セオリツヒメをムカツヒメとする『ホツマツタヱ』――。
記紀以前に成立していたという触れ込みで、かつ、日本文化の発祥地をヒタカミ―東北地方―と説くこの文献史料は、東北人の私にとって、大変魅力的なものではあります。全体が五七調でテンポよく歌のようにまとめられていることから、おそらくはなんらかの口誦口伝を音韻のままに表記した名残なのでしょう。
情としてこの文献の伝えるところが真実であってほしいという願望も、正直なところ私にはあるわけですが、現実的には、滋賀県高島市の藤樹記念館に保管されているという現存最古の写本―和仁估安聡(わにこやすとし=三輪安聡)本―の自序に記されたところの安永四(1775)年あたりが、この文献の遡れる上限ではないでしょうか。
もちろん、独特なヲシテ文字や伝える内容すべてがその頃に初めて創られた類のものではないでしょうが、仮に景行天皇五年に大田田根子によって原典が編纂されたという触れ込みに信をおいたにしても、それが一字一句微塵の齟齬もなく安永年間の写本に受け継がれているとみるのは、さすがに正直すぎるでしょう。
なにしろ現存『古事記』ですら少なくとも平安時代初頭の弘仁年間(810~823)に書き換えられたものであろうことが、大和岩雄さんの『新版・古事記成立考』などによって検証されております。
例えば、現存『古事記』に出てくる「高御産巣日(たかみむすび)神」の表記が、持統朝(687~697)に成立した原『古事記』には存在しなかったことを大和さんは論証しております。詳細は割愛しますが、それを信ずるならばタカミムスビは、日女(ひるめ)を皇祖神化するアマテラス王権御用神話のために、原『古事記』の「高木(たかぎ)神」が女神アマテラスに対応する皇祖神と化されたものであり、少なくとも『日本書紀』以降の表現方法、ということになります。
その「タカミムスビ」という表現方法が、記紀より古いはずの『ホツマツタヱ』の核にはっきりと用いられているというのも如何なものか。
とはいえ、仮に『ホツマツタヱ』の成立が江戸時代安永四(1775)年までしか遡れなかったのだとしても、鈴木重胤の『日本書紀伝』の文久二(1862)年よりは一世紀近くも古いわけですので、セオリツヒメをムカツヒメとする概念は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛=天照大神荒魂という鈴木重胤発の概念を経由せずとも存在していたということにはなります。
さしあたり私は、この「ムカツヒメ」がはたして『日本書紀』に現れたところの「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」と同義であるのか否かの検証が必要と考えました。
と申しますのも、もしかしたら「ムカツヒメ」の意味するところが単に「皇后」のことであるかもしれないからです。
もしその懸念どおりであれば、「皇后」を意味していただけの「ムカツヒメ」が全て「瀬織津姫」のことを指すと誤解されて論が進められる恐れがあります。ただでさえマリアやらシリウスやら、もはや笑うしかないほどに飛躍した論が蔓延(はびこ)っているわけですから、せめてここはしっかりと確認しておきたいところです。
幸い、先の安永四年の写本、いわゆる「和仁估安聡本」は印影版が普及しており、しかもそれは宮城県図書館でも閲覧可能でありましたので、予め池田満さんの『ホツマ辞典(展望社)』や鳥居礼さんの『ホツマ物語(新泉社)』などから当該関連箇所を絞り込み、写本原文に目を通してそのニュアンスを確認してみました。
そこにはヲシテ文字に音韻が付され、漢訳文が併記されておりました。
音韻は次のとおりです。
記紀以前に成立していたという触れ込みで、かつ、日本文化の発祥地をヒタカミ―東北地方―と説くこの文献史料は、東北人の私にとって、大変魅力的なものではあります。全体が五七調でテンポよく歌のようにまとめられていることから、おそらくはなんらかの口誦口伝を音韻のままに表記した名残なのでしょう。
情としてこの文献の伝えるところが真実であってほしいという願望も、正直なところ私にはあるわけですが、現実的には、滋賀県高島市の藤樹記念館に保管されているという現存最古の写本―和仁估安聡(わにこやすとし=三輪安聡)本―の自序に記されたところの安永四(1775)年あたりが、この文献の遡れる上限ではないでしょうか。
もちろん、独特なヲシテ文字や伝える内容すべてがその頃に初めて創られた類のものではないでしょうが、仮に景行天皇五年に大田田根子によって原典が編纂されたという触れ込みに信をおいたにしても、それが一字一句微塵の齟齬もなく安永年間の写本に受け継がれているとみるのは、さすがに正直すぎるでしょう。
なにしろ現存『古事記』ですら少なくとも平安時代初頭の弘仁年間(810~823)に書き換えられたものであろうことが、大和岩雄さんの『新版・古事記成立考』などによって検証されております。
例えば、現存『古事記』に出てくる「高御産巣日(たかみむすび)神」の表記が、持統朝(687~697)に成立した原『古事記』には存在しなかったことを大和さんは論証しております。詳細は割愛しますが、それを信ずるならばタカミムスビは、日女(ひるめ)を皇祖神化するアマテラス王権御用神話のために、原『古事記』の「高木(たかぎ)神」が女神アマテラスに対応する皇祖神と化されたものであり、少なくとも『日本書紀』以降の表現方法、ということになります。
その「タカミムスビ」という表現方法が、記紀より古いはずの『ホツマツタヱ』の核にはっきりと用いられているというのも如何なものか。
とはいえ、仮に『ホツマツタヱ』の成立が江戸時代安永四(1775)年までしか遡れなかったのだとしても、鈴木重胤の『日本書紀伝』の文久二(1862)年よりは一世紀近くも古いわけですので、セオリツヒメをムカツヒメとする概念は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛=天照大神荒魂という鈴木重胤発の概念を経由せずとも存在していたということにはなります。
さしあたり私は、この「ムカツヒメ」がはたして『日本書紀』に現れたところの「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」と同義であるのか否かの検証が必要と考えました。
と申しますのも、もしかしたら「ムカツヒメ」の意味するところが単に「皇后」のことであるかもしれないからです。
もしその懸念どおりであれば、「皇后」を意味していただけの「ムカツヒメ」が全て「瀬織津姫」のことを指すと誤解されて論が進められる恐れがあります。ただでさえマリアやらシリウスやら、もはや笑うしかないほどに飛躍した論が蔓延(はびこ)っているわけですから、せめてここはしっかりと確認しておきたいところです。
幸い、先の安永四年の写本、いわゆる「和仁估安聡本」は印影版が普及しており、しかもそれは宮城県図書館でも閲覧可能でありましたので、予め池田満さんの『ホツマ辞典(展望社)』や鳥居礼さんの『ホツマ物語(新泉社)』などから当該関連箇所を絞り込み、写本原文に目を通してそのニュアンスを確認してみました。
そこにはヲシテ文字に音韻が付され、漢訳文が併記されておりました。
音韻は次のとおりです。
「スナヲナル セヲリツヒメノ ミヤビニワ キミモキザハシ フミヲリテ アマサガルヒニ ムカツヒメ ツヰニイレマス ウチミヤニ」
ちなみに鳥居さんの『ホツマ物語』はこの部分を次のように訳しております。
「アマテルはセオリツヒメの上品な美しさに、思わず宮殿の檜造りの階段を踏み下りてしまった。アマテルはセオリツヒメと向かい合った。そして、后のうちでもっとも高い位の内つ宮―正室―にすることを決めた」
池田さんも、『ホツマ辞典』の「ムカツヒメ」の項に次のように記しております。
「アマテルカミの12妃のうち、セオリツヒメを殊のほか愛しんだアマテルカミは、階段を自ら降りて行って、迎え入れたと伝えられている。この故事から、セオリツヒメにはムカツヒメの名が付いた。アマテルカミに一対一で向かい合いたるヒメの語意」
なにやら、皇后を意味する音韻としては「ツヰニイレマス ウチミヤニ」があり、それとは別に、「向き合う姫」という意味をなす「ムカツヒメ」という音韻があるようです。
また、「階段を下りる」と直訳された、おそらくは「天下り―降臨―」の示唆と思しき「アマサガル」の音韻も付されているようですが、意図してかせずしてか、「アマサガルヒニ ムカツヒメ」と、さも「天疎向津媛(あまさかるむかつひめ)」と言わんばかりに音韻が連続して用いられております。
したがって、さしあたり、『ホツマツタヱ』が記すところの「ムカツヒメ」は、たしかに「瀬織津姫」の個体を指しており、かつ、『日本書紀』に登場した「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」のことと捉えて良さそうに思えます。
しかし、はたしてこれを素直に瀬織津姫=撞賢木厳之御魂天疎向津媛を傍証するものと認めて良いものなのでしょうか。
むしろ、『ホツマツタヱ』の和仁估安聡本の刊行経緯なり『日本書紀伝』の鈴木重胤の天照荒魂説自体が、良くも悪くも江戸時代中期の賀茂真淵の『国意考』や、本居宣長の『古事記伝』に象徴される、いわゆる古道思想に端を発した国学の隆盛に刺激されて生まれた思想表現の各々の形に過ぎなかったりはしないか、という思いがくすぶっていることも正直なところです。
また、「階段を下りる」と直訳された、おそらくは「天下り―降臨―」の示唆と思しき「アマサガル」の音韻も付されているようですが、意図してかせずしてか、「アマサガルヒニ ムカツヒメ」と、さも「天疎向津媛(あまさかるむかつひめ)」と言わんばかりに音韻が連続して用いられております。
したがって、さしあたり、『ホツマツタヱ』が記すところの「ムカツヒメ」は、たしかに「瀬織津姫」の個体を指しており、かつ、『日本書紀』に登場した「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」のことと捉えて良さそうに思えます。
しかし、はたしてこれを素直に瀬織津姫=撞賢木厳之御魂天疎向津媛を傍証するものと認めて良いものなのでしょうか。
むしろ、『ホツマツタヱ』の和仁估安聡本の刊行経緯なり『日本書紀伝』の鈴木重胤の天照荒魂説自体が、良くも悪くも江戸時代中期の賀茂真淵の『国意考』や、本居宣長の『古事記伝』に象徴される、いわゆる古道思想に端を発した国学の隆盛に刺激されて生まれた思想表現の各々の形に過ぎなかったりはしないか、という思いがくすぶっていることも正直なところです。