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伊豆國の三島:その1―2861分の3の延喜式式内社―

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 卯月のある日、私は静岡県三島市を訪れておりました。
 この日の三島は丁度桜の見ごろでありましたが、あいにくの悪天候で花散らしの雨になるやもしれぬと懸念しつつ、守備範囲の狭い折り畳み傘に身を縮こまらせながらJR三島駅を背にし三島市立図書館に向かいました。この悪天候では本来市内から拝めるらしき富士山などは見えもしませんが、楽寿園をはじめ市街地に点在する親水環境が富士の伏流水によって育まれたものであることを思えば、そこに富士の御影が浮かび上がってくるかのようでもあります。
 なにより、きっとこの伏流水こそがこの地に三嶋の大神を招き、それを中心とした上古来の賑わいを織りなしてきた最大の功労者なのでしょう。

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 図書館を目指したのは決して雨宿りのためなどではなく、大神への御挨拶の前にひとまず郷土史、とりわけ三嶋大神に関する地元での情報に触れておきたかったのです。
 なにしろ、わが故郷の鹽竈神社の最大の謎には三嶋大社の情報もシンクロしております。
 歴史上、神階勲等を授けられた形跡のみられない鹽竈神社は、『延喜式』の「神名帳」にも記載がないにもかかわらず、同じ『延喜式』の「主税式」には陸奥国の正税から一万束の祭祀料をうけていたことが明記されておりました。
 当時全国で正税から祭祀料を寄せられた神社は、ほかに伊豆国三島社二千束、出羽国月山大物忌社二千束、淡路国大和大国魂社八百束の三社がありましたが、いずれも「神名帳」にその名がみえました。しかしその祭祀料は鹽竈神社の一万束に比べて格段の相違があり、国家のこのやや相反するような鹽竈神社への崇敬の意味はどう解すべきか、その謎こそが、私が鹽竈神社を調べはじめた最大の理由であり、「はてノ鹽竈」と銘打つ拙ブログの開設に至ったきっかけでもありました。
 某氏は、引き合いに出された伊豆國、出羽國、淡路國の各国と比べて陸奥國の規模が大きいことから、その正税との比率からすると鹽竈神社のそれを特筆すべきでもない旨のことを語っておりました。
 はて、いかがなものか・・・。
 例えばそれが諸国の國分僧尼寺相互の理屈ならまだわかります。何故なら、國分僧尼寺は聖武天皇の勅によって諸国に遍く建立された寺であり、割かれた寺料にはもしかしたら諸国の正税の大小の差も反映され得たかもしれません。
 しかし、伊豆國三島社、出羽國月山大物忌社、淡路國大和大国魂社の事情は異なります。寺ではないという意味ではなく、数ある神社の中においてもこの三社はそもそも異例なのです。延喜式神名帳に載る式内社は全国に2861社ありますが、正税から祭祀料を割かれていたことが延喜式主税式に明記されていた式内社はこの三例しかないのです。
 そして、その異例の式内三社の合計をも上回る祭祀料を割かれていたのが鹽竈神社なわけであり、それが式内社ですらないという事実、地方分権的思考をあてはめて杓子定規にこれを理解しようとする某氏はこの異常さを認識しているのであろうか、とさすがに首を傾げたものです。
 いずれ、ここに「伊豆国三島社」、すなわち「三嶋大社」の名がみえるわけです。
 わが宮城県北の栗原地区における「伊治」ないし「伊豆」が、この「伊豆國」の「伊豆」に通ずるなんらかの要素があるものかどうかをも含め、自らのなにかしらの気づきを期待しながら私は三嶋大神の元を訪れてみたのでした。
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伊豆國の三島:その2―氏子を抱える祓所神社―

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 三島の街路網は潤沢な湧水や天然の水系の流路が基準となっているのでしょうか概して自然体で、難を言えば実に方位のつかみづらい市街地でありました。
 本降りの雨の中、片手で傘をさして片手で旅の荷物を持っていては地図を開くのも容易ではなく、予習しておいた記憶の地図を頼りに目的地に向かうにもいつしかカーナビに慣れてしまっていた私の左脳には出来ぬ相談となっておりました。そこでせめてもの慣れないスマホのGPS地図を利用したわけですが、カーナビとは異なり自分の向いている方向がつかみづらく難儀しました。傍目(はため)には冴えない濡れネズミのおじさんが雨の中やや薹(とう)が立ちはじめているポケモンGOを楽しんでいるように見えたかもしれません。
 それでもなんとかかんとか三嶋大社の社叢が見えてきましたが、実は予め地図で周辺の地理状況を確認していた際にちょっとした迷いも生じておりました。地図にみえる社殿の並びや御神池や参道の配置からみて、おそらく境内へは南から入るべきものと踏んでいたものの、境内の西側に祓所(はらへど)神社があってそれを経て入る参道らしきものが見受けられたからです。
 となれば、そちらから境内に入るのが筋なのかもしれない・・・、結局その迷いも解けぬうちに濡れネズミのおじさんは祓所神社の脇に到着してしまいました。
 それにしても、一般に祓所神社の類は参道入口の手水所の親分的な佇まいのところが多いのですが、こちらは池に浮かぶ小島にしっかりと確立された拝殿本殿の社殿建築物を構えており、それ自体で神祀りが成立している印象を受けました。これまでお目にかかった中でも、越の彌彦神社のそれや紀伊の玉津島神社のそれ―鹽竈神社―に匹敵する扱いかもしれません。
 この池は、常陸の鹿島神宮の御手洗池のようにここで身を祓い清めてから大神に参拝した名残だろうか、あるいは、下田から遷ってきたとも伝わる三嶋大神自体が、この祓所神社の元となるなんらかの地主神の鎮座地に被ったものなのだろうか、などと考えているうちに、吸い寄せられるようにそこから境内に入ってしまいました。

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 祓所神社の御由緒が掲げられておりましたので拝読してみると、御祭神は、もちろん瀬織津姫神・速秋津姫神・気吹戸主神・速佐須良姫神のいわゆる祓戸四座で、昔は桜川の清流が流れ込み、現在の社殿の立つ島を迂回していたようです。
 この島に國司の廳(ちょう)が祓所大神を鎭斎し、國司の三嶋大神参拝の折には必ず國の卜部をしてお祓いを行わしめたのが起源と傳えられているようで、以来、桜川は祓所川とも呼ばれたようです。
 その昔、此の島の西側には卜部が住んでいたようで、そのあたりの街区は裏町(うらまち)なり祓所町(はらへどまち)なり宮川町などと呼ばれていて、祓所神社の氏子区域となって祭典行事を行っているとのことです。
 由緒を信ずるならば、この祓所神社はあくまで三島の地に伊豆の國府が置かれた後に祀られ始めたものであるということになりますが、なにやら独立した氏子衆が成立しているようでもありますので、気になるところです。
 後にあらためて触れるつもりですが、当地からさほど離れていないところには延喜式神名帳に載る伊豆國田方郡広瀬神社の論社が鎮座しております。
 その鎮座地は明治維新に活躍した小松宮彰仁親王の別邸として造営された楽寿園の内であり、同園は現在入園料の発生する市民公園となっております。そこは富士山の基底溶岩流が生み出した伏流水の湧出地であり、伊豆國府所在地と推定される三島の発祥地はまさにここではなかったかと私は推測しております。

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楽寿園内小浜池対岸から楽寿館を望む

 三嶋大社の祭神は大山祇命と積羽八重事代主神の二柱とされておりますが、『三島市誌』などは平田篤胤ら江戸時代の国学者によるものとされる事代主神説には否定的で、鎌倉時代以来の大山祇命についてもいわゆる人格神ではなく上代の山人による富士山への自然崇拝のそれである旨を力説しております。
 後に触れるつもりなのでここでは深入りしませんが、私は事代主神説は妥当だと考えておりますし、また、内陸の三島の発展が富士山の伏流水の湧出という天然資源によるものとみているだけに、約60ページにおよぶ同市誌の当該論考がこの地の湧水に対する自然崇拝についてはほとんど触れていないことに違和感を覚えております。

 ともあれ、引き続き三嶋大社の境内に歩を進めたいと思います。

伊豆國の三島:その3―三嶋大社の境内と祭神論争―

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 広葉樹の社叢に覆われた三嶋大社、祓所神社側からの参道をすすむと、右手に緋鯉真鯉が群雄する本来の御神池がみえてまいります。
 『類聚国史』には、この池の枯渇が天下の旱魃の兆しとなっていることを憂いて三嶋大神を鎮祭している旨の記事が天長四(827)年と元慶七(883)年の二度ほどあります。すなわちこれは三嶋大神が当地の湧水への崇敬と密接であることを示唆するものと思われ、留意すべきでしょう。
 源頼朝が放生会を行ったとも伝わるこの池には、北条政子が殊のほか崇敬していたと伝わる厳島神社が浮かび、朱塗りの柱に白亜の壁面が社叢の緑に映えております。
 時節柄、満開の桜も見事で、悪天候の鬱々とした風景を鮮やかに彩っておりました。

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 厳島神社への御挨拶を済ませ、総門の前に立つ私を惹きつけたのは、出雲を思わせる重厚な注連縄でした。三嶋大神の拝殿ならびに本殿は、その如何にも強力に張られた結界の内に堂々とした貫禄をもって構えております。社誌によれば、それら豪壮な社殿群は総欅素木造りなのだそうです。注目すべきは拝殿の奥にある本殿です。境内の説明板には、「全国的にみて拝殿の大きな神社は数多いが、本殿の大きさは出雲大社とともに国内最大級~」とあります。

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 三嶋大社は元の官幣大社で、延喜の制には名神大に列せられておりました。単に伊豆國一之宮にとどまらず、関東総鎮守、さらに境内に掲げられた由緒に「爾来日本総鎮守と仰がれ~」などとも記され、これでもか、というほどの大社ぶりを見せつけております。なにより、先に触れたように延喜式主税式において全国に四例しかない正税から祭祀料を割かれていた神社なわけでありますから、その格の高さは疑いようもありません。
 何故、三嶋大社はかくも手厚く国家から厚遇されるに至ったのでしょうか。山人の自然崇拝としての大山祇命信仰という側面だけからでは説明のつかないことです。
 『三島市誌』が最終的に説きたいところは、伊豆三島神こそが富士山を中心とする山祇の祖であって、伊豫三島神なり摂津三島神なりは伊豆のそれから分祀されたものか、いずれ伊豆より後に成立したものであるという部分であるようです。
 なるほど、それであればこの社が別格となる意味もわかろうというものです。
 では、何故それほどの有力社に平田篤胤の事代主神説が紛れ込み、それが現在の祭神にも併記されているのでしょうか。
 同市誌によると、『東関紀行』や『源平盛衰記』などの記述が、伊豆の大山祇命が伊豫大三島から遷祀を受けたるがごとき錯覚を与え、史上の眼を覆った、とのことで、明治四年に官幣大社に列せられた後、元韮山県神社調査係の萩原正平が「二十二社本縁」説を提唱し、祭神八重積羽事代主命たるべきを教務省に上願し、受理されたようです。
 その後、大正時代に至って再び祭神考究の議が起ったため、内務省神社局も旧来の大山祇命説を容認せざるを得なくなり、第二次大戦後の昭和二十二年、大山祇命説を支持する伊豆三嶋大社の矢田部盛枝宮司が旧祭神大山祇命を以て現祭神事代主神と二座主神の祭祀を営みたき旨の伺書を宮内省および神社庁に提出したようです。もとより異議のあるはずのない当局はそれを許可した、という顛末があったようです。
 したがって、平田篤胤ら江戸時代の国学者による事代主説が正当な座まで浮上したのは伊豫神人の僭称を払拭せんがための萩原先覚の崇高なる祭祀精神の賜物であったようなのですが、はたして、そういったことでもない限り、事代主神は祭神としてふさわしくないものであったのでしょうか。
 「三嶋」は、一般に伊豆諸島を指す「御島(みしま)」に由来するといいますが、山人による自然崇拝を主張する『三島市誌』はその海島的な由来は「採るに足らない妄説」として、富士山を中心に山神大山祇を祀る旧相模の三つの州(さと)、すなわち、「安思我良(あしがら)」、「珠流河(するが)」、「賀茂(かも)」なり、「伊豆」、「相模」、「駿河」、の「三州(みしま)」こそが正しいとしております。
 当然ながら、事代主神に縁のある摂津国の三島ないし三島氏に由来するものであるはずはなく、それらに結びつけようとするのは江戸時代以降の事代主神説を唱える者のこじつけとも言われます。
 しかし、はたしてそうなのでしょうか。
 『三島市誌』が挙げた三つの州(さと)の内には「賀茂」という地名もありますが、賀茂も事代主神と密接な言霊です。他でもない『延喜式神名帳』には伊豆国“賀茂郡”の三島神とあるのであり、平田篤胤の事代主神説のはるか以前の延喜年間(901~923)には既に賀茂という地名があったわけです。
 また、楽寿園内に鎮座する式内論社の広瀬神社と同名の大和盆地の廣瀬大社は、いうなれば畿内における事代主神信仰の地盤ともいうべき葛城の勢力圏に鎮座する名神大社です。
 『三島市誌』の説くところは納得できますし、三嶋大神はなるほど山人の自然崇拝に起源があるのでしょう。
 しかし、なんらかの形で事代主神の属性が関わっていて、それが故に本来地方的な三嶋神祭祀が国家的な神祀りにまで昇華したのではないでしょうか。
 そのあたり、少々気になることがあるので、引き続き考えていきたいと思います。

伊豆國の三島:その4―相模國府と賀茂三島郷―

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 『三島市誌』は、伊豆國の建国の顛末について次のように論じております。

―引用―
 伊豆は成務天皇以前には駿河と共に相模国内の一個の単位郡であった。それが成務天皇の御代には、物部連祖、大新川命の子、片堅石命が駿河の国造と定められ、伊勢津彦命(伊勢の国魂神)三世孫、武彦命が相模国造に任命されたので、ここに相模国(佐賀牟国)は二つに分立して駿河、相模の二国として成立したのである。併し此の時代、未だ伊豆は一国をなさず駿河国に属していたが遂いに神功皇后の時、物部連祖、天蕤命―天御桙命(あめのみほこのみこと)―、八世の孫、若建命が伊豆国を賜って国造に定められた、よって此の時はじめて伊豆国の建置、建国が成ったのである。然るに数百年後の難波朝、孝徳天皇の時には駿河国と併合し、概略三十年後の飛鳥朝、天武天皇九年秋七月には駿河二郡を両別して伊豆国を置いた。この伊豆国は三嶋大社を中心とする賀茂の郡(或は賀茂郡)によって成立し、駿河国は浅間神社を中心とする珠流河の郡(或は珠流河郡)によって成立した。従って伊豆国は延喜式に載せるが如く、田方、賀茂の二郡制ではなく、賀茂郡一郡が伊豆国であった。駿河国に於いても富士駿東の二郡制ではなく、珠流河郡一郡が駿河国であった。(富士川以西は蘆原国で今の庵原郡庵原村が国の中心地である。)
 伊豆三嶋大社は、豆相駿分立前(成務天皇以前)に於ける相模国一国の主権の下に国の真柱として創建された。(駿河国風土記は垂仁天皇十九年、伊豆三嶋神出現とし惣国風土記には、駿河は割威豆国而為分国と記している)右に駿河湾を、左に函嶺を指呼の内にし、正面に広潤たる田野と一衣帯水の狩野川、或いは天城の連峰を望み、背後に霊峰富士をひかえた天恵の地に鎮座したことは極めて自然の姿であり、相模国の中心を為す地形は賀茂郡三嶋郷以外にないのである。拠って相模国の国府とも称すべき祭政の治所は三嶋大社附近に存在したと思考され、賀茂の地名も此処に多く残されているのである。今、神社東方の地は、賀茂川を隔てた元山中に至る山地を形成しているが、上賀茂、下賀茂、(賀茂の洞)天神原、祇園原、又、西方の地には(水上)賀茂郡三島と陰刻せる古碑が西福寺境内に存在する。これらは明白に上代に於ける賀茂郡の中心であることを証しているのである。

 長々と引用させていただきましたのは、ここに大変重要な示唆が含まれていると考えたからに他なりません。私が着目した部分を列記してみます。

・伊豆は成務天皇以前には駿河と共に“相模国内”の一個の単位郡であった

・成務天皇の御代、物部連祖、大新川命の子、片堅石命が駿河の国造と定められた

・成務天皇の御代、伊勢津彦命(伊勢の国魂神)三世孫、武彦命が相模国造に任命された

・成務天皇の御代、伊豆は未だ一国をなさず駿河国に属していた

・伊豆三嶋大社は、“豆相駿分立前(成務以前)”に於ける“相模国一国の主権の下に国の真柱として創建”された

・“相模国の中心”を為す地形は“賀茂郡三嶋郷”以外にない

・“相模国の国府とも称すべき祭政の治所”は“三嶋大社附近に存在”したと思考され、“賀茂の地名も此処に多く”残されている

 なにやら三嶋大社の鎮座する賀茂三嶋郷は、相模の首府であったものの、何故か成務天皇の御代に分立した駿河國側に振り分けられ、後にその駿河國からも分けられ、新たに建て置かれた伊豆國の核となったようです。
 「相模国の国府とも称すべき祭政の治所」という理屈からすれば、駿河國分立前に三嶋大社を管掌していたのも相模國造家であったとみるのが自然であり、それはすなわち、三嶋大社が「伊勢津彦」の系譜によって管掌されていた可能性が高いという意味になってしまいます。
 おそらく市誌の執筆者にはそのような論のつもりなどなかったことでしょうが、換言するならば、当時の三嶋大社を管掌していた氏族は現在の宮司家に連なる物部連同祖系譜の伊豆國造家ではなかった可能性が高いことをも意味します。
 もちろん、政治を伊勢津彦系譜、神祀りを物部連同祖系譜というように分業されていたことも考えられるわけですが、その地の地名が賀茂であった現実は伊勢津彦系譜の祭政の府であった可能性を補強します。
 何故なら、伊勢津彦は『伊勢國風土記』の逸文に「出雲の神の子、出雲建子命」とあり、『播磨國風土記』にも「伊和―三輪―の大神の子」とあるわけで、少なからず賀茂を代名詞にまとう事代主神と出雲神族として属性を共有し得る存在であるからです。
 伊勢津彦については、神武天皇の東征時、長髄彦の討伐とほぼ同時期に伊勢の地を追われ東の海に去ったことが『伊勢國風土記』逸文によって伝えられておりますが、三世孫の時代には相模に土着して新たな繁栄をみていたのでしょう。
 先に触れたとおり、三嶋大社に近い楽寿園内には伊豆國田方郡の式内廣瀬神社の論社が鎮座しているわけですが、『日本書紀』に広瀬の水神として登場する大和國廣瀬郡の同名の式内大社広瀬坐和加宇加売命神社―現:廣瀬大社―について、大和の民衆がその実態をニギハヤヒの妻トミヤビメに仮託したナガスネヒコを祀るものと認識していた―田中八郎さん著『大和誕生と神々(彩流社)』―らしいことは看過できません。
 ちなみに『わが悠遠の瀬織津比(河出書房新社)』の内海邦彦さんや『エミシの国の女神(風琳堂)』の菊池展明さんが引用したところの李沂東さんの『高天原は朝鮮か(新人物往来社)』によれば、伊豆の広瀬神社にはかつて瀬織津姫神が祀られていたとのことでした。
 おそらくは、賀茂三嶋郷の開拓者がその水神を祀ったのでしょうが、伊勢津彦の裔にせよ物部連同祖氏族にせよ、それははたして当地の湧水の恵みへの崇敬の感情のみであったのか、あるいは同朋鎮魂の感情も込められていたものか・・・。

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楽寿園内の広瀬神社

 伊豆の式内廣瀬神社の論社は、三島市から南に約12~3キロ離れた伊豆の国市田京にも存在するのですが、同社が祭神を「溝樴姫(みぞくいひめ)命」とするのは、なんらかの事情で瀬織津姫神の神名を憚り、せめてもの皇后の示唆として神武天皇の皇后たる「姫蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)命」に寄せつつ、その母「玉櫛媛命」の実家、すなわち事代主神の舅たる「三島溝樴耳(みしまみぞくいみみ)命」の名を差し挟むことで回りくどく事代主神としての三嶋大神に縁があることを表現しておいたのでしょう。
 同社の社伝では、「三嶋大社はその昔下田の白浜からこの地に移り、後に三島に遷祀した」とのことでした。
 また、その下田白浜で「伊古名比(いこなひめ)命」なる女神を主祭神とする「伊古名比神社」は、『三島市誌』によれば、社号変更前の白濱神社当時は、伊豆三嶋大山祇神を主神に、伊古名比神を配神に祀ったものであったとのことですが、伊豆諸島開拓神としての三嶋大神の后神と伝えられていたようです。
 なにやら、三嶋大神は三宅島から伊豆本土の白浜に渡ってきたと伝えるもので、三嶋大神を富士山への自然崇拝的な山祇信仰に由来すると説く市誌は「卜部家と関係の深い三宅神人壬生一族による祭神操作及び伊予河野族(越智族)の本島侵入による神位僭称が斯様な結果を生じたものである。従って、この社を古伝の姿に再現するには、伊豆三嶋新宮白浜大明神と称さるべきが至当である」とこれを痛烈に批難しているわけですが、思うに、それらは相模國造家の軌跡、極言すれば伊勢を追われた伊勢津彦一派の軌跡を元に神話化されたものではないでしょうか。

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伊豆の国市田京の広瀬神社(旧:深澤神社)
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 三嶋大社の始原はたしかに市誌が力説するごとく富士山を中心とした素朴な山祇信仰にあったのでしょう。そして祭神の大山祇命もそれに由来するのでしょう。
 しかし、そこに当地を治めたと思しき伊勢津彦一派による祖霊祭祀の要素が加わり、故に三嶋大神に事代主神祭祀の一面が生じたのではないのでしょうか。
 出雲神族の継承者と思しき斎木雲州さんは、『出雲と蘇我王国(大元出版)』の中で、タケヌナカワワケが「三島の地名をつけ、三島神社を建て祖先の事代主命を祭った」と語っておりました。
 仮に、斎木さんが語る如く四道将軍のうち北陸道を進んだ「大彦(おおびこ)命」が長髄彦のことであったとするならば、もしかしたら東海道を進んだ「武淳川別(たけぬなかわわけ)命」は伊勢津彦のことであったのではなかろうか、などと想像しつつ、大和朝廷が土俗神でしかなかった三嶋大神をかくも厚遇せざるを得なかった事情もそのあたりにあったのではなかろうか、などとも夢想するのです。

伊豆毛

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 「伊豆(いず)」という地名なり言霊なりの由来には幾通りかの説があるようです。
 海に「出(いず)る」半島の形状に由来するとする説、同様にアイヌ語で岬を意味する「エトゥ」に由来するという説、温泉が豊富なことから「湯出(ゆいず)る」に由来する説、同様の由来であろう熱海の「井津(いつ)」の表記が変ったという説、はたまた、忌み恐れられた火山活動が古来斎(いつ)き祀られてきたことなどからの「斎(いつ)」に由来するという説、同様に、荒魂なり祟り神的な意味を包摂する「厳(いつ)」に由来するという説、委奴国(いとこく)に縁あるとする説の延長から「委奴(いと)」に由来するという説、「出雲」の万葉仮名表記「伊豆毛(いづも)」に由来するという説、などなど・・・。
 賢しらに列記はしてみたものの、ウェブ上でさらりと検索してみただけで各々の詳細を検証したわけでもないので無責任な批判をすることは避けておきますが、「伊豆毛」という万葉仮名が実在していたことについては倉野憲司さん校注の岩波文庫版『古事記』の巻末に古事記所載の歌謡全句の索引があって、なるほど、「出雲健が」は「伊豆毛多祁流賀」、「出雲八重垣」が「伊豆毛夜弊賀岐」と表記されていたことがわかります。
 尚、私論ながら、陸奥國栗原郡―宮城県―には「天香語山」に関係する「「比治(ひじ)≒伊治(いじ)」が訛って「伊豆(いず)」となったと思しき事例もありますが、はたしてそれが伊豆國―静岡県―にもあてはまり得るものかはわかりません。
 いずれ私見としては、伊豆國が伊勢を追われた出雲神の裔孫たる伊勢津彦一族の新天地であったらしきことや、その彼らが事代主神を祀る三島大社を創建したものとみるならば、「伊豆毛」なる万葉仮名表記によらずともその韻が出雲に由来しているとみることは至極妥当ではなかろうかと思っております。
 一方で、古来伊豆が遠流(おんる)の地であったこと、例えば、文武天皇三(699)年には怪しげな言葉で人民を惑わせたという讒言によって「役小角(えんのおづの)」が、承和九(842)年には恒貞親王を擁して謀反を企てたとされる「承和の変」の濡れ衣で「橘逸勢(たちばなのはやなり)」が、貞観八(866)年には平安京大内裏の南面正門たる応天門を放火した「応天門の変」の主犯として「伴善男(とものよしお)」が、さらに下って 永暦元(1160)年には「平治の乱」における敗軍の重鎮源義朝の子として「源頼朝」が伊豆に流されております。
 このように白鳳時代から平安時代に至っても尚伊豆が重大な政治犯の流刑地とされていたことを鑑みるならば、それはいわば古来切り離せない宿業とでもいうべき伊豆ブランドのアイデンティティであり伊豆の存在そのものとみてもあながち間違ってはいないでしょう。
 伊豆國が成立したとされる神功皇后の時代、既に三島大社は創建されていて前期相模國も成立していたわけですから、朝廷からみてまるっきり化外の地ということでもなかったことでしょうが、それでも平安時代以前の朝廷からみた伊豆はただただ遠流の地であったことでしょう。
 ある意味では後の伊豆國を包括する相模國造家の祖たる伊勢津彦にこそ当地の遠流の起源をみるべきものなのかもしれませんが、古代の政治犯などというものは得てして旧体制の実力者が新体制によって無実の罪を着せられていた事例が多いわけであり、いずれその周辺の活発な火山活動への忌み恐れは、彼ら冤罪の輩の怨念に対す新体制側の忌み恐れを投影し得るものでもある故、「斎(いつ)」説なり「厳(いつ)」説についても捨てがたいものがあります。
 少なくとも三島大社への別格な待遇にはおそらくそういった思惑が反映されていたことでしょう。

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 そもそも「出雲」の語源自体が「斎(いつ)」なり「厳(いつ)」に包摂され得るものではなかろうか、という思いも頭をよぎります。
 『古事記』において、「伊邪那岐(いざなぎ)命」が亡き妻「伊邪那美(いざなみ)命」を追って踏み入ってしまった「黄泉(よみ)の国」から逃げかえり禊ぎをしたときに生まれた神の中に、「伊豆能賣(いずのめ)神」の名がみえますが、岩波文庫版『古事記』の注釈はこれを―「厳の女」の意か―と記し、次田真幸さん全訳注の講談社学術文庫版に至っては―「厳(いづ)の女(め)」の意で、「禍を直す女神であろう」―と記しております。
 『古事記』は伊邪那美命が出雲国と伯耆国の境に葬られたとしておりますが、講談社版は「黄泉国を出雲国にあるとする思想と関連があるであろう」と解説しております。
 倉野さんや次田さんのような権威ある識者が「伊豆」を「厳(いつ)―禍(まがこと)―」の表記例であるとみるのは、記紀における出雲の立ち位置への鋭い洞察が働いた上での結論であるのでしょう。
 ところが、実は当の出雲側には全く意外な伝承があるようです。
 『出雲と大和のあけぼの(大元出版)』の著者で出雲神族の継承者と思しき斎木雲州さんによれば、イザナギ命が禊ぎをした時に生まれた「伊豆能売(いずのめ)神」は本来「出づの芽の神」なのだそうです。
 そもそも「出雲」とは、日本で初めて文化の芽が出た土地、「芽が出づる国」への誇りを表わす「出づ芽(いづめ)」が語源と考えられているようです。
 これには全く意表を突かれました。単に斎木さんの希望的由来譚ではなかろうか、などとも思ったのですが、出雲族の祖霊神たるサイノカミが、いみじくも「出づの芽の神」とも呼ばれていたのだといい、また、出雲では大祭の最後に一同そろって永遠(とわ)の弥栄(いやさか)を祝う万歳三唱をする際、「イヅメ!イヅメ!イヅメ!」と唱和していたというのですから、さすがにそこまで具体的な習俗的事例を突き付けられてしまうともはや信ずるしかなさそうです。
 大和朝廷が出雲に抱いていた後ろめたさは出雲自体を黄泉の国として忌み恐れさせてしまっているようですが、それによって出雲における縁起の良いはずの言霊までもが全く逆の意味に変質してしまっているのだとしたら、なんとも皮肉で哀しいものです。
 ふと、宮城郡の式内社「伊豆佐賣(いずさめ)神社」も、もしかしたらその「出づの芽の神」なる出雲の祖霊神「サイノカミ」であったのではなかろうか、という思いもよぎります。
 同じ陸奥国の栗原郡―現:宮城県栗原市―を中心とする宮城県北の「伊豆」が「伊治」と混乱していること、「伊治城」のことと思しき「此治城」と記された漆紙文書が多賀城から出土していること、伊豆佐賣神社鎮座地の「飯土井」の地名などを鑑みるならば、ここでの「伊豆」は出雲というよりも天香語山に関わる「比治の眞名井」の「比治―伊治―」に由来するとみた方が自然だとは思うのですが、これだけ名称の酷似する両者を全く異質なものと捉えるのも不自然な気がします。
 もしかしたら、「比治」も本来は出雲につながる「出づ」であったのでしょうか。
 なにしろ、天香語山の母「天道日女(あめのみちひめ)命」は、『海部氏勘注系図』や『播磨國風土記』において、「大巳貴(おおなむち:大汝)」の子とされております。
 つまり天火明―饒速日―の子とされる天香語山の母系が出雲神族であることを鑑みれば、それもあり得ないことではないでしょう。
 しかし斎木さんは、前述書の中で『丹後風土記』を引用して天香語山縁の「比治」が「泥(ひじ)」に由来することを述べております。
 より多くの類例をもって検証する必要はあるものの、やはり現段階では伊豆と比治―伊治―は別物とみておくべきなのかもしれません。

鹽松勝譜をよむ―松島四大観と舟山萬年―

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 日本三景松島には、「松島四大観(まつしましだいかん)」と呼ばれる四方からの眺望地があります。
 すなわち、松島湾東の「大高森」、西の「扇谷(おおぎだに)」、南の「多聞山(たもんざん)」、北の「富山(とみやま)」の眺望を、各々「壮観―もしくは雄観―」、「幽観」、「偉観―もしくは美観―」、「麗観」と礼賛するところの総称的表現であるわけですが、これは、塩竈・松島を愛してやまなかったのであろう仙臺藩の儒者「舟山萬年―舟山光遠―」が文政五(1822)年に著した『鹽松勝譜(えんしょうしょうふ)』なる地誌に端を発しているものと思われます。
 舟山萬年は、同書の「多門山―多聞山―」の項において「山上ノ眺ム所。東南ノ美極マル。蓋シ鹽浦松島ノ地。曲岸回渚連抱四合。穏然トシテ一大環ノ如シ」と賞賛し、その返す刀で「扇渓―扇谷―」「富山」「大高峯―大高森―」を「最モ顕ル者」として列記しております。
 また、各々の項においても繰り返し「鹽松還海四山ノ一ニシテ」と説き、ここに松島四大観の原型が生じたものと思われます。
 『仙臺叢書』編集主任であった鈴木省三は、明治四十(1907)年に「佐澤廣胖(さざわこうはん)」によって校訂された『鹽松勝譜(香雪精舎)』を、大正十五(1926)年に『仙臺叢書別集第四巻―解譯鹽松勝譜―』としてあらためて編集・発行したわけですが、その際に当該巻冒頭の「解題」において、「舟山萬年。~略~。而して松島の四大観を定む。曰く扇渓の幽観。曰く富山の麗観。曰く大高峯の雄観。曰く多門山の偉観是なり」と解説しております。宮城県教育委員会などは「四大観」の名称そのものの初出は舟山萬年ではなく鈴木省三のそれであろうと推察しております―『特別名勝松島保存管理計画』参照―。妥当でしょう。

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扇谷より

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富山より

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大高森より

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多聞山より

 さて、特に四大観のことを調べようと思ったわけでもないのですが、私はこのほどその『鹽松勝譜』、いえ厳密には『仙臺叢書別集第四巻―解譯鹽松勝譜―』をあらためて入手いたしました。ここにきてあらためて幻の「東鹽氏」について向き合ってみたくなったのです。
 かつてこの地誌をはじめて手に取ったのは拙ブログを開設する前のことで、明治八(1875)年当時の権宮司「遠藤信道」の『鹽竈神社考』に多大なる影響を与えていたとされる『東鹽家(ひがししおや)文書』に興味があってのことでした。
 遠藤信道は、鹽竈神社の神職として孫ほどの後輩にあたる大正十五(1926)年当時の宮司「山下三次」の『鹽竈神社史料』の中で痛烈に批判されていたわけですが、その批判の中で「東鹽家に傳はれる古文書に付ては、舟山萬年の鹽松勝譜第二、多賀神祠の條に、東鹽氏傳曰。云々を引用せるものにして、東鹽家そのものゝ存在も怪しく、随つて、その古文書なるものも、頗る疑はしきものなり」と『鹽松勝譜』が引き合いに出されておりました。なにやら、東鹽氏の存在は、『鹽松勝譜』と遠藤信道の論考にしかみられないもののようです。
 山下三次の説くところは、江戸期から昭和にかけての歴代神職の論考と比べて最も理性的かつ客観的であったかに思えます。少なくとも方便のように「鹽土老翁神」に落ち着きつつあった別宮祭神について、縁起ではあくまで「岐神」であることを強調弁駁して憚らなかったわけでありますから、伊達綱村の定めた縁起を最も尊重していた宮司であったことは間違いないでしょう。
 とはいえ、偽書と断罪されて切り捨てられてしまうとむしろ気になってしまうタチの私は、宮城県図書館に出向き『鹽松勝譜』を手に取って目を通してみたのでした。
 しかし、あまりに予備知識に欠けていたこともあってか、当時の私には退屈な内容でしかなく、要領を得ぬままコピーをとることもなく返却をしてしまいました。後にブログ開設に至り、記事の展開上東鹽家に触れる段階になった折も、遠藤信道の『鹽竈神社考』や山下三次の『鹽竈神社史料』の記すところで足りると思われたため、あらためて『鹽松勝譜』を顧みることもありませんでした。
 ところが何を思ったのか、ここにきてあらためて東鹽氏について考えてみたくなり、気が付けば「日本の古本屋」さんを通して『鹽松勝譜』を発注しておりました。
 東鹽氏は実在したのか否か、仮に架空の存在であったにしても、それが少なくとも遠藤信道によって創作された存在でなかったことは半世紀も遡る舟山萬年が取り上げていたことからあきらかです。
 遠藤信道は如何なる事情があって斯くも熱烈に東鹽氏の家伝を支持していたのであろうか・・・。
 また、仮に実在していた氏族なら、何故史料からまるっきり消えてしまったのであろうか・・・。
 現時点で特段の私論が固まっているわけでもありませんが、あらためて全編を通読してみて幾つか興味深い情報もありましたので、真偽のほどはともかく備忘録を兼ねて取り上げておきたいと思います。

鹽松勝譜をよむ:その2―印象に残った20の譚―

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 舟山萬年の『鹽松勝譜』―厳密には鈴木省三編『仙臺叢書別集第四巻―解譯鹽松勝譜―』―の全体をざっと通読してみたわけですが、その中で印象に残った譚を20例に絞って挙げておきます。

1、「千賀(ちが)」の由来

2、鹽竈神起源御釜社説

3、荒脛(あらはばき)神の鎮座地

4、東鹽氏の傳

5、先代旧事本紀大成経のこと

6、松島葉山神祠の山上の怪異

7、上岡・下岡の東明神・西明神

8、松島最古の松島八幡

9、高城川河口に鹽場を開いた松島明神―紫明神―

10、紫山と藤崎

11、富山から望めた富士山
 
12、天橋立のごとき東名の景観

13、鹽竈神の馬を葬る天満崎

14、母子石の安倍宗任伝説

15、十三塚

16、浮島と多賀神社

17、留潮天神

18、西宮志波彦神社説と冠川

19、青麻神社と常陸坊

20、蛇崎と松島明神

 しばし、これらへの所感などを綴ってみようと思います。

鹽松勝譜をよむ:その3―千賀の由来―

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1、「千賀(ちが)」の由来
 塩竈湾には「千賀(ちが)ノ浦」という別名があります。甲子園大会の常連校である仙台育英高校の校歌でも耳にしますが、江戸後期の旅行家「菅江真澄」などはこれを「血鹿の浦」と表現しておりました。
 『鹽松勝譜』は、その「ちが」を「千家」と表記し、家がおよそ千戸あったから「千家鹽竈」という俗称が生じた旨を記しております。
 その由来が正しいのか否かは定かではありませんが、「千家」という表記だけみると、「千利休」を祖とする茶道の家元、あるいは出雲國造家末裔で現在も出雲大社の祭祀者である「千家(せんげ)氏」なども想起せられます。特に後者については鹽竈神社の属性に見え隠れする出雲色を鑑みてもそれらしくこじつけられそうです。
 しかし、その方向には今一つ私の嗅覚が反応しません。
 何故なら、千家氏が千家を名乗り始めたのは祖たる出雲國造家が「北島氏」とに分かれた南北朝の頃であり、であればそれは留守氏が鹽竈神社を管掌し始めた以降のことでありますので、もしこの一族が塩竈の俗称に影響を及ぼし得るなんらかの事績を残していたのであれば『餘目記録』など留守氏の記録にその情報があっても良いはずだと思うからです。ましてや、さらに時代が下る千利休などは言うに及ばずでしょう
 ひとつの憶測として、もしかしたら筑前―福岡県―の「志賀(しか)」に由来している可能性はなかろうか、という思いはあります。
 『万葉集』に「志賀の海人は藻刈り塩焼きいとまなみ~」という歌があるのですが、いみじくもこの古代製塩の形を現代に伝えているのが鹽竈神社の例祭における「藻塩焼神事」であります。
 筑前といえば、「前九年の役」の戦後処理で、奥州の雄「安倍宗任」が最終的に「筑前大島―福岡県宗像市―」に配流されております。宗任はその地にて生涯を終えたようです。そこは宗像大社の中津宮が鎮座する島ですが、宗任は私的に「松島明神」を祀っていたようであり、宗任にとって松島が望郷の地であったことは想像に難くありません。
 そもそも、何故宗任は伊予に流され、その後筑前に再配流されたのでしょう。
 もしかしたら、古来大陸交通の要衝を鎮護し強大な存在感を示し続けていた宗像大社管掌勢力と陸奥安倍氏の間に顕在化が憚られるいわば禁忌的な海人の絆があり、その絆に対して朝廷側が忖度(そんたく)を働かせたのではないでしょうか。
 仮に憶測どおり塩竈を指す千賀が志賀に由来していたとするならば、それは「前九年の役」の首魁を宗像祭祀の下に収束させた不文律の情報と同根のものが地名に影響したものとは考えられないでしょうか。
 ちなみに、鹽竈神社に派遣されていた在庁官人に「志賀氏」の名が見えます。
 古川左京の『鹽竈神社史』所載の「志賀家関係記録」には、「志賀家は在廳官人の末裔にて社人の列に入れるものなれば自ら勢力ありて、留守家時代には其の勢力を代表せしかば、一の禰宜以下の社人全部其家に出入して之を尊重せしが如し。従つて伊達家時代に入り所領を召し上げられしも、猶ほ社人の筆頭なりき」とあって、一時は相当の権勢を誇っていたようです。
 太田亮の『姓氏家系大辞典(角川書店)』の記述から、この志賀家は藤原姓と思われますが、『鹽竈神社史』所載の志賀家の由来には、人皇十四代仲哀天皇の御世に鹽竈大明神が陸奥に下向された際、志賀家の祖「志賀兵衛介」がその第一の臣として随伴していた旨が伝えられております。
 さすがにそれをそのまま信ずるにはためらわれますが、鹽竈神社に「志賀」の言霊となじみ得るなんらかの属性があったればこそ中世以降の藤姓在庁官人の何某かが志賀を名乗り始めたということはあり得るでしょう。
 もちろんあくまで憶測であり、結局は『鹽松勝譜』が記すところの「家凡そ千家故に千家鹽竈ノ名アル也」というベタな地名由来がそのまま真実なのかもしれませんが・・・。

※ ちなみに、この俗伝をとりあげた舟山萬年自身は「何ソ啻ニ千家ノミナランヤ」と所感を付しております。

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多聞山より千賀ノ浦を望む

鹽松勝譜をよむ:その4―御釜神社鹽竈神起源説:前編―

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 『鹽松勝譜』は、「神竈祠―御釜神社―」の項にて、「神廟ヲ去ル南二丁餘。店ノ間ニ祠アリ之ヲ祀ル。蓋シ古昔ハ神廟此地ニアリ當時神釜ヲ以テ神ノ體トナスト、僧宗久東遊紀行ニ見ユ」、すなわち、宗久の紀行文から鹽竈神社は元々御釜神社の地に鎮座していたとする説を主軸としております。
 舟山萬年はここで宗久を引き合いに出しているものの、その後の記述などを鑑みるに、むしろ『奥羽観迹聞老志』の佐久間洞巌の説くところに大きく影響を受けているようです。
 『鹽松勝譜』は、鹽竈神社の祭神については、基本的に左宮:武甕槌命、右宮:経津主命、別宮:岐神、と仙臺藩主四代伊達綱村の定めた「元禄縁起」に則っているのですが、岐神については、元禄縁起が別宮祭神の一説に同体異称として掲げるところの、猿田彦、事勝国勝、鹽土老翁、岐神、興玉命、太田命のいわゆる「鹽竈六所明神」六座のうち、興玉命、太田命を除いた三座―岐神を含めて四座―と、縁起にはみえない鹽屋王子、道祖神とその妻神、さらには志波彦神の四座を加えた七座を同体異称の神として括弧書きに添えてあります。
 つまりこれは岐神を数えれば計八座を同体異称とみるものであり、あきらかに六所明神の「六」という数なり言霊なりへのこだわりなどなく、総社説の方便となり得る語呂合わせ的な「禄所(ろくしょ)」論に展開する気配はみじんもなさそうです。
 このような『鹽松勝譜』が、“鹽竈神社の前身”と説くところの「御釜神社」について、同書の当該項に次のように記されております。

―拙くも意訳―
 僧宗久は東遊紀行にて次のように語っている。
 「日暮れ鹽竈浦に至り神廟に謁したところ、その御神体は塩の釜であった。そこで廟前に座って夜を徹した・・・云々」
 御釜神社の縁起によれば、鹽土老翁神はこの浦に初めて神降り、塩を焼く術を民に教え、それ故にこの浦は鹽竈浦と称されたようである。その塩の竈―釜?―は今尚存在している。
 佐久間洞巌は、鹽竈社址考にて次のように語っている。
 この器はまさしく太古神代の遺産で、その悠久なることは三種の神器にも引けを取らない。その尊きこと神代に神明が造りしものであり、その貴重なこと人間が塩を煮る実利を得た起源のものである。どうして王権の象徴のごとくあらんことを望もうか。製塩作業の効率のためなればそれは渚にあり、民を救うためなれば高所から見下ろさずに同じ目線にあるのである。
 また、こうも言う。往昔老翁がこの海岸に降り、初めて塩を煮て民に教えた。生命は食をもって養われるが、その食が塩によって美味になることも老翁の教えによって初めて天下に知らしめられ、生きとし民の喜びとなった。故にその器を尊んで神明と賞し、その地を鹽竈浦と名付けたのである。まさに神の塩によるものなのである。よって後世その厚徳を貴び、その成功を重んじ、ここに祠を建て、竈の神体を崇奉せし所以である。宗久紀行を以って考えるに、当時は古い器を指して御神体といい、民の崇敬は尚往時のごとしであったのだろう。
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 佐久間洞厳は『奥羽観迹聞老志』の中で、今の鹽竈神社は慶長十二年に太守黄門伊達政宗卿の移転にかかるもの、と論断していたわけですが、『鹽竈神社史料』の山下三次は、佐久間洞巌の論拠は観応年間―南北朝時代―の宗久の『都のつと』の記事のみであるといい、「其の論遽極めて薄弱なるに拘はらず、その説大に流布し、世間の學者、皆之に依り、本社を遷造する時、神竈を舊祉に留め、呼んで神竈社と云ひ、神體と神宮と相離るゝに至れり、と信ぜり」と揶揄したうえで、遊佐好生や吉田東吾らの否定論を引き合いに弁駁しております。
 遊佐好生は、「非祭弁駁撥正」にて、御釜神社の境内が古来の大社のそれにしては極めて狭いことと、留守家為が領していたころの別当法連寺秘蔵の鹽竈社図から政宗以前に既に一森山に鹽竈神社が存在していたことがわかる旨を論じております。
 吉田東吾は、宗久と同時代の文書に左右両宮の見證があることなどをもって、政宗が慶長年中に一森山に祠殿を起こしたとするは誤りである、としております。
 また、当の山下三次は、鹽竈神社所蔵の奥州探題吉良貞経による立願の文書―延文五(1360)年卯月二十八日付吉良貞経願文―は御釜が立願によって鋳造されていた例を示すもの、すなわち「鋳釜獻進」の古俗を証明するもので、宗久が「鹽竈の神體はこの釜なり」としていることを疑うべし、と論を展開しております。
 すなわち、宗久の文脈から、宗久が一夜を徹したその場所には社殿がなく直に神竈を拝したものとみて、神社にしてその社殿を設けなきは古来極めて特殊稀有であり、ましてや正税から一萬束もの稲を奉ぜられた程の鹽竈神が、たとえ年代が遷り南北朝の時代になれども、社殿もなく露出のまま安置されている御釜のことを指すとは常理上信じることが出来ない、というのです。
 山下三次は、熱田宮における草薙(くさなぎ)御劔や、石上神宮における布都御魂(ふつのみたま)劔、出石神社における天日槍のもたらした八種の神寶などを引き合いに、「皆之を社殿に奉安して、御霊代となせり。豈獨りこの鹽竈神のみ、社殿なきの理由もあらんや」と力説しております。
 仮に佐久間洞巌が生きていたならば、彼はおそらく、「製塩の利そのものが既に神聖なのであって、俗な権威の形など鹽竈神には必要がない」、とでも反論していたことでしょう。
 しかし山下三次は、「御釜をもって直ちに鹽竈神を祭りしか、或いは神社として別に奉祀せる外、貴重の神器として永く尊崇し来れるは深く考究を要する問題にして、軽々に宗久紀行の記事のみを憑據として之を推断するは、甚だ早計に過ぎる」と、いわば当地に一泊したに過ぎない旅の者の紀行文の情報からのみ事の全体を推断している愚についても強く批判しており、それはそのとおりだな、と私も思います。
 ただ、佐久間洞巌がそこまで浅はかであったとも思えず、御釜神社を鹽竈神そのものと推断するに耐え得るなんらかの論拠もあったはずと考えるわけですが、引き続きそのあたりに触れていきます。

鹽松勝譜をよむ:その5―御釜神社鹽竈神起源説:中編―

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 現在、仙臺藩主四代伊達綱村による元禄の造営によって左宮・右宮の両宮に別宮を併せた二拝殿三本殿形式の社殿になっている鹽竈神社ですが、少なくとも貞享三(1686)年頃の「塩竈大明神絵図―宮城県図書館所蔵『御修復帳』に所収―」には別宮の社殿はみえません。そこには、左右宮と思しき拝殿・本殿の一式のまとまった社殿の脇に、現存しない貴船社と只洲社の祠があるのみです。
 平成十九(2007)年に東北歴史博物館で開催された特別展「奥州一宮鹽竈神社―しおがまさまの歴史と文化財―」の公式図録には、同館の関口重樹さんによる次の解説があります。

―引用:『奥州一宮鹽竈神社―しおがまさまの歴史と文化財―(東北歴史博物館)』―
~棟札写及び鰐口銘文から、少なくとも桃山・天正期には東西左右宮社殿の構成であったことが分かっています。これが江戸期に入り、政宗による慶長一二年(一六〇七)の造営、綱宗による寛文三年(一六六三)の造営を経、いずれかの段階で二社構成が両宮合祀の一社殿に改められました。

 尚、このくだりには、「因みにこの時期までの史料には別宮に関する記録は一切確認されません」という注釈も付されております。

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 記録が一切確認できない現実を鑑みるならば、別宮は元禄縁起の構築時にはじめて開かれたものにも思えます。
 しかし、別宮そのものの記録は確認できずとも、後の別宮一禰宜家たる「男鹿島」の初見は明応六(1497)年の鐘銘にまで遡ります。
 その鐘銘は、『別當法連寺記(古川左京『鹽竈神社史』所収)』の「御宮後神殿御拜殿諸區之事」の項に書写されております。
 内容は、明応六(1497)年十一月六日付で鹽竈神社の安寧や大檀那留守藤原朝臣藤王丸の息災延命を祈る願文を刻んだものでありますが、後の右宮一禰宜家たる「新太夫」と、同じく左宮一禰宜家たる「安太夫」に続けて、件の「男鹿島」の署名がみえるのです。
 ちなみに以下が全署名です。

僧行事 弘瑜
大檀那留守藤原朝臣 藤王丸
佐藤家高(宗高?)
新太夫
安太夫
男鹿島
弘怡
大工 盛繼
願主 鈴木越前守義久
久繼

 この面々の構成について考えてみます。
 僧行事の「弘瑜」は鹽竈神社別当法連寺の僧なのでしょう。
 次の「藤王丸」はもちろん文字通り法蓮寺の大檀那であり、かつ領主たる留守家15代当主であり、すなわち鹽竈神社大神主であり、またここでは息災延命の祈祷を受けし人物でもあります。
 続く「佐藤家高」は、佐藤宗高の誤写であったとするならば、これは留守家の執事で、後に『留守分限帳』を秘蔵せしめていた「佐藤玄蕃頭」の家の者にあたります。佐藤玄蕃頭については少なからず思うところもありますが、ひとまず割愛します。
 そして「新太夫」、「安太夫」、「男鹿島」は各々後の三宮の一禰宜家でありますが、男鹿島のみ“太夫”が付されていないことは気になります。単に文字数の問題でしょうか。あるいは、後述するところの御釜神社の竈守家「竈太夫」同様、まだ鹽竈神社の社人ではなかったのでしょうか。
 次の「弘怡」については、何者なのか今のところ見当がつきませんが、僧行事が「弘瑜」であったことを鑑みるならば、その名の類似性からみて法蓮寺の僧とみるべきかもしれません。
 次の「盛繼」は表記どおり大工であり、最後に刻まれている願主の「鈴木越前守義久」と「久繼」は親子なのでしょうか。
 この鈴木越前義久のことを指すのかどうか、『塩竈市史』所収の大塚徳郎さんの論稿「鹽竈神社史」によれば、鈴木越前家は寛永二十一(1645)年の『知行目録』が記すところの「釜太夫隼人―竈太夫隼人―」のことであるらしく、とすればこれは御釜神社の竈守の家であるわけですが、文禄四(1595)年の『宮城郡利府之郷檢地名寄之帳』には「しほかまけんたん祢宜はやと」とみえ、これが鈴木越前家のこととすればこの家は御釜神社の禰宜であるとともに塩竈町の検断―警察権・裁判権を有する町内会長のようなもの―をも兼ねていたということになります。
 いずれ、別宮の存在が確認できない時代に男鹿島がどのような立ち位置で藤王丸の息災延命の銘に署名をしていたのかは判然としませんが、天文年間(1532~1555)に作成されたとみられる『留守家分限帳』の三巻「宮さとの人數」―鹽竈社人名簿―にも「おかしま」の名がみえ、別宮の前身となるようななんらかの祭祀があったことは間違いないでしょう。
 もしかしたら鈴木越前家から代表して鹽竈神社の諸事に加わっていた者があってそれが男鹿島を名乗り、天文年間の分限帳の頃までに社人に加えられたことも考えられます。
 御釜神社を仙台藩祖伊達政宗時代以前の鹽竈神社とする佐久間洞巌の説については認めがたいものがあるのですが、別宮に限っていうならば、その前身を御釜神社とみなしてもあながち的外れでもないのかもしれません。
 尚、前述の『宮城郡利府之郷檢地名寄之帳』には、「木舟二の禰宜」という記述もみられ、これについて先の大塚徳郎さんは、「貴船と別宮とが同一のものと考えられていたからではなかろうか」と興味深い推測をしております。
 事実、『鹽竈神社史』所収の「鹽社由来考」には、「御釜ノ神ハ貴船ノ由ニテ、貴船ノ一禰宜男鹿島太夫(鈴木因幡守當時十五位下也)竝同宮ノ神子、先祖ヨリ代々、毎年七月六日御釜替ノ神事勤之」という記述もみえます。
 真偽のほどはわかりませんが、御釜の神を貴船と同一視していることがわかります。おそらく以前とりあげた在庁官人鎌田家の家伝と同根のものでしょう。
 さすれば、留守時代から史料に名のみえる後の別宮一禰宜たる男鹿島家は、やはり竈守の一族で、もしかしたら別宮の創設と入れ替わりに消滅した貴船社の禰宜であったのかもしれません。

鹽松勝譜をよむ:その6―御釜神社鹽竈神起源説:後編―

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 伊達家の記録と留守家の記録で鹽竈神社の社人を見比べると、御釜神社の立ち位置に変化が見受けられます。
 寛永二十一(1645)年の『知行目録』は、御釜神社の竈守たる「鈴木隼人」について「社人竈太夫隼人」と記しておりますが、百年ほど遡った天文年間(1532~1555)に作成されたと思われる『留守家分限帳』の三巻「宮さとの人數」―鹽竈社人名簿―にはその名が見えません。
 とはいえ、同書の一巻「御館之人數」には「鈴木隼人以町さいけ一けんくら二 御かまの神領五百かり」とありますので、決してこの家が名簿から漏れていたわけではありません。
 天文年間に社人に数えられていなかった竈守の鈴木隼人が、なんらかの事情で寛永二十一(1645)年までには竈太夫隼人として社人に数えられることになっていたことがわかります。
 この竈太夫家や男鹿島太夫家の鈴木姓について、『一森山叢書第二編』所載の「古代中世の鹽竈神社」の執筆者である豊田武さんは、「紀州藤白湊にある熊野王子の神職鈴木一族を中心とする鈴木党に由来する」、としております。
 豊田さんが説くとおり、鈴木党は熊野漁業と熊野信仰の発展とともに太平洋沿岸に沿うて北上し、熊野社のあるところ、必ず鈴木姓の神職を見るまでに広く伝播しました。
 豊田さんは、鹽竈社に鈴木姓の神職がはいりこんだのは、源頼朝の社殿経営と関係があるかも知れない、としながら、次のような注釈を加えております。

―引用:『一森山叢書第二編(志波彦神社 鹽竈神社 社務所)』―
熊野信仰はすでに名取の熊野社のように、平安末期仙台地方に伝わっているが、それがひろがったのは、頼朝の奥州遠征後であろう。源氏の水軍として活躍した鈴木三郎は、頼朝から所領まで賜っていたが、妻子を熊野に送って義経の死出の供をした。陸中江刺郡片岡村多門寺薬師堂は正治年中鈴木重家の子の創建であるという。したがって三陸沿岸に鈴木党の発展したのは鎌倉の中期以前であったと考える。

 たしかに、熊野鈴木党の伝播はそのようなものであったことでしょうし、熊野信仰が広がったのも頼朝の奥州遠征後であったことでしょう。
 ただ、陸奥國府周辺においてのそれは、むしろ先住の名取熊野の広がりではなかろうか、という思いがあります。
 平安末期云々と引き合いに出されているところの名取熊野は、頼朝に滅ぼされた平泉王国の残り形見のごとき存在でありますが、これこそが主家の滅亡によって広がったのではないか、と私は考えるのです。
 何故そう考えるのかというと、陸奥國分荘玉手崎―仙台市青葉区小松島周辺―の「小萩伝説」が平泉王国滅亡の恨み節に思えるからです。
 この伝説は、奥州藤原三代秀衡の三男「和泉三郎忠衡」の遺児とその護持仏―俗に小萩観音―を保護しながら陸奥國分荘に落ち延びてきた乳母小萩の物語なわけですが、その護持仏が、名取那智宮本尊―俗に閖上(ゆりあげ)観音―の漂着譚に結び付けられた伝説もあります。
 それらを流布していたのは、当地に落ち延びて尼寺を営んでいた平泉系の貴女たちと、旧荒巻邑の総鎮守たる熊野神社―仙台市青葉区通町―の巫女たちであったものと思われます。※拙記事「泉と清水と白水と―その3―」参照
 この熊野神社は、土御門天皇(1198~1210)の勅宣によって創建されたと伝わるものでありますが、後の仙臺城普請にともない境内地に換地された「玄光庵」の鎮守でもありました。
 創建時期こそ頼朝進出による熊野信仰伝播の時期とも合致しますが、別当寺の玄光庵が藤原秀衡創建と伝わる龍泉院から分かれたものであることを鑑みるならば、やはり名取熊野の流れをくむものであった可能性が高いと考えます。
 思うに、男鹿島太夫なり竈太夫なりの鈴木姓は、むしろこの先住の名取熊野に由来するのではないでしょうか。
 先に割愛しましたが、『留守家分限帳』を秘蔵していた留守氏の執事たる佐藤氏は、その分限帳において筆頭に記された佐藤玄蕃頭を名乗る家柄でありました。
 『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』によれば、佐藤氏の先祖は、陸奥国留守職伊沢家景の入府に際して、「当国の案内者」として特別に随行したのだそうです。
 同辞典は、「多賀国府の事情に通じた立場を買われたものか」としており、また、『餘目記録』には、佐藤氏の当主が留守の当主から「御父」と呼ばれていた旨が記されており、佐藤玄蕃頭家が留守家中にあって特別な地位を占めていたことが知られます。
 なにしろ『宮城県姓氏家系大辞典』は、宮城県内の佐藤氏が信夫荘の佐藤荘司から始まったとされている旨を記しております。
信夫荘司の佐藤基治は、奥州藤原氏の重臣であったわけですが、二代基衡の姪の夫でもありました。一方で、『封内風土記』は陸奥國分荘―現在の仙台市内―の領主でもあったとも伝えます。
 ただ、佐藤荘司と呼ばれる存在は、有名な信夫荘の佐藤基治ばかりではなく、本吉や名取にも存在していたようです。
 例えば、本吉荘は奥州藤原三代秀衡の四男高衡の領とされ「本吉冠者四郎高衡」と冠されるほどの名高い大荘であったようですが、『郷土研究としての小萩物語』の藤原相之助は、高衡の年若き故に佐藤の一族を置いてこれを宰知させたものとしております。
 なるほど、兄である和泉三郎忠衡が文治五(1189)年に23歳の若さで亡くなっているわけですから、高衡はそれよりも若い時分から大荘たる本吉荘を領していたことになります。
 以前私は、鹽竈神社に文治の燈籠を寄進した和泉三郎忠衡は奥州藤原王国における対多賀国府の外務大臣で、まだ若い忠衡を補佐し、その実質を担っていたのは義父である佐藤荘司基治であったのだろう、と推測しておきました。※拙記事「佐藤基治一家の哀歌」参照

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和泉三郎忠衡寄進の文治の燈籠と鹽竈櫻

 本吉荘にせよ國分荘にせよ、往々にして、佐藤荘司には奥州藤原王国の対外政策の実務を担う執行役員的な要素があったように思われます。
 なにしろ、佐藤姓については、『嚢塵埃捨録』が奥州藤原二代基衡を「佐藤左衛門尉藤原基衡」、同じく三代秀衡を「佐藤陸奥守兼鎮守府将軍藤原秀衡」と記しており、奥州藤原氏そのものが「佐藤」とみなされていた例があることも留意しておきたいところです。
 いずれ、留守家の執事とされていた佐藤氏については、少なくとも多賀国府に通じていたと思われる事情からして、この佐藤荘司の一族であったとみて良さそうです
 奥州経営に乗り出した源頼朝は、おそらくはそういった経歴に裏付けられた熟練の実務能力を利用すべく、この一族を陸奥國留守職伊澤家の家老に置いたのではないのでしょうか。
 有名な信夫の佐藤荘司基浩は、28万の総鎌倉軍との最も壮絶なファーストインパクトに砕け散り、阿津賀志山に首を晒されたわけですが、名取の佐藤荘司は名取郡司と熊野別当とともに投降して赦免されたことが『吾妻鏡』に記されております。
 『嚢塵埃捨録』には、本吉冠者四郎高衡と志波日詰五郎頼衡といった三代秀衡の四男五男が二万五千の兵を率いて名取高館で応戦した旨が記されておりますが、もしかしたら彼らがそうなのかもしれません。
 いずれ私は、頼朝に生かされた佐藤荘司と熊野別当が新参の留守職伊澤氏を補佐することによって、佐藤玄蕃頭と竈太夫鈴木隼人による塩竈経営の基礎が発祥したのではないか、と考えるのです。

鹽松勝譜をよむ:その7―荒脛神の鎮座地―

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3、荒脛(あらはばき)神の鎮座地

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 陸奥総社宮―宮城県多賀城市―の向側、やや塩竈寄りの道端の路地口に、「あらはゞき神社」と刻まれた石碑があります。
 路地を入ると、左手奥の民家の入口に鳥居があり、庭の奥にはたくさんの下足類が奉賽された異様な祠が見受けられます。
 それが「荒脛巾(あらはばき)神社」です。
 陸奥国府多賀城の鬼門でもあるこの場所は、往時多賀城を訪れる官人が、海路から塩竈浦の國府津(こうづ)に上陸し、陸路政庁に入らんとする門、すなわち実質上の多賀城の正門とも言える東門の手前にあたります。
 そこにこの神が祀られていることは偶然ではないでしょう。何故なら、アラハバキ神には門客人神としての性格が付されているからです。

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 例えば、埼玉県さいたま市大宮区の「氷川神社」の本殿脇には、その名も「門客人社」が鎮座しているのですが、『新篇武蔵風土記稿』足立郡高鼻村条には「古ハ荒脛巾神社ト號セシヲ氷川内記神領タリシ時神祇伯吉田家ヘ告シテ門客人社ト改號~」とあり、この社が「荒脛巾神社」を改号したものであることがわかります。
 また、同書多摩郡養澤村条の「門客人明神社」の項には、門客人の部分にずばり「アラハゝキ」と仮名が振られております。
 いずれも、谷川健一さんの『白鳥伝説(小学館)』所載の情報を原典で確認してみたわけですが、このあたりを鑑みると、多賀城の荒脛巾神社が門前に鎮座していることも偶然とは考え難いのです。
 なにしろ谷川健一さんは、前述同書の中で、柳田国男や折口信夫の考えや、それを発展させた中山太郎などの民俗学的推論に触れ、それらを咀嚼して、アラハバキ神について次のように結論付けております。

―引用:『白鳥伝説』―
一、もともと土地の精霊であり、地主神であったものが、後来の神にその地位をうばわれ、主客を転倒させられて客人扱いを受けたものである。
二、もともとサエの神である。外来の邪霊を撃退するために置かれた門神である。
三、客人神としての性格の合わさったものが門客人神である。主神となった後来の神のために、侵入する邪霊を撃退する役目をもつ神である。

 これを信じるならば、多賀城のアラハバキ神も門番の神として当地に勧請されたというよりも、むしろ陸奥国府多賀城所在地の本来の地主神であった可能性こそを疑うべきかと思われます。
 ここで、『鹽松勝譜』の「荒脛神祠」の項が妙に示唆深く思えてきます。

―引用―
鹽浦西二里許ヲ去リ。市川村ニ在リ。相傳フ。鹽神鹽ヲ煮ルノ日。神此山ニ入リ木ヲ伐リ以テ薪ヲ給ス。手足胼胝シテ脛最モ荒ル。故ニ神號トナスト。世脚疾アル者之ヲ祈リ。脛繳ヲ以テ之レニ賽スレハ。驗アラサルナシ。

―意訳―
荒脛神祠は塩竈の浦から西に二里ばかりの市川村にある。伝えるところによると、鹽竈神による製塩の日、神はこの山に入って刈り伐った薪をくべたのだという。その際に手足には胼胝―タコやあかぎれ―ができ、特に脛が荒れたことから、神号が荒脛になったという。世の中の足に疾病のある人たちは、この神に祈り脛糸を献納すれば霊験を得られる。
 
 このくだりを読んでまず思ったのは、奈良時代には日本の三大都市の一つであったはずの多賀城がこの時点では樹木の鬱蒼とした手つかずの山であったらしいということです。
 なにより、その山に入った神が鹽神なのか、それともそれ以外の神なのか、この文では判然としません。
 荒脛巾神社が鹽竈神社の末社に数えられていることを鑑みるならば、山に入ったのは後者のまだ名もなき神とみるのが穏当だとは思うのですが、もし前者であれば、ここでいうアラハバキは鹽神のこと、すなわち、鹽竈神の別名ということになります。少なくとも『多賀城市史』の解釈はそのように見受けられます。
 なにしろ、この『鹽松勝譜』の成立する100年以上も前には、『先代旧事本紀大成経』が鹽竈神を陸奥に落ち延びた長髄彦のこととしておりました。
 同書は、伊勢神宮の根幹を揺るがしかねない記述が含まれていたこともあり、江戸幕府から正式に偽書と断罪され、焚書・発禁とされてしまったわけですが、殊更に脛(すね)が強調されている荒脛神祠のこのくだりはどこかその残滓にも思えます。
 なにしろいみじくもアラハバキを長髄彦の一族に結び付けて展開する文献もあります。
 それは悪評高い『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』でありますが、同書は結果的に個人による捏造文献であったことが確実視されております。おそらくは遡っても第二次大戦後の成立なのでしょうが、とはいえ、青森県北津軽郡市浦村の村史編纂陣に、『市浦村史』別集「資料編」として上・中・下の三巻にわたって発刊させるにまで至ったのは、おそらくはその根本が多賀城の荒脛神祠のそれのごとく、実際に陸奥各地に残る伝説等を元に創作されたものであって、故にそれなりの説得力を有していたからでしょう。
 以前も触れましたが、少なくとも、由利氏すなわち瀧澤氏の系譜が、大和を逃れた安日彦(長髄彦の兄とされる)と越の酋長一族とが結ばれて生じた系譜であることを強く主張する旨の“大正八年”の新聞記事があったことを私は秋田県内の図書館にて確認しておりますー秋田魁新報所載ー。こういったイデオロギーが特に北東北において根強く蔓延していたからこそ、『東日流外三郡誌』が官公庁にまで史料として受け入れられ得たのでしょう。
 一方、『記紀解体(彩流社)』の著者、近江雅和さんは、アラハバキの正体を、古代アラビア語で「最高の神」を意味する「アラバキ」であると力説しており、それらの内、南アラビアからインドに入って伝わった流れが、鬼神「アーラヴァカ・ヤクシャ」なる仏教の外道な守護神と化し、やがて中国に入り、密教を経る中で、音写ではなく義訳され、「元帥(げんすい)」あるいは「大元帥(だいげんすい)」なる明王になっていったのだとしておりました。
 この「大元帥」について、ナツメ社の図解雑学シリーズ『密教』―頼富本宏さん編著、今井浄圓さん・那須真由美さん著―で引いてみると、「太元帥王(たいげんみょうおう)」とあり、伝統的に「たいげん」と読ませ「だいげんすい」とは読まないとする旨の注釈がありました。それはともかく、同書は近江雅和さんがいうところのアーラヴァカをアータヴァカと表記し、その意味がサンスクリット語で「林に住むもの」であることを説いております。
 さすれば、荒脛神祠の神号の由来譚が薪刈の流れの中にあることにも一応のつじつまが合っているようには思えます。
 近江雅和さんのアラハバキ=アーラヴァカ説に断言できるほどの根拠があるとは思えませんが――そもそもそれだけの根拠を見つけること自体がほぼ不可能だと思いますが――、それを奉斎する氏族のルーツを推測する意味ではかなり魅力的な試論であるとは思います。
 仮にそれに便乗してみた場合、アラハバキ信仰は平安時代以降に隆盛する密教によってもたらされた比較的新しいものであるのかもしれませんが、陸奥国府多賀城エリアの地主神であったらしきことを鑑みるならば奈良時代以前から既に我が国に流れこんでいたものであるのかもしれません。
 例えば、志波大神について、もしかしたらなんらかの地主神にシヴァ神が習合したもの、あるいはシヴァ神そのものへの信仰が古代の陸奥に定着したものではなかったか、などとも勘繰っている私にとっては、強く意識せざるを得ないペンディング事項ではあります。
 なにしろ、「東鹽氏の傳」からの引用と思しき、遠藤信道の『鹽竈神社史』所載の神話(?)において、志波彦神・志波姫神は、塩焼きの“柴”を刈り取る神とされていたわけであり、『鹽松勝譜』所載の伝説におけるアラハバキ神の役割と類似していることは留意しておきたいところです。

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鹽松勝譜をよむ:その8―東鹽氏の傳:前編―

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4、東鹽氏の傳:前編
 鹽竈神社の國幣中社加列の翌年となる明治八(1875)年、その立役者となった当代権宮司の遠藤信道は、当代宮司の落合直亮の校正を経て『鹽竈神社考』なるものを世に出しました。
 しかしその説くところは極めて独特なもので、後の宮司山下三次などは昭和二(1927)年発行の自著『鹽竈神社史料』の冒頭において、「偽書と認むるもの」の「同一系統に成れるもの」の一つとして掲げ、容赦なくその信憑性を否定しております。
 理由の大きな一つは、遠藤信道の神社考の依拠となっている東鹽氏の傳が、単に『鹽松勝譜』のそれを引用したものとみられること、そもそも原典たる『東鹽家秘録』なる古文書の存在自体が頗る疑わしきものであること、なにより、「鹽土老翁神の御子東鹽根命の神裔」なり「鹽竈多賀両社の斎主大宮鹽竈司」の家とあるところの“東鹽氏”そのものの存在自体が怪しい、というところにありました。
 そこで私は、あえて『鹽松勝譜』を入手し、自らの目であらためて東鹽家について考えてみようと思ったわけですが、まずは遠藤信道が『鹽竈神社考』にて説いたところの東鹽氏の消長を眺めておきたいと思います。
 『鹽竈神社考』の内容については、特に神話的な部分については、過去の拙記事、「偽書とさえ認められぬもの」「東鹽根命なる神の裔」「『東鹽家文書―農業に従事した神々―』」「『東鹽家文書―製塩に従事した神々―』」「『東鹽家文書―道奥國別六根命の意味するもの―』」などで触れておりますので、ここでは東鹽氏の現実的な消長のくだりを意訳しておきます。

―意訳:『鹽竈神社考』―
 宮城郡の郡名は、成務天皇五年巳亥二月、諸国郡郷を定め給える時に、古来神武天皇の勅をもって宮城郡一万束を付された鹽竈大神―別宮:國別鹽竈大神=國別鹽竈宮妹+國別日東吾妻宮―が敷坐せる所なるに起れると伝わる。
 鹽竈神社を創建しこれを代々奉祀していた神孫の人々は重く評価され、神宮司大宮鹽竈司齋女等は皆三位に叙され、多賀神社宮主は四位に叙されたという。
 しかし時を経て世も移り変り、安倍貞任・宗任など“醜男―原文ママ―”、奥州藤原三代秀衡の三男和泉三郎忠衡などの“荒び男―原文ママ―”が領主となるに及び、その経営を継承し、彼らが神領を掠め取り私有化したことにより、社格も衰え、社司神主たる東鹽家ら鹽土大神の神孫の半分は散り失せてしまった。
 文治五(1189)年には、源頼朝によって利府城主の伊澤家景―留守氏―が当社の神主を任せられ、留守氏が自らの家子をも神官に申請したことにより、神官は旧来の者と合わせて三十二人であったというが、以来、何事も留守伊澤氏の心のままに計らうこととなり、明応の初めの頃には殊に衰微が著しくなり、神殿も雨漏りし老朽化し、御神体さえも安置奉る所もない有様であった。
 これを憂いた時の神宮司東鹽丹波守は、自宅の神床に御神体を遷し置き奉り、神宝や古文書の類もみな移し置くこととなった。
 留守氏は、利府城移住の折、同郡飯土井村に最も旧き世より鎮座していた木船・只洲の両社をその付近の牡鹿島―男鹿島?―というところに遷し奉り、それを家の守護としていたが、明応六(1497)年留守藤原藤王丸の代に至り、その両社を現在の鹽竈神社の鎮座地一森山に新宮を造営して遷座した。※ 藤王丸は先に触れた別宮一禰宜家「男鹿島」の初見となる明応六(1497)年の鐘銘に名が刻まれた留守家15代当主―
 その際、國別鹽竈宮妹・國別日東吾妻宮は木船宮に合わせ祀られた。※ 小文字で「一本に國別吾妻宮を、左宮に合際奉れりと云ふ」と注釈あり―
 これより前、やはり著しく衰微していた多賀波志峰・多賀府原なる多賀神社も、延徳二(1490)年三月十日に同じく一森山に仮宮を造り遷座していた。
 ちなみに、この多賀神社の旧跡の礎などは多賀崎に今尚存在する。またそのあたりには、和泉三郎忠衡の寄進によって建てられた七重の塔の跡があり、今その場所を塔の越しという。
 ともあれ、ここに木船宮・只洲宮・國別鹽竈宮・日東吾妻宮・左将軍宮(武甕槌神)・右将軍宮(経津主神)の六柱の大神が合わせ祀られることになり、それが鹽竈六所明神と呼ばれる由来となった。
 問題は、他所から遷されてきて新たに祀られることとなった木船只洲の二宮と多賀の仮宮については社殿が建てられたものの、本来の國別鹽竈大神の宮についてはあらためて社殿の建てられることがなかったことである。
 鹽竈多賀両社の齋主大宮鹽竈司東鹽丹波守照行、鹽竈神社宮主五十鈴因幡神盛重等はこれを嘆かわしく思い、國別鹽竈大神の社殿が新たに造営されるべきことを訴えたが、木船・只洲の神主鎌田大藏という者にこれを拒まれた。
 この者、元来留守主家の臣下であったがため、権勢も甚だ隆盛であり、東鹽丹波守と五十鈴因幡守の両者の官職を貶めて、ただ社務のみに就ける在庁人の扱いにしてしまった。
 これは自分の上にこの両者が立つことを懸念した鎌田大藏の妬みによる所為にして、最も悪質な所業である。~以下省略~

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 さて、個人的な備忘録を兼ねんがために長々と意訳してしまいました。
 なにやら安倍氏や奥州藤原氏のパーソナルについて汚く罵る記述もありますが、神職としてやや品性に欠けるようにも思えます。
 しかし、東北各地の図書館で調べものをしていて感じるのは、昭和の市町村誌であってもその姿勢にはさして差がないということです。金色堂が残っていたからか奥州藤原氏に対しては比較的マシですが、悲しいかな安倍氏を蛮族扱いする記述はよく目にします。ましてや一説に岩手県南から宮城県北の民家に祀られる釜神のモデルであろうアテルイに至っては、もはや鬼神であり、彼らが同じ日本人として、あたかも英雄なり当地の然るべき住人であったものと認識されはじめたのは、極言すれば平成以降のことのようです。したがって、殊更に遠藤信道だけを責めるわけにもいかないでしょう。
 ただ意外なのは、この後、伊達氏についても比較的否定的に書かれていることです。
 おそらく遠藤信道は、時の為政者が大神主を称し代々鹽竈神社の神徳と現実的な果実だけを吸い上げ続けてきた歴史を許しがたかったのでしょう。明治八年であれば、伊達家を謗ることなど庶民からも不敬を戒められる気風がまだ十分に残っていたはずと思うのですが、是非はともかく、遠藤信道が為政者に媚びない真っ直ぐな“神道家”であったことが窺いしれます。
 それはともかく、結論からいうと、『鹽松勝譜』にはここまでの内容は書いてありません。
 したがって、少なくとも東鹽氏の傳を『鹽松勝譜』から引用したものと片付けて矮小化する山下三次の指摘はあたりません。
 つまり、真偽はともかく実際に『東鹽家秘録』なるものが存在していたか、あるいは遠藤信道が自らの願望的妄想を第三者が確認しようのない東鹽氏の傳にこじつけて神社考を展開したかのいずれかということでありますが、少なくともまるっきり後者であることはないでしょう。
 何故なら、この『鹽竈神社考』は当時権宮司であった遠藤信道の上席にあたる当代宮司の落合直亮の校正を経て出されているものだからです。
 もしかしたら落合宮司も共犯であるのでしょうか。
 ともあれ、次稿では『鹽松勝譜』に記された東鹽氏の傳を眺めてみたいと思います。

鹽松勝譜をよむ:その9―東鹽氏の傳:中編―

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 『鹽松勝譜』所載の『東鹽氏傳』の逸文らしきくだりを前後の文脈も含めて眺めてみます。

―意訳―
 延喜式神名帳に載る宮城郡四座の一となる多賀神社は、武甕槌命・経津主命の二神を祀り、すなわち今の鹽竈神社左右宮がこれにあたる。
 往古武甕槌命は浮島にあり、故に浮島明神と呼ばれてきた。
 一方の経津主命は多賀崎にあり、高崎明神と呼ばれてきた。わずか百余歩しか離れていない両社の鎮座地は、往古多賀城の砦の内であったが、多賀城が廃された後、城域は市川・浮島・多賀崎の数村に分けられ、多賀崎は高崎とも表記された。故に経津主命は土人から高崎明神と呼ばれたのである。
 鹽竈神社の縁起によれば、今の鹽竈神社は多賀國府にあった。
 すなわち、この國に天降った武甕槌・経津主・鹽竈神の三柱は祠が多賀國府内に設けられていたが故、総称して多賀神社と號されたのである。『封内名蹟志』は、多賀神社は今の鹽竈一之宮のことであり、郷説にいうところの浮島明神のことであるという。
 旧祠官の東鹽氏の傳によれば、明応中(1492~1500)、鹽竈神社、及び多賀両社は、共に損壊していた社殿の建て替えを領主である留守氏に申請した。
 しかし留守氏は特に鹽竈神社を営み、浮島・多賀崎の両社を遷して鹽竈神社に合祀した。これによって式内多賀神社は永廃することとなった。現存する祠は、各々の跡地に村人が祠を建てて祀っているものである。然るに、現在の多賀神社はその旧称を継承したもので、多賀崎のそれは更に神明祠とも称している。
~中略~
 『東鹽氏傳記』所載の「多賀神社古祭礼」によれば、例年三月二十六日には宮城一郡の士が多賀城に一同に会し、翌二十七日には会するところの士を二軍に分けて、片方を神軍、もう片方を賊軍に見立て、各々に将帥を立て、神軍は武甕槌命・経津主命・岐神の三神輿と、神庫に秘蔵された神代より伝わる天盤砂劔・十束知劔・八束利劔の三神劔を奉じて賊軍に向かう。両軍兵刃交わらば、賊軍甲冑を捨て、兵を率いて遁走し、舟に乗る。神軍これを追って塩竈に至り、舟で宰相島に至る。宰相島に上陸した神軍は、大きな鬨(とき)の声を三呼し、凱旋する。これが多賀神社の例祭であり、少なくとも奥州藤原氏の時代まではこれを行っていた。三代秀衡の子、和泉三郎忠衡等がこれを奉行していた事が古記にみえる。
 すなわちこれは、太古二神―武甕槌・経津主か?―の夷賊征討に因むものである。
 しかし、留守氏の時代に至ってこの例祭は全廃された。

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浮嶋神社


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高崎多賀神社

 以上が、ひととおり目を通してみた限りでの『鹽松勝譜』における東鹽氏の傳の全容、及びプラスαです。
 後半の多賀神社の神事は、他の史料にも先の遠藤信道の『鹽竈神社考』においても全く語られていないものであり、貴重です。奥州藤原時代までこの神事が執り行われていたという情報にはなにかしら示唆めいたものを感じますが、それはまた後に触れたいと思います。
 いずれ、多賀神社にまつわる顛末が先の遠藤信道のそれと大いに食い違っていることは気になります。
 遠藤は、留守氏による明応年間の造営の際、木舟只洲の二宮と多賀の仮宮のみが建てられて、國別大神、すなわち鹽竈大神の宮の建て替えについては、留守家重臣鎌田何某の妬みによって頓挫した旨を説いておりました。
 しかし、この舟山萬年の『鹽松勝譜』では、むしろ鹽竈社のみが留守氏に顧みられ、鹽竈社に合祀されたとされる式内多賀社はここに永廢した旨が語られているのです。
 また、遠藤のいう國別大神、すなわち鹽竈大神が合祀されたとされるところの木舟只洲については微塵も触れられておりません。
 引用元は同じのはずですが、全く正反対の話になっているのです。これは如何に解すべきでしょうか。
 仮になんらかの隠蔽された事実があるとするならば、遠藤なり舟山なりが、それを掘り起こして正確に伝えていく方向に向き得るものか、あるいはその曖昧さを利用して鹽竈神社に益する方向に向き得るものかを見極めることは重要です。
 とはいえ、その判断は極めて難しいものがあります。
 しかし少なくとも、鹽竈神社の所伝の継承に関して、その当事者たる遠藤信道が、第三者の舟山萬年に比べて主観的であったことは疑う余地もないでしょう。
 逆にいえば、仮に真実が捻じ曲げられていようとも、別当法蓮寺や仙臺藩から睨まれるリスクを背負ってまでその是正を訴える必然性など、少なくとも舟山萬年にはなかっただろうということでもあります。
 それらの可能性を鑑み、かつ東鹽家の古文書の実在を前提としたうえで考えるならば、舟山が淡々と記しているような多賀神社に関する廃滅譚を、遠藤がなんらかの思惑があって國別大神なり東鹽家のそれにすり替えたものかもしれません。
 あるいは、遠藤の説くところこそが社家に内々に伝わる本来の秘伝であり、東鹽家の古文書にはそれが反映されていなかっただけなのかもしれません。
 そして、舟山はそれを原典としてそのまま引用したに過ぎなかっただけなのかもしれません。
 江戸時代の舟山萬年、明治期の遠藤信道といった時代を超えた両者によって引用された東鹽氏の傳の内容を、最大公約数的に推定するならば、一森山における鹽竈神社の“かたち”が、明応年間の留守氏による当地への式内多賀神社の遷座劇によって大きく変革した、といったところでしょうか。
 ただここでひとつ釘を刺しておきます。
 この流れだと、鹽竈神社が延喜式神名帳に記載されていないのは、その本質が宮城郡の式内多賀神社であったから、などともなりかねないわけですが、件の多賀社は式内社といってもせいぜい小社に過ぎません。延喜式主税式において、正税から祭祀料を割かれていた鹽竈社以外の三社、すなわち、出羽月山大物忌社、伊豆三嶋社、淡路大国魂社は、いずれも名神大であり、小社に過ぎない多賀社にその錚々たる三社の合計額をも上回る別格の祭祀料が割かれていたとは到底考えられません。式外社であることよりもむしろ矛盾の広がるものであり、したがって私がその説をとることはありません。

鹽松勝譜をよむ:その10―東鹽氏の傳:後編―

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 少しおさらいをしておきます。
 同じ東鹽氏の傳を引用しているはずの舟山萬年の『鹽松勝譜』と遠藤信道の『鹽竈神社考』でありましたが、共通の時事に触れた唯一のくだり、すなわち明応年間(1492~1500)の留守氏による鹽竈神社の社殿造営の顛末に関して、両者はまるで正反対の結末を記しておりました。
 舟山は鹽竈社のみが造営されたとし、その傍らには他へ遷された貴船・只洲の小祠が配祀され、多賀社は鹽竈社に合祀されて廃滅した旨を記しておりました。
 つまり、目に見える構成としては、新しい一拝殿一本殿の鹽竈大神の社殿の脇に、貴船と只洲の祠が並ぶかたち、すなわち、貞享三(1686)年頃に描かれた「塩竈大明神絵図」のかたちに近いものであったということになるのでしょうか。
 それに対して遠藤は、先に多賀社の仮宮が造営された後、牡鹿島の地に祀られていた留守家の守護神たる木舟・只洲の新宮を一森山に造営し、木船宮に鹽竈神も合祀された旨を記しておりました。
 したがって目に見える構成としては、鹽竈神を合祀した新しい木船と只洲、そして多賀の仮宮が境内に並んでいたということになるのでしょうか。
 仮に木船宮の規模が只洲の宮や多賀の仮宮よりも一回り大きく、多賀二宮が一棟であったのならば、もしかしたら、見た目だけは舟山の説くところと同じなのかもしれません。
 しかし、舟山の説くところと遠藤の説くところとでは、特に鹽竈神と貴船の主客が逆転しているわけで、祭祀のかたちとしてははっきり異なります。
 何故こうも異なる話になってしまうのでしょうか。
 思うに、おそらくは鹽竈神に対する考え方の違いがそのまま東鹽氏の傳への解釈の齟齬につながっているのでしょう。
 東鹽氏の傳は、遠藤にとっては絶対的な経典の如きですが、舟山にとっては『封内風土記』などと同列に参考資料のひとつにすぎない印象があります。
 なにしろ舟山は、東鹽氏の傳なり『封内風土記』の記述をひきながらも、基本的には佐久間洞巌の説をとっているものと思われます。
 具体的には、「鹽竈神廟」の項に「而ルニ世遠ク時邈トシテ傳フル所ノ神號。其説紛々一定シ難シ。且神祠ハ本山下神釜ノ處ニアリシカ」と、「神竈祠」の項にも「蓋シ古昔ハ神廟此地ニアリ神釜ヲ以テ神ノ體トナスト」と所見めいたことを記しており、鹽竈神を御釜神のこととみていたフシがあるのです。
 そして、もしかしたら舟山は貴船社を鹽竈神の同体異称とみていたのかもしれません。
 何故なら、江戸時代には貴船=別宮=御釜神という概念が比較的根強く浸透していたフシがあるからです。
 御釜神は、竈守の家である鈴木氏の奉祀するものでありますが、後の別宮一禰宜男鹿島太夫はその同族とみられます。
 『鹽竈神社史』所収の「貞享四年御宮會所席:志賀家社列書上並留書」には、その男鹿島氏が「貴船一禰宜」に位置づけられており、別宮の創設にともない消滅した貴船宮と混同され得る要素を十分に孕んでおります。
 それはすなわち一森山に只洲宮を持ち込んだとされる鎌田氏の家伝とも共通します。鎌田氏は、貴船を塩竈浦に降りた龍神で塩竈の地主神としておりました―拙記事:「鎌田氏の衝撃的な秘伝」参照―。
 であれば、遠藤がそれを踏襲し得るわけがないのです。
 何故なら遠藤は、鎌田氏の妬みによって國別鹽竈大神の神裔たる東鹽家が貶められたと嘆いているからです。
 遠藤は、別宮が建立されることとなった四代藩主伊達綱村プロデュースの元禄の造営―完成は五代吉村襲封後の宝永元(1704)年―のくだりで次のように語っております。

―引用:『鹽竈神社考』―
~木舟只洲の兩宮をば外へ遷し奉り。別宮には國別鹽土大神を鎮め奉り。左右兩宮には。建甕槌・経津主二大神を鎮奉りしとぞ。【此時別宮に鎮め奉りし。大神は必國別鹽土翁神・妹國別日東吾妻神を合わせて。二柱の大神にますへきを。其傳詳ならぬはいと朽惜しきことにそありける。もし妹神を合わせて二柱にませしを。たゝ鹽土大神一柱をのみ。祭りし來し事になりたらんものならましかは。云巻も齋々しく。最も畏き事にこそ。只洲宮は今當郡國分古内村にありて。社傳には元禄九年迂坐とあり。此は此年當社より遷し奉りしものにや。或は寛永年間假に外へ迂し置奉りて。此年今の地に新宮造奉りて迂し奉りし者にや。詳ならねとも。當社より遷し奉りしことは疑ひなし。木舟宮の事は殊に詳ならず。當郡市川村に此宮の小祠ありて當社より遷し奉りし由云者あれとも覺束なし。】

 ここで、私が注目しているのは、次の二点です。

1、別宮の創設にともない、只洲とともに一森山の外へ追いやられたはずの木舟のその後が詳らかではないこと

2、別宮には、國別鹽土翁神と、その妹の國別日東吾妻神の二柱が祀られるべき、と遠藤が口惜しがっていること

 まず1についてですが、おそらくはこれ故に木舟が別宮に合わせ祀られたという憶測を招き、両者が混同される要因となったのでしょう。
 いえ、憶測などと切り捨ててはいけないかもしれません。
 なにしろ、共に一森山を追われた只洲が、只洲一禰宜只洲太夫たる鎌田氏ともども古内村に移ったことが明確であるのに対し、木舟のそれは今一つ詳らかならぬままに貴船一禰宜の男鹿島太夫鈴木氏は別宮一禰宜に転じて社家として残っているのです。
 おそらくは別当法蓮寺の住持の著述であろう「鹽社由来追考」には、「元禄年中、只洲宮ハ下鴨ニ、貴船宮ハ上賀茂ニ勧請シテ、古内村ニ遷座シ給フ」とある一方、「御釜ノ神ハ貴船ノ由ニテ、貴船ノ一禰宜男鹿島太夫(鈴木因幡守當時従五位下也)竝同宮の神子、先祖ヨリ代々、毎年七月六日御釜替ノ神事勤之。貴船ノ神子ヲ先達神子ト名ツケ~」ともあります。
 さも只洲宮とともに古内村に遷されたかにも見えますが、当の旧古内村の賀茂神社の境内案内には、上賀茂社の祭神は別雷命とのみあり、いわゆる貴船の水神とされる「高龗(たかおかみ)神」はもちろん、『鹽松勝譜』の「貴船神祠」項に記されたところの「天神立神命」なり「天船主命」といった件の貴船の要素は見受けられません。
 思うに、もしかしたら鹽竈の木舟宮は社家内部の水面下で暗黙に鹽竈大神そのものと見られていて、それ故に明文化を憚られながら秘密裏に別宮として生まれ変わったのではないでしょうか。
 遠藤の文中、木舟の遷座先と俗伝された市川村の小祠とは多賀城政庁の西に隣接するそれのことでしょうが、少なくとも10年前には、現地の説明板に次のようにありました。

―引用:現地説明板(多賀城市教育委員会)―
 今からおよそ三百八十年前、慶長十二年(一六〇七)年藩祖伊達政宗公により奥州一の宮塩釜神社の社殿造築が成され、この時、塩釜神社が御釜神社の所から現在の境内に遷宮されたのに伴い、貴船、糺二神がここに配祠されたのである。
 その後、江戸時代の元禄年間に四代伊達綱村公による塩釜神社改修がなされた。このため糾神社は仙台城北の古内邑(泉市八乙女)に、貴船神社は市川村の現在地に遷宮されたのである。
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 なにやら、『鹽松勝譜』なり佐久間洞巌らの御釜神社鹽竈神起源説を前提に書かれているわけですが、先日、確認のために現地を訪れてみたところ、既にこの説明板は撤去されておりました。
 代わりに、新たな説明板が設置されておりましたが、そこには件の内容がみられませんでした。なんらかの事情で多賀城市教育委員会が思い直したのでしょうが、その理由を知りたいところです。

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 さて、引き続き、2について語ります。
 遠藤が、國別鹽土翁神とその妹の國別日東吾妻神の二柱が祀られるべき旨を力説するところのこの國別大神二神ですが、思うに「國別(くにわけ)」とは、「國分(こくぶん)」の示唆ではないのでしょうか。
 東鹽氏なる社家は、『留守分限帳』の記す「宮さと(宮うと?)の人数」、すなわち天文年間頃の鹽竈神社の社人名簿にはみられませんし、それ以降の伊達家の記録においても見受けられません。
 遠藤の説くところを信ずるならば、東鹽氏は留守氏や鎌田氏との折り合いが悪く、貶められて零落していったようなので、それ故に天文の頃には既に社人の列からは省かれていた可能性もありますが、山下三次がその存在を疑う所以でもあります。
 何某かの社人が、名を変えて憚られる内容を後世に残したことも考えられますが、國分大神の神裔という属性からすると、もしかしたら鹽竈神社に対してなんらかの思惑を抱いていた陸奥國分氏プロデュースの裏コンテンツだったのではなかろうか、などとも想像するのです。
 ただ、舟山の『鹽松勝譜』にはその存在はみられず、したがって、「國別大神」が本当に東鹽氏の傳に登場していたのかどうかもわかりませんが、その正否に関わらず、私が注目したのは、「妹・國別日東吾妻神」と頭にいちいち特記されている「妹」という属性です。
 何故「妹」なのでしょう。
 もしかしたらこれは、長髄彦―登美毘古―の妹「鳥見屋媛(とみやびめ)―登美夜毘賣―」の示唆であり、すなわち、少なくとも遠藤信道が経典のごとく信奉した「東鹽家秘録」なるものを記した者は、鹽竈大神たる國別鹽土翁神が長髄彦であることを遠回しに表現していたのではないのでしょうか。

鹽松勝譜をよむ:その11―先代旧事本紀大成経のこと―

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5、先代旧事本紀大成経のこと
 『鹽松勝譜』には、『先代旧事本紀』から引いてきた旨を明記した部分が少なくとも二ヶ所あります。
 いずれも、松島湾の雄島に触れたくだりですが、例えば二ヶ所目のそれは以下のとおりです。

―引用―
先代舊事本紀ニ曰ク。陸奥ニ至リ松島ヲ見ル。又海中ニ奇島アリ。往昔日本武尊此島ニ至ル。國首國民之ヲ宗ンテ御島ト言フ。上宮太子ノ國風ニ曰ク「松島哉御島者不見止日標方之月之都之外于尋者」彼ノ書ノ妄ハ前巻己ニ云々ス今復贅セス

 なにやら、ヤマトタケルが松島に来たことになっております。
 そして、上宮太子、すなわち聖徳太子の詠んだ國風(くにぶり)―諸国の風俗歌―もあったとされているとのことですが、舟山萬年はそれらが妄説であると釘を刺し、その理由については既に前巻で触れているので殊更に繰り返さない旨を述べております。
 しかし、そもそも『先代旧事本紀』の中にそのような記述など存在しただろうか・・・。少なくとも私の記憶にはありません。
 いぶかしく思った私は、安本美典さん監修、志村裕子さん訳の『先代旧事本紀 現代語訳(批評社)』を引っ張り出して、ヤマトタケルの譚を確認してみました。
 すると、やはりというべきか一通り斜め読みしてみた限りではそのような記述はみられません。
 そもそも、もしそのような記述が史料に残されていたのであれば、ヤマトタケル上陸地の「竹水門(たかのみなと)」を松島湾の「竹城保―高城(たかぎ)―」のことと推測する昭和35年版『松島町誌』は、そこに2ページ強もの紙数を割かずともよかったことでしょう。
 ともあれ、妄説たる理由を解説しているという“前巻”の記述をみてみます。

―引用―
或ハ曰ク先代舊事本紀。一名大成經中コロニ載セテ曰ク。豊聰王此ノ地ニ到リ。國風ヲ賦スト。而シテ此書ハ即チ豊聰王自撰スル所ニシテ。其達磨ヲ待所ト為ス者。徴アリト為サルヲ得ンヤト。余曰ク然ラス彼ノ舊事本紀ノ書ハ。上州黒瀧ノ僧。潮音ナル者ノ僞作スル者ニシテ。先賢既ニ其妄ヲ駁セリ。而シテ近コロ多田義俊氏。辨明詳悉セリ。子未タ之ヲ深考セサル耳。其人唯々。蓋シ松島ハ此地ノ統名ニシテ前海後山。南ハ鹽浦ニ接シ。北ハ磯崎ニ隣リ。雄島ヲ右ニシ。五大堂ヲ左ニシ。寺観・浮屠山麓ナリ。~

 『先代旧事本紀大成経』―以下:大成経―の焚書発禁事件のほとぼり冷めやらぬ時代にあって、大成経を「辨明詳悉」していたという「多田義俊」なる人物にも興味が湧いてきますが、ここで最も注目しておきたいのは、「一名大成經」という補記です。
 度々引用されている『先代舊事本紀』―以下:旧事紀―は、なにやら徳川幕府から焚書発禁に処された大成経を指していたようです。
 舟山はここで滔々と旧事紀の妄たる旨を説いているわけですが、「上州黒滝ノ僧潮音ナル者ノ偽作」などという逸話は紛れもなく大成経にしかあてはまらないものです。


 もしかしたら、比較的史料としての評価の高い旧事紀10巻本と、トンデモ本として表社会から葬られた大成経72巻本との区別が舟山にはなかったのかもしれません。
 ただそもそも、その時代には旧事紀10巻本自体の評価も低かったようです。
 例えば、先の『先代旧事本紀 現代語訳(批評社)』において安本美典さんは、旧事紀本文の最終編纂者は平安時代(833~834年頃か)の興原敏久(おきはらのみにく)であろうとみているわけですが、聖徳太子の撰禄云々とする旧事紀の序文は、「興原敏久の編纂時にあったわけではなく、さらに後世につけくわえられたものであろうと考えられる」、とした上で、次のように語っております。

―引用:『先代旧事本紀 現代語訳(批評社)』―
『先代旧事本紀』の「序」の文は、『先代旧事本紀』の信用をいちじるしく毀損するものである。このようなことがあるため江戸時代以降、『先代旧事本紀』偽書説がおきる。しかし、『先代旧事本紀』についてくわしい考察を行った国学院大学の鎌田純一教授が、『先代旧事本紀の研究』(吉川弘文館、一九六二年刊)のなかでのべておられるように、『先代旧事本紀』の「本文」じたいには、とりたてて偽書と疑うべき根拠はない。編纂時まで、存在した諸文献を、物部氏の家記編集という立場から、まとめなおした本というような形をしているのである。

 もちろん旧事紀と大成経を混同している舟山はそれ以前の問題でありますが、大成経が禁じられた書であったことを鑑みるならば、その内容を認識していたこと自体がむしろ奇跡であったのかもしれません。
 それはともかく、実は旧事紀のみならず、舟山が触れているようなヤマトタケルの松島譚は私が探した限りでは大成経にも確認できておりません。
 確認に用いたのは、宮城県図書館書庫内資料の『神道大系 先代舊事本紀大成経(神道大系編纂会)』(武田本)ですが、全文漢文であり、私の読解力が低いがために見落としている可能性も否めませんが、少なくとも神皇本紀の垂仁天皇から、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后までの、すなわちヤマトタケルを指すところの、小碓(おうす)尊、日本童男(やまとおぐな)尊、日本武(やまとたける)尊の登場譚の前後を含む41ページ、400字詰原稿用紙にして約130枚相当約五万文字はあろう漢字の羅列に目を通してみた限りで、「松島」の文字を確認できていないのです。
 同書の小笠原春夫さんによる解題によれば、小笠原さんが確認した延宝四(1676)年、ないし同七(1679)年の刊記のある版本は、1頁17字詰8行で、同書の元となった武田本のそれとおおよそ等しいとみられるようなので、もしかしたら舟山の知る旧事紀は大成経ですらなく、二次的三次的に発生した正真正銘のトンデモ本なのかもしれません。
 東鹽氏の傳といい、舟山は一体どこからそういった地下鉱脈的な情報を収集していたのでしょうか。

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鹽松勝譜をよむ:その12―松島葉山神祠の山上の怪異―

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6、松島葉山神祠の山上の怪異
 『鹽松勝譜』によれば、松島陽徳院西北の山の上には遠喜津彦神命と遠喜津姫命の二神が祀られている祠があり、土人はこれを葉山権現と称しているとのことです。
 松島陽徳院は、仙臺藩祖伊達政宗の菩提寺瑞巌寺の北東に隣接する「陽徳院」、すなわち政宗の正室「愛姫(めごひめ)」の菩提寺のことです。
 遠喜津彦および遠喜津姫の「遠喜津」はおそらく「おきつ」と訓むのであり、すなわち「沖津」ないし「興津」のことでしょう。
 これを祀ったのは醫生―医師ないし薬師―の眞山玄川、すなわち眞山一族の者で、「祠ハ即松島土地神ナリ」ともありますから、この葉山権現が松島の総地主と伝わるところの葉山神社のことであることは間違いありません。
 『鹽松勝譜』によれば、この葉山神社が鎮座する山上には常に怪異が多かったようです。
 時に、天狗の舞をみることもあり、故に祀る者は必ず斎戒した後に行なっていた、とのことなのです。
 天狗の舞については、修験の徒の超人的な動きが見紛えられたまま伝わった可能性もあろうかとは思いますが、常の怪異とは具体的にどのような現象を指していたのでしょうか。
 以前私は、天台延福寺―瑞巌寺の前身―など松島に於ける慈覚大師円仁伝説の発火点は山王権現にあるものとみて、これは当地の総地主とされる葉山の神が朝廷の王民化政策ないし慰撫政策によって変質せられたものではなかったか、と推測しておきました。
 もしかしたら土人は、葉山神がそれに対して怒っていると忌み恐れ、怪異の噂を生み出していったのではないのでしょうか。眞山氏はその意を受けてここにあらためて祠を設けたのではないでしょうか。
 眞山氏の陸奥土着は元弘年中(1331~1334)とみられるわけですが、その眞山氏によって開かれた葉山神が、天長五(828)年には天台教団によって勧請されていたであろう山王権現を差し置いて松島の総地主と考えられてきたというのは極めて不自然なことです。
 しかし、眞山氏が山王権現に変質せられた古来の地主神の再興を図ったものと捉えるならば、辻褄が合うというものでしょう。

鹽松勝譜をよむ:その13―上岡・下岡の東明神・西明神―

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7、上岡・下岡の東明神・西明神
 『鹽松勝譜』によれば、瑞巌寺の北には、上岡・下岡と並び称される一対の岡があり、その両岡の上には祠があり、各々東明神・西明神と言われ、それらは貴船祠と加茂祠とされていることです。
 特に上岡は金毘羅山とも呼ばれていたらしいので、であればおそらくは現在「新富山」と呼ばれているところの岡がそうであろうかと思います。なにしろその頂には金毘羅神社があります。ただしこれが上岡の東明神を指すものか否かについては未確認です。

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 いずれ東明神たる貴船祠の祀るところは、京都鞍馬のそれと同様、水神の高龗(たかおかみ)神であるようで、一説には北斗星を祀るともされていたようです。
 一方の西明神たる加茂祠の祀るところは、建津見命と別雷命の二神、すなわち賀茂建角身(かもたけつぬみ)命と、その孫たる賀茂別雷(かもわけいかづち)命のことでしょうが、いずれも山城賀茂氏の始祖であり、いわゆる下鴨神社・上賀茂神社の祭神ということになります。
 あるいはもしかしたら、そのまま上岡・下岡の一対をもって下鴨神社―賀茂御祖(かもみおや)神社―の東西両殿を成立させていたのかもしれません。
 京都の下鴨神社は、東殿に玉依姫と賀茂別雷の母子を祀り、西殿に玉依姫の父賀茂別雷―八咫烏(やたがらす)―を祀っているわけですが、しいて言えば、何故、松島下岡の西明神に玉依姫の名が含まれていないのかは気になります。人皇初代神武天皇の母ということで憚られたものか、あるいは上岡東明神の高龗神をもって玉依姫、すなわち上賀茂社とみられていたのでしょうか。
 補足をしておきますと、貴船社は近世以前には上賀茂社の摂社とされておりました。現在のような独立した社になったのは明治以降のことといいます。
 とはいえ、なにやら11世紀の水害で被災した際のどさくさに上賀茂社の摂社とされてしまった歴史があるようで、現在のかたちはむしろ旧に復されたものということであるのでしょうが、江戸時代の思想展開を窺い知る上では、当時には必ずしもそうみられていなかっただろうということを念頭に置く必要がありそうです。
 ところで、この上岡・下岡、すなわち、貴船・下鴨の組み合わせが、仙臺藩主四代伊達綱村によって改築される前の鹽竈神社境内に祀られていた貴船・只洲(ただす)と同じ組み合わせであることに気づきます。只洲が京都の下鴨社境内の「糺(ただす)の森」に由来する言霊であることは言うまでもありません。
 さすれば、単に鹽竈神社境内の社殿配置という器だけの問題にとどまらず、そこに内在するなんらかの思想そのものが鹽竈神社の外部の松島湾全域をも巻き込んで展開していたということを想定せざるを得ません。
 特に、綱村による元禄縁起の制定時に鹽竈神社の別宮と化した可能性が残る貴船については、鹽竈神社「社誌」の「鹽社由来追考」―『鹽竈神社史』所収―に、「或傍説ニ云、貴船ハ当宮ノ地主ノ神タル由」と、これを塩竈の地主神とする信仰が存在していたことを思い起こされます。
 往古塩竈といえば松島湾をも含む概念であったわけですが、貴船が塩竈の地主の神であるならば、松島の総地主とされる葉山神との関係を如何に咀嚼すべきなのか、また、ここにあえて混乱を免れ得ない情報をひとつ蒸し返すならば、貴船たる上岡東明神が一説に北斗星を祀るものであるとも『鹽松勝譜』にありました。
 ここでの北斗星が北斗七星のことであるのか北極星のことであるのかは定かでありませんが、全天の中心に位置する北極星を造化三神の一である「天之御中主(あめのみなかぬし)」と説く北辰妙見信仰なりの影響が透けてみえてきます。
 天之御中主神は、現在松島高城に鎮座する「紫神社」の祭神とされているわけですが、何を隠そう、その紫神社は古く「松島明神」と呼ばれておりました。
 松島明神はかつて上岡・下岡にほど近い蛇ヶ崎に鎮座しておりましたので、情報になんらかの混乱が生じたのでしょうか。
 天之御中主を北辰・妙見と結びつける信仰形態はおそらく伊勢外宮の度会氏による『神道五部書』などの影響を機に中世以降に隆盛したものと考えられます。
 しかし松島明神は、西行や義経の伝説にみるごとく、少なくとも奥州藤原氏時代には松島を代表する神であったわけであり、それ以前の安倍宗任ですら配流先の筑前大島にて崇敬していたことを鑑みるならば、これは総地主とされる葉山権現と並ぶ松島最古級の神祀りとみるべきでしょう。したがって、天之御中主を祭神とみるには妙に新しすぎる違和感も残ります。

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新富山から高城・磯崎方面を望む

 なにしろ、全てを素直に受け入れてしまうと、貴船神=鹽竈神=塩竈の地主神=松島の地主神=葉山神であり、貴船神=上岡東明神=天之御中主=紫明神=松島明神ということになってしまうわけですが、少なくとも天之御中主については、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝の論功行賞によって高城地区を所領した相馬氏の妙見信仰が混入したものとみるのが妥当ではないでしょうか。

鹽松勝譜をよむ:その14―松島最古の松島八幡―

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8、松島最古の松島八幡
 松島の総地主とされる葉山神に対して、松島の神祠仏閣中の最も古きものとされているのが松島八幡でありました。『鹽松勝譜』にもそう記されております。
 このあたりについての私論は既に触れましたが、この社の本来の姿は、おそらく「松島明神」か「葉山権現」であって、それが多賀城時代の坂上田村麻呂によって多賀國府に近い八幡(やはた)地区にも持ち込まれたのでしょう。
 おそらくはその後、多賀城城下を壊滅させた貞観の大津波で被災し、難を逃れた末の松山に再建された八幡神社に合祀され、それを機に八幡ブランドが松島五大堂の旧社にも逆輸入されて、松島八幡なる社に変ってしまったのではないでしょうか。

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鹽松勝譜をよむ:その15―高城川河口に鹽場を開いた松島明神―

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9、高城川河口に鹽場を開いた松島明神―紫明神―
 松島湾の独特の景観は、湾内に流入する河川が少ないことで保たれているという一面があるのですが、それは逆に、瑞巌寺や五大堂などがある松島海岸地区においては慢性的な水不足の要因でもありました。だからこそ、「独鈷水」や「一脈霊泉」、「湯の原」といった数少ない清水にはそのあまりの有難さからか、すべからく慈覚大師円仁伝説がつきまとっていたのでしょう。
 瑞巌寺に近接する水主(かこ)町では、かつて高城町から清水を分けてもらい飲料水として町内に販売していた家も存在し、その職の「水屋」を屋号に掲げて現在に至る家もあるようです。―拙記事「松島海岸の清水」参照―
 ともあれ、高城町は清水に恵まれていたということになりますが、それもそのはず、この地区は松島海岸地区とは裏腹に、高城川なる川の河口周辺の宿場町でありました。
 その地に開かれた塩田、いわゆる「高城塩田」は、仙臺藩における初期の三塩田のひとつであり、その監督機関として設けられた「磯崎お倉」は、領内35カ所に置かれた領外輸出用の米穀を収蔵する買米倉庫の中で、宮城郡下唯一の官倉であったようです。
 その関係から、米穀の集散にともなう諸施設も多く、近郷の人馬の往還も盛んで、高城宿駅の設定もあいまって、その繁栄は高城磯崎両集落の形成上、きわめて大きな役割をはたしていたようです。―『松島町誌』参照―
 さて、この高城における製塩属性は、藩政時代に初めて育まれたものではありません。連続性はともかく、なにやらその始原は神代にまで遡り得るものであったようです。
 『鹽松勝譜』によれば、鹽竈神が塩竈湾にて製塩の術を教えた時、分けて一神に命じて高城川の河口にも別に鹽場を開かせたというのです。
 命ぜられてこの地を一任されたのは「松島明神」で、土人曰く、鹽竈神社の例祭における神輿渡御の際、先導する祝吏が塩竈の街中の道々に撒いて祓い清めた塩は、この高城川河口で得られた塩であったとのことです。
 製塩の先駆たる鹽竈大神によって開かれた鹽場で得られた塩ではなく、あえて松島明神によって開かれた鹽場で得られた塩が用いられたことの意味は妙に示唆めいております。極言すれば、松島明神の祓の力が鹽竈大神のそれを上回るものとみなされていた可能性を窺い知れる逸話と見えなくもありません。
 あくまで想像でしかありませんが、もしかしたら松島明神とは、陸奥國府多賀城の御用神社と化す前の鹽竈大神の本質であったのではないのでしょうか。

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磯崎大橋から高城川河口方面を望む
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 現在の高城川河口付近には松島湾そのものを庭園にしたようなリゾートホテルが建ち並び、いわば観光の宿場町と化しております。
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