体(とのもりょう)の下司(げす)
宮中の雑役をつとめ、また、蔵人(くろうど)の拝賀に湯漬けを賜る時、給仕をつとめた女官。赤い袴をはいた。

 天皇の湯浴みなどにも携わる職掌のようですから、女官であったとするならば、どこか、ワニ臣ら古代における神と天皇の間を取り持つ中ツ臣氏族の“水の女”のようなイメージも漂います。
 もちろん、松島湾の小島に住むこの馬場主殿個人が、宮中の雑事を務める職掌にあったとは思えませんが、その名を称していたということは、少なからず関連する家柄の裔孫であった可能性はあると思います。
 なにより、この「主殿寮(しゅでんりょう・とのもりのつかさ)」が、「掃部寮(かもんりょう・かにもりのつかさ)」と被る職掌であることが気になります。
 何故なら、陸奥國分荘の古代の先住権力者に“掃部”の気配があるからです。
 どうにも、私の嗅覚が反応します。
 「馬場主殿」の名でいろいろ調べてみると、なにやら佐賀県嬉野市の塩田川流域に展開する「丹生(たんじょう)神社」の総本社―嬉野市塩田町大字馬場下甲―の神主家も同名「馬場主殿」を名乗っていたことを知りました。
 もちろん「馬場」地名は全国に数多あるので、単に「馬場」という苗字が共通しているだけならさほど心に響かないのですが、「主殿」まで共通しているとなると話は別です。
 この丹生神社は、和同二(709)年、元明天皇の御代に紀伊国高野丹生山から遷座したものとのことですから、世界遺産となった「丹生津比賣(にうつひめ)神社」の「丹生(にう)明神」とも関係すると考えておくのが自然でしょう。
 高野山から紀ノ川を下り、和歌山市内の旧河道の河口「和歌浦」には、その丹生明神を祀る「玉津島神社」があります。
 そして、神代来のその神社の祓い所が、大正時代以降ながら「鹽竈神社」を称しております。
 何を隠そう、6年前の拙ブログ第一号の記事でその鹽竈神社をとりあげておいたわけですが、それは、その鹽竈神社に「鹽土老翁(しおつちのおじ)神」が奥州の鹽竈で果てたとする「はてノ鹽竈」伝説があったが故でありました。
 その伝説が鹽竈神社の謎の本質をついているものと睨み、私はブログタイトルに採用したのでありました。
 いみじくも、佐賀県嬉野市の丹生神社は、その名に“塩”を含む「塩田川」流域に展開する神社であるようです。
 また、前に「蟹守(かもん・かにもり)」について論じていた際、蟹守とカブト、そして赤土、ひいては丹生になんらかの因果関係を窺える旨を提起しておきましたが、この丹生神社の所在地は「塩田町馬場下“甲(こう)”」であり、“甲(かぶと)”を想起させられます。
 ここでの深入りは避けておきますが、このあたりのキーワード相互の因果には私が女系氏族と推察する陸奥國分氏の出自、ひいては陸奥國分荘における中世以前の先住権力者の素性につながる何かが潜んでいるのではないか、と見ております。

平成二十六年最後の鹽竈様への御挨拶

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 おそらく今年最後になるであろう鹽竈様への御挨拶に行って参りました。
 しかし、駐車場に入るなり、ふと違和感を覚えました。

 何かが違う・・・。

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 わかりました。
 駐車場の片隅にあった売店のテントがないのです。

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あの売店の主のような猫は何処へ・・・。

 
 それにしても、ここ最近、鹽竈様へのお参りは曇天の日が多かったのですが、久しぶりに抜けるような青空に恵まれました。その分寒さも厳しいものがありました。凍りついた池を見るのもだいぶ久しぶりのような気がします。

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 しかしこの鼻にツンとくるような冷気がまた良いのです。私は、粛々とした神社仏閣で味わう冷気を必ずしも嫌いではありません。
 何を隠そう、毎年大晦日、NHKの『ゆく年くる年』の寒々しい映像と独特の暗いナレーションに耳を傾けなければ歳を越した気分になれない私でございます。それを視る為だけに受信料を支払っているといっても過言ではありません。
 ・・・まあ、大抵は実家で視ることになるのですが・・・。

 東参道を進もうとしているとき、先年お亡くなりになられた御神馬「金龍号」の神馬舎をまじまじと眺めている老夫婦がいらっしゃいました。
 それを横目に鳥居を潜ろうとすると、婆様が何かを叫び始めました。

 「あれゆうじでねの?ゆうじ!ゆうじ!」
 「違うべ。」
 「ゆうじぃ!」
 「違うでば。似でる人だべ」
 「ゆうじぃ~!」

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 もしかしたら私を「ゆうじ」なる人物と間違っているのかもしれませんが、むげに否定するのも婆様に恥をかかせてしまうような気がしたので、聞こえなかったゆうじとしてそのまま進んでしまいました。


 いよいよ唐門をくぐり、左・右・別宮をぐるりと見渡すと、前回参拝したときにはまだ残っていた別宮の第18回式年遷宮の養生もいよいよ外され、久しぶりに神々しき社殿を目の当たりにしました。

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 たいてい、リニューアルすると渋さが弱まって物足りなさを感じることが多いのですが、心なしか別宮はむしろ迫力を増したような気がします。
 鹽竈様への参拝を済ませ、鹽竈櫻様への御挨拶も済ませ、志波彦様への参拝も済ませ、各々の御神符を受け来年のカレンダーを手に入れた私は、志波彦神社の鳥居で振り返り、一礼をし、外へ出ました。

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 右手には神馬舎・・・。

 何故か要らぬ緊張に体をこわばらせながら、あの老夫婦はまだいるかな・・・などと、横目で確認しましたが、もうおられませんでした。

 後でゆうじに会っても責めないであげてください。

鼻節神社の奥ノ院

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 「花淵浜(はなぶちはま)―宮城郡七ヶ浜町―」に坐す宮城郡の延喜式名神大「鼻節(はなぶし)神社」の祭神は、「猿田彦(さるたひこ)神」とされております。
 猿田彦神は、「伊勢二見ヶ浦(ふたみがうら)」の「夫婦岩(めおといわ)」を介して日の出を拝する「二見興玉(ふたみおきたま)神社」の祭神であることからもわかるとおり、日の出と密接な神様であります。
 だからと言うわけでもありませんが、先日の夜明け前、冷えて澄みきった東の空が鮮やかな紫色に染まりはじめたのを目にし、もしかしたら今から向かえば太平洋からの日の出を拝めるかもしれない、という期待に動かされ、私は鼻節神社を訪れてみました。

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 鼻節神社を訪れるのは実に久しぶりです。おそらく拙ブログ『はてノ鹽竈』を開設して間もない頃に訪れたのが最後ではないでしょうか。
 初めて訪れたのはその数年前、今から十年くらい前になると思いますが、知るほどに謎めく鹽竈神社への好奇心に突き動かされて、闇雲にフィールドワークを展開していた行動の一幕でもありました。

 その時の私は、鬱蒼として神気に満ちた樹林の参道にやたらと緊張を高めていたことを覚えております。なにしろ、当時は一部で心霊スポットとしても囁かれていた神社であっただけに、どうしても構えてしまいます。
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 本殿に到達すると、太平洋を見晴らせました。
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 沖合いの岩礁のまわりには荒波が渦巻き、時にぶつかり、砕け散っておりました。
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 本殿は南向きで、私が東進してきた参道の左手にありました。
 本殿―拝殿―正面へは、参道を左に折れて階段を十数段昇っていく形になっております。

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 ところが、反対に、右に折れて下に真っ直ぐ降りていく長い階段もありました。
 下には海しかないはずですが、つまり私が進んできた参道と直交する形で本殿への階段が展開していたのです。
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 後にそちらこそが表参道であったことを知りました。私が進んできたのは裏参道であったのです。
 鹽竈神社もそうですが、おそらく、往昔は海路から直接着岸して本殿に昇っていく類のものであったのでしょう。
 参拝を終えると、とりあえずその階段を下ってみました。
 当時はほとんど人の来ない場所であったようで、階段は苔むして滑りやすくなっておりました。
 どうもまともに正面を向いて下りていくのは危険で、蟹のように横向きで下りることにしたのですが、懸念は的中し、見事に足を滑らせた私は瞬く間に数段ほど滑り落ちてしまいました。すり減っていた靴底も災いしたのでしょう。階段の下がどうなっているのかはよく見通せませんでしたが、海に通じていると思い込んでいただけに、にわかに恐怖心のスイッチが入りました。
 このまま滑り落ちていったら沖合いの岩礁のごとく渦巻く荒海に・・・。
 結局、日をあらためることにしました。
 数日後、トレッキングシューズを履き軍手を着用して訪れた私は、左足を前に横向きになった上、右手は初めから上段について階段に寄りかかるようにし、一段一段慎重にゆっくりと下りて行きました。
 いざ階段を下りきってみると、そこはすぐに海というわけでもありませんでした。しかし、往昔に海路から参拝していたことは間違いなかろう、と感じました。
 当時鼻節神社を訪れたきっかけは、『七ヶ浜町誌』が引用していた「遠藤信道」の『塩釜神社考』における、「然るに今斎き奉れる神は、多力雄神に猿田彦神と塩土翁とを合わせ奉りて三座なり。しかるをこの浜の里人は、猿田彦一柱にして、塩釜の大神と同神にまします由云ひ伝うるなり」という一文と、鹽竈神社が『延喜式神名帳』に記載がないのは、同郡の名神大「鼻節神社」、あるいは同「志波彦神社」と同体であるから、という旨の先達の論を見かけたことでありました。
 結果的に、私の見解としてはその論には賛同できない、というところに落ち着いているわけですが、だからと言って鹽竈神社と鼻節神社が無関係に存在していると考えているわけではありません。
 なにしろ鹽竈神社の「藻刈(もかり)神事」の舞台が他でもない鼻節神社の鎮座する花淵浜の沖合であることは事実です。
 「藻刈神事」とは、当地における古代製塩のおもかげを伝える鹽竈神社の特殊神事、すなわち「藻塩焼(もしおやき)神事」に先立って、必要な「ホンダワラ」という海藻を、海から刈り取ってくる神事です。
 花淵浜の沖合は、単に鼻節神社の沖合であるばかりではなく、その海底には、鼻節神社の奥ノ院とも言われる大根明神があるとされていることを忘れるわけにはいきません。
 一説に、鼻節の神ははじめそこに天降ったとされており、かつてそこは海底ではなく、貞観地震の際に水没したと伝えられているのです。 
 すなわち、大根明神は、海底の火山岩窟で、西ノ宮と東ノ宮に分かれており、本来、鼻節神社もそこに鎮座していたとされているようですが、かの貞観の大震嘯の際に地盤が陥没し、その結果「垂水(たるみず)―現在地―」に遷宮したと伝わっているのです。
 しかし、「ほうが崎」に鎮座していたものが度々潮風に侵され破損するを以て宝亀元(770)年に垂水に遷し奉られた旨も伝えられているので、真偽のほどはわかりません。
 『七ヶ浜町誌』によれば、「大根明神」は「花淵崎東海上七キロの沖合海底の岩礁」にあるらしいのですが、『宮城縣神社名鑑(宮城県神社庁)』には「東方二〇粁の海中」とあります。
 7キロと20キロではだいぶ違いますが、町誌によれば、その境内は大根岩礁堆で、南北2.5キロ、東西2.5キロ、干潮面下浅い所で2.3メートルの深所にあり、接続する高根群礁等合算すると、その面積はほぼ七ヶ浜全域に匹敵するのだそうです。
 ちょっとしたアトランティス伝説といった趣です。
 関連して、興味深い伝説があります。

―引用:『七ヶ浜町誌』―
『奥州名勝図絵』(意訳) 大根の神窟は、高閣石門等備わらざるなく、常に蒼浪の静かな時でも、舟が近づこうとすると、逆浪が急に起って船を転覆しようとするので、漁夫や舟子はこれを語り伝え聞き伝えてこの難所をさけ、ただ、遠く恐れ敬拝して航行するのである。いつの頃であったか、鮑取る漁夫が潜って宮殿に行って見ると、そのさまは楼閣の如く、窓や柱にいたるまで、珍しい貝や絵などで飾られ、荘厳の限りをつくし、海藻は自然の色を以て色どり、底の砂は珊瑚を敷き詰めたようで、まるで常世の国竜宮とはこのようなところをいうのであろうと語ったという。常にこの上を航行する船はいないが、たまたま想い誤ってここを通り、天気がよいので宮殿を見ようとすると、たちまち激浪が逆立ち舟を転覆しようとする。

 なにやら、この沖合の海底には竜宮城があるようです。
 おそらくは、海幸彦・山幸彦の神話と同根の伝説かと思われます。
 『古事記』において「山幸彦」こと「火遠理(ほおり)命―神武天皇の祖父―」を海底の海神(わだつみのかみ)の宮―竜宮城―に導いたのは、鹽竈神社の祭神とされる「鹽土老翁神」であり、海神の娘「豊玉毘賣(とよたまびめ)―神武天皇の祖母―」の正体は“鰐(わに)”でありました。

 いずれ、境内から見える岩礁も荒波に揉まれているわけですが、このあたりには岩礁が多く、常に逆浪が立ちさわぎ、航行が危険であるということで大海津見神と住吉神も祀られたようですから、そのあたりが現実的なところかもしれません。
 しかし、海底の竜宮城のロマンも信じてみたいところです。
 表参道の階段をそのまま落ちていったならば、私は竜宮城に招かれていたのかもしれません。

 ともあれ、鼻節神社の境内には「大根明神」の仮宮二基―東ノ宮・西ノ宮―が設けられており、常の遥拝所となっておりますが、もしかしたら、大根明神とは、オホ氏―「大」―の先祖―「根」―の明神という意味ではないのでしょうか。
 もしそれが妥当であれば、私論に整合します。
 何故なら、度々触れているとおり私は、陸奥國においてワニを名乗った「丸子(わにこ)氏―陸奥大國造・道嶋宿禰・牡鹿連・靫大伴連の祖―」は、その実「鹿島御子神」を奉斎して北上してきた「オホ氏」の裔であろうと睨んでいるからです。
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 ちなみに鼻節神社の境内社の「八幡社」は、創立年月は明らかではないが花淵城主の崇敬社と伝えられているようです―『宮城懸神社名鑑(宮城県神社庁)』―。
 花淵城主とは、「花淵紀伊」のことなのでしょうか・・・。

サルタヒコ―前編―

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 「サルタヒコ」を初めて知ったのはいつであっただろうか・・・。
 例えば、「天照大神」や、かつて小学校の教科書にも採用されていた出雲神話の神々、すなわち「大国主命」や「少彦名(すくなひこな)命」、そして、絵本や紙芝居などでよく見かけた「八岐大蛇(やまたのをろち)神話」のヒーロー「素戔嗚(すさのを)尊」、加えて自宅の神棚などにお祀りされ続けていた「年徳神像」の神々、すなわち「大年神」、「宇迦御魂(うかのみたま)神―表記は五穀豊饒―」、「大国主神―前述と重複―」、「事代主神」、「奥津彦神」、「奥津姫神」などは、幼少時からそれとなく意識の中に刷り込まれておりました。
 それ以外の神々は、たいてい鹽竈神社を調べはじめてから直面する都度に覚えていきました。
 しかし、「猿田彦(さるたひこ)神」についてはやや特殊です。教科書でも絵本でも紙芝居でも神棚でも見かけていないにもかかわらず、鹽竈神社の祭神候補としてその名を見かけたときには何故か既に知っていたのです。名ばかりとは言え、いつの間にか脳裏に刷り込まれていたのです。
 記憶をたどってみれば、三十年以上前に手塚治虫さんの漫画―たしか『火の鳥』―で同名のキャラクターを見かけたときに、「あれ、サルタヒコってなんだっけ?」と顧みた覚えがあります。ということは、それ以前になんらかの形で知っていたのでしょう。

 『古事記』においてサルタヒコが初めて登場する場面は、アマテラスとタカギの神―高皇産霊(たかみむすび)尊―が、「葦原中国(あしはらなかつくに)」の君主として孫のニニギを降臨させたときでありました。
 サルタヒコはニニギ御一行様が天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしておりました。
 そこで、アメノウズメがアマテラスとタカギの特命によって職務質問をすると、サルタヒコは自分が国ツ神であることを名乗り、天孫の先導を申し出るのでした。
 同様の譚は『日本書紀』にもあります。
 しかしそれは本文ではなく、「一書(あるふみ)に曰く~」の「第一」でのみ語られております。
 話の流れはおおよそ『古事記』に共通しているのですが、加えてアメノウズメが自ら胸乳を露わにして腰ひもを臍の下まで下げるなど、いわば色仕掛けともとれる行動が描写されていることは留意しておきたいところです。
 アメノウズメは、それ以前、スサノヲの狼藉に辟易したアマテラスが天石窟(あまのいわや)に引き籠ったときにも、同様に胸乳をかき出し陰部まで露わにして踊ったとされておりますが、それは『古事記』における描写で、逆に『日本書紀』においては踊り―作俳優―はするものの、そこまでの描写はありません。
 夫婦になったとも言われるサルタヒコとアメノウズメは、いずれ「性」を象徴する神でもあり、手塚治虫さんの漫画で強調されていたサルタヒコの「長い鼻」は男根の示唆とされております。
 言うまでもなくアマテラスは日神であり、サルタヒコもまた、「伊勢二見ヶ浦(ふたみがうら)」の「夫婦岩(めおといわ)」を介して日の出を拝する「二見興玉(ふたみおきたま)神社」の祭神であることからもわかるとおり、日の出と密接な神であります。
 もしかしたらアメノウズメの一連の行動は、古代の普遍的な太陽信仰における日光感精の儀式、すなわち、太陽と聖なる処女の聖婚に由来するものなのかもしれません。
 かつて私は、その異形の相からサルタヒコは渡来人ではなかったか、と考えていた事もあり、ユダヤ人に結び付ける論説などにも魅力を感じておりました。
 なにしろ鹽竈神社の祭神の候補でもあることから、サルタの語源は「塩」を表す英語の「ソルト」なりラテン語の「サール」と同根ではなかったか、などとも想像しましたが、その後特に論を深めることもなくクールダウンしていきました。
 後に触れますが、さしあたり「サルタ」の語源は残念ながら「塩」ではなさそうです。

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鹽土老翁神がシャチに乗って武甕槌神と経津主神を案内した坂道とも、地元の作業道だったとも言われる「七曲坂」と、その麓の「猿田彦太神の碑」

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 いずれ、記紀の記述からサルタヒコについて確実に言えるのは、葦原中ツ国を代表する神、すなわち、天孫族に国を譲った側の神であるということでしょう。
 記紀の流れからすると、出雲の国譲りに引き続きこの譚が現れるので、葦原中ツ国は暗に「出雲」を指しているかに思われます。とすれば、サルタヒコを出雲の神と考えるのは妥当でしょう。
 ここで言う「出雲」とは、必ずしも山陰に比定される出雲のことではありません。
 例えば宝賀寿男さんは、『越と出雲の夜明け(法令出版)』において、国譲りは北九州、出雲平定は出雲を舞台とし、年代的には前者が二百年ほど先行するものであって、『出雲国風土記』の大穴持命は高天原から討伐・平定の対象とされた当事者ではない、と考えておりました。
 宝賀さんが考える「葦原中国」、すなわち“いわゆる出雲”の実体は、現在の山陰道の出雲でも畿内でもなく、北九州、筑前海岸部の那珂川流域であり、それは太田亮さんが比定するところの『魏志倭人伝』の「奴(な)国」でもあるようです―『和珥氏(青垣出版)』―。
 奴国なのか、山陰なのか畿内なのか北九州なのか、いろいろと賛否はあることでしょうが、少なくともサルタヒコがその“いわゆる出雲”の神であることは間違いないでしょう。
 なにしろ、吉田大洋さん著『謎の出雲帝国(徳間書店)』の主人公たる富當雄(とみまさお)さんの同族と思しき斉木雲州さんや谷戸貞彦さんは、その前提で論を展開しております。
 彼らによれば、出雲王国は同じ信仰を持つ地域の連合体であるようで、出雲族は「幸神(さいのかみ)」を祖霊神とする母系族であるらしいのですが、幸神は各家の祖先神の集合体としての古い姿であり、宗教として体系化されて「久那斗(くなと)の大神」と妻神の「幸姫(さいひめ)命」、息子神の「サルタ彦大神」という人格神が定められたようです。
 斉木さん、谷戸さんの語るところは目から鱗のものが多く、また、それら驚くべき主張を前提に考えると辻褄が合う私自身の仮説も少なくないのですが、両氏の説くところにはところどころ各々に齟齬も見受けられ、正当な継承者である富さんはもちろん、斉木さん谷戸さんの両氏の間でも、必ずしも同じ伝承に基づいて語っているわけでもなさそうに思えております。
 しかし、最大公約数的な部分については信を置いて良さそうに思えますし、それが彼らと全く関係のない研究者の論考との照合においても整合し妥当とみなせるならば、それは真実なのであろう、と考えて良いのではないでしょうか。
 サルタヒコが出雲の神、という判断は、私にとってそういった中の一つなのです。

サルタヒコ―中編―

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 吉田大洋さん著『謎の出雲帝国(徳間書店)』によれば、出雲神族の正当な継承者として選ばれた富當雄さんは、前任者である養父に叩き込まれた四千年前からの口誦伝承について口外してはならないとのことでした。
 富さんは、自分の跡継ぎ以外は肉親であろうとも敵と思わねばならなかったとのことで、むしろ、親類縁者こそがもっとも危険な敵となり得るという警戒感すらほのめかしております。
 とすれば、『出雲と大和のあけぼの(大元出版)』の斎木雲州さんや『幸の神と竜(大元出版)』の谷戸貞彦さんが、仮に富さんの直系の家族であったとしても、富さんと同じ伝承を知り得ていたとは限りません。
 したがって、斎木さんと谷戸さんの語るところは、富さんの語るところと一旦区別して考えておく必要があります。
 谷戸さんは、伝承に基づいて前述の著書を書いたとしております。その伝承には二種類あるとし、一つは、いわゆる語部のもの、もう一つは神社や旧家のもので、特に後者については十人以上の古老から聞いてまとめたのだそうです。
 谷戸さんは言います。
 「出雲は実に古い土地柄だ。また、古代が生きている。多くの古老が、出雲王国時代の話をしている。そして、出雲人は頑固だ。日本史の他の本がどう書こうが、先祖から聞いたことをそのまま言い伝え続けている」
 たしかに我々外部の人間にはおよそ計り知れない世界が出雲には息づいており、それは、出雲を覗きこんだ多くの人たちが異口同音に唱えていることです。
 一方、斎木さんも日本各地の旧家の伝承を調べ、公表していない旧家には直接出向いて話を聞いたとしております。
 つまり、谷戸さんや斎木さんの説くところは、あくまで出雲をはじめとする日本中の古老や旧家から取材した情報を咀嚼したものであって、必ずしも富家の家伝ではありません。
 もちろん、自家の家伝と他家の家伝との境界を曖昧にすることによって、顕在化が憚られる自家の家伝を忍ばせている可能性も少なからずあるでしょう。そしてもちろんそれに対する読者側としての期待も大いにあるわけですが、出雲神族継承者として自家の家伝を語った富さんとはあきらかに質が異なります。
 これはどちらが上、どちらが正しい、という問題ではありません。
 誤解を恐れずに分類するならば、谷戸さんや斎木さんの語るところは数多の伝承から突き詰めた研究結果であり、富さんの語るところは研究対象の史料そのものであり、その性質の違いを認識しておく必要があるということです。

 さて、富さんへの取材を中心とした『謎の出雲帝国(徳間書店)』にはさして触れられていなかったサルタヒコについて、谷戸さんや斎木さんは出雲族の最高祖神の一として掲げております。
 同様に、『謎の出雲帝国(徳間書店)』では、出雲族の信仰としては特に語られていなかった太陽信仰についても、谷戸さんや斎木さんは言及しております。
 もちろん、富さんが触れていなかった事に谷戸さんなり斎木さんなりが言及していても、それは必ずしも齟齬とは言えません。
 何故なら、『謎の出雲帝国(徳間書店)』における富さんの話の基本は、著者の吉田さんからの呼び水に対する反応であり、極端に言えば吉田さんが質問していなければそこに話題としてあがらなかった可能性も高いからです。
 いずれ、私は出雲族に太陽信仰があったことを信じます。信じたほうが、三輪山や伊勢の太陽信仰についての解釈が円滑になるからです。

 大和盆地の先住民が三輪山を基点に壮大な太陽信仰の仕掛けをしていたらしいことは、大和岩雄さんの論に便乗しながら何度か触れました。
 それを仕掛けたのが、少なくとも天孫族ではなかっただろうことは、十代祟神天皇の御代に三輪山の神の祟りがあったこと、その後、三輪山の太陽神が体よく大和から追い出され、伊勢に遷されたことによっても推察できます―『日本書紀』『倭姫命世記』など―。
 三輪山の太陽神祭祀については、多神社の存在などからその仕掛けにオホ氏が関わっていたことは間違いなさそうですが、『日本書紀』を信ずるならば、オホ氏は神武天皇の二男「神八井耳(かむやいみみ)命」の裔孫、すなわち天孫族であります。
 しかしオホ氏は、『新選姓氏禄』においては磯城県主(しきのあがたぬし)と同祖系譜とされております。
 磯城県主の一族が三輪山の祭祀を司っていたらしきことを踏まえるならば、それは十分首肯し得ます。
 磯城県主は、弟磯城(おとしき)を祖としておりますが、弟磯城は、神武が東征してきたときには既に磯城地方に存在していたわけですから、当地の先住豪族と言えます。
 いわゆる闕史八代への考え方も関係してきますが、闕史八代の面々は先住王朝であって皇居あるいは王朝ごとにまとめられたものであろう、という私見をもって解釈するならば、磯城彦族が安寧天皇の裔という譚にも一応の辻褄を合わせられます。
 何を隠そう、それらの仮説に真実味を帯びさせる情報が、斎木さんによって発せられております。
 斎木さんによれば、「登美家は大和の磯城の郡(桜井方面)に移り住んだので、磯城家と呼ばれることもあった。五十鈴依姫の生んだ御子は、磯城津彦と呼ばれた」のだそうです。
 斎木さんが『出雲と大和のあけぼの』の巻末に掲げた系図によると、五十鈴依姫は、いわゆる事代主命を指す八重波津身と、三島家の玉櫛姫―活玉依姫―との間に生まれた子で、姉妹の蹈鞴五十鈴姫と天村雲の間に生まれた沼川耳と結ばれております。
 その沼川耳との間に、磯城津彦が生まれ、そしてもう一人、八井耳が生まれております。
 しかし、本文において八井耳は蹈鞴五十鈴姫の御子ということになっており、伝承としてどちらが正しいのかはわかりません。
 いずれ、八井耳は、「出雲王の血を引くので臣(おみ)の名称を使い、多臣の祖となった」と記されておりますから、これがオホ氏の祖たる神八井耳命のことであることは間違いなさそうです。
 三輪山の祭祀は、登美家か磯城家の姫君が家系として司祭したとのことで、その姫君が姫御子―卑弥呼―と呼ばれたのだそうです。
 このあたり、富家の伝承に卑弥呼や邪馬台国は登場しない、とする富さんの話とは異なりますので、他家の伝承から採用しているのかもしれません。

 それはさておき、三輪山が神の山として崇敬された理由は、出雲族の古くからの神名備山信仰と朝日信仰に因むようで、出雲族には形の良い山に祖霊が隠っているという考え方があり、特に円い山は女神の山と考えられ、朝、三輪山から現れる太陽は女神と考えられたのだそうです。
 谷戸さんも、「その山が女神の山だったから、太陽神も女神だと考えるようになった」としております。
 斎木さんや谷戸さんによれば、出雲族は太陽神を女神と考えていたようです。
 斎木さんは、「出雲族はインドから、太陽の女神スーリアを持って来たといわれる。その太陽信仰では、東の山から上る朝日を拝む習慣となっていた」としております。
 しかし、このくだりには違和感があります。
 何故なら、太陽神スーリアは一般的に男神とされているからです。
 谷戸さんもスーリアを太陽の女神とし、月の男神ソーマと結婚したとしておりますが、一般的にスーリアには、サンジュナーやチューヤーといった妻神がいたとされております。   
 両氏とも、スーリアが男神だという一般的な認識には触れず、当然のように女神という前提で話を進めているのですが、一般論に反する論で展開するならばもう少し補足が欲しいところです。
 そう伝承されているのだから仕方がない、と言われてしまえばそれまでですが、しいて全体の文脈などから推察するならば、古代インドにおいて、出雲族の前身らしき母系家族制のドラヴィダ族が、侵入してきた父系家族制のアーリア族に支配されたがために女神が男神に変えられた、ということなのかもしれません。
 溝口睦子さんが『王権神話の二元構造(吉川弘文館)』の中でそれに近い説を展開しております。
 溝口さんは、「~大林太良氏や李子賢氏の論文があり、両氏によって古い文化層の中に、日女月男表象が世界的に広く分布していたことが明らかになっている。日本の周辺では、アイヌ、朝鮮半島、中国南部、東南アジア、そしてインドにもあったことがそこで示されている。きわめて大雑把な言い方をするならば、かつて世界的に広く分布していた日女表象は、その後高文明社会がもった日男表象に、多くの地域でとって代わられていったといえるようである」と語っております。
 それに対し大和岩雄さんは、『神と人の古代学(大和書房)』の中で、溝口さんが見落としている『記』『紀』の記述や『万葉集』における示唆、『古事記』や『風土記』が記す日光感精伝説や、丹塗矢伝承にみられる日神と日女の聖婚の示唆、岡山や沖縄の土着の風習、『延喜式』における天照御魂神などの事例を挙げ、溝口さんの説を批判しております。
 大和さんは、溝口さんは大林太良ら民“族”学者の見解は参考にするが、折口信夫ら民“俗”学者の見解、“俗”をまったく無視している、としております。
 ちなみに私は大和岩雄さんの説を支持します。
 太陽神を男神と言い張ると、男尊女卑の発想と揶揄されそうですが、普遍的にそう成り得るメカニズムについての私論は度々触れてきました。―拙記事『神鏡あれこれ―その2:太陽信仰と鏡―』参照―。
 ここでこれ以上の深入りをするつもりもありませんが、斎木さんや谷戸さんがそうまで言い切っているならば、おそらく本当に出雲では太陽が女神であると伝承されているのでしょう。
 しかし、それでも往古は太陽を男神と考えていたのではないか、と私は思うのです。
 そしてそれは必ずしも母系家族制と矛盾しません。
 いえ、むしろ太陽を父とみているからこそ太陽と聖婚して家族を生み出した母が頂点に立つ母系家族の思想が生まれてくるのではないか、とすら思います。
 そもそも、卑弥呼のモデルがいたということは、太陽を男性と見ていた証ではないのでしょうか。
 なにしろ、出雲族の祖神と彼らが認める朝日の神サルタヒコは、男神です。

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鼻節神社から望む朝日

サルタヒコ―後編―

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 吉田大洋さん著『謎の出雲帝国(徳間書店)』の中で富當雄さんが語る出雲神族の渡来譚は次のようなものでした。

―引用―
 この世界が、一夜にして氷の山になった。大祖先であるクナトノ大神は、その難を避けるため、一族をひきつれて移動を始めた。東の彼方から氷の山を越え、海ぞいに歩いた。そうして何代もかかって、ようやくたどりついたのが出雲の地であった。(今から四〇〇〇年も前のことである)

 また、「東北の山や湖に関する伝承が多い。ベーリング海を渡り、北海道、東北、そして出雲へとやってきたのだろう」とも語っております。
 それを受けて、著者の吉田さんは、竜蛇神を信仰するシュメール人やドラヴィダ人が牛をトーテムとするウル人やアーリア系のインド・イラン人に追われた歴史に結び付けておりました。
 富さんは移動の理由が寒冷にあったことを語っていたわけですが、吉田さんはそれをアーリア人らに追われたドラヴィダ人らの歴史に因果づけたわけです。
 その吉田さんの説は、いみじくも『幸の神と竜(大元出版)』の谷戸貞彦さんや、『出雲と大和のあけぼの(大元出版)』の斎木雲州さんの語るところとおおよそ一致しております。
 斎木さんによれば、いわゆるイズモ族は三千年以上前に、「鼻の長い動物の住む国から来た」という伝承があるといいます。
 同様に谷戸さんも、出雲の旧家には、「出雲族は、昔(約三千五百年前)鼻の長い動物(象)と竜蛇(りゅうだ:コブラ)のいる国から、日本の島を目指して民族移動して来た」という言い伝えがあるとしております。
 この「鼻の長い動物の住む国」は「象が住むインド」をさしているのでしょうが、斎木さん谷戸さんの両氏によれば、象の頭を持つ神ガネーシャこそが、サルタヒコの原型であるのだそうです。
 谷戸さんは次のように語ります。

――引用:前掲谷戸さん著書―
 インドでは古くから像が飼育され、力仕事に使われている。仕事中であっても、雌象を見て雄象が発情した時には、両者を自由にさせて、人々はゆっくり見物する。人間が妨害すると危ないそうだ。
~中略~
 象の交尾を見慣れているドラビダ族は、自分の家の男も、象のように元気であることを願い、夫婦の息子神に象神を当てはめた。それが象神のガネーシャだった。

 なるほど、真言・天台の両密教において、大衆の抑えきれない欲望を成就させ鎮めることによって仏法へ向かわせる、とされる歓喜天が象の姿であることにも通じそうです。
 谷戸さんは、サルタはドラビダ語で「出っ張り」、ひいては「高い鼻」の意味であるとし、斎木さんも、「長鼻」を意味する、としております。
 したがって、「サルタヒコ」の意味するところは「猿とは全く関係がない」、と谷戸さんは言い切ります。
 しかし、はたしてそうなのでしょうか。
 なにしろ、猿と日の出の関係には普遍性がありそうです。
 大和岩雄さんが『天照大神と前方後円墳の謎(六興出版)』の中で次のように述べております。

―引用:大和岩雄さん著『神と人の古代学(大和書房)』所載前掲書の抜粋―
 猿が日の出を迎えるという話は、古代エジプトの伝説であるとホーキンズは書くが(ジェラルド・S・ホーキンズ『巨石文明の謎』二九三頁)、猿が太陽神の霊獣、猿田彦神に太陽神格をみる松前健も、太陽神が失くした眼を、猿が探しだしたエジプトの神話を紹介している(松前健『日本神話の研究』四四頁)。この神話では、太陽神の眼を探しだしたのは、大猿に化身した神で、猿田彦に似ている。猿田彦は天孫(日神の孫)を迎え、案内するが、エジプトの神話でも、日の出を歓び迎え賛歌を捧げるのが猿神の役目だという点も、猿田彦神と共通している。しかし、エジプトと日本で、猿の神が太陽(朝日)を迎える神話をもつのは、猿が日の出前にさわぐ習性があるためで、その習性による神話化と考えられ、同じ話があるからといって、すぐエジプトに源流をみるわけにはいかない。しかし、松前健も紹介しているインドの猿神信仰はそうとはいえない。猿神は太陽神ボラームと同一視されており、「印度各地には、村の入口に守神として猿形の像を立て、あるいは石にこの形を彫み、石の裏には太陽と月の形が画かれているものがある。猿形の道祖神に、不妊の女は子を授けて貰うように祈り、未明に全裸となり、この像を抱くという」(松前健前掲書四五頁)
 日本の猿田彦神も『日本書紀』に「衢神(やちまたのかみ)」とあり、村々の入口の守神(道祖神)である。この神に天鈿女(あめのうずめ)は女陰を見せている。そして猿田彦神と結婚している。松前健は、「現今でも猿田彦神と称する石像を裸形の女人が抱いて、子生みや安産を祈るという習俗は諸処に行われている」と書くが(前掲書四五頁)、猿田彦という太陽神格との類似行為も、聖婚儀礼の一種であろう。猿田彦の鼻が長いのは、男性のシンボルを示しているといわれ、現在も日本の民俗のなかでは、猿田彦は性神の代表だが、この源流は南インドにあるのかもしれない。

 「猿神は太陽神ボラームと同一視されており~」とありますが、このボラームは先に触れた太陽神スーリアの別名と言われております。
 猿神と同一視されずとも、スーリアが猿王の妃との間に子を生した旨の叙事詩などもあり、インドにおいて猿が太陽と結び付けられて語られていたことは事実のようです。
 したがって、サルタヒコが猿に擬されるのは単に名前からの誤解ではなく、この神の性格が持つより本質的な部分に起因しているのではなかろうか、と私は考えるのです。
 つまり、その根源はやはり日光感精、特に朝日との聖婚儀礼にあるのだと思います。
 太陽神が女神であるか男神であるかの議論は置くとして、斎木さんや谷戸さんが語る出雲族の起源譚は、太陽信仰とサルタヒコ信仰の関係性から俯瞰した民俗学的な見地からも概ね符合しているといっていいのではないのでしょうか。

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目覚めた平安時代の聖観音様

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 このほど、松森山清水寺―仙台市泉区―で営まれた法要に列席したのですが、本堂、及び、会食の会場となった大広間に私の心をとらえる六枚の写真が掲示してありました。被写体は、バラバラに解体された二体の仏像でありました。二体の仏像は聖観音像と延命地蔵像で、写真は前者が四枚、後者が二枚の計六枚、各々の台紙に分けて貼られておりました。
 各々の台紙にはこう書いてあります。

「平安末期作とされる聖観音様」

「江戸時代作とされる延命地蔵様」

 はて、江戸時代作の延命地蔵様はともかく、平安末期作の聖観音様とは如何に・・・。

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 縁起によれば、「当寺は応仁二年天台宗の僧東海遠光が京都音羽山清水寺の千手観音を勧請して当松森下町地内に一宇を建て切登山清水寺と号した~」とのことであったはずで、平安末期の仏像であることが事実ならば、当寺の創建よりもはるかに古いということになります。いつの頃にか何者かによっていずこからか持ち込まれたもの、と考える他はありませんが、とりあえず、平安末期は奥州藤原氏の時代です。
 ここで私の頭をよぎったのは、これまでにもたびたび触れてきた「小萩観音」の伝説です。

 平安末期、平家が滅びた後の奥州藤原氏の断末魔、歴代最高の権勢にまで上り詰めていた三代秀衡の遺言をめぐって息子たちは対立しました。
 すなわち、偉大なる父秀衡の遺言どおり源義経を総大将に立てて源頼朝を倒すべし、と主張する三男和泉三郎忠衡と、それに反対する兄たち、すなわち頼朝の要求どおり義経の首を差し出すべし、とする四代頭首泰衡、及び長男西木戸太郎国衡との対立です。
 憐れ和泉三郎忠衡は兄たちの軍に攻められて夫婦もろとも殺されてしまうわけですが、伝説によれば5歳の愛娘―安養院―だけは、乳母の小萩とその夫石塚民部守時に守られて命からがら逃れたといいます。
 彼女たちは、守時の弟観円がいる加美(かみ)郡色麻(しかま)―宮城県―の清水寺に身を寄せ、最終的には陸奥國分荘玉手崎―現:仙台市青葉区及び宮城野区―に逃れてきたのだそうです。
 もちろん伝説ですので史実か否かは断じられません。

 ともあれ、現在、仙岳院―仙台市青葉区―に祀られている「小萩観音」は、その愛娘の護持仏であったと伝えられております。
 藤原相之助は、いわゆる『清水文書』に「國分松森福澤~」とあることなどを以て、仙岳院付近の小田原村の福澤―現:仙台市青葉区―あたりも古くは松森であったことを主張しておりました。
 つまり、このほど私が列席した法要の営まれた松森山清水寺がある松森地区は、古くはこれらの伝説の舞台たる國分荘玉手崎をも包括する広い範囲を指していたようでありますから、その小萩伝説に限りなく近い歴史の相克をこの聖観音様は見てきたのではなかろうか・・・と思うのです。
 いみじくも、小萩伝説の最大の発信源はこの松森の当寺と同字異音の「清水寺―加美郡色麻邑―」の文書、すなわち『清水文書』であります。

 やや興奮気味の私は、会食の席で住職に尋ねることにしました。
 こちらの住職は柔軟な思考で物腰もやわらかく、なにより大変気さくな方で、いわゆる“今更聞けない仏事の常識”などについてもわかりやすく丁寧に教えてくださるので、いろいろ助かりました。

 「ちょっとお伺いしたいのですが、あそこに貼ってある平安末期の聖観音様とは・・・」

 「はい。このほど見つかりまして・・・」

 「・・・あの・・・平安末期ということは・・・このお寺よりも古い・・・」

 やや言葉を選びながら言いかけると、すぐさま驚くべき反応を頂きました。

 「どうやら平安中期まで遡りそうです」

 「・・・え?」

 「1180年位前まで遡るのはほぼ確実なようで、仙台周辺では最古級になりそうです」

 「ええ⁉」

 つい先ほどまで私が頭に描いていた物語が早くも瓦解しそうな勢いです。

 「・・・あの、何をもってそれを確認されているのでしょうか?」

 「今アメリカで鑑定してもらっているんです」

 「アメリカ?」

 「はい。アメリカにそういう鑑定を出来る最先端の技術があるんです」

 しばし絶句するしかありませんでした。

 「・・・だとすると、奥州藤原氏の時代よりもさらに遡りますね・・・。安倍氏・・・いえそれ以前・・・」

 「う~ん・・・。中尊寺が開かれた頃になりますかね・・・」

 「え?・・・あ、そうですか・・・」

 その際、私の思考はやや膠着していたらしく、住職の話に矛盾があると捉えてしまいました。
 つまり、中尊寺であれば、奥州藤原初代清衡の菩提寺だからせいぜい500年前では・・・と思ってしまったのです。
 しかし、遅ればせながら帰路についてから思考の膠着が解けました。
 そういえば清衡はあくまで中興した人物であって、中尊寺は嘉祥三(850)年慈覚大師円仁によって開かれたとされる寺でありました。

 なるほど、1180年前という話に符合します。

 また、仏像が古いからと言って、当地に持ち込まれた時代まで同時代とは限らない、ということにも気付きました。
 小萩観音は、にわかには信じ難いものの奈良時代行基の作―『封内風土記』―とも言われているわけであり、仏像の古さとその所在地に展開した歴史の古さは切り離して考えるべきものなのかもしれません。
 とすれば、最初の直感どおり小萩伝説と同根の歴史に根差している可能性も十分あり得ます。とりあえずの仮説に過ぎませんが、私の頭には二系統ほど描かれております。

 一つには、小萩伝説同様、奥州藤原氏の滅亡劇に絡むもの。

 もう一つは、鎌倉以降の武家政権による天台宗寺院の淘汰に伴うものです。

 仙台周辺におけるその最たるものは、やはり松島の瑞巌寺―松島青龍山瑞巌円福禅寺―の変遷、すなわち、天台寺院であった松島寺―延福寺―が、北条時頼によって臨済宗の円福寺に変えられた時の混乱でしょうか。
 もちろん真相はわかりません。

 アメリカにまで旅立った聖観音様には、これから漆の塗りが施される予定なのだそうです。
 なにしろかなり古い仏像であり、何百年、ひょっとしたら千年ぶりに外気に触れてしまった以上、放っておけば急激に劣化が進み、無残に朽ち果ててしまいます。
 とはいえ、もしかしたら国宝級であろう仏像も、下手に漆を塗ってしまえばその価値は大幅に割り引かれかねません。

 しかし、住職は言います。

 「美術品ではありませんので・・・」

 なるほど、然り・・・。

 「仏像の本来あるべき“かたち”にこだわるということでしょうか・・・」

 賢しらかもしれない私の問いかけに・・・

 「はい」

 住職はおだやかに頷いてくださりました。

松森山清水寺の聖観音様のものがたりを考える

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 「松森山清水寺(せいすいじ)―仙台市泉区―」で発見された平安中期の作と思しき聖観音様が、未だ頭から離れずにおります。
 住職によれば、アメリカの専門技術による鑑定によって約1180年前の作と考えられるのだそうですが、本年―平成二十七(2015)年―から1180年遡ると、西暦835年頃ということになり、おおよそ慈覚大師円仁が中尊寺―岩手県―を開山した(とされる)頃にあたるようです―中尊寺開山は寺伝によると嘉祥三(850)年―。
 今、住職の例え話を採用してそのまま中尊寺を引き合いに出しておきましたが、円仁開山という意味ではより清水寺に近いところに松島―宮城県―の「瑞巌寺(ずいがんじ)」があります。宮城県の代表的な民謡「大漁歌い込み」でも名高いあの瑞巌寺です。
 瑞巌寺の正式名称は「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といいますが、これは仙臺藩祖伊達政宗が荒廃を憂いて再興した際に名付けたものです。
 瑞巌寺の前身は、臨済宗の「青龍山円福寺(えんぷくじ)」で、さらにその前身は「円」の文字が異なる天台宗の「青龍山延福寺(えんぷくじ)」でありました。
 この天台宗の延福寺こそが、“円仁による開山”と伝わる、いわゆる“松島寺”の始原ということになります。
 延福寺の「延」には、天台宗の総本山「比叡山“延”暦寺」に比肩するという大それた意味と期待が込められていたはずなのですが、それほどの名刹であったにも関わらず全容は謎めいております。具体的な規模はもちろん、その位置についても定説すらありません―個人的には『松島町誌―昭和三十五年版―』の仮説を支持―。
 ほぼ確実にわかっていることは、建長年中(1249~1256)に鎌倉執権五代北条時頼によって滅亡せられたということでしょうか。
 時頼は、三浦小次郎義成に一千の軍勢を授けて松島に向かわせ、延福寺の天台宗徒を討滅、あるいは追放し、臨済禅の「“円”福寺」として新たに生まれ変わらせられたのだと伝えられております。

 ここに私は一つの物語を想像します。

 松森山清水寺の聖観音様は、元々延福寺の開山に合わせて製作されて祀られていたものだったのではないか――。
 それが、延福寺討滅のどさくさに何者かによって秘密裏に持ち出されたものと想像するのです。
 持ち出したのは天台の僧か、あるいは北条時頼に派遣された三浦氏の軍勢内部の何某かなのか・・・。

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瑞巌寺の御本尊は製作年代不明の聖観世音菩薩像です。
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 いずれ、以後200年以上の長きにわたり何者かによって密やかに護られ続けただろう聖観音像は、応仁二(1468)年、天台僧の東海遠光によって切登山清水寺―松森山清水寺の前身―が開山されるにあたってそこに安置されたものと想像してみるのです。
 約100年後、清水寺の最大の保護者であった國分氏が独眼竜伊達政宗によって滅ぼされました。
 それに伴い当寺の経営にも暗雲が漂いました。
 最後の僧になり得ると自覚しただろう僧は、おそらく曰くつきの秘蔵の聖観音像の行く末を案じたに違いありません。
 したがってまたしても秘密裏に持ち出したか、あるいは信頼できる弟子にでも託したか、あるいは敷地内の何処かに隠してしまったのではないでしょうか。
 ただ、清水寺が冬眠していた時間はそう長くもなかったようです。
 何故なら、清水寺は、文禄年中(1592~1596)のうちに曹洞宗の寺「松森山清水寺」として再興されているからです。
 國分氏が滅んだのが文禄七(1596)年でありますから、その年のうちに生まれ変わったということになります。
 仮に何者かが秘密裏に保護していたとして、聖観音様がその際にすぐ戻されたのか、ある程度時間を経てから戻されたのか、いずれ平成の現在まで当寺で眠り続けることになったようです。
 住職に尋ねるのを忘れておりましたが、一緒に写真が掲示してあった江戸時代作の延命地蔵様が、もしこの聖観音様と同時に発見されたものだとしたならば、聖観音様が最終的に清水寺に持ち込まれた時期は、延命地蔵様が当寺に持ち込まれたのと同時であったと考えるのが穏当でしょう。
 そのことを、現住職が知らなかったことから察すれば、その二体の仏像を受け入れた当寺の住職が何かを憚り、自ら一代の胸に治めおくべき秘事として処理したものであった可能性も高まります。

 だとすれば、一体何が憚られたのか・・・。

 滅ぼされた奥州藤原氏、あるいは追放された延福寺の天台宗徒・・・。
 もしかしたら両者の滅亡は一連の因縁に基づいているのかもしれません。
 思うに、そのことは各地の「安養寺(あんようじ)」の記憶が消えていることと関係があるのではないでしょうか・・・。

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財布の中で約30年間眠り続けているテレフォンカード。

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※もちろんその間財布は何代も様変わりしております、はい。

瑞巌寺の大杉

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 久しぶりに松島の瑞巌寺(ずいがんじ)を訪れてみました。
 年明け、東日本放送製作の番組『東北の聖地を訪ねて』で取り上げられていたのを視聴して、久しぶりに彼の地を踏みたい衝動に駆られていたのです。
 そこに松森山清水寺の聖観音像の情報を得、瑞巌寺を絡めての想像が膨らんできたものですから、もはや訪れずにはいられなくなってしまいました。
 思えば、瑞巌寺を訪れるのは震災後初めてです。
 瑞巌寺といえば、神気に満ちた杉木立が参道の両側に凛として並ぶ様が実に印象的であったはずなのですが、いざ総門をくぐって目にしたそれは、心なしか寂しくなっておりました。
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2009年8月の参道↑

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2015年2月現在の参道↑

 前回訪れたのが夏で、今回は冬、という季節の違いもありますので無理からぬことではありますが、それだけにはとどまらない寂寥感がそこにはありました。
 ふと、震災後に松島の知人から入った第一報が、瑞巌寺の総門にも津波が押し寄せたらしい、というものであったことを思い出しました。
 観光客で賑わう瑞巌寺周辺は、松島湾内の島々が防波堤となって奇跡的に津波から守られた、とも聞きましたが、それでも現地の店舗などに散見する、「ここまで津波がきました」という旨の表示を見る限り、浸水の高さは腰高をゆうに超えていたようです。初めてその表示を見かけたときは、思わず海に視線を移し、今見える海面の全てがその表示の高さまで上がっている光景を想像してしまいました。
 瑞巌寺の参道にも津波が回り込んだだろうことは想像に難くなく、杉木立の足元も少なからず潮に浸されたことでしょう。
 参道途中、本堂に向かって左手には杉木立が伐採された痕跡もありましたが、塩害で枯れてしまったのでしょうか・・・。
 ただ、『瑞巌寺の歴史(瑞巌寺)』を著した堀野宗俊さんによれば、元々境内の杉の衰弱や松くい虫による古松の枯れ死はかなり深刻ではあったようですので、必ずしも津波が原因ではないのかもしれません。
 いずれ、伐採の正確な理由については確認しておりません。
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 さて、現在瑞巌寺は「平成の大修理」期間中にて、平成二十八年春頃までは本堂や中門、御成門などの言うなればレギュラー部分の拝観は出来ないのだそうです。
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 そのことは予めわかっておりましたが、特段初めての拝観というわけでもなく、今後も訪れることがあるだろう私にとってはさほどの障害でもありませんでした。
 むしろ、本来非公開であったはずの庫裡や大書院、陽徳院御霊屋―伊達政宗正妻愛姫の墓―などが代わりに特別公開されていたことが収穫でありました。それらは平成の大修理が完了次第、再び非公開になるはずだからです。
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 いずれ、今回の私の目的は、中門の両脇にそびえる樹齢四百年の二本の大杉です。それを本堂の正面から見ることさえ叶えば十分満足なのです。
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 ところが、結局中門の内側、すなわち本堂正面には立ち入り禁止で回り込むことは叶いませんでした。
 しかしそれでも、今後立ち入ることがないだろう登竜門から臥龍梅(がりょうばい)―樹齢四百年―越しにそれを眺めることも出来たので、良しとしておくことにしました。
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 中門の前には三本の大杉があります。
 本堂に向かって手前左側の一本は樹齢八百年といいますから、おそらく鎌倉幕府五代執権北条時頼によって円福寺の伽藍が造営された頃に植えられたのでしょう。後に触れますが、なにしろ瑞巌寺はその円福寺と同じ場所に伽藍が展開しております。

 それはさておき、残る二本の杉。それこそが今回の目的です。
 中門を挟んでシンメトリーにそびえ立つそれらは、なにやら伊達政宗の宗教観を垣間見せる代物であったようなのです。
 鎌倉時代以降、禅宗の寺の配置は総門・三門・本堂が一直線に並ぶのが一般的であったといいます。
 しかし瑞巌寺の参道は、途中折れ曲がっております。
 前述番組によれば、瑞巌寺に対する政宗の意気込みは『木村宇右衛門覚書』によって克明に知り得るようですが、政宗は慶長九(1604)年、中秋の名月―旧暦の八月十五日―を選んで自ら縄張りを行ったようです。
 縄張り、すなわち、瑞巌寺の伽藍配置については政宗自らが決めたということでありますから、参道の折れ曲がりも政宗の思惑によって生じたものであったということになります。
 そのような参道になった理由について、瑞巌寺総務課長の千葉洋一さんは、禅の教育を受けていた政宗が月を浄土の象徴と考えていたからではないか、としておりました―前述番組より―。
 つまり、政宗は自らが縄張りを行った旧暦の八月十五日、中秋の名月が本堂からみて中門両脇にそびえる二本の杉の間に望めるようにするため、参道を折れ曲げざるを得なかったのではないか、ということなのです。
 番組では、本堂からみた中秋の名月が実際に二本の杉の間におさまった状態を撮り、放映しておりました。
 なるほど納得です。政宗が月に対して並々ならぬ想いを抱いていたことについては、政宗の詠んだ和歌の数々や兜の前立ての大きな三日月デザイン、仙臺城下の南北街路の傾きへの仮説―首藤尚丈さん『政宗の黄金の城』―からも意識するところでありました。
 いや、それであればそもそも参道もろともその向きで縄張りをすればよかったはずではないか、とも考えましたが、先に少し触れたとおり、なにやら政宗は原則として前身の臨済宗円福寺の伽藍に合わせて縄張りをしたと思われます。
 平成二十三年十月に行われた松島町教育委員会による「瑞巌寺境内遺跡―瑞巌寺埋蔵文化財現地説明会―」の資料に次の記述があります。

―引用―
~円福寺の主要な建物群(七堂伽藍)は現在の瑞巌寺と同じ位置にあったと考えられます。その場合、伽藍配置は東側(松島湾)を正面とし、三門―仏殿―法堂が一直線に並び、仏殿の右手に僧堂、左手に庫裏があり、山門に接続する回廊が仏殿を囲むという建長寺式が想定できます。さらに、1号建物跡のあり方から七堂伽藍は基壇を有したと考えられ、こうした様子は14世紀初頭に成立した「遊行上人縁起絵」に描かれた円福寺の姿に近いといえるでしょう。

 そしてその説明会の二ヶ月後には、次のようなニュースが飛び込んできました。

―引用:平成二十三年十二月十五日付『河北新報』朝刊―
【「円福寺」建立場所 瑞巌寺本堂で確定】
 国宝の瑞巌寺本堂で発掘調査をしている県教委と松島町教委は14日、出土した遺構から判断して瑞巌寺と同じ場所に中世寺院の「円福寺」が建っていたことが確定したと発表した。担当者は「国指定史跡級の遺跡」と話している。
 円福寺は鎌倉時代中期(13世紀中頃)の創建とされるが、建立場所については諸説あり、専門家の見解も分かれていた。
~中略~
県教委の村田晃一技術補助は「中世寺院としては異例の規模と格式を備えた建物であり、円福寺の遺構で間違いない」と説明。「ことしの東北における遺跡調査では随一の成果」としている。
 また、伊達政宗が創建した瑞巌寺が、円福寺の遺構上に同じ方向で建てられていることから、村田補佐は「新たな支配者となった自らの力を内外に誇示しようとしたのではないか」と話している。

 中世の遺構に重きを置いた政宗が、それでもあえて参道を曲げているこの事実――。
 やはり政宗の月への思いは、風流や情緒ではとうてい推し量れない厚き崇敬心に基づくものであったのでしょう。

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不気味な三陸沿岸の地震

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 先ほど、ゆら~っといやな感じの地震がありましたが、青森県では震度5強であったとのこと。
 今朝ほどは岩手県の三陸沿岸で20センチほどの津波が観測されたとのことですが、気味の悪さを感じております。
 沿岸部の方はさぞや不安を抱かれていることでしょう。

 先日、東日本大震災の震源域における地震エネルギー(?)が、震災前並みのレベルに戻っている云々のニュースを目にしたばかりだけに、心配です。

 もちろん、西日本の方々も今や他人事ではいられないことでしょう。先日徳島で強い地震があったばかりです。

 いえ、絶対安全な場所など、どこにもありません。自然の力に人知が及ばない、ということを、私たちはあの震災、そしてその後も全国まんべんなく暴風雨や暴風雪、洪水、土砂災害、火山噴火、竜巻などに悩まされ、さんざん思い知らされ続けております。
 不安をあおるつもりはありませんが、今や誰しもが知る陸奥の貞観大津波の前後に本当によく似ております。
 ざっと年表を眺めるだけでも、その地震の前後に、九州の暴風雨、京都の洪水、富士山噴火、鳥海山噴火、などが確認できます。

 地震で言えば、多賀城を壊滅させた貞観十一(869)年の大地震の9年後、元慶二(878)年に関東で大地震が起きております。
 『日本三代実録』によれば、相模・武蔵がもっともひどかったようです。

 ちなみに、その三日前には紀伊で家屋が倒壊するようなものすごい暴風雨があったようです。

 関東の大地震から更に9年後の仁和三(887)年、畿内にも大地震が発生し、このときは津波があったとされております。
 もしかしたら、今もっとも懸念されている東南海地震でしょうか。

 もうすぐ東日本大震災から丸四年、あらためて気を引き締めていきたいところです。
 
 

松島寺の伽藍

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 瑞巌寺の前身である中世の円福寺は、出土した遺跡によって現在の瑞巌寺の場所にあったことがひとまず確定されたわけですが、その前身、慈覚大師円仁によって開創されたという松島寺、すなわち天台宗の延福寺の場所については相変わらず不明のままです。

 松島寺の創建に関する史料はきわめて少なく、『松島町誌』の編纂に携わった清野精尹さんによれば、わずかに『天台記』・『奥羽観迹聞老志』・『名跡志』・『封内風土記』などがあげられるだけなのだそうです―『松島町誌』・『松州史譚(松州史譚刊行会)』―。
 清野さんによれば、『天台記』なる文書は瑞巌寺の所蔵で、永延二(988)年・治承二(1178)年・弘長三(1263)年の三期にわたって、延福寺二十三世覚心、同二十六世儀仁(松島寺最後の願主)の三人によって書き継がれた松島寺の一応の沿革誌と言える類のもののようです。
 ただしこの所蔵物は瑞巌寺百九世曹源のときに松島の民家から出たものらしく、文明二(1470)年に松島八屋左治郎藩重なる者によって書かれた写本であるうえ、内容に時代の誤りもみられる点から、偽書の疑いも拭いきれなさそうです。

 『瑞巌寺の歴史(瑞巌寺)』の堀野宗俊さんは、――延福寺は、「天台記」が言う程に繁栄した寺ではなかったようである――として、そう考える理由について概略次のようなことを語っております。
 第二世寂定坊円心(じゃくじょうぼうえんしん)の就任が、天長五(828)年とされる慈覚大師の開創から五十年経過した元慶三(879)年であり、これが実際の開創という説もある――。
 続く記事が、約百年後の天禄元(970)年第二十三世桜岡坊覚心(さくらおかぼうかくしん)の就任である。『天台記』が著述されたその時代には、ある程度記録が残されていたのであろうが、詮索する手段はない――。
 その次代、二十四世玄覚(げんかく)の就任は寛弘五(1008)年、その死去が長和二(1013)年であるが、さらに次の二十五世頼円(らいえん)の下向入寺が承保元(1074)年と、その間60年は無住であった――等々。
 そして、「現に、これほど開発の進んだ現在においてすら、天台延福寺の遺構・遺物の検出は報ぜられていない―尤も、円福寺遺構の如く、地中深く埋没していれば論外ではあるけれども」――としております。
 なるほど、たしかに延福寺の実際の開創は二世寂定坊円心であったと考えるのが自然に思えます。
 では慈覚大師円仁その人は、単に象徴的な存在として名を掲げられただけで、この寺の開創には全く関わってなかったのでしょうか。

 先の清野さんは、慈覚大師開山と称する東北地方の多くの寺について、「円仁自身の開創になるものとはいい得ない」、「円仁の弟子およびその門流の僧の開山を意味するものであり、天台僧侶の北方に巡錫して寺を建立するものの多かったことが察せられる」、とした上で、「しかし、東北地方にこれほどまでに大きな影響をもっていた彼に、陸奥巡錫の事実がなかったとはいい切れないであろう」、「延福寺を開いたものは二世円心であったとしても、この地に教線開拓の第一歩をするしたのは円仁であり、少なくとも自ら奉守し来った神輿を奉安する山王社の創建は彼の手になったものと推測される」としております。
 なるほど、至極妥当だと思います。
 もしかしたら、松島寺―延福寺―が開創されたとされる天長五(828)年とは、その山王社が創始された年なのでしょうか・・・。

 その天長五(828)年は最澄の他界から六年後にあたります。
 真言宗や南都六宗の追い上げに危機感を覚えていた天台教団は、亡き最澄の方針に従い比叡山にて12年間の行に入った円仁に下山の催促をしました。
 請われて下山した円仁は、この年の夏、法隆寺において法華経の講義を行っております―拙記事『天台宗の危機と円仁の目覚め』参照―。
 言い換えれば、渇望された円仁の才覚が世に開放され始めたのがこの“天長五年”なわけです。
 さすれば、延福寺なり山王社の創始に円仁が関わっていたか否かに関わらず、延福寺の開創は単にその象徴的な「天長五年」にあてはめられたものなのかもしれません。

 さて、その延福寺がどこにあったのかを考えてみます。
 特段の定説はないものの、さしあたり昭和三年に発行された『名勝松島(著者兼発行者小倉博)』には五大堂付近にその中心があった旨が記されております。

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 すなわち、山王社が五大堂付近にあった旨が『松島諸勝記』にあり、法師崎に神楽堂があり、崎と五大堂との間に架けた廊で毎年四月中の申の日の祭礼に舞楽があったことが『天台記』に記されておりました。それらに基づき、そう断定しているものです。
 更に小倉さんは諸所に散在する僧房の数百を下らない数多きをもって、かなり盛んな寺であったことを推測しております。
 これに対し、『松島町誌』などの清野さんは、五大堂の辺りを延福寺の中心とする説自体には賛成しているのですが、小倉さんが僧房のことを詳しく述べながら七堂伽藍について沈黙していることには不満があるようです。
 清野さんはまず小倉さんが列記した僧房のその実が私僧房であることを指摘した上で、「僧房の位置をもって延福寺の所在を判断することは危険である」とし、『日本仏教史』の圭室諦成の語るところを引用しております。
 『日本仏教史』には、本来伽藍は僧房を中心としたものであるはずが、我が国では事情が異なる旨が説明されております。
 つまり、伽藍が修道のための道場から祈祷のためのそれに顛落―顛落というのは圭室氏の表現のまま―する過程において、僧房の地位は次第に低くなり、伽藍が祈祷道場になり終わったときに僧房は伽藍の一隅に辛うじてその存在を保つに過ぎなくなっていたらしく、また、そこに住居する僧侶の病や死は、穢れを忌み嫌う我が国の思想においては隔離すべきもので、“病人や老人は寺院の近接地に私僧坊を建設して静養すべし”、という法令を国家として出さざるを得なかったのだそうです。
 清野さんはそういった事情を鑑み、七堂伽藍があまたの堂塔の立体的構成によってその荘厳美を発揮するのに対し、僧坊はその陰にかくれた位置を選ぶのが普通であるから、散在し孤立するのがその当然の姿、としております。
 その傍証として、比叡山や同じ慈覚大師開山とされる出羽の立石寺―いわゆる山寺―などの僧坊が、裏坂の両側や、参道から一段低いところ、または参道に沿う杉木立の中などに位置していること、また、『平泉旧蹟志』が、「東鑑に、寺塔四十余宇。禅坊三百余なり」と明らかにそれを区別していることを挙げております。
 それなのに何故、延福寺に関する諸記録は―言い合わせたように―僧房について語りながら七堂伽藍の所在については一言も触れなかったのか、清野さんはいぶかしがります。
 清野さんが描く松島寺の情景はこうです。

―引用:『松州史譚』―
 山岳仏教の七堂伽藍は、禅宗寺院のそれのように左右均整のとれたものではなかったが、一山の山頂かあるいは山を背景にして、そこに数多の堂塔を立体的に構成したものであることは、延暦寺や中尊寺・立石寺などのそれによってもわかる。
 叡山をまねてその再現を理想としていたであろう彼らが、いくら海浜であるからとはいえ、山を背景にしたその寺院形態を引き継がなかったとは考えられない。そうすれば、阿弥陀山から、愛宕山・新富山の方にかけての山並みが最適の位置のように思われる。
 そこに位置したとすれば、松島寺の中心と思われる五大堂・山王社・法師崎神楽堂を入江をへだてて望む絶好の場所であり、それを海上より眺めるときは、それらの諸堂を中心とし、多くの堂塔を背景とした情景は実にすばらしいものであったろうと思われる。

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           冬の立石寺の風景

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清野精尹さんによる松島寺の伽藍配置推定図 ※作図:今野

 やや願望も交じりますが、私は清野さんの推定を支持します。
 先の堀野さんは「現に、これほど開発の進んだ現在においてすら、天台延福寺の遺構・遺物の検出は報ぜられていない」と語っておりましたが、松島海岸周辺は古くに開発された観光地でもあるわけですから、埋蔵文化財に対する意識が現代よりも大らかであったことも含めおく必要があると思うのです。
 現代でも、地方の農家などでは埋蔵文化財にかかると負担が大きく良いことがないから人知れず処分した方が得策だなどといった苦々しい話もまことしやかに聞こえますし、昭和初期以前、仙岳院の塔頭跡から出てきた古い柵木の根幹物ような遺物が、掘り出した老人の手によって風呂の焚き木にされた、という逸話も藤原相之助の著書にありました。
 実際、こういった話が水面下では結構あるのでしょう。

 いずれ、各地で記憶が失われた安養寺幻の霊感寺―宮城県村田町―など、それらに一体何があったのかはわかりませんが、奥州藤原氏の滅亡後、彼らに縁ある宮城県内の天台寺院の多くが残り香もろともことごとく消えていることは否めません。
 奥州藤原氏の菩提寺として象徴的なお隣り岩手県の平泉寺―中尊寺―が比較的温存されたのは、北条政子の夢枕に藤原秀衡―その実はおそらく泰衡―の亡霊が現れてその荒廃を呪ったからに他ならないでしょう。
 安養寺や霊感寺、そしてこの松島寺の記憶の大部が失われているのは、おそらく偶然などではなく、何者かによるなんらかの意図が働いた結果ではなかろうか、と私は思うのです。

松島海岸の清水

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 塩竈を発った松尾芭蕉が、陸路ではなく船で松島入りしたことは『曾良旅日記』に記されたところの有名な話です。
 もちろん、海上からの風光明媚を体感せんがために海路を選択した部分は大いにあるでしょうが、そもそも江戸時代以前に塩竈と松島の間にまともな陸路は存在していたのでしょうか。現代において、その区間の幹線は国道・鉄道ともにトンネル続きとなっております。
 瑞巌寺はむろん陸続きの寺ではありますが、海に面した東側以外の三方をぐるりと山に取り囲まれており、かつては西方の峠を越える長老坂以外にはさしたる陸路もなく、さすれば塩竈発の海路が主な連絡手段になっていたのではないでしょうか。
 そういった地勢の影響もあってか、かつての瑞巌寺周辺は、海上の孤島よろしく水不足に陥りやすかったようです。

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 堀野宗俊さんは、『瑞巌寺博物館年報(瑞巌寺博物館)』の第18号に『水と瑞巌寺』と題した余談を寄稿されておりますが、かつての松島の水不足の実体を裏付ける話として、つい近代まで瑞巌寺近接の「水主(かこ)町」に存在していた「水屋」なる商売を取り上げておりました。
 「水主(かこ)町」とは、その名のとおり「水主(かこ―お船方―)」の居住区です。
 現在の正式な地名としては「松島字町内」と無味乾燥なものになってしまいましたが、地元では尚「おかこまち」と呼ばれているようです。
 その形成は、仙臺藩祖伊達政宗による瑞巌寺建立の時代にまで遡り、当寺に対する政宗のこだわりが生み出した副産物とも言えるでしょう。
 政宗は瑞巌寺の伽藍を建立するにあたってその用材にこだわり、わざわざ紀州熊野にそれを求め、良材を筏に組ませて海上を運ばせたとされております。その際の船頭方水主衆の居住区が寺の近接地に発祥し、「おかこまち」と呼ばれるようになったようです。
 堀野さんによれば、この町の水主衆は、武士でありながら最高の待遇でも小判八枚・六人扶持という身分であったらしく、生活は苦しかったようです。そのような事情があったからでしょう、二・三男が瑞巌寺の小僧に出された例も多かったようです。
 なにしろ、瑞巌寺百三世通玄は水主頭鈴木氏、百二十世湛道祖参は渡辺家の出であるのだそうで、百十世曹源もおそらくは水主町の出身と考えられるのだそうです。
 また、水主町の人々は内職をして家系の足しにしていたようで、大工・瀬戸物屋・豆腐屋・筆屋・石屋など、中には現在でも継承されている仕事もあり、その職が屋号となって現在に伝わっている家もあるようです。
 こういった屋号の中に件の「水屋」もあったようです。水屋の者は、隣の高城町から清水を分けてもらい、それを運んで、よい飲料水に恵まれなかった瑞巌寺近辺で「冷やっこい、冷やっこい」と掛け声をかけて売り歩いていたのだとか・・・。

 さて、その事情を知れば慈覚大師円仁による「独鈷(とっこ)水」伝説の意味も重みを増すというものです。

 政宗の菩提寺たる瑞巌寺に隣接して、政宗の正妻愛(めご)姫の院号を冠した彼女の菩提寺「陽徳院」がありますが、その傍らに「独鈷水」があります。

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陽徳院

 観光客立ち入り禁止のこの寺にあるその清水は、慈覚大師円仁が松島寺を開いたときに、閼伽(あか)の水にとぼしかったので独鈷で掘ったものと伝わっております。
 同様の伝説は全国各地にあるので、とりたてて話題にすべきものでもないのかもしれませんが、その伝説が瑞巌寺周辺の1キロメートル四方のごく狭い地域に三ヶ所―「独鈷水」・「一脈霊泉(=清水奥)」・「湯の原」―も存在することは、「裏を返せば、松島にとって清浄な水がそれほど得がたかったという事になろう」と堀野さんが評するところのとおりでしょう。現在でも秘修火鈴行法なる仏事があり、大晦日、ここで般若心経を誦すことになっているそうです。

 ついでながら、他の二ヶ所についてもみておきます。

 まず、「一脈霊泉」すなわち「清水奥」は、瑞巌寺の西方300メートルの山峡の奥の地にあります。
 こちらは、慈覚大師が錫杖をつきたてたところ霊水が湧き出てきた、とされているようで、その味は松島第一と言われ、寺で長い間飲用されていた泉なのだそうです。
 しかしなにしろ距離があります。そこで文化十一(1814)年、百十四代住持丹源文叔が知事海東完に、陰樋(筧)を用い寺の台所まで浄水をひく工事をさせたとのことです。
 ちなみに、その工事を喜捨したのは佐浦富右衛門なる人物で、あの塩竈の銘酒「浦霞」の醸造元「株式会社佐浦」の佐浦社長のご先祖様のようです。

 続いてもう一つ、「湯の原」は、やはり瑞巌寺西方700メートルの一山を越えた峡谷の地にあります。
 こちらは鉱泉で、慈覚大師が独鈷をもって地面を掘ったところ、霊湯が湧き出たと伝えられております。最初は温湯であったものが、鎌倉執権北条時頼の介入で延福寺が滅んだ時以来冷泉になった、と伝わっているようです。

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 さて、何故清水の話をしてみたのかというと、あわよくば松島寺以前の当地の歴史を窺える材料になるかもしれない、と考えたからです。
 思うに、これら慈覚大師伝説が伴う清水は、松島寺を開いたときに初めて掘られたものではなく、水不足の霊地松島にあって、むしろそこに貴重な清水があったからこそ松島寺なる特別な精舎が開かれたのではないでしょうか。

 引き続き、松島寺開創以前の当地について推測を試みたいと思います。

古代松島の製塩と森林伐採

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 塩竈の「えびす屋釣具店」のホームページに、次のような興味深い記事がありました。

―引用―
◎塩造りは軍事用だった
塩竈は、古くから塩造りで栄えた町であり、食用はもちろんでしたが、それ以上に城壁を固める為の接着剤として大量に製塩されたようです。多賀城国府が東北の軍事拠点として存在していたために、東北各地に運ばれたと考えられます。
◎松島の松は植林
製塩のために大量の木材の伐採が行われました、今でこそ盛んに叫ばれている環境破壊が行われてしまったのです。松島湾に浮かぶ島々も同様です。当時は、松も含めた雑木林であったと思われますが、鎌倉時代に見るに見かねた幕府が松の木を送り、植林したと伝えられています。

 なるほど、納得できます。

 以前にも触れたとおり、考古学的な見地から窺える松島湾の製塩遺跡の変遷は、国内最古級の縄文後期から土器の形状を変化させながら弥生時代まで続き、忽然と消滅しました。
 その後、古墳時代の製塩遺跡は発見されておらず、わずかながらも奈良時代に至って再びみられるようになります。
 平安時代のものとしては九世紀段階とみられる遺跡が多く、それ以降の例は不明確なようです。
 奈良時代以降の製塩土器には、消滅した縄文時代の製塩土器からの連続性はみられず、この新たな隆盛には時期的に律令制の影響を無視することはできません―近藤義郎さん編『日本土器製塩研究(青木書店)』所載、小井川和夫さん・加藤道男さんの論文を参照―。

 したがって多賀城などの城壁の需要があったとする考え方も首肯できますし、また、それに伴い松島周辺で大量の雑木が製塩用の焚き木として伐採されただろうことも容易に推察されます。
 えびす屋釣具店さんの情報源は未確認ですが、欄外に「このページを作るにあたり、塩竈市役所の阿部光浩氏、ユネスコ協会の菅原周二氏をはじめ、多方面の皆様にご指導をいただきました」と謝辞が述べられておりました。
 もしかしたら、「幕府が松の木を送り~」という譚については、松島の地名由来の一つに、源頼朝夫人である北条政子が雄島で修行中の見仏上人を慰めるために姫小松千株を贈った―以来この地が「千松島(ちまつしま)~松島」と呼ばれるようになった―、というものがあるので、それと同根なのかもしれません。
 ちなみに私は、前九年の役後の安倍宗任が、配流先の筑紫の地で「松島」の名を冠した「松島明神」を祀っていたことを重視しており、したがって地名か否かはさておきなんらかの固有名詞としての「松島」という言霊自体は平安時代以前から存在していたものと考えております。

 それはともかく、瑞巌寺の宝物館―青龍殿―あたりからも平安時代の製塩炉が発見されております。

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瑞巌寺宝物館青龍殿

 鎌倉時代の臨済円福寺にあてはめると、山門から延びる回廊と、同じく庫裡から延びる回廊のぶつかる角あたりになるようです。
 もちろん平安時代ですから、それは円福寺よりも古く、慈覚大師円仁の開創とされる天台延福寺の時代か、あるいはそれに先立つものかもしれません。
 先の独鈷水といい製塩炉といい、瑞巌寺ならびに臨済円福寺の境内は、天台延福寺そのものの境内跡ではなくとも、なんらかの人文的な遺物の上に建立されたとは言えるでしょう。
 ここで城壁の需要が増した時期を考えてみます。

1、まずは、当然多賀城の創建時が挙げられるでしょう。

2、次に、伊治公砦麻呂の反乱に伴う多賀城焼き討ちの後も、当然需要が増したことでしょう。

3、次に、10年以上にわたる大墓公(たものきみ)アテルイとの戦争の頃でしょう。間違いなく多賀城をはじめとした官衙城柵は防備を固めたはずです。

4、そしてやはり貞観大地震の被災後でしょう。事実その頃、國分荘をはじめ宮城県内各地の瓦窯では大量の瓦が生産されておりますので、大規模な復興需要があったと思われます。

 主にこういったところかと思われますが、このうち、多賀城創建と伊治公砦麻呂の反乱は奈良時代になります。
 したがって、瑞巌寺宝物館あたりから発見された平安時代の製塩炉が、仮に城壁の接着用材のためのものであったとするならば、アテルイの頃か貞観地震の直後に絞られてきます。
 ふと思うに、その製塩炉は貞観大津波以降のものであったのではないでしょうか。
 かつての松島では、現在よりも内陸深くにまで入り江が食い込んでおり、松島における貞観大津波のダメージは東日本大震災のそれより甚大であったと考えられます。したがって、浸水域にあった製塩炉のごときはことごとく消滅してしまったと思うのです。
 何を隠そう、史料によっては、松島の地形は貞観地震によって出来上がったとされております。
 もちろん現在それを信用する研究者など―少なくとも管見においては―見受けられず、私も信用しておりません。前に触れたとおり、私は香川大の長谷川修一教授らのグループによって発表された、「日本三景松島は6000年前の直下型地震による巨大地滑りで誕生した」、という説を支持しております。
 それはさておくにしても、松島においても貞観大地震とそれに伴う大津波にはそれほどのインパクトがあったことは間違いないでしょう。
 もしかしたら、慈覚大師円仁によるとされる天台延福寺も大津波で綺麗さっぱり洗い流されてしまったのでしょうか。先に触れたとおり、天台延福寺の開創は天長五(828)年でありますが、貞観地震はその40年後の貞観十一(869)年に発生しております。
 しかし、おそらくそれはないでしょう。松島が大津波に呑まれた頃に天台延福寺の伽藍が存在していたとは考えにくいものがあるからです。
 なにしろ、天台延福寺の事実上の開創は貞観大津波の十年後、元慶三(879)年と考えられます。理由は、慈覚大師円仁に続く第二世寂定坊円心(じゃくじょうぼうえんしん)の就任が元慶三(879)年であるからです。
 それは、円仁の開創から50年もの記録がなく、しかも円仁はほとんど他の場所を東奔西走していたわけで、彼が亡くなった貞観六(864)年からみても次代の円心の就任までには15年もの空白があります。記録の有無にかかわらず、あまりにも時間が空きすぎており、その間に寺の実質が存在していたとは考え難いものがあるのです。
 先にも触れたとおり、円仁の関わった事実があったとするならば、それはおそらく山王社の創始のみであったのではないでしょうか。
 山王社は、五大堂向いの“小高い丘”の天童庵のほとりに祀られていたもので、寛永十七(1639)年に現在地に遷されたわけですが、“小高い丘”だけに津波の難は逃れていたことでしょう。

 話がだいぶあちこちにぶれてしまいましたが、これらのことから一つの物語を推察してみます。

 まず朝廷による蝦夷の討伐があり、その中でも最大最強の抵抗勢力であったアテルイ軍の降伏後、慈覚大師円仁に課せられたのは陸奥全体の鎮魂であったと思われます。
 縄文時代からの聖地「松島」におけるそれは「山王社」の創始であったのでしょう。
 おりしも中央では承和の変など露骨な政変が頻発しており、祟りをなすと思しき地域はことごとく対策が施されておりました。
 宮城県内では大高山神や鼻節神、刈田嶺神などがにわかに昇叙しておりますが、特に鼻節神や刈田嶺神は、中央で物怪の出現が発覚した直後にもあわただしく昇叙しております。
 密教を極めていた円仁は、最澄・空海亡き後、朝廷からもっとも頼りとされていた高僧であったと思われますが、貞観六(864)年に他界していまい、それを見計らったかのように多賀城は大津波を伴う大震災に見舞われてしまいました。
 このような流れの中で、塩竈・松島では急ぎ塩の大量生産を求められ、亡き円仁の力を頼るべく松島寺、すなわち天台延福寺も開創されたのではないでしょうか。

 さて、ことごとく森林の伐採が展開されたであろう松島寺周辺において、伐採を禁じられていた森があります。
 それは瑞巌寺の裏山にあり、古くから松島の総地主と崇められ続けていた「葉山神社」の境内です。
 はたして九世紀のその時代にも伐採が禁じられていたかどうかはわかりませんが、私はおそらく禁じられていただろうと推測します。
 この神社は、松島寺の創建にも関係があると言われておりますが、その位置は先に触れた慈覚大師伝説を伴う三つの清水を結ぶラインの扇の要にもあたり、何を隠そう、社殿の後ろには「葉山清水」といわれる泉があり、奥ノ院とされております。
 葉山神社の境内は水源の森であったのでしょう。
 水に飢える松島にあって、この環境はまさに神の居場所です。

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葉山神社境内

 もう少し葉山神社について語りたいと思います。

松島の神々

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 松島瑞巌寺の裏山に鎮座する「葉山神社」は、古くから松島の総地主と崇められていたのだといいます。
 「葉山」は「葉山信仰」の「ハヤマ」なのでしょう。地域によって「端山」、「羽山」、などとも表記されるそれです。

 民俗学的に語るならば、仏教が伝わる以前から受け継がれている日本人の精神基層の原始的祖先信仰において、亡くなった方の霊魂は山に昇り神として昇華していくわけですが、そこには段階があり、霊魂が最初にとどまる里山はハヤマと呼ばれておりました。
 里人は、故人の屍をハヤマの麓に葬るわけですが、屍を離れた霊魂はやがてハヤマの頂に昇り、そこにとどまってしばらくは残された家族を見守り続けます。
 やがてはその奥に高くそびえる深山(みやま)に昇り、最終的には神になっていくものと考えられておりました。
 例えば山形県にはその面影がわかりやすく残っております。
 「月山(がっさん)」を深山とみていた郷里の例で言えば、庄内地方では「羽黒山」、村山地方では「葉山」が各々身近な“ハヤマ”として信仰されておりました。後にそれらが山岳修験と結びついて「出羽三山信仰」に発展していったのです。

 さすれば、松島の葉山神社も推して知るべしでしょう。
 葉山神社が松島寺の創建に関わっていたとされているのは、古き松島地区の葉山信仰に松島寺が被っていったことを示唆しているのではなかろうか、と私は想像するのです。
 松島の総地主とまで言われ、そこに国家的な比叡山勢力が関わったとあれば、その霊地はなんらかのただならぬ一族のそれであったと考えざるを得ないわけですが、であれば、元々「蛇ヶ崎」又の名を「鳶(とうひ)崎」などと呼ばれた場所から高城地区に遷った「紫神社」、すなわち、「松島明神」との関わりも気になるところです。
 鎮座地名に「蛇」なり「鳶(とび)」が付されていたことからすれば、松島明神は出雲系のいわゆるトビの一族の祀る神であっただろうことが推察できますし、事実、トビの長髄彦の兄アビの裔と称する安倍貞任の弟宗任は、配流先の九州は筑前大島において松島明神を祀っておりました。
 少なくとも、松島明神が松島の代表的な神と内外に認識されていただろうことは、「西行戻しの松」の伝説や、「紫の大明神」として『義経記』に記されていることなどが証明しております。
 後者については、金売り吉次の手引きで奥州王藤原秀衡に謁見すべく平泉に向かう源義経が、道すがらの松島において一方的に紫の大明神に祈願しただけに過ぎませんが、前者については、奥州藤原氏の同族とも言われる北面の武士「佐藤義清」、すなわち「西行法師」が、奥州行脚の道すがら、老翁に顕現していた松島明神と遭遇し会話を交わしております。

 他所から来た偉人が、道すがら、その土地の神と遭遇する類の伝説は各地にあります。
 これまでに触れたものだけでも、雄略天皇と葛城の一言主神、藤原実方中将と陸奥の鹽竈大神、大若子命と越中の姉倉比賣神などがすぐに思い浮かびます。
 神々はたいてい老翁なり老婆など、普通の人間の姿で顕現してくるので、その正体が神であったことを知るのは事後になるわけですが、いずれの旅人も、良くも悪くもなんらかの神託なり教示を得ることになります。
 西行と松島明神の遭遇もその類の伝説と言って良いでしょう。
 おおよそ次のような物語が伝えられております。

 北面の武士であった西行は、密通していた官女に「あこぎだ」とたしなめられたものの、その意味がわからず苦悶し、それを知るために諸国行脚の旅に出ました。
 奥州松島を訪れんとしていた西行は、松の木の下で牛に草を与えていた老翁を見かけます。そのとき、いくら食べても飽きたらずひたすら草をむさぼる牛に対して、老翁は、「何故そう“あこぎ”なのだ。たいていにしろ」と罵りました。
 「あこぎ」という言葉に敏感に反応した西行は、思わず老翁にその意味を問いました。
 すると老翁は、「伊勢の海 阿漕が浦に 曳く網も たびかさなれば あらはれやせむ」と古歌を詠み聞かせ、西行の無学さを痛烈に罵りました。
 ひどく恥じ入った西行は引き返すことになるのですが、その老翁こそが松島明神でありました。

 
 これには異伝もあります。
 詳細は割愛しますが、最も大きな違いは、西行と遭遇した神が松島明神ではなく、牧童として顕現した山王権現であったというところでしょうか。

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 松島明神か山王権現か・・・。この相違について、私なりに思う所があります。
 この類の伝説において、そこに登場する神はその土地を代表する神であると考えるのが自然でありますが、その視点からすると、この伝説の本来は山王権現ではなく松島明神との遭遇譚にこそあったものと思われます。
 何故なら、山王権現は慈覚大師円仁ないし天台宗徒によって比叡山からもたらされた後発の神祀りであろうからです。
 しかし、山王権現のその実を、猿と関係の深い朝日の神、と広義で捉えるならば、そう容易には捨て置けなくなってまいります。
 何故なら、それは件の葉山神社の性格にも被ってくると思われるからです。

松島の総地主:その1

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 松島の総地主とされる葉山神社は「瑠璃光如来(るりこうにょらい)」が本尊であるといいます。
 神社に本尊と言われると、現代の感覚では少なからず違和感を覚えますが、境内の管理は瑞巌寺が執り行っているようですし、神社庁的には大正元年に日吉神社に合祀されているので、現在のそれはもしかしたら瑞巌寺の付属施設的な立ち位置にあって、それゆえに明治以前の神仏混淆の名残がそのまま生きているのでしょうか。
 瑠璃光如来とは、すなわち「薬師如来(やくしにょらい)―薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)―」のことですが、薬師経に説く東方瑠璃光世界―瑠璃光浄土―の教主を指します。
 東方瑠璃光世界という概念は、おそらくは太陽が昇る東方への普遍的な崇敬心から派生したものなのでしょうから、太陽信仰の一形態と言えなくもなく、したがって瑠璃光如来―薬師如来―については朝日の神の本地仏と捉えていいのではなかろうか、と考えております。
 偶然なのかもしれませんが、慈覚大師円仁によるとされる日吉山王社の旧鎮座地や開創期の松島寺の中心と想定されるエリアは、葉山神社からみて冬至の日の出方位にあります。
 瑞巌寺の伽藍や参道をはじめ、松島海岸の町割り全体も南東方位に向いているわけですが、思うにそれは必ずしも地勢だけが理由ではないでしょう。

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 なにしろ、葉山神社の祭神は「沖津彦命」「沖津姫命」とされております―『松島町誌』―。
 「沖」は「興」と同義、つまり、字義どおりの意味よりも、むしろ、サルタヒコを祀る伊勢二見が浦の「二見興玉神社」の「興(おき)」と同様、東の沖合から太陽が「興(おき)る―起きる―」ことに本質的な意味があると考えます。
 おそらく松島海岸一帯は、「山王権現―日吉山王社―」や「松島寺―延福寺―」の開創以前から、既に、総地主「葉山神社」の下、特に冬至の朝日への信仰があったのでしょう。

 『日本後紀』によりますと、山王権現勧請の17年前―弘仁二(811)年―、その年に亡くなった「坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)」推薦の後継者、「文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)」がこう奏言しております。

 「今官軍、寇賊無遺、事須悉廃鎮兵、永安百姓」

 森田悌さんの現代語訳はこうです。

 「今回、官軍が一挙に攻撃をしかけ、蝦夷の賊を全滅しました。そこで、鎮兵は廃止して永く百姓を安楽にすべしです―『日本後紀 全現代語訳(講談社)』―」

 荒ぶる蝦夷を掃討し終えた綿麻呂は、慰撫政策への転換を求めたようです。
 蝦夷の軍事指導者「大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)」が、延暦二十一(802)年に結果的に田村麻呂に騙された形となって処刑されてから、まもなく10年になろうとしていたその頃、「嵯峨天皇」は、平城京への遷都を画策した兄「平城上皇」の野望を水際で打ち砕き、後顧の憂いなく陸奥・出羽に対して惜しみなく兵をつぎ込み、すさまじい討滅劇を展開しました。
 綿麻呂は重ねて奏言します。

 「宝亀五年から今年まで三十八年間にわたり辺境では騒動が続き、軍事活動が絶えることがありませんでした。そのため、老いも若きも軍事や輜重の運送に疲倦し、百姓は窮弊して、休まった状態になっていません。四年間は課税免除を行い、疲弊を休めることを要望します―前述同書より―」

 この奏言は許可されました。
 官軍による討滅劇と言っても、その最前線には間違いなく討たれる側と同じ蝦夷や俘囚がいたわけで、特に多賀城に近い松島の人々はむしろ官軍側として駆り出されていたことでしょう。彼らは38年もの間、同士討ちをさせられ続けてきたのです。新たな火種を生まないためにも、さすがにこれは慰撫しなければならなかったでしょう。
 天台教団による山王権現―日吉山王社―の勧請や松島寺の開創は、その政策の延長上にあったものと思われます。
 その目的が、疲弊し荒(すさ)んだ民衆の心の慰撫であるならば、民が拒絶するような信仰が強要されたはずはありませんし、逆に民にも拒否権があったと想像します。
 事実、秋保(あきう)―仙台市太白区―においては天台仏教が拒絶されました。
 秋保における伝説を信ずるならば、有名な「立石寺(りっしゃくじ・りゅうしゃくじ:山寺)―山形県―」は、秋保で拒絶されたが故に奥羽山脈を越えて開かれた精舎であったようです。
 ともあれ、松島においては山王権現なり松島寺が受け入れられたようです。
 思うに、そこに“葉山神―沖津神≒朝日の神―”崇敬の下地があったればこそ、山王権現の太陽信仰も受け入れられたのではないでしょうか。
 少なくとも、蝦夷を代表する大酋長阿弖流為は、太陽神たる天照御魂(あまてるみたま)神を崇敬していたと考えられます。
 何故そう推察できるのかと言いますと、阿弖流為の末裔と称する照井一族が「照日権現」を守護神としていたからです。
 照日権現が「天照御魂神」であろうことは、その字義に加えて、「対馬(つしま)―長崎県―」の「阿麻氐留(あまてる)神社」が「照日権現」と呼ばれていることからも無理のない推察でありましょう。

 さて、文政三(1820)年に記された『松島図誌』の葉山権現の項に、「真山氏勧請といへども~」とあり、真山氏と称する氏族がなんらかの形で葉山神社に深く関わっていたことが知れます。
 松島の総地主とまで呼ばれる葉山神を勧請したとあらば、この真山氏の祖先こそが古き松島の総地主であったということになるでしょう。
 しかし、この真山氏の詳細はよくわかりません。
 引き続き、管見で知り得る情報から推察を試みようと思います。

松島の総地主:その2

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 松島の総地主とされる葉山神社――。
 その葉山神社を勧請したのは真山氏であると言われております。
 だとすれば、真山氏の祖先こそが松島の総地主なのか――、とりあえず、太田亮さんの『姓氏家系大辞典(角川書店)』で「真山」をひいてみると、以下のように記されてありました。

―引用―
眞山 マヤマ 伊勢に眞山御厨・見え、又陸前等にこの地名存す。
1 藤原姓 奥州の名族にして、間山氏の裔也。伊達正宗家臣に見え、徳川時代、本支数十家に分る。
2 諏訪氏族 陸前国玉造郡眞山村より起る、封内記に「眞山下邑の諏訪舘は即ち眞山氏の古塁也。其の子孫今大番子となる。傳へ曰ふ、先祖は信州諏訪の人、木工左の孫備前繼貞・元弘年中、本邑に移りて諏訪神を勧請す。その祭日には毎歳邦君・牡鹿二頭を賜ひ以つて牲供と為すの例也」と。
3 雑載その他、信濃、武蔵等に存す。

 「眞山御厨(まやまみくりや)」なるものに好奇心を刺激されますが、それはひとまず置くとして、どうやらこの真山氏には藤原姓と諏訪氏族という二系統があるようです。
 その内、奥州の名族という藤原姓眞山氏を遡って、その祖系となる間山氏でひいてみるとこうです。

―引用―
間山 マヤマ 奥州の豪族にして、南北朝の頃、南朝に属し、北畠顕家配下の将間山十大夫は、岩代國信夫郡岡部村に春日社を勧請す(信夫郡村誌)。藤原姓なりと。
又徳川時代、弘前藩に在り、間山甚五郎祐眞は歌人として名高し。又津軽、武蔵等に存す。

 岩代國信夫郡―福島県―に春日社を勧請したのは、とりあえず藤原姓故でしょう。
 信夫郡の藤原姓氏族で奥州の名族というと、奥州藤原氏の右腕であった信夫荘司佐藤基治を思い起こさずにはいられませんが、同一ではないにしても遠からぬ関係であることは間違いないでしょう。
 念のために『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』でもひいてみました。
 「真山」の項は全部で11項です。以下にざっくりと箇条書きしてみます。

1、本姓諏訪の大崎氏の家臣、諏訪社への信仰あり、三塚の別称あり。奥州土着は元弘年間。
2、留守氏の家臣。
3、藤原姓の仙台藩家臣。
4、3からの分かれ、仙台藩家臣。
5、同上。
6、源姓の仙台藩家臣ながら、諏訪姓の1を祖とする。
7、6の分かれ、仙台藩家臣
8、源姓の仙台藩家臣。
9、源姓の仙台藩家臣、先祖は大崎氏に仕えている。
10、源姓の仙台藩家臣ながら、6と同様、諏訪姓の1を祖とする。
11、大崎家の旧臣で、主家滅亡後真山村に帰農、本家は諏訪姓で伊達家直参。

 こちらでは、主に藤原姓と源姓に分かれるようです。
 松島との地縁については特に触れられておりませんが、源姓については、諏訪姓から起こり諏訪社への信仰がある人物を始祖に掲げている例の多いことから、実質として陸前国玉造郡眞山村より起った諏訪姓眞山氏の流れとみるのが妥当ではないのでしょうか。

 藤原姓、源姓、そして諏訪姓が見受けられる眞山氏ですが、ふと、「島津陸奥守」が頭をよぎります。
 島津陸奥守とは、仙臺藩の幾つかの地誌において、歴代の千代―仙臺―城主として、伊達氏や國分氏、結城氏よりも先に名が挙がる正体不明の氏族のことです。

 以前触れましたが、藤原相之助はこれを國分氏のことと推断しておりました。
 理由は、國分氏の祖とされる「千葉介常胤」が文治二年に日向國北諸懸郡の郡司に補せられていたこと、そして当地には島津荘があって、千葉介の一族がいみじくも島津を称していたことにあります。
 これは実に興味深い論です。
 しかし、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝配下の武士としてその國分氏―千葉氏―と同時期に陸奥に入ったはずの結城氏が、文治年間、すなわち、まさに平安末期の奥州藤原氏滅亡の時期に既に千代城に入っていると伝わっているわけであり、それよりも先に島津陸奥守の名が出てきていることへの説明についてはお茶を濁した感があります。
 藤原相之助の論が成り立つためには、千代城に代表される國分荘における城舘の歴代領主に関する伝説を一切無視するか、鎌倉軍を代表するような千葉介の一族が、奥州藤原氏の時代に既に奥州に存在していたと認めるかを選択しなければなりません。

 話を戻します。
 島津陸奥守が、薩摩に代表される“いわゆる島津一族”と同系か否かはわかりませんが、少なくとも“いわゆる島津一族”は諏訪神を崇敬していることが多く、『海東諸國記』における彼らの本姓は宗家が源姓である他、おしなべて藤原姓とされております。今見た眞山氏の性格が、妙にそれと似ているように思えるのは気のせいでしょうか。
 ちなみに太田亮さんは、いわゆる島津氏の諏訪神への崇敬に対して、「これ先祖の信仰を忘れざるものにして~」と語っております。
 その心は、「島津氏は惟宗氏にして、惟宗氏は秦氏より出で、而して稲荷の神は秦氏の氏神たれば也」、すなわち、秦氏である島津氏の氏神は諏訪神ではなく稲荷神であるから、ということのようです。
 このあたり思う所があるので、後にあらためて触れたいと思います。

 さて、葉山神社を勧請したと伝わる真山氏が、仮に諏訪姓の眞山氏であるならば、時代的には元弘年中(1331~1334)、すなわち、遡っても鎌倉時代末期から南北朝時代に信州諏訪から奥州玉造郡に移住してきた豪族ということになります。
 ということは、当然鎌倉執権北条時頼による臨済円福寺の創建以降の奥州への移住ということになってしまうわけであって、その前身たる慈覚大師開創とされる天台延福寺や、さらにそれ以前から存在していたはずの葉山神社を勧請したとするには矛盾があります。
 だとすれば、葉山神社勧請の真山氏は消去法で藤姓眞山氏なのでしょうか。
 藤姓眞山氏の本流、すなわち間山氏は、南北朝時代に既に信夫郡においてある程度の勢力を保持していたからこそ前述のような記録に残ったのでしょう。
 つまり彼らはそれ以前から奥州に土着していたと考えられます。
 もし葉山神社を勧請したと伝わる真山氏が、この藤姓眞山氏の流れであって、しかも私の思惑のとおりそれが信夫荘司佐藤基治を輩出した一族と同系であったならば、天台松島寺の滅亡と安養寺の消滅を結び付ける傍証になり得るかもしれません。
 松島明神なり山王権現と遭遇したと伝わる「西行法師」の本姓は、基治と同じ「藤原秀郷」の流れをくむ“佐藤”でありますが、もしかしたらそういった伝説―西行戻しの松伝説―が生まれたのもそのあたりに関係するのでしょうか。
 しかし、藤原秀郷は、天慶三(940)年に「平将門」を討った武将でありますから、ほぼ間違いなく日吉山王社や松島寺の開創以降の人物ということになってしまいます。
 もちろん、それを言うなら秀郷系譜なるものがどこまで信用できるのか、という部分について先に精査する必要も出てくるのでしょうが、ひとまず緩く“いわゆる秀郷系譜”と仮定しておきます。
 以前論じたとおり、陸奥國分荘において、基治が持ち込んだとされる天神社は、おそらくは「菅原道真」を祀るそれではなく、「天照御魂(あまてるみたま)神」を祀る本来的な太陽信仰のそれであって、その天神社を取り巻く天台宗の寺院の数々こそが小萩伝説の発信源でもありました。
 小萩伝説の主人公の「小萩」は、奥州藤原四代泰衡に討たれた泰衡の弟「和泉三郎忠衡」の娘、後の「安養院」を匿って加美郡―宮城県―に逃れ、その後安養院の祖母、すなわち信夫荘司佐藤基治の妻が隠棲する安養寺がある國分荘―仙台市―に移住したと伝えられております。
 小萩は、安養院亡き後も護持仏たる観音像、すなわち小萩観音を祀りつづけました。安養院は三代秀衡の孫であると同時に、信夫荘司佐藤基治の孫でもありました。
 加美郡の「清水寺」や國分荘の「安養寺」、同じく國分荘にて後に「天照寺」と名を変えた「大松寺」、同國分荘の「仙岳院」などの天台宗系の寺院は、この小萩伝説や國分荘玉手崎の天神信仰に関連したと考えられるわけですが、仙臺東照宮の別当寺となって小萩観音が安置されている仙岳院―仙台市青葉区―以外はほとんど消滅しております。その消滅の時期は詳らかではなく、『奥羽観迹聞老志』や『封内風土記』が編纂された江戸時代前半においても既に記憶の曖昧な古い話となっておりました。比較的新しかろう天照寺ですら、仙臺東照宮の造営に伴い天神社が現在の榴岡に遷されたとされる寛文七(1667)年時点において、既に廃絶久しかったようです。それらの廃絶は、延福寺が討滅された時期なのか、南北朝の頃なのか、戦国時代なのか・・・。
 清野精尹さんは、『松州史譚』所載の「松島寺考」の中で、松島寺の滅亡の意義について次のようにまとめております。

―引用―
 鎌倉時代の新興諸宗の勃興に、激しく苦悶し内省して、輝かしい新天台学を生み出した天台宗と、同じ宗派にありながら、時代の動向より隔絶して遂に滅亡の悲運に蓬着―原文ママ:逢着(?)―した松島寺との対比は、鎌倉時代以上の重大な反省期に逢着しつゝある日本仏教の動向を決する一つの鍵であるとも云い得よう。
 こゝに仏教史に於ける松島寺滅亡の新しい意義がある。
 この他に、叡山の焼討ちなどに見るような政治勢力の覆滅としての松島寺の改易と云うことも、一応は考えて見る必要があらうが、今までの処ではそうした事実は認め得られない。

 なるほど、松島寺に代表される天台宗寺院の消滅については、往々にしてそういった旧態依然の運営方針が世情と隔絶してしまっていたという事情はあったことでしょう。
 また、今までの処では政治勢力の覆滅の事実は認め得られない、とのこと―。
 しかし、「時頼に追放された」やら、「それ以降温泉が冷泉に変わった」やらの伝説は、紛れもなく“恨み節”です。小萩伝説も含め、奥州の民衆による鎌倉政権への不満の噴出にも思えます。何故記録が逸失し、恨み節だけが伝え残されたのでしょうか。私は、政治勢力によって廃滅せられたからに他ならない、とみます。
 松島寺の創建に関係があるとされる葉山神社を勧請したとされる真山氏が、仮に信夫荘司佐藤基治の同族であったとするならば、奥州藤原氏滅亡後、もしかしたら一族は剃髪して天台延福寺などに隠棲していた可能性もあるでしょう。
 その想像が妥当であるならば、松島寺を中心とした陸奥多賀國府周辺一帯の天台寺院が鎌倉幕府からみて高度に政治力を有する僧兵の巣窟とみられた可能性もあったのではないでしょうか。
 実際にめまぐるしく統治者が入れ替わっていた宮城府中争奪戦の裏舞台に関与して情勢を掻き回していたかもしれませんし、もしかしたらそれこそが國分氏の前身なのかもしれません。
 いずれ、それら宮城郡周辺の天台宗系の寺院は、時の権力者から危険視されたが故にことごとく理不尽な廃滅を迫られた可能性もあるのではないのでしょうか。

 以上は、葉山神社を勧請した真山氏が、藤原姓眞山氏であった場合の想像です。
 引き続き、一旦は切り捨てておいた諏訪氏族であった場合についても考えておこうと思います。

松島の総地主:その3

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 松島の総地主とされる葉山権現―葉山神社―は、なにやら真山氏の勧請であると伝わっていたようなのですが、如何せんそれ以上の情報が管見にはなく、単に『松島図誌』にそう記載されていた事実のみを知るのみなのです。
 そこで真山氏という氏族を掘り下げてみると、藤原姓のそれと、諏訪氏族のそれ、そして源姓のそれがあることについてわかりました。
 このうち源姓については、元をただせば諏訪氏族の流れであろうことがほぼ間違いなさそうです。
 そしてその諏訪氏族の系統は、もう一方の藤原姓のそれがいつ頃から陸奥に土着していたのかが不明であるのとは裏腹に、元弘年中(1331~1334)に信州から陸奥に移ってきた、とはっきり伝わっておりました。
 それ故にその系統が天長五(828)年開創とされる松島寺以前からの葉山権現を勧請したことはあり得ない、と、一応の判断をしておきました。
 一方、消去法で残った藤原姓に仮定して考えてみると、いみじくも同じ宮城郡内である陸奥國分荘の事情ともそこはかとなく整合し得そうな感触ではありました。
 しかし如何せん、藤原秀郷の流れとされている以上、秀郷以前の松島寺から更に時代が遡る葉山権現を勧請した氏族と考えるには苦しいこともまた事実です。
 諏訪氏族と藤原姓――。
 蝦夷時代の奥州松島において、どちらに総地主としての妥当性があるでしょうか。
 感覚的には、諏訪氏族に分があるように思うのです。
 何故なら、奥州藤原氏以前における藤原姓は、あくまで中央のお偉いさんであって、地主という印象はなかったのではなかろうか、と思うからです。
 もちろん情として諏訪氏族と思いたい部分もあることは否めませんが、それを差し引いても、藤原姓が奥州の名族という印象で定着するようになったのは、やはり奥州藤原氏の影響抜きには考えられないと思うのです。

 結局、振り出しに戻ってみるわけですが、陸奥への移住時期がある程度絞れてしまう眞山氏に限定するのではなく、広く諏訪氏族として考えてみたらどうなのか―。
 諏訪氏族は言うまでもなく信濃に起った氏族ですが、そもそも陸奥・出羽は信濃と密接です。
 諏訪氏族と一口に言っても、諏訪神を勧請したことによってそう名乗る一族も含め、その範囲はすこぶる広く、一概に捉えるのは極めて危険ではあるのですが、陸奥とのつながりという視点でみれば、ある程度の方向性が見えてくるようにも思えます。
 これまでにもだいぶ筆を費やしておりますが、信濃から陸奥への移住という側面に注目した場合、その最大の動きは、『日本書紀』が記す天武天皇十四(685)年の浅間山噴火に起因したであろうと考えております。
 書紀はこの噴火によって信濃が壊滅した旨を記しておりますが、その際、信濃の民や良質な馬がどうなってしまったのかについては触れておりません。
 この噴火以前、天武天皇は信濃における産馬を推進しており、当地への遷都までも検討しておりました。それは、天智天皇が近江に遷都させたのと同じ事情、すなわち、半島を制圧した唐・新羅連合軍の脅威に備えた軍事的な必然性故であったことは推して知るべしでしょう。おそらく連合軍に滅ぼされた高麗から大量に逃げ出したであろう亡命者の受け入れ先にもなっていたのではないでしょうか。高麗人は半島で唯一騎馬を軍事的に利用する民族であったとも言われ、もちろん馬に精通しておりました。そこには当然、相当な人財がつぎ込まれていたはずと想像するに難くありませんが、それらは一体どこへ消えてしまったのでしょう。噴火に呑まれ、全て無に帰してしまったのでしょうか。書紀はただ沈黙しております。
 少なくとも、陸奥には信濃からの移民が多く、古代から数々の名馬が中央の偉人に貢されてきたことが伝えられており、仙臺藩の地誌を見るに江戸時代に至っても尚国内屈指の馬産業が根付いていたことがわかります。これは何を意味するのでしょうか。私は、天武天皇が秘密兵器として育成していた信濃の人馬が浅間山噴火の難を逃れて大量に移住してきたものとみております。
 そのとりまとめはおそらく既に陸奥に定着していたであろう鹿島御子神奉斎氏族と同族の信濃國造が担ったと考えるのが自然であり、彼らの族には、諏訪下宮の神主家を輩出し金刺姓を称した者もおりますが、一方でいわゆる健御名方命の裔を称する神家―諏訪上宮神主家―と同様「諏訪氏」をも称しております。
 何を言いたいのかというと、つまり國造系にせよ神家系にせよ、諏訪氏族の陸奥への土着は松島寺以前どころか、十分に七世紀以前に遡る可能性が高いということです。
 彼らが土着したのは陸奥の中でも馬柵(まぎ)の経営環境において信濃のそれに似た冷涼な栗原が主であったと思われますが、八世紀以降、郡山―仙台市太白区―なり多賀城なりに開設された陸奥國府や、木ノ下―仙台市若林区―への國分僧尼寺の創建に伴い、中央との馬取引の便に優れた宮城郡にも馬に精通し商才に長けた馬喰(ばくろう)などが居住し始めたものと想像します。
 多賀城に近い松島にも、そういった諏訪氏族が土着していたのではないでしょうか。松島湾内の馬放島(まはなしじま)は、引退した鹽竈神社の神馬が余生をのんびり暮らす島であったといいますが、その世話にあたっていたことも考えられます。もしかしたら、はるか古代から既に土着していた可能性もありますが、それはひとまず置いておきます。

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多聞山から馬放島を望む

 いずれ、それらの諏訪氏族はもちろん眞山姓ではないわけですが、件の葉山神社の原型がその諏訪氏族の古き祖霊の地、“いわゆるハヤマ”であったとしたらどうでしょうか。
 仮にその諏訪氏族が衰亡してしまっていたとして、鎌倉末期となる元弘年中に陸奥に移った同族の眞山氏が、荒廃していた松島の諏訪氏族のハヤマ祭祀を中興したならば、後世、眞山氏によって勧請された、と伝わる可能性もあるのではないでしょうか。

松島の総地主:その4

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 諏訪氏族系の眞山氏は、玉造郡の眞山村―宮城県―に起ったことから眞山を称したとされているわけですが、もしかしたら、むしろ彼らの土着によって村名が生まれたということも考えられるのではないでしょうか。
 例えば、同じ信濃―長野県―から出羽の由利郡―秋田県―に移住してきた中原姓瀧澤氏などがそうでした。
 伝承では、新天地である由利の瀧澤の地名をとって瀧澤を称し始めたとのことでしたが、そもそもの信濃の居住地名も瀧澤でありました。
 それら諸々の実情を鑑み、私は「瀧澤」を単なる地名ではなく彼らにとっての一種のブランドとして注目しておきました。
 それと同様に、「眞山」という言霊にもある種のブランドとしての意味合いが付加されていたのではなかろうか、と考えてみました。
 そう考えさせられたのは、前述した太田亮さんの『姓氏家系大辞典(角川書店)』が記す「眞山」の項冒頭の第一声がこうであったからです。

「伊勢に眞山御厨・見え、又陸前等にこの地名存す」

 伊勢の「眞山御厨」とは何なのか・・・。少なくとも私の節穴のごとき眼で『神宮雑例集』を探した限りでは見つけきれておりません。太田亮さんが何処にその言霊を見たのかが気になるところです。
 御厨(みくりや)とは、『広辞苑(岩波書店)』の説明を借りるならば、神饌を調進する屋舎、御供所(ごくうしょ)」、あるいは、古代・中世、皇室の供御(くご)や神社への神饌の料を献納する領地などを指すわけですが、伊勢という地域柄、一応は伊勢神宮のそれであったと推察されます。眞山氏が伊勢神宮に神饌を調進するなんらかの神領の領主であったことも考えられます。
 もちろん、『神宮雑例集』には「一 御厨御園事 合四百五十餘處 二宮御領百十余所~」などとあり、御厨・御園だけでも450余りも存在したようですので、それほど珍しいものでもないのかもしれませんが、だとしても、伊勢に奉公していたという経歴は一族にとって誇るべきものであったのかもしれず、逆に、仮に含むところがあったとしても、それをごまかすには都合がよかったかもしれません。
 したがって、御厨の名称である「眞山」をあたかも家宝の如く屋号などにして子々孫々継承していたということも想像として許されるのではないでしょうか。

 いずれ、皇室などに食膳を調進するという意味において、「御厨」は「膳部(かしわべ)」の職掌と隣り合わせにある言霊と言えます。そして膳部といえば、高橋氏や安倍氏に代表される四道将軍大彦命の系譜を思い起こさずにはいられません。
 もしかしたら、葉山権現を勧請したという眞山氏は陸奥安倍氏と限りなく近しい一族であったのではないでしょうか。だからこそ、松島を代表する神が松島明神であるという一般認識と、松島の総地主が葉山権現であるという伝説が同じエリアにおいて並立し得たのではないでしょうか。
 松島明神は、鹽竈大神の一族の神とされ、かつて鹽竈神社の神輿渡御の清め塩として使用された磯崎地区の製塩を守護する神でもありました。
 なにしろその神を筑前大島―福岡県―に流された安倍宗任が崇敬し、鹽竈神社の社家の内最も古いとされる左宮一禰宜安太夫家などはおそらくその同族の阿部家でありました。
 中世以降鹽竈神社の大神主でもあった留守氏の『奥州餘目(あまるめ)記録』に、人間時代の「しほがまの明神」が東海道十五箇國北陸道七箇國両國の御知行を有していたとあるのは、四道将軍として東海道を進んだ武淳川別命と、その父で同じく北陸道を進んだ大彦命の示唆であることは想像に難くなく、それはすなわち、左宮一禰宜安太夫家の祖先の示唆でもあるのでしょう。

 伊勢、信濃、陸奥、と並べば、私は伊勢の地主神「伊勢津彦」を連想します。
 『伊勢國風土記』の逸文によれば、伊勢津彦は「出雲の神の子、出雲建子命」であり、長髄彦と同様、神武天皇の征伐を受けて敗北し、波浪に乗って“東の海”に去ったとされております。
 また、信濃に移住したという説もあります。
 出雲神族の正当な継承者を自称する富當雄さんの語る系譜において、伊勢津彦は事代主命の末裔で、長髄彦の同族でもありましたが―吉田大洋さん著『謎の出雲帝国(徳間書店)』―、伊勢津彦と長髄彦がよく似た境遇の存在として語られてきたことは間違いなさそうです。
 仮に眞山氏が伊勢の眞山御厨を領していて、かつ、伊勢津彦に関係する氏族の裔孫だとするならば、天孫族の東征を受けて斜陽化した彼らが、勝手の知れた父祖伝来の伊勢の神領を管理させられていたということもあり得たのではないでしょうか。

 以前、陸奥國分荘―仙台市内―とアマテル信仰、及び信濃の移民との関係を模索していた際に、陸奥國分荘玉手崎に天神社を創祀し、伊達政宗以前の千代城―仙臺城―の城主の一人としても名が伝わる「島津陸奥守」は嶋津國造一族とも関係があるのではないか、と勘繰っておきました。
 時代によっては伊勢國の内であった嶋津國の國造は、『先代旧事本紀』の『國造本紀』などから、「出雲臣」であったことを知れるわけですが、それはすなわち伊勢津彦の一族でもありました。
 一説に信濃に落ち延びたとされる伊勢津彦ですが、その信濃は同じく天孫族に追われた出雲の健御名方(たけみなかた)命が落ち延びたとされる地でもあります。

 一方、伊勢津彦より先に神武に敗れた長髄彦は、富さんによれば出雲に逃れたということになっておりました。
 しかし『先代旧事本紀大成経―以下大成経―』の記すところでは、陸奥に落ち延び、鹽竈神になったとされております。
 その『大成経』によれば、長髄彦―鹽竈神―は、三韓征伐で皇軍が苦戦を強いられている際、住吉神に督促されて洲輪神―諏訪神?―とともに軍船を司り、功をあげた、ともされております。
 ここには鹽竈神たる長髄彦と諏訪神の接点も見られます。

 また、同じ『大成経』が記す「射甚(いじん?いじみ?)國」には、「鹽土大神」と「長髄彦大神」が鎮座する「鹽?請(しおつち?)神社」なる神社の記載があります。
 その鹽土大神が、仮に鹽土老翁神のことであるとするならば、ここに長髄彦と鹽土老翁(しおつちのおじ)神の接点をも見られることになります。

 紀州和歌浦―和歌山県―の鹽竈神社の由緒には、その鹽土老翁が陸奥塩竈において果てられたがために「はてノ鹽竈」と世に言い伝えられていた旨が語られております。
 「はてノ鹽竈」――。
 塩竈がなんらかの終焉の地、あるいは死後の世界そのものとみられ続けてきたことが窺えます。
 実際に伊勢津彦、長髄彦、鹽土老翁の一個人が、信濃なり陸奥に落ち延びていたか否かはわかりませんが、彼らを代名詞とするなんらかの一団が古代の諏訪や塩竈に落ち延びた事実があった故にこういった伝説がささやかれたことは間違いないでしょう。
 ここでいう塩竈は松島湾一帯を含みます。往昔塩竈といえば広く松島湾全域を指しておりました。
 松島の総地主について知ろうとするならば、やはり鹽竈大神と切り離して考えるわけにはいかないものなのかもしれません。

多賀城八幡沖遺跡と八幡神社

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 先日、平成27(2015)年4月17日付の河北新報朝刊に次のような記事が掲載されておりました。

―引用―
陸奥国府の可能性も 多賀城・八幡沖遺跡
 多賀城市教委は16日、同市宮内の八幡沖遺跡第9次調査の結果を発表した。儀式や宴会用に使う素焼きの土器が大量に捨てられた11世紀後半のものとみられる穴を新たに確認。多賀城政庁が使われなかった時期に当たり、多賀城以後の陸奥国府かその機能の一部があった可能性がある。
 土器はおわんや小皿など60~70点。多くが完全な形で復元できるという。周辺に儀式などを行う場所があったと推測され、儀式や宴会で使用後、清浄さを保つため、まとめて捨てたとみられる。
 八幡沖遺跡は八幡神社を含む南北約370メートル、東西約200メートルの区域。神社の西側約1200平方メートルを調査し、穴は調査区域の南側で見つかった。
 八幡神社は13世紀に今の場所に置かれたとされる。これまでの調査で10~12世紀の土器などが多数出土していた。市埋蔵文化財調査センターの村松稔研究員は「周囲に一般の人が住んだ形跡はなく、不明だった陸奧国府、または国府の機能の一部が置かれていた可能性がある」と話した。
 現地説明会は18日午前10時半。連絡先は多賀城市埋蔵文化財調査センター022(368)0134。

 大変興味のある出土であり考察であり、出来れば現地での説明を拝聴したかったのですが、残念ながら参加できませんでした。
 記事によれば、この地に不明だった陸奥國府、または國府の機能の一部が置かれていた可能性があるとのこと――。
 しかし、そこは東日本大震災の大津波に呑まれた場所です。おそらくは9世紀の貞観大津波の際にも呑まれたことでしょう。時の中央政権は何故そのような場所に國府、あるいは國府機能の一部を設置したのでしょうか。大津波のことを知らなかったのでしょうか。
 いえ、知らなかったとは考えにくいものがあります。
 出土品の推定年代は11世紀後半のものということですが、その約200年前の大津波で多賀城が壊滅した旨は、『三代実録』なる国家の公式な史書にも記されております。
 さらに、「猩々(しょうじょう)―伝説上の生物―」の託宣を得て「末の松山」に逃れた者だけが津波の難を逃れた旨の伝説が、現在に至るまで語り継がれていることもまた事実です。
 また、当該地区の「末の松山」が『古今和歌集』などで「浪が越えない」代名詞の歌枕として用いられるようになった由来が、私の想像どおり大津波から逃れた土民の体験談に起因していたとするならば、恐ろしい津波の情報は当時においてまだ生々しく記憶に残っていたものと考えて差し支えないでしょう。※2010年10月9日付拙記事参照
 まだ現代人のような文明へのおごりがなかった時代、多賀の國府機能を再現しようとする為政者が、ほんの200年前にその府中を壊滅せしめた災害の情報に無知であったとは思えません。
 ここで私が注目するのは、当該遺跡の約200年後、13世紀に今の場所に置かれたとされる八幡神社です。
 まずは、この八幡神社の由緒を確認しておきます。

―引用:『宮城懸神社名鑑(宮城県神社庁)』―
本社は宝永四年火災に罹り社殿並びに社蔵の古記録を失ったので由緒を詳にし得ないが、元正天皇の養老五年諸国に国分寺を建立せられし頃、別当寺磐若寺と共に末松山に勧請したといわれる。又往古豊前国宇佐郡から奉遷した奥羽の古社で、延暦年中坂上田村麿東夷征伐の時数多の軍兵を率いて此地に逗留し建立したともいい、又本社は元松島に在り、類聚国史載する所の宮城郡松島八幡是也。田村将軍多賀城に在る日、之を末の松山に移し建て、以て祭祀に便すともいわれる。里俗末松山八幡宮、興の井八幡等と称した。社傍に田村麿軍兵を屯集せし所と伝える地を方八丁といい、頼義父子賊魁を征するや田村麿の例を以て兵を方八丁に置き此の社を祈って軍功あり、建保年中将軍頼朝其の地を平右馬介(留守伊澤氏の家人八幡介)に与う。右馬介城を末松山に築くにあたり社を今の地に遷した。当時祠田二千石子院二十四、祠官三十人といわれる。伊澤氏領土を除かれ社は遂に荒廃したが、羽州天童城主甲斐守頼澄伊達政宗の臣となり、慶長年中八幡の地に封ぜられるに及んで、伊達家の尊崇極めて篤く、貞享元年六月藩主綱村再造し祠殿を旧に復した。宝永四年の火災に罹った。藩主吉村の社参のことあり今に奉納の短冊並びに鉄砲玉を蔵している。
祠側に騎馬場あり、伝えて千熊の騎馬をしたところという。千熊は田村将軍の子である。現今の馬場は元例祭の折、流鏑馬をしたところであったが今は行わない。郷社に列せられた年月は明でない。明治四十三年三月供進社に指定、後に二社を合祀している。

 この神社名鑑には、おそらく各神社から提出されただろう由緒が掲載されているのですが、時に、神社庁としての所見などが補記されていることがあります。この八幡神社については次のような補記があります。

―引用:前述同書―
膽澤の鎮守府八幡も延暦年中の創祀とする。豊前の宇佐の神を八幡大神と称し僧行教が始めて山城の男山に遷したのは、貞観(八五九)元年であるから田村麿が此の神を勧請すべき理はない。武家の守護神として崇敬し、諸国に移祀したのは頼義親子に始まることである。しかして彼が東国に於ける勢力の標章というべき鎌倉の鶴岡八幡宮は、康平六年(一一一八)に創祀されているのである。尚、方八丁は膽澤城趾にもあり、其の他奥州の処々にある。蓋し上古の城柵であろう。まことに信憑性に乏しい由緒であるが、観迹聞老志、安永風土記書上、封内風土記などの地誌によって書き綴った。

 なるほど、この所見はしごくまっとうであると思います。
 一般に坂上田村麻呂が戦勝祈願したとされるのは十一面観音であり、八幡神ではありません。八幡神を武家の守護神として崇敬し始めたのは源頼義、八幡太郎義家の親子であり、しかもそれを東国においてブランド化したのは鎌倉に鶴岡八幡宮が創始されて以降のことであります。
 ということは、この社はそれ以降に勧請された社であるか、あるいは武神として祀られたものではなかったか、あるいは、勧請の当初においては八幡神を祀る社ではなかった可能性も疑われます。
 穏当に考えるならば、やはり12世紀以降に勧請されたものということになるのでしょうが、猩々の伝説からこの地区に秦氏が居住していたとも想像している私としては、簡単には割り切れません。
 また、八幡地区を流れる砂押川なり勿来(なこそ)川の上流域にあたるお隣り利府町の民間伝承によれば、大津波で流されてきたこの社の御神体を拾い上げて祀ったとされる利府町町加瀬の八幡神社が、俗に「流れ八幡」などと呼ばれ、祭神が通常の八幡神と異なり「大鞆別(おおともわけ)命」であることからすると、あながち八幡神を祀る社ではなかった可能性も否定しきれないところなのです。
 引き続き、考えていきたいと思います。

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震災前平成二十二年の八幡神社

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震災後平成二十七年の八幡神社
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流れ八幡と泥八幡

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 利府町―宮城県宮城郡―町加瀬地区の八幡神社が「流れ八幡」と呼ばれていたのに対し、多賀城八幡沖遺跡の八幡神社は、土地の古老に「泥八幡」と呼ばれていたといいます。
 『利府町誌』はこれについても津波と結びつけて考察しておりましたが、『多賀城市史』はこれを雨に結び付けております。すなわち、例祭である七月十四日に雨になることが多いのでこの名があるのだというのです。
 同市史は、砂押川の上流にあたる南宮(なんぐう)―多賀城市―の八幡社が「浮八幡」と呼ばれていることも併せて触れております。出水のたびに社地が水浸しになることからそう呼ばれていたというのです。
 このあたり、「末の松山」に比肩する当地の歌枕「浮島(うきしま)」にも通ずるものがありそうですが、それはともかく、「泥八幡」の名の由来について、私は『利府町誌』が説くところの津波由来を支持します。
 たしかに、現在でも八幡地区から七北田川下流域の一帯が大雨で冠水しやすいことは事実ですが、例祭のたびに御神体が泥にまみれるというのは現実的ではありません。それでは社人がその対策を怠っていたと言っているようなものであり、一歩間違えば彼らの信心に対する冒涜になりかねません。
 仮に、御神体ではなく、祭りに参加する者たちが泥にまみれるのだ、ということだとしても、神様を“泥”呼ばわりする理屈にはなり得ないでしょう。
 ここはやはり、実際に御神体が泥にまみれる忌々しき絵が人々の記憶に鮮烈に焼き付いたからこそ、その名で呼ばれることになったのではないでしょうか。
 それはすなわち、大津波で鎮守の神様が流されてしまった際の記憶でしょう。

 いずれ、多賀城の八幡神社周辺が大雨で冠水しやすいことは間違いなく、八幡沖遺跡が仮に陸奥國府の痕跡であったのだとすれば、津波に呑まれずとも比較的日常的に水害に見舞われるような地にそれが置かれたということになります。何故そのような場所に國府を置かなければならなかったのでしょうか。
 ここで言う「陸奥國府」を、13世紀頃のいわゆる「多賀國府」と同義に捉えていいものかどうかはわかりませんが、少なくとも多賀國府の候補地としては多賀城市内の新田(にいだ)や高橋から、仙台市宮城野区の岩切にかけてのエリアが有力とされておりました。
 政庁そのものを確定させるような遺跡は見つかっておりませんが、岩切の七北田(ななきた)川―冠(かむり)川―の左右両岸には「河原町五日市市場」があったとされており、そのやや下流の多賀城市新田南安楽寺付近には「冠屋市場」があったとされており、宿に生活し交易に従事する人たちが往来していたと考えられております。
 『仙台市史』はこの二つの市場に挟まれたあたりに多賀國府が存在していたと推察しており、いみじくも河原町五日市場があったとされる岩切の「鴻巣(こうのす)」は「国府津(こうづ)」が転じたものとする解釈もあります。
 はたして今回の八幡沖遺跡の出土がそれらの可能性を覆すだけの痕跡たり得るのか、今後の研究に注目したいところではあります。

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利府町加瀬「八幡神社―流れ八幡―」
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 現地説明会などで詳しい解説を聞いていないので的を外しているかもしれませんが、大量に捨てられていたという儀式や宴会用に使う素焼きの土器は、もしかしたらその土地のなんらかを鎮める継続的な鎮魂なり神事に使われたものではないのでしょうか。

 八幡神社は、13世紀にその地に置かれたとのことでした。由緒等によれば、それ以前には末の松山に鎮座していたということでありました。
 ここでふと、気になる点があります。
 先に触れたとおり、末の松山は大津波から逃れた地であったと考えられるわけですが、その地に鎮座していた八幡神社の御神体がはたして津波に流されたものでしょうか。
 ましてや、より頻度の高い雨ごときで流出するものでしょうか。
 つまり、伝説の元となった頃の八幡神社は、末の松山に鎮座していたわけではなかったのでしょう。

 穏当に考えれば、13世紀以降、現在地に遷された後にそれらの伝説が生まれたとみるべきかもしれません。17世紀には慶長の大津波もありました。
 しかし私は、いみじくも八幡沖遺跡が存在する事実によって末の松山よりも先に現在地に鎮座していたものと想像しております。
 当地に鎮座していた八幡神社、あるいはその前身たるなんらかの鎮守は、9世紀の貞観の大津波に呑まれてしまい、むしろ再建の際に津波を逃れた末の松山に遷されたのではないのでしょうか。
 その後この地を支配する権力者なり國府関係者が、本来そこにあるべき鎮守の跡地を代々鎮め続けていたものと想像します。
 それこそが、今回出土した遺跡の本質なのではないでしょうか。つまり、その遺跡は國府が所在した故の儀式の跡ではなく、その土地神そのものへの切実な鎮めの儀式が行われた跡ではなかったのでしょうか。

 一神社の元位置にそこまでするだろうか、という疑問も生まれるかもしれませんが、その鎮守の神が祟りを為しかねない、あるいは実際に祟りを為したと判断されたならば、十分あり得るでしょう。
 おそらく13世紀に八幡神社を末の松山から現在地に遷した「平右馬介―留守伊澤氏の家人八幡介―」はなんらかの事情を知っていたのではないでしょうか。
 そうでなければ、せっかく安全な地に鎮座している所領の鎮守を、わざわざ浸水し得る地に遷すはずがありません。
 右馬介には、この神を然るべき場所―現在の鎮座地―に遷さなければならない、という強迫観念のようなものがあったのではないでしょうか。

 出土した土器の推定年代の11世紀後半、陸奥に何があったか、と思い起こすならば、前九年の役や後三年の役が終わり、奥羽の実質の支配者であった安倍氏や清原氏が滅んだ時期です。
 すなわち、堀河天皇が鹽竈神社の鹽竈桜について「~櫻の本に海人のかくれや」と御製の歌を詠まれた頃です。
 もしかしたら、八幡沖遺跡の地は安倍氏か清原氏の内の有力な人物の神あがりの地なのかもしれませんし、あるいは、流れ八幡の祭神が「大鞆別(おおともわけ)命」であることから推して、大伴姓の人物のそれかもしれません。
 大伴姓と言っても、道嶋氏を輩出した丸子一族の中に大伴姓を名乗ることを許された人物も少なからず存在しますので、その内の誰かと考えておくのが無難かとは思いますが、陸奥に赴任した国司の中にも、朝廷側に祟る可能性を秘めた大伴姓の大人物がいなかったわけではありません。
 例えば、「伊治公砦麻呂(いじのきみのあざまろ)」の反乱の際、何故か蝦夷側に多賀城まで護送されて生き延びたものの以降史書から消滅した陸奥介「大伴真綱」、あるいは、その後の混乱を鎮めるため陸奥按察使持節征東将軍に任命された「大伴家持」あたりが浮かびます。
 特に家持は陸奥赴任中に他界したとも言われ、しかもその後冤罪で埋葬を許されなかったという顛末が伝えられております。

 もちろん、真実はわかりませんが・・・。
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