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瀬織津姫は撞賢木厳之御魂天疎向津媛なのか―後編―

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 セオリツヒメをムカツヒメとする『ホツマツタヱ』――。
 記紀以前に成立していたという触れ込みで、かつ、日本文化の発祥地をヒタカミ―東北地方―と説くこの文献史料は、東北人の私にとって、大変魅力的なものではあります。全体が五七調でテンポよく歌のようにまとめられていることから、おそらくはなんらかの口誦口伝を音韻のままに表記した名残なのでしょう。
 情としてこの文献の伝えるところが真実であってほしいという願望も、正直なところ私にはあるわけですが、現実的には、滋賀県高島市の藤樹記念館に保管されているという現存最古の写本―和仁估安聡(わにこやすとし=三輪安聡)本―の自序に記されたところの安永四(1775)年あたりが、この文献の遡れる上限ではないでしょうか。
 もちろん、独特なヲシテ文字や伝える内容すべてがその頃に初めて創られた類のものではないでしょうが、仮に景行天皇五年に大田田根子によって原典が編纂されたという触れ込みに信をおいたにしても、それが一字一句微塵の齟齬もなく安永年間の写本に受け継がれているとみるのは、さすがに正直すぎるでしょう。
 なにしろ現存『古事記』ですら少なくとも平安時代初頭の弘仁年間(810~823)に書き換えられたものであろうことが、大和岩雄さんの『新版・古事記成立考』などによって検証されております。
 例えば、現存『古事記』に出てくる「高御産巣日(たかみむすび)神」の表記が、持統朝(687~697)に成立した原『古事記』には存在しなかったことを大和さんは論証しております。詳細は割愛しますが、それを信ずるならばタカミムスビは、日女(ひるめ)を皇祖神化するアマテラス王権御用神話のために、原『古事記』の「高木(たかぎ)神」が女神アマテラスに対応する皇祖神と化されたものであり、少なくとも『日本書紀』以降の表現方法、ということになります。
 その「タカミムスビ」という表現方法が、記紀より古いはずの『ホツマツタヱ』の核にはっきりと用いられているというのも如何なものか。
 とはいえ、仮に『ホツマツタヱ』の成立が江戸時代安永四(1775)年までしか遡れなかったのだとしても、鈴木重胤の『日本書紀伝』の文久二(1862)年よりは一世紀近くも古いわけですので、セオリツヒメをムカツヒメとする概念は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛=天照大神荒魂という鈴木重胤発の概念を経由せずとも存在していたということにはなります。
 さしあたり私は、この「ムカツヒメ」がはたして『日本書紀』に現れたところの「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」と同義であるのか否かの検証が必要と考えました。
 と申しますのも、もしかしたら「ムカツヒメ」の意味するところが単に「皇后」のことであるかもしれないからです。
 もしその懸念どおりであれば、「皇后」を意味していただけの「ムカツヒメ」が全て「瀬織津姫」のことを指すと誤解されて論が進められる恐れがあります。ただでさえマリアやらシリウスやら、もはや笑うしかないほどに飛躍した論が蔓延(はびこ)っているわけですから、せめてここはしっかりと確認しておきたいところです。
 幸い、先の安永四年の写本、いわゆる「和仁估安聡本」は印影版が普及しており、しかもそれは宮城県図書館でも閲覧可能でありましたので、予め池田満さんの『ホツマ辞典(展望社)』や鳥居礼さんの『ホツマ物語(新泉社)』などから当該関連箇所を絞り込み、写本原文に目を通してそのニュアンスを確認してみました。
 そこにはヲシテ文字に音韻が付され、漢訳文が併記されておりました。
 音韻は次のとおりです。

 「スナヲナル セヲリツヒメノ ミヤビニワ キミモキザハシ フミヲリテ アマサガルヒニ ムカツヒメ ツヰニイレマス ウチミヤニ」

 ちなみに鳥居さんの『ホツマ物語』はこの部分を次のように訳しております。

 「アマテルはセオリツヒメの上品な美しさに、思わず宮殿の檜造りの階段を踏み下りてしまった。アマテルはセオリツヒメと向かい合った。そして、后のうちでもっとも高い位の内つ宮―正室―にすることを決めた」

 池田さんも、『ホツマ辞典』の「ムカツヒメ」の項に次のように記しております。

 「アマテルカミの12妃のうち、セオリツヒメを殊のほか愛しんだアマテルカミは、階段を自ら降りて行って、迎え入れたと伝えられている。この故事から、セオリツヒメにはムカツヒメの名が付いた。アマテルカミに一対一で向かい合いたるヒメの語意」

 なにやら、皇后を意味する音韻としては「ツヰニイレマス ウチミヤニ」があり、それとは別に、「向き合う姫」という意味をなす「ムカツヒメ」という音韻があるようです。
 また、「階段を下りる」と直訳された、おそらくは「天下り―降臨―」の示唆と思しき「アマサガル」の音韻も付されているようですが、意図してかせずしてか、「アマサガルヒニ ムカツヒメ」と、さも「天疎向津媛(あまさかるむかつひめ)」と言わんばかりに音韻が連続して用いられております。
 したがって、さしあたり、『ホツマツタヱ』が記すところの「ムカツヒメ」は、たしかに「瀬織津姫」の個体を指しており、かつ、『日本書紀』に登場した「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」のことと捉えて良さそうに思えます。
 しかし、はたしてこれを素直に瀬織津姫=撞賢木厳之御魂天疎向津媛を傍証するものと認めて良いものなのでしょうか。
 むしろ、『ホツマツタヱ』の和仁估安聡本の刊行経緯なり『日本書紀伝』の鈴木重胤の天照荒魂説自体が、良くも悪くも江戸時代中期の賀茂真淵の『国意考』や、本居宣長の『古事記伝』に象徴される、いわゆる古道思想に端を発した国学の隆盛に刺激されて生まれた思想表現の各々の形に過ぎなかったりはしないか、という思いがくすぶっていることも正直なところです。

街路樹の乳銀杏

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 JR仙台駅の北側にあって、西口と東口を連絡する跨線橋「宮城野橋:通称X橋(えっくすばし)」が、いよいよ本格的に付け替えられようとしております。
 芭蕉の辻を起点にした仙台は、南北を貫く奥州街道と東西を貫く大町及び名掛丁を軸に城下町の平面が広がっていたわけですが、明治時代に東北本線が開通したことによって、東西軸が分断されました。もちろん、かつての中心市街地は東北本線がほぼ東端でもありましたのでさしたる不自由もなかったのでしょうが、戦後市街地も拡大し、自動車社会になるにつれ、このことは市民にとっての大きなストレスになっていきました。
 特に、かつては駅裏でしかなかった仙台駅東口の新都心化が進むにつれ、そのストレスは増大するばかりでありました。
 したがって、片側3車線、計6車線の堂々たる跨線橋に生まれ変わる宮城野橋には、仙台市民が長年悩まされてきた都心東西軸の動脈硬化の改善に、大いなる期待がかかっているのです。

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現在の宮城野橋周辺
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 宮城野橋は、藩政時代以来城下を並行していた二筋の街道が、東北本線の複線化などに伴い、交差する跨線部のみが一筋に集約された橋であり、その独特な形状から、俗にX橋などと呼ばれてきたわけですが、宮城野橋解体のニュースを目にしてそれがX橋のことであったとは気づかなかった市民も多かったようです。そのくらい市民には通称のX橋のほうが浸透していたのです。
 このX橋、少年時代の私にはどうにも「X」形状には見えず、これは線対称に横置きした「一対のY: >--< 」ではないか、などと屁理屈をこねたりもしておりましたが、付近に住んでいた親戚宅を訪れるたび、橋のたもとにあった歩行者用の階段から橋上に昇って往来する列車を眺めるのは好きでありました。
 とはいえ、以前は子供がうろうろすべきではない古さびれた夜の街でもありました。現在でこそ周辺には綺麗な高層ビルも林立しておりますが、夕暮れ時には謎の御婦人が誰を待つともなく立っていたりと、少なくとも平成に入って間もない頃までは戦後の場末感がありました。
 うろ覚えではありますが、かつて、吉川団十郎さんの「仙台の女(ひと)」という歌に、

〽エックスばぁ~しを (パパヤ~) 歩い~てい~ると~ (パパヤパヤ~) 橋~のたも~とに~(パパヤ~) 年増ぁ~が一人~(パパヤパヤパヤ) 流した横目で 手~を振り振り 「あんちゃん! 今晩つぢあってけさい~ん」

という感じの歌詞がありました。いみじくもその情景をよく表していると思います。
 戦後まもない頃には進駐軍も闊歩していたようで、正義感あふれる日本の柔道青年が素行の悪い一人の米兵を橋の下に投げとばしたという逸話も耳にしておりました。
 ふと、柔道青年はその後何事もなかったのだろうか・・・、その米兵の命に別状はなかったのだろうか・・・、などと余計な心配をしながら橋の下の線路を眺めていたことも思い出します。

 先日、そんなことを懐かしく思い出しながら信号待ちをしていると、ふと、宮城野橋のたもとの広瀬通の街路樹の銀杏に、「気根」があるのを見つけました。
 俗に「乳」と呼ばれるものです。

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 こういった銀杏はたいてい「乳銀杏(ちちいちょう)」などと呼ばれ、乳の出ない御婦人が願をかける信仰の対象となることが多く、ひいては子育てや安産の神として崇敬されることも多いわけですが、仙台市内でも宮城野区銀杏町には樹齢1200年の「苦竹の乳銀杏(にがたけのちちいちょう)」と呼ばれる巨大なそれがあり、やはり厚く信仰されております。
 それにしても、戦後に植えられた街路樹でそれを見かけたのは初めてです。
 もちろん、これまで街路樹をそういう目で見ていたこともなかったので、もしかしたら他にもまだあるのかもしれませんが、その後、思い出すたびに意識的に探してみている限りではまだ見つけておりません。
 このお乳が、どのような原因で成長するのか私にはわかりませんが、何やらありがたくなってきます。
 しかし、残念ながらこの乳銀杏は宮城野橋の架け替えに伴う道路改良工事によって伐採されることが決まっているものなのです。

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 よりによって、何故この銀杏が乳銀杏になってしまったのだろう・・・。

 なんともせつない気持ちがよぎります。

冠川の甲羅干し現場

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 ある晴れた昼下がり、田子(たご)地区-仙台市宮城野区―の七北田川(ななきたがわ)の河川敷でカメさんよろしく甲羅干しをしました。
 思えばこのあたりは、鹽竈神社の不思議を探らんとする私が、それまでの妄想や図書館での調査からついに外へと踏み出した最初期のフィールドワーク現場でもありました。まだデジカメなど持っておらず、ブログという言葉すら知らず、全くもって純粋な知的好奇心のみでの行動でありました。
 当時の私は、冠川(かむりがわ)神話にたいそう惹かれておりました。
 「七北田川(ななきたがわ)」は旧(ふる)く「冠川(かむりがわ)」と呼ばれていたわけですが、それは、現在鹽竈神社の隣に鎮座している志波彦神社の神が、この川に冠を落としたことに因むと伝わっております。とるにならない素朴な神話のようですが、これが思いのほか不吉な話である可能性に私は気づきました。冠はそれを被る人物の地位を象徴するもののはずですが、それを川に落としてしまったという情報は、信心深い古代人の心象にどのように映っていたものか・・・少なくとも、現代まで語り継がれている事実を鑑みるならば、それは相当ショッキングな“事件”であったに違いない、と私は考えたのです。
 今、記事を書いている時点での私は、信濃系の馬産文化との濃厚な関係が推察される「瀧澤(たきざわ・りゅうたく)」の言霊と、そこから派生したと思しき「柳沢(りゅうたく・やぎさわ)」や「八木沢(やぎさわ)」などの言霊への検討の過程で、もしかしたら「蟹守=掃守(かもり・かんもり・かもん)」なり「神降(かみふり)」の韻が、「冠(かんむり・かむり)」に変化して、後世に冠にこじつけた神話が後付けられた可能性もあるかもしれない―拙記事「兜と冠と蟹守」参照―とも思い始めているのですが、当時は、蝦夷の王家と思しき志波彦の失脚神話という方向でのみ発想を突き進めておりました。もしかしたら冠は斬り捨てられた生首への間接的な表現ではなかったか、すなわち、神と崇め奉られる以前の敗者の酋長としての志波彦の斬首現場が、この川のどこかであったのではないか、と考えていたのです。
 ひとまず私は、乗っていた馬が川底の石につまずいて冠を落とした志波彦神が、怒って川底の石を全て拾わせ積ませた場所と伝えられている石留神社―仙台市泉区石止-、あるいは、渡ろうとしたときに風で冠が飛ばされた、と伝えられている今市橋(いまいちばし)付近-仙台市宮城野区岩切―のいずれかがその現場と疑いました。
 なにしろ今市橋付近の八坂神社は、明治七(1874)年以前の志波彦神社の旧鎮座地でもあり、現在も境内には冠川神社という名で志波彦神が祀られており、私は石留神社が死の現場で八坂神社が墓ではなかったか、と一応の仮説を立てました。
 甲羅干し現場の田子地区はそれらの下流にあたるわけですが、その対岸の多賀城市新田地区には流れてきた冠を狐がくわえて上ってきたという伝説もあります。
 伝説地には祠が建てられており、冠川稲荷社と名付けられております。
 江戸時代に流路が変えられる前の冠川は、その周辺の南安楽寺あたりから左折し、東流していたとされております。そしてそれは多賀城市八幡あたりからはおおよそ現在の砂押川の流路となって、最終的には湊浜(みなとはま)―宮城郡七ヶ浜町:仙台港付近―から仙台湾に注いでおりました。
 南安楽寺周辺より上流へは川舟が遡ることが出来ず、そのあたりで湊浜からの商人船なども荷揚げせざるを得なかったものと考えられております。したがって、このあたりに陸揚げ港と市場―冠屋(かぶりや)市場―が開かれていたものと考えられます―参考:『仙台市史』―。
 それらを鑑みるならば、おそらくは中世の多賀國府もこのあたりにあったのでしょう。
 したがって当地の冠川稲荷社は、産土神たる志波彦神が國府や市場の鎮護として祀られた名残なのであろう、と私は考えております。

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参考その1:『仙台市史通史編2古代中世』より

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参考その2:『仙台市史通史編3近世1』より
※両方とも仙台市史所載の図ですが、流路の推定にはやや齟齬があるようです。

 久しぶりに冠川稲荷社を訪れてみたくなった私は、対岸への橋を渡らんと堤防の遊歩道、すなわち〽ある晴れた昼下がり市場へ続く道~を歩き始めました。
 「田子大橋」とは名ばかりの“狭い橋”を渡っていると、橋の下には数匹の鮭が身をよじるように泳いでいるのが見えました。産卵していたのでしょうか。
 おだやかな風景に見惚れてしまい、立ち止まって欄干にもたれて川にそよぐ秋風の揺らぎに身を任せました。やおらスマホのカメラ機能にて風景を撮影していると、ウォーキング中のややお歳を召した男性に声をかけられました。

「いい景色ですよねぇ~。この橋に来るといつもカメラを持ってくればよかったって思うんですよ・・・。でもいつも忘れてきてしまうんですよねぇ・・・。そこに鮭がいるんですが、見えますか?ここで産卵して、あと死んでしまうんですよねぇ・・・」

 ありがとうございます。何か優しい気持ちになれました。つい、映画『おくりびと』のワンシーンを思い出しましたが、私が本木雅弘さんにでも見えたのでしょうか・・・いえ、言葉が過ぎました・・・すみません・・・。
 さて、橋を渡り切ると、すぐに冠川稲荷社が見えます。
 はて?
 なにか、だいぶ雰囲気が変わっておりました。
 以前訪れたときには、住宅街の真ん中にあってちょっとした林に囲まれていて、いかにもそこに神社がありますよ、という雰囲気を醸し出していたはずですが、なにやら妙にさっぱりしておりました。
 樹木が全て伐採されて、祠が四方から丸見えの状態になっていたのです。
 さきほど視聴したNHK大河ドラマ『真田丸』で、外堀のほとんどを埋められた大坂城が丸裸にされておりましたが、まさにそのような印象を受けました。
 たしか以前に画像を撮っていたはず、と思い、帰宅後探してみたところ、結局は使っていなかったものの、2008年12月の拙ブログ開設時、当座の記事に必要と考えていた画像を一気に撮影しまくった際の画像フォルダに保存されておりました。
 そして、やはり私の記憶に間違いはなく、この祠は樹木に囲まれておりました。

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2008年12月

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現在

 明治期、神社合祀に強く反対をしていた南方熊楠(みなかたくまぐす)の真意は、むしろ森林伐採への反対にこそあったようでもありました。熊楠の理念からすると、社殿が残っていても周囲の森が失われたら意味がない、ということになるかもしれません。中沢新一さんの『熊楠の星の時間(講談社)』には、芳賀直哉さんの『南方熊楠と神社合祀―いのちの森を守る闘い(静岡学術出版)』を参照しながら、こんなことが書かれてありました。

―引用―
〈第八点〉合祀は、天然風景や天然記念物を滅亡させてしまう。
 熊楠がいちばん言いたかったのはこれでしょう。熊楠はこう書いています。「天然風景は、曼荼羅である。天然自然のうちに抱かれ、真理を感得することもまたできよう」。「天然記念物を手厚く保護する外国と、我が国の合祀の蛮行には驚き呆れる以外にない」。
 日本の古くからの森林は、神社に残されてきました。それを伐採消滅させてしまうことによって、何が奪われるのでしょうか。曼荼羅にも喩えられる植物相を中心にして形成されてきた、世界の全体性が破壊されてしまうのです。

 冠川稲荷社のあたりは、特に東日本大震災の大津波に呑まれたわけでもないはずなので、おそらく他になにかよんどころのない事情があってこのような状態になってしまったのでしょう。残念ではありますが・・・。

吉岡の島田飴に想う

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 毎年12月14日、吉岡八幡神社―黒川郡大和町吉岡―で「島田飴まつり」という縁結びの行事が開かれます。宮城県民は、暮れになると新聞やニュースでその時節の到来を知らされます。
 例年この日に高島田髷に似せてつくられた飴が吉岡八幡神社に奉納されるというもので、縁結びに御利益があるというその飴は、同日に縁日でのみ希望者にも数量限定で販売されるようです。数年前、車のラジオで耳にして初めてこのまつりの存在を知りましたが、実はなかなかに古い由緒があるようです。

―引用:まほろばホールHPより―
 元和年間、吉岡がまだ今村と呼ばれていた遠い昔のとある暮れ12月14日。八幡さまの神主が、偶然横丁で見かけた高島田髷の凛とした美しい花嫁にこころをうばわれ、恋慕の情に絶え難く、まもなく病に臥せってしまいました。
 神主の病の噂はたちまち村中に広がり、皆々は名主の家に寄り集まって話し合い、高島田髷に似せた飴をこしらえて神社へ奉納し、神主の快気を祈ることにしました。
 神主はこの島田の飴を大変気に入って薬がわりに服用すると、不思議と効験あらたかで、たちまち病は快気しました。
 神主は村の皆々のまごころに深く感謝し、以来毎年歳の暮12月14日を例祭日とし、「相思の仲」の若者たちの幸せを祈ろうと、縁結びの神事を催すようになりました。
この縁に因み、今でも歳の暮12月14日には吉岡八幡神社境内に島田飴の店や縁日が賑やかにひろげられ、たくさんの参拝者が良縁に恵まれるよう島田飴を求め、八幡さまに祈願するようになったということです。

 吉岡地区は、当地の実話をもとつくられた『殿利息でござる!』という映画が公開されたこともあり、全国的にも知名度が高まっていると思われますが、島田飴の由緒といい、つくづくここの村人はまとまりがあって優しかったのだな、と感じさせられます。
 由緒では、八幡神社の神主の恋煩いがこの縁結び神事の発端となっているようですが、それはそれで信じるとして、私は、どうしてもこの地で病没した「飯坂の局(いいざかのつぼね)」とその生家飯坂家の悲運になにかしら起因していたのではないか、と勘繰ってしまうのです。
 なにしろ、吉岡八幡神社は元々飯坂氏の氏神であり、飯坂の局とともに吉岡へと遷ってきた神社といっても過言ではありません。
 飯坂の局は、その名のとおり、岩代國信夫(しのぶ)郡飯坂(いいざか)―現:福島県福島市内―を本拠としていた飯坂氏の女性で、仙臺藩祖伊達政宗の側室として伊達家に迎え入れられました。
 宇和島伊達氏の祖となった秀宗-政宗長男―の生母であったとも言われておりますが、秀宗は史料によって「新造の方―猫御前―」の子とされております。
 しかし、『伊達略記』には新造の方と飯坂の局が同一人物として記されており、『伊達治家記録』によれば新造の方も飯坂家から出た女性であるようですので、吉岡八幡神社の神事の本質を飯坂家の悲哀に結び付けて想像を膨らませる分には包摂され得る範囲の内と言えるでしょう。
 飯坂の局の養子とも言われる吉岡城主伊達宗清は、独眼竜政宗の三男で、同長男秀宗―宇和島藩祖―の同母弟とされているわけですが、母方の実家である飯坂家に嗣がいなかったためか祖父であり頭首である飯坂宗康の養子に入りました。すなわち祖父の養子に入ったということになるのでしょうか・・・。だとすれば、つまり、飯坂の局の養子とされる宗清は、その時点で一旦母の弟となったわけであり、その後、あらためて母の嗣として養子に入ったということになります。もしかしたらその複雑な相続がために飯坂の局と新造の方の情報には混乱があるのかもしれません。
 飯坂の局と吉岡地区を抱える黒川郡は、実は彼女が政宗の側室となる以前から因縁めいたものがあったようです。
 室町時代中期以降、黒川地方を管掌していたのは足利家の血脈で奥州探題斯波氏の流れをくむ大崎氏から分かれた黒川氏でありました。
 ここで、紫桃正隆さんの『政宗に睨まれた二人の老将(宝文堂)』の内容を参考にしながら、飯坂家と黒川家の因縁の物語を語ってみたいと思います。
 時は戦国時代、その黒川家当主の叔父株で早くから家を出ていた黒川式部なる人物が、飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を強めていた米沢―山形県米沢市―の伊達家に仕えておりました。式部は年齢も三十路を過ぎてやや高齢になっていたものの、働き者で周囲からの信頼も厚く、伊達政宗―輝宗?―も良縁があれば推挙してやろうと常々心にかけていたのだといいます。
 そこに、信夫の飯坂家が男子に恵まれず娘に婿を欲している情報が入りました。政宗―輝宗?―は大いに喜び、すぐに両家を取り持ちました。
 ただ、娘はまだ十歳を過ぎたばかりで、夫婦の契りにはまだ早すぎるということで、さしあたり婚約だけで済ませていたのだといいます。
 ところがこの娘、成長するにつれその美貌と妖艶さに磨きがかかり、親の飯坂左近太夫は老いぼれた黒川式部にくれてやるのが惜しくなってしまったのだそうです。そこで妙案が浮かんだのだといいます。
 それは、この娘を主家である伊達の御曹司、すなわち政宗公に献上してしまおう、ということでありました。嗣子のことは娘の腹から生み出された胤の一人でももらい受けられれば将来的にみてももうけものであるし、相手が政宗であれば、黒川家も文句をつけられないだろう、という目論見があったようです。
 政宗もひどいもので、娘の美貌にすっかり魅せられてしまい、自分がとりもった縁談であるにもかかわらずそれを反故にして飯坂氏からの提案を快諾したのだそうです。
 もちろん、この娘こそが「飯坂の局」です。
 これを恨んだ黒川式部は、その夜のうちに伊達家の居城のある米沢を出奔し、越後に落ちたのだといいます。
 その情報に、式部の甥である黒川晴氏―月舟斎―の心中には怒りがくすぶりました。後に伊達と大崎が戦となった際に、彼が大崎軍に寝返ったのはこの一件のためだとも言われ、いずれ彼の寝返りが屈強な伊達軍にまさかの黒星をつける最大要因となりました。
 さて、皮肉にも、飯坂の局は晩年を因縁の黒川の地に過ごすこととなります。
 不幸なことに、飯坂の局の養子となった伊達宗清も嗣子にめぐまれず、飯坂の局の姉「債」が嫁いだ桑折家の一族から「定長」という人物を養子に迎え入れても名跡にめぐまれず、政宗の次男すなわち仙臺藩主二代「忠宗」の子「宗章」を迎えて胆沢郡前沢―岩手県奥州市―に移封されたものの、宗章は16歳で夭折し、悲願は実りませんでした。やむなく原田甲斐宗輔の次男、輔俊を迎え入れたものの、周知のとおり、寛文事件に連座して切腹の憂き目に会っております。
 このような次々と発生する不幸なアクシデントのため、寛文十一年、飯坂家はついに断絶となったのでありました。
 紫桃さんは次のようにまとめております。

―引用:『政宗に睨まれた二人の老将』より―
 黒川月舟は自重すれば自分が黒川領三万石を全うできることも知っていた。しかし敢えてそれを放棄し、滅亡の道へと突走った。以上の経過を総括すると、黒川氏の運命を左右したキーポイントは、飯坂の局という女性の去就にかかっていたとも極論できるであろう。
~中略~
 飯坂の局は在地の飯坂から米沢へ、そして松森へ、黒川領へと、運命の糸に引かれて一歩一歩黒川領内へと入ってくる。そしてこの地に病没する。
~中略~
~飯坂家の胤(たね)は続いて稔らなかった。~まことに戦慄すべき不幸の中で飯坂家が絶えるのであった。
<権勢の府は衆怨の府>という諺がある。その頃は既に飯坂(伊達)家の領地となっていたが、もと黒川家の地下人(じげにん)たち、百姓たちは果してどんな感慨をもってこの悲劇を見守ったことであろうか。
 人の世にはかかる不思議な歴史的因果がつきまとうものである。それは一つ天の摂理でもあるのだ。人々は今を悲しみ、今を喜ぶ。だが、それはすべて明日につながるものではない。明日は晴れか、雨か、それを知る者は居ないのだ。黒川盆地の歴史的変転歴史的因果の“真相”を知るもの、それは山肌にうっすら雪を置き、冷たく厳しくそそり立つ、七ツ森の秀峰だけであろう。
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七ツ森


 いかがでしょうか。
 もちろん、縁結びの島田飴とはなんら関係がない歴史絵巻であるのかもしれませんが、先の吉岡八幡神社の神主を黒川式部に、高島田髷の凛とした美しい花嫁を飯坂の局に置き換えてみてもこの神事の由緒として成立しそうな気もするのです。
 もし、世間に飯坂家の断絶が黒川家の怨嗟によるものと受け止められていたとしたならば、この神事は島田飴に擬された飯坂の局を神主に擬された黒川式部に差し出して慰めようとした領民の優しさなのかもしれない・・・などとも考えてしまうのです。

冬の鹽竈櫻の御前にて

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 鹽竈様へ年末の御挨拶に行ってまいりました。
 ほんのり前夜の雪の残る早朝の境内は、氷点にも満たない厳しい寒さではありましたが、その凛とした冷気がむしろ心地よく、重苦しい曇天が徐々に晴れゆく東の空からは、いよいよ朝日が差し込んできました。

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 ふと、私は鹽竈櫻の前で立ち止まっておりました。
 花はもちろん葉すら着飾ることもない殺風景な冬の鹽竈櫻ではありますが、その容姿の是非にかかわらず、得難い気づきと絆を与えてくださった偉大な御神木に、私はただただ手を合わせたいのです。

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 あけくれにさぞな愛て見む鹽竈の桜の本に海人のかくれや

 これは平安時代に堀河天皇が詠まれた歌です。
 天皇があたかも日課のように鹽竈なり鹽竈櫻のことを想い愛でておられたことがよくわかる歌ではありますが、「海人のかくれや」とはなんぞや・・・。
 かつて鹽竈神社の不思議に着目するも、特段意識することもなく通り過ぎていた歌でありましたが、約七年前に「海人のかくれや」を意識したその刹那より、私はこの鹽竈の地に海人の属性を窺える陸奥安倍家の祖先が眠っておられると確信するようになりました。
 そして何やらそのことを、堀河天皇はごくあたりまえに認識されていたようでもあります。
 堀河天皇の即位は応徳三(1086)年、すなわち、後三年の役が終わる前の年です。
 堀河天皇の在位はその年から嘉祥二(1107)年の崩御までの間ということになりますが、崩御の翌年となる天仁元(1108)年から、後三年の役の最終勝者となった奥州藤原初代清衡は平泉中尊寺の造営に着手しております。あたかも戦乱に翻弄された半生を嘆くかのように浄土のかたちを自らの京(みやこ)平泉に持ち込んだ清衡ではありますが、堀河天皇もまた、長きにわたって奥羽に繰り広げられた戦乱を嘆かれていたのでしょう。そして、滅ぼされた奥州の王家への鎮魂の想いをこの歌に込められたのでしょう。
 なにしろ鹽竈神社右宮一禰宜新太夫家小野氏が鹽竈神社に関わったのも、おそらくその頃からでありました。
 あくまで私の仮説ですが、それ以前の鹽竈神社は、江戸期に設けられた別宮は言うに及ばず、左宮・右宮にすら分かれておらず、のちの左宮一禰宜安太夫家阿倍氏こそが主たる社家であり、禰宜であったのだと思います。
 しかし思うに安太夫家は賊として滅ぼされた安倍家の同族であり、前九年の役以降の鹽竈祭祀が風前の灯火(ともしび)であったのだろうことは想像に難くありません。
 おそらくは、朝廷から異例の待遇を受けてきた鹽竈祭祀の停滞を憂いたであろう多賀國府によって小野氏は招かれ、新太夫家として鹽竈祭祀の実質を継承させられたのではないでしょうか。
 なにしろ小野氏は、阿倍氏ともなんらかの関係があるのであろう中ツ臣氏族―神と天皇の間を取り持つ氏族―和珥(わに)氏の裔でもあります。
 ただ、伝統的な神事の本質上安太夫家を鹽竈から外すわけにいかないため、左宮・右宮の両宮に分けて安太夫家・新太夫家を各々の一禰宜にしたのではなかろうか、というのが現時点での私の考えです。※拙記事「鹽竈神社と鼻節(はなぶし)神社:後編」参照
 これらのことは、すべて鹽竈櫻をきっかけに発想したことでありました。
 もちろん、全く見当違いな論かもしれませんが、もしこれらが真実であったならば、鹽竈櫻はなにゆえ何の霊力もない昭和枯れすすきのような私にこのような気づきを与えてくれたのか・・・、もし私に何か為すべき役割というものがあるとするならばわかりやすく導いて欲しい・・・などと、唯物思考から今一つ抜けきれていないはずの私が柄にもなく思った此度の参拝でありました。

大祓詞と「神漏岐(かむろぎ)・神漏美(かむろみ)」

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 今年もいよいよ年の瀬となっておりますが、大晦日には全国各地の神社で「年越の祓」が行われます。神職の方はもちろん、きっと多くの方々が「大祓詞(おおはらえのことば)」を奏上されることでしょう。
 そのような時節柄、私も大祓詞全文に目を通しているのですが、あらためてこの祝詞の司令神が「神漏岐(かむろぎ)」「神漏美(かむろみ)」であることに気付きました。
 それどころか、実はこの祝詞には「天照大神」も「高皇産霊尊」も登場していないことに、今更ながら気付いたのです。
 これまでは、つい祓戸神としての「瀬織津比賣と云ふ神」にばかり注目しておりましたので、見落としておりました。
 小野善一郎さんの『あなたを幸せにする大祓詞(青林堂)』によれば、「大祓詞」の文献上の初見は、『日本書紀』の「乃(すなわ)ち天兒屋命(あめのこやねのみこと)をして、其の解除(はらへ)の太諄辞(ふとのりと)を掌(つかさど)りて宣(の)らしむ」と言われているようです。
 なお、『古事記』にも「天兒屋命(あめのこやねのみこと)、太詔戸言禱(ふとのりとごとほ)き白(まを)す」とありますが、これについては「祓え(解除:はらえ)の祝詞の旨が記載されていないので、一般にはこれを初見とするのは難しいとされているようです。
 いずれ、『日本書紀』よりも古くにこの祝詞が成立していたというところがミソで、天照大神や高皇産霊を司令神とする観念が『記』『紀』によってもたらされたものであることをあらためて実感させられました。
 ここでふと、大和岩雄さんが自著の『日本神話論(大和書房)』で語っていたことを思い出します。大和さんは看過し難い指摘をしておりました。

―引用―
~天皇の即位の宣命や祝詞などの「語り」では、降臨の司令神はカミロキ・カミロミなのである。『日本書紀』が成立したのは、養老四(七二〇)年五月二十一日である。聖武天皇の即位は神亀元(七二四)年二月四日で、『紀』の成立から三年九ヵ月後だが、正史の『紀』の降臨の司令神をまったく無視し、カミロキ・カミロミを降臨の司令神にしている。聖武天皇の次の孝謙天皇、さらに淳仁天皇も『紀』の降臨の司令神の「高皇産霊尊」も「天照大神」も無視した詔勅を発布している。この事実については今迄ほとんど指摘されず、無視されてきた。

 ちなみに、大和さんは、このカミロキを「撞賢木厳之御魂」、カミロミを「天疎向津媛」と指摘しており、興味深いものがあります。

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冬至前日の松島の日の出

御用氏子の憂鬱―東照宮と天満宮の間で―

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 藩政時代「御宮町」と呼ばれていた「宮町―仙台市青葉区宮町―」は、仙臺藩主二代伊達忠宗が徳川幕府におもねり東照大権現―徳川家康の勅諡号―をお迎えせんと城下北東部に新たに縄張りした門前町であったわけですが、言い換えれば、それは「仙臺東照宮」の氏子の町として形成されたニュータウンであったということでもあります。
 しかし、新興祭祀の神社を新設するというのは単にハードの部分さえ作れば勝手に機能してくれる類のものではありません。現在でこそ地域の氏神としてしっかり根付いて多くの市民から親しまれている仙臺東照宮ですが、おそらく草創期には怪しげな新興宗教となんら変わりがなかったことでしょう。
 神社の管理運営には、すべからく氏子の信心と労力が不可欠なわけですが、御宮町の町人からしてみれば、それまで存在しなかった神社の門前町に強権的に移住させられて、以後貴殿らはこの社の氏子である、などといわれても、ほとんどの者がそれを義務感以上の感情では奉祀できなかったものと想像します。
 例えば、同じ徳川時代に至って政策的に檀家制度を整えられた寺院の場合であれば、そこにご先祖様のお墓も用意されたわけですから、さほどの抵抗もなくそれに親しむことは出来たことでしょう。しかし、いかに祭神の本質が神君家康公とはいえ、自分たちと血縁はもちろん地縁すらもない神仏に対して公儀の域を超えて手を合わせることが出来ていた者などどれほどいたのでしょう。奉職を強制された町人やそこから選ばれた検断・肝入といった町役人、ひいては町奉行、仮に、一門、藩主に至るまでの武家社会全体を見渡してみたとしても、ほぼ皆無であったのではないでしょうか。したがって、おそらく東照宮の別当寺として開基された「仙岳院(せんがくいん)」には氏子の墓地も用意されて、そのまま檀家としても組み込まれたのだろうとは思うのですが、そのあたりは未確認です。
 いずれ、宮町町人は、「御用捨(ごようしゃ)」といって諸役負担が免除され、かつ軽微な年貢負担のみが課された耕地を与えられたり、本来課せられるべき諸役を免除されるなど藩によって特別に優遇されてはいたようです―『仙台市史』参照―。
 思うに、偉大すぎた藩祖政宗公亡き後の伊達仙台藩にとって、いわば東照宮御用特区の整備は、徳川幕府との円滑な関係を維持する上で最重要に位置づけられたプロジェクトであった事でしょう。実際に運営するのは東照宮と人的組織が一体の仙岳院であったわけですが、それ故に仙岳院は藩内寺格最高位の御一門格に位置づけられたのでしょう。
 さて、草創期の御宮町の町人は、そもそもどういった人たちで、どこから移住させられたのでしょうか。正確にはわかりませんが、実はそれを推し量る材料がないでもありません。享保十四(1729)年に起きた御宮町検断罷免事件にそれを透かし見ることが出来そうです。
 『仙台市史』は、町方社会の中における御宮町の特殊性をみるくだりの中で、その事件を取り上げております。
 事件は、「榴岡天満宮(つつじがおかてんまんぐう)」が御宮町の者をみずからの氏子とみなし、守り札を配るなどの宗教的行為を行ったことに端を発しました。
 これは問題となって当然でしょう。藩の特命プロジェクトを覆しかねない横恋慕を仕掛けているに等しいからです。
 ところが、この一件について町奉行が御宮町の上・下の街区の各々の検断(けんだん)―警察権のある町内会長のようなもの―に問い合わせたところ、両者ともに、御宮町の者は天満宮の氏子である、と回答したようなのです。しかも驚くことに町奉行はそれをすんなり承認しました。
 さすがにこれには東照宮側も黙ってはいられません。
 東照宮別当寺の仙岳院は、御宮町が東照宮の門前町であることと、町人が東照宮の氏子である旨を主張しました。もちろんこれは藩にも受け入れられ、藩上層部は町奉行の判断を誤りと裁定を下しました。
 前にも触れましたが、なにしろ仙岳院は仙臺藩内最高の寺格を誇る御一門格の寺なのです。町人あがりの検断が勝てる相手ではありません。仙岳院は両検断を罷免し、町奉行へは事後報告で済ませたとのことです。
 しかし、藩上層部に誤判断と裁定された上に、検断の罷免という重要案件を事後報告で簡単に済まされてしまっては、町奉行のメンツが立ちません。さすがに後任の人事については譲らなかったようです。仙岳院は東照宮御用を理由に御宮町町人から選出すべしと主張したようなのですが、町奉行はそれを否定し、あてつけのように天満宮氏子意識をもたないであろう外部の人材を強行選任したようです。
 ちなみに、新任の検断は国分町肝入りと染師町元検断であったようですが、このような御宮町と関係の希薄な検断が就任するといった事などを機に、東照宮御用を根拠にしていた御宮町の特権も徐々に忘れられ、他の町と同質化していったようです。
 ともあれ、この事件の顛末から、御宮町の町人は自分たちが榴岡天満宮の氏子であるという意識の強かったことがよくわかります。
 榴岡天満宮は、本来仙台東照宮の場所―國分荘玉手崎―に鎮座していた天神社が、東照宮の創建にともない社地を退かせられ、榴岡(つつじがおか)、すなわちかつて平泉軍が対鎌倉軍の総司令部を置いた「國分ヶ原鞭楯(こくぶがはらむちだて)」の地に移転させられた上で天満宮と化したものであります。
 おそらく東照宮の氏子として御宮町に集められた町人は、本来、小萩伝説を通じて平泉滅亡を憂い伝えていた國分荘玉手崎なり玉田横野一帯の里人であり、すなわち國分荘玉手崎時代の天神社の氏子であったのでしょう。
 もしかしたら、新設の仙岳院が全く地縁のない平泉中尊寺の別当職を兼任しその運営および寺領支配を行うに至った理由もそこにあったのかもしれません。

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仙臺東照宮本殿

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東照宮からみた御宮町

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東照宮前の仙山線の踏切。
余談ながら私はこの風景が好きです。日常生活ではわずらわしいばかりの踏切ですが、その新設は現行法令において厳しく制限されていると聞いたことがあります。将来的に消えゆく懐かしい風景と思えば、これもまた風情なのかもしれません。

定義(じょうぎ)さんと平家落人伝説の謎

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 数年前、仙台で一人暮らしをしている他県出身の若い方からアドバイスを求められたことがありました。

 「今度両親が仙台に遊びに来るのですが、どこに連れていったら良いと思いますか?」

 聞けば、青葉城―仙台城―や松島は、彼と落ち合う前の行程に入っていると思う、とのことでありました。牛タンや寿司といった食事も、おそらくその段階で済ませてくるだろう、とのこと・・・。
 仙台は、住みたい街としては常に全国でもトップクラスに位置づけられているのですが、めぼしい観光スポットはいみじくもその青葉城と松島くらいしかない、とはよく揶揄されるところです。しかも、その青葉城などはもともと天守閣が存在していないばかりか、石垣以外の表面的な城郭遺構は戦後に再建された大手門隅櫓くらいしかなく、よほどの歴史好きでもない限りインパクトに欠けていることは否めません。
 むしろ伊達政宗公の廟所である瑞鳳殿や大崎八幡宮の方が、黒漆に極彩色の派手な彫刻が映えて素人ウケするのではないかと思い、それを一応提案してみたのですが、それはおそらく前日の行程に入っていると思う、とのことでありました。
 いよいよ「息子の顔を見るだけで十分満足でしょう」、とお茶を濁すしかなくなってしまいましたが、私ごときに言われたくもない話であったことでしょう。
 そのときふと、「定義如来(じょうぎにょらい)―仙台市青葉区大倉字上下―」が頭をよぎりました。
 (それだ・・・!)
 地元では訛って「定義(じょうげ)さん」と親しまれ、その周辺地名までが「上下(じょうげ)」と訛ってしまった定義如来(じょうぎにょらい)は、平家落人伝説に由来する古刹霊場であるわけですが、なにしろ、門前町には地味ながら根強い人気の「三角定義油揚げ」の定義豆腐店もあり、その場で揚げたての美味しい油揚げが食べられるのは大いに魅力的です。
 それを提案してみたところ、彼の心に大いに響いたようで、心なしか瞳がきらきらと輝いたようにも見えました。

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 そんなことを思い出しながら、先日久しぶりに定義を訪れ、その揚げたての「三角定義油揚げ」を食べました。
 地吹雪の中の定義豆腐店は、本来の朝八時の開店まではまだ10分近くも時間があるにもかかわらず、既に数組が中のテーブルで食べておりました。少なくとも盛岡ナンバーと秋田ナンバーの車を見かけましたので、おそらく観光客でしょう。
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揚げたての三角定義油揚げと温かい豆乳

 惜しむらくは、皆さん油揚げを食べるとそそくさと帰ってしまわれたことです。
 地吹雪が億劫ということもあったのでしょうが、せっかくここまで観光に来られたのであれば、揚げたての「揚げまんじゅう」も美味しいですし、仙台味噌を塗りたくって焼き上げた「焼きめし―焼きおにぎり―」も美味しいので、是非ご賞味していって欲しいところです。
 何より、ここは定義如来の門前町です。
 やはり定義さん、すなわち、そこに眠る「平貞能(たいらのさだよし)」公にはせめてご挨拶をしていって欲しいな、と思いました。

 ところで、定義には不思議なことがあります。八年前、私は以下のような記事を書きました。

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 宮城県仙台市郊外、広瀬川の上流に「定義(じょうぎ・じょうげ)」という聖地があります。ここには現在「定義山西方寺」というお寺がありますが、「定義如来」とも呼ばれております。ここは宮城県内の「平家落人伝説」の最たる場所であり、「平貞能(さだよし)」が落ち延びてきた場所と伝わっております。まずは現地においてあるリーフレットから定義如来の歴史を引用しますのでご覧ください。

――引用――
 今から約八百年前、平重盛公(内大臣・小松殿)が平和祈願のため中国の欣山寺に黄金を寄進。その際に送献されたのが、阿弥陀如来の宝軸でした。
 平家が、壇ノ浦の戦いに敗れた後は、平重盛公の重臣・肥後の守平貞能公がこの宝軸を守り、源氏の追討を逃れるため名も定義と改め、この地に隠れ住みました。それが定義如来という呼び名の由縁でもあります。
 貞能公は建久9年(1198年)7月7日御年60才で亡くなられましたが、墓上には小堂を建て如来を安置し、後世に伝えていくことを従臣たちに遺言。それを守り、宝永三年(1706年)には早坂源兵衛が出家し、極楽山西方寺の開創となりました。

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定義山山門

 というわけで、定義とは、貞能(さだよし)が源氏の手を逃れるための変名「定義(さだよし→じょうぎ)」に由来しております。そして、貞能が持ち込んだ阿弥陀如来の宝軸が「定義山西方寺」のご本尊ということになるわけですが、現在そのご本尊は近年新たに建立された本堂に移されておりますので、元の本堂は「貞能堂(さだよしどう)」として、純粋に貞能の墓及び位牌を祀るお堂になっているのです。私はここを参拝していて妙に気になるものに遭遇しました。
 貞能堂は堂の内部まで上がりこめるのですが、どうも正面の祭壇(?)にはそれらしいものが見当たりません。しかし、向かって左側の実に中途半端な場所に仏壇のようなものがあり、はっきりと貞能公と明記された位牌がありました。

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 これがそうなのでしょうか。なにか違和感を覚えた私は、その場に座り込み、現地で購入したオフィシャル(?)な小冊子、西沢勇さん著『“秘境”定義谷 平家落人伝説と定義如来』を確認してみました。すると小冊子には以下のように書いてありました。

――引用――
平貞能位牌堂
 平貞能の墳墓は本堂の左中央に位置している。これは始め遺言通り墳墓の上に小堂を建て、阿弥陀如来の御尊像を安置していたが、後世になって、本堂が北方へ拡張された為に、自然中央位置より離れ現在の処になったものである。

 つまり、堂内部左側の半端な場所にある位牌がそれらしいのです。そこで私はその位牌に拝礼をすべく、正面にまわり賽銭箱に浄財をしようとしたのですが、どうにも拝みづらいのです。何故なら、位牌と賽銭箱の直前に邪魔な柱があるからです。

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 とにかく、正面からは拝めませんので、その柱を避け、斜めから拝むしかありません。
 どうにも気になり寺務所で関連グッズを頒布されていた方に質問したのですが、怪訝そうに「サヤ堂が拡張されたから」との一点張りで、どうにも要領を得ません。その後いろいろ文献を探してみましたが、邪魔な柱の理由を見つけることが出来ませんでした。これまで、誰もこれを不思議だと思わなかったのでしょうか。
 定義が現在に至るまで根強く信仰される所以は、本来この墓の主である貞能がいたればこそであって、その貞能の遺言があればこそ全てが成り立っているのではないのでしょうか。阿弥陀如来の宝軸も大切ですが、同じくらい貞能公の遺言や位牌も重要なはずです。少々辛口に言わせてもらえば、本堂の拡張よりもこの墳墓の真上にある位牌こそ優先されるべきで、拡張するにしても位牌ありきの設計をすべきなはずです。
 ふと、現地で入手したリーフレットをよく読むと次のように書いてありました。

――引用――
貞能堂(旧本堂)
 自然の丘を利用して貞能公の遺言通りに墳墓を中心にたてられた旧御廟の「さや堂」(建物を風雨などから保護するため、外側から覆うように建てた建築物)という形を取って昭和二年に建立されました。御廟の左側に結界があり、仏壇が安置されており、その真下に、貞能公のお墓があります。
 境内には鐘楼があり、旧暦の大晦日には除夜の鐘が鳴り響きます。

 この“邪魔な柱”のことかどうかはわかりませんが、少なくとも明確に“結界”と書いてあります。この柱がそうだとするならば、つまり、あえてこの場所に柱がくるような設計がなされたということです。昭和二年に初めてそうなったのか、それ以前もそうだったのかは確認できておりませんが、とにかく何故平貞能の霊が結界によって閉じ込められなければならなかったのか、とても不思議です。
 確かに貞能は落人となって源氏の世に恨みをはせながら他界したことでしょう。しかし、定義では、あくまで貞能の遺言によりその従臣たちが供養していたわけで、彼らが貞能の怨霊を恐れ、結界を張る理由などないのです。現在もこの定義界隈で貞能を供養しているのは、貞能の従臣の末裔の方々です。とにかく不思議です。

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貞能堂(旧本堂)※中央のお堂

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山門の中心線とずれている貞能堂の中心軸


※ 行間等を一部修正し、画像も追加しております。

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 結界の柱の謎はいまだ解けておりません。

 ところで、定義への入口、大倉ダムの麓に鎮座する「小倉(おぐら)神社」は、貞能が「平氏の守護神の霊璽」を祀ったものとされておりますが、『宮城縣神社名鑑(宮城県神社庁)』に記された祭神は「大巳貴(おおあなむち)神」であります。つまり興味深いことに、ここでは平家の守護神が出雲の大巳貴神とされているのです。
 さらに、同名鑑が記す配祀には仙台周辺としては珍しく「饒速日(にぎはやひ)神」の神名がみられ、大変気になるところではありますが、これはおそらく大正時代に合併した船形山神社の祭神であったのでしょう。

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大倉ダムの冬景色

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小倉神社の冬景色

 ちなみに、仙台の奥座敷といわれる「秋保(あきう)地区―仙台市太白区秋保―」にも平家落人伝説があり、南北朝時代から戦国時代にかけて活躍がみられる秋保氏や馬場氏は、いみじくも平重盛の裔とされているわけですが、宝賀寿男さんなどはその実を安倍貞任の弟・磐井五郎家任の後裔とみております―『阿倍氏(青垣出版)』―。
 例えば、中世、磐城(いわき)地方―福島県いわき市―に勢力を誇った「岩城氏」も、「海道平氏」などと呼ばれ、「平将門」討伐に活躍した「平繁盛―桓武平姓常陸大掾―」の裔を称しておりましたが、太田亮さんは「其の系疑はしき點多ければ、或は多臣姓・或は凡河内流磐城臣・即ち石城國造の後にあらざるかと考へらる」としておりました―『姓氏家系大辞典(角川書店)』―。
 いみじくも私は、石城國造家を、原鹿島神奉斎のオホ氏や陸奥丈部(はせつかべ)氏、ひいては陸奥安倍氏や鹽竈神社左宮一禰宜安太夫家の発祥を考える上で重要な鍵と位置付けているわけですが、定義や秋保の平家落人伝説は、その実、陸奥安倍氏のそれが意図的に暗渠化されて伝わっているものなのかもしれない、とも思い始めております。

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秋保氏と縁ある秋保神社の神輿。
 東日本大震災で被災して新調できずにいたところを、九州は宮崎県の「高千穂神社」が寄贈してくださったようです。温かいお話です。

 

荒雄川の河畔:前編―王昭君伝説―

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 宮城県大崎市に、「青塚古墳(あおつかこふん)」という古墳があります。
 直系60メートルほどの円墳にみえるのですが、昭和五十五(1980)年の調査によって、周壕の形から前方後円墳であった可能性の高いことがわかっております。前方部らしき部分は人為的な削平を受けてその痕跡が確認できないようですが、おそらくは主軸の全長が約90メートルの東北屈指の前方後円墳であったものと考えられます。出土品から、築造時期は東北最大の雷神山古墳―宮城県名取市―とほぼ同じとみられ、四世紀代に遡り得るものとも考えられております。
 いみじくも本日付けの河北新報朝刊の一面に「大崎耕土」の「世界農業遺産申請」の記事があり、ぜひ認定されて欲しいものですが、この青塚古墳を抱える大崎平野は、「荒雄川(あらおがわ)―江合川(えあいがわ)―」と鳴瀬川の流域に広がる沖積平野で、宮城県内としては仙台平野と並ぶ古墳地帯であります。このエリアは日本最北の古墳地帯とも言われておりますが、昭和二十四(1949)年に岩手県奥州市胆沢区の「蝮蛇塚(へびづか)」が前方後円墳であると確認されているので、古墳単体としての最北はそちらになります。「角塚古墳(つのづかこふん)」と呼ばれているものがそれです。
 しかし、如何せん岩手県内ではそれ以外の前方後円墳が確認されておらず、角塚古墳については特殊な個体と捉えておく方が妥当なようで、やはり古墳“文化”ないし古墳“地帯”の北限としては、依然として青塚古墳のある宮城県北部の大崎平野と考えておくのが妥当なようです。
 さて、青塚古墳は、江戸時代には既に「青塚」と呼ばれ何某かの墓と認識されていたことが、『奥羽観迹聞老志』や『封内風土記』などの記述によってわかります。
 『封内風土記』には「上代葬王昭君地也。昭君死于胡地。憐之遂葬諸漢界。號青塚。」とあり、なにやら「王昭君」の墓という伝説であったようです。
 王昭君は中国四大美人として「楊貴妃」らと並び称されてきた人物ですが、『広辞苑』の記述はこうです。

―引用―
【王昭君(おうしょうくん)】
前漢の元帝の宮女。名をしょう、字を昭君という(一説に名を昭君、字をしょうとも)。元帝の命で前33年に匈奴(きょうど)の呼韓邪単于(こかんやぜんう)に嫁し、夫の死後その子の妻となったという。中国王朝の政策の犠牲となった女性の代表として文学・絵画の題材となった。元曲「漢宮秋」はその代表。

 もちろん、青塚古墳がそのような前漢時代の悲劇のヒロインの墓であるなどとは信じがたいわけですが、何故そのように伝えられてきたのかを考えておく必要はあるでしょう。
 とはいえ、その原因は『封内名跡志』なり『封内風土記』によって既に解決されているようにも思えます。『封内風土記』は当該項で次のように記します。

―引用―
熊野神社。在古塚上。同上。寺一。青塚山養生寺。~中略~
塚一。名跡志曰。邑中有古塚。東西三十間。南北五十間。相傳。上代葬王昭君地也。昭君死于胡地。憐之遂葬諸漢界。號青塚。杜少陵詠懐古跡。第三首曰。一去紫臺連遡漠。獨留青冢向黄昏。青冢王昭君墓也。此地亦附會其義。而強稱其名乎。其邑落有青塚城址。且今塚上立熊野権現社。

 要点を拙くも意訳しておきます。なにしろ浅学で漢文を解読する学習など何十年も前の高校時代の授業以外では経験しておりませんので、細部において解釈が誤っている可能性もありましょうが、ご容赦ください。

―意訳―
~前略~
塚が一つあるが、それについて名蹟志は次のようにいう。
邑には東西55メートル、南北91メートルの古塚がある。上代に王昭君を葬った地と相伝られている。昭君は胡地―匈奴(きょうど)?―で没しており、これを憐み漢の境界に葬ったわけだが、それを青塚という。例えば杜少陵―杜甫―が詠んだ「懐古跡」の第三首にこんな詩がある。
「ひとたび紫台を去りて朔漠連なり(漢の宮殿を去って匈奴に嫁いで以来、果てしなく広がる北の砂漠に暮らした)、独(ひと)り青塚を留めて黄昏に向(あ)り(今はたそがれの弱々しい光の中にわずかに青塚を留めるばかり)―詩訳はウィキペディアから拝借―」
すなわち、当地の青塚が王昭君の墓というのは、王昭君の墓が青冢(せいちょう)という名であるが故の牽強付会であろう。
~以下省略~

 そもそも何故この塚は「青塚」などと呼ばれるようになったのでしょうか。
 理由を考えてみました。

1、本来は「王塚」あるいは「大塚」であったものが訛って「あおつか」となったのではないか

2、付近に小野小町の墓と伝わる場所もあり、なんらかの悲劇の美女伝説の下地があったのではないか

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 小町伝説については、このあたりに小野一族がいたとみるのが穏当でしょうが、ひとつ注目しているのは、当地の式内社「新田郡子松神社」です。
 この「子松」を、小町から訛ったものとみるべきか、逆に子松の韻から小町伝説が生まれたとみるべきか、仮に後者だとしたら、子松とはどういう意味なのか・・・。
 実は、私は後者をとり、子松神社は本来「高麗神社(こまつじんじゃ)」であったのではないかとみているのです。
 現在新田字鹿島に鎮座している延喜式式内社「新田郡子松神社」の論社の「子松神社」の祭神は「武甕槌(たけみかづち)大神」でありますが、これは康永二(1343)年に大崎氏の家臣新井田氏が夜烏邑(よがらすむら)―当地の旧地名―に居城を構えて狐松神霊を邑上に遷座して「鹿島大明神」と称したことに由来しているものと思われ、必ずしも本来的なものが継承されているものかどうかは定かでありません。
 なにしろこのあたりは栗原エリアに隣接しており、古くから高句麗人も多かったのではないかと思うのです。

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荒雄川の河畔:後編―三十六所明神―

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 荒雄川(あらおがわ)―江合川(えあいがわ)―流域は、奥州藤原政権下においては照井王国でもありました。
 度々触れているとおり、「大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)」を輩出したと自称する照井氏は、高句麗系渡来人と密接、あるいはそのものであったのではないか、と私は考えております。
 例えば、照井太郎高直を供養したものとされる宮城県栗原市金成(かんなり)町有壁(ありかべ)の五輪塔は、このあたりでは珍しい“積石塚”の上に立てられておりました。
『日本歴史大辞典(小学館)―CASIO製電子辞書「EX-word」所収―』は、「積石塚」を次のように説明しております。

―引用―
つみいしづか【積石塚】
墳丘を石で覆った墓。河原(かわら)石や山石、割石(わりいし)で墓槨(ぼかく)を覆うという風習は世界各地で普遍的であるが、一定の地域・時期に発達する積石塚には系統関係がみられる。遼東半島の積石塚は紀元前8~4世紀の青銅器時代の多葬墓である。高句麗(こうくり)では紀元前後に遼東半島の積石塚や⇨支石墓を祖型として出現し、円形の積石塚から方形の基壇積石塚に変化する。高句麗の積石塚は大同江・漢江流域にまで分布し、文化圏・政治的領域圏を表わす。~以下省略~

 これが論証というわけでもありませんが、少なくとも積石塚が高句麗に顕著な埋葬習慣であったということくらいは留意しておきたいところです。
 先に触れた「王昭君(おうしょうくん)」は、「匈奴(きょうど)」の「呼韓邪単于(こかんやぜんう)」に嫁がせられたとのことでした。匈奴とはモンゴル高原に一大勢力を築いた遊牧国家であり、歴代中国王朝を脅かしていた北方騎馬民族でありました。それ故に歴代の中国王朝は「万里の長城」の整備を怠るわけにはいかなかったのです。
 匈奴からすれば世界一の文明国たる中国王朝は垂涎の存在でもあり、中国王朝からすれば北方の匈奴はおとなしくしていてもらいたい筆頭の存在であったようです。なにしろ匈奴は強く、武闘派の楚王「項羽」を下して皇帝の座についた「漢の高祖―劉邦―」ですらも完敗しております。北方へ退却する囮の匈奴軍を追撃した高祖はまんまと謀略にはまり、「白登山」にて匈奴軍精鋭の騎兵に包囲され、そのまま七日間も孤立するという絶体絶命の危機を体験しております。高祖は贈賄作戦によって辛うじて脱出に成功し首都長安に逃れたものの、これ以上の匈奴との対峙は不可能と悟らざるを得ず、以降様々な貢物はもちろん、帝室の女を匈奴の単于(ぜんう:君主の意)に贈り姻戚関係を結び続けるというおよそ皇帝とは思えない屈辱的な外交政策をとらざるを得なかったようです。「前漢(=西漢)」の「元帝」が匈奴の呼韓邪単于に皇女の王昭君を贈ったのもその代表的な例といえるでしょう。

 さて、陸奥の栗原に土着していた信濃系の馬産民は、元をただせば「天武天皇」の政策に基づき信濃に徴集養成された亡国の高句麗系騎馬民の裔であろうというのが私の仮説ですが、それらと極めて密接な存在と思われる照井一族の英雄「阿弖流為(あてるい)」を降伏に導いたのは、「東漢(やまとのあや)氏」の裔である征夷大将軍「坂上田村麻呂」でありました。
 大和の「檜隈(ひのくま)」を本拠地にしていた「東漢(やまとのあや)氏」は、「後漢(=東漢)」の「霊帝」の裔を称しておりますが、その実は扶余系の騎馬民族と思われます。事実、彼らは藤原広嗣の反乱の際に騎兵として登場しております。
 彼らの本拠の「檜隈(ひのくま)」については、『日本書紀』に「呉人(くれひと)を檜隈野(ひのくまの)に安置(はべらし)む。因りて呉原(くれはら)と名(なづ)く」とあるのですが、「呉原」は現在の奈良県高市郡明日香村の「栗原」のことで―『日本書紀(岩波書店)』―、「呉人」は高麗、百済の扶余系朝鮮人をさします―大和岩雄さん『日本古代試論(大和書房)』―。
 その扶余系騎馬民族の裔とみられる坂上田村麻呂が、阿弖流為の投降を実現させたわけですが、いくら英雄田村麻呂とはいえ、多賀城への就任まもない彼が、10年以上も前任者らの手に負えなかったまつろわぬ勇者阿弖流為との交渉を短期間で円滑に進めることが出来たのは、他ならぬ阿弖流為が田村麻呂の氏素性に親近感を覚えたからではなかろうか、と私は考えております。
 ともあれ、その東漢氏が後漢霊帝の裔を称していることから推察するに、北方騎馬民族の流れをくむ扶余高句麗系帰化人は漢族たらんとするフシがあったようです。
 青塚古墳の被葬者の属性は今一つわかりませんが、少なくとも「青塚」の名は漢族気分を気取る彼らによって名づけられ、伝えられたのではないでしょうか。

 ところで、藤原秀衡の命によって照井太郎高直が造営したとされる「佐沼城―宮城県登米市佐沼―」には「照日権現(てるひごんげん)」が祀られております。これは照井氏の守護神とされておりますが、長崎県対馬市の「阿麻弖留(あまてる)神社」の例から、照日権現は「天照御魂(あまてるみたま)神」のことと考えられます。すなわち『日本書紀』でいうところの尾張氏の祖神「天照国照彦天火明(あまてるくにてるひこあめのほあかり)命」のこととはよく言われるところです。『先代旧事本紀』はこの神を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひ)尊」と表記し、物部氏の祖神「饒速日(にぎはやひ)尊」のこととしております。
 はたして、それらが本当に同体異称の神であるのかはわかりませんが、少なくとも男性太陽神への信仰―アマテル信仰―であるという部分は共通しております。
 だからといって、これらが全て「好太王碑(こうたいおうひ)―広開土王碑―」なり「檀君神話」などにみられる朝鮮系の日光感精神話なり天神信仰なりに起因するものと判断するのは早計でしょうが、環日本海エリア全般に、各々近似する太陽信仰が浸透していたことは疑いようもない事実であり、物部氏や尾張氏の祖神とされる饒速日(にぎはやひ)尊なり火明命が日本に発祥したのか朝鮮に発祥したのかはわかりませんが、少なくとも天照御魂神という性格をもって日本に帰化した有力な渡来系氏族からも崇敬されていたフシがあったことは間違いないでしょう。
 それを踏まえたうえでの戯言ですが、もしかしたら、大崎市の中核「古川(ふるかわ)」の地名の本来の表記は「布留川」であったのではないでしょうか。
 すなわち、それは奈良県天理市の「石上(いそのかみ)神宮」の鎮座地「布留」を流れている川の名と同名ということです。布留は「布留御魂(ふるのみたま)大神」を意味しますが、それは、「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)」なる十種の神宝に宿る御霊威を称えた神名で、『先代旧事本紀』や、神宝がおさめられた所と由緒に伝う石上神宮では、それらは天降らんとする饒速日(にぎはやひ)尊に天津神(あまつかみ)が授けたものとされております。
 平成の大合併で生まれた大崎市にあって「古川」はその中核で、東北新幹線の駅もある宮城県北の旧「古川市」のことであるわけですが、『古川市史』が記すその地名の由来は、「昔、荒雄川は、現在の市街地を流れていたといわれる。その川跡に人が住み、やがて村が形成された~」ことにあるようです。
 当然ながら「布留」のことなどどこにも出てきませんが、その地名由来にからむ荒雄川の川筋には、かつて「瀬織津姫神」が三十六ヶ所にわたって祀られ、「三十六所明神」と呼ばれておりました。
 瀬織津姫を饒速日の后神とみるイデオロギーがそこに介在していたならば、古川の古は布留であったのではないか、という推測もあながち外れてはいないように思えます。
 三十六所明神は、江戸時代寛保三(1743)年に荒雄川上流岩出山池月地区の式内社「荒雄河(川)神社」に合祀されました。
 かつて私は、鎮守府将軍となった奥州藤原氏三代秀衡がこの荒雄河(川)神社を奥州一之宮に定めたことをもって、奥州藤原氏の崇敬する神が瀬織津姫であったと断定して論を進めましたが、あらためて考えてみるに、三十六所明神の合祀が江戸時代のこととするならば、その500年以上も前の奥州藤原時代の荒雄川神社の祭神には瀬織津姫が含まれていなかった可能性もあります。
 もちろん、瀬織津姫を祀る三十六所明神が同じ瀬織津姫を祀る件の荒雄川神社に集約されたという可能性もありますが、例えば、境内案内に「祭神は須佐雄尊と瀬織津姫尊で~」とあるところの「須佐雄尊」を祀っていた荒雄川神社に、三十六所明神が合祀されたことをもってはじめて瀬織津姫神が加わっただけである可能性もあります。
 なにしろ、荒雄川源流の地「鬼首(おにこうべ)」の「荒雄岳」にも同名の社があり、岩出山池月の社が里宮と呼ばれているのに対して、鬼首のそれは奥宮ないし嶽宮と呼ばれているのですが、この奥宮の祭神は大物忌神であり、須佐雄尊ですらなく、瀬織津姫の名はみられません。奥宮と里宮がまったく異なる神を祀っているというのもいかがなものか・・・。
 しかし、『古川市史』に奥宮・里宮・三十六所明神ともに荒雄川そのものを祀ったものという旨が記されていることを鑑みれば、やはりそれらの本質はすべて同じ性格の川神とみるべきでしょう。
 例えば、三十六所明神が里宮に合祀された150年後の明治二十五・六年ごろ、古川小林地区の有志が、鬼首におもむき、荒雄川神社より分神を勧請し、地区の河添いに石の祠を建てて奉納し、河川の安全を祈願した、という逸話が『古川市史』にあります。この逸話からすると、少なくとも流域の住民は“河川の安全祈願”のために、あえて奥宮から分神を勧請したわけであり、奥宮を荒雄川の水神の最たる存在とみていたことが推察されます。

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荒雄川神社の里宮
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 いずれ、川神の性格を有する瀬織津姫神が三十六ヶ所にもわたって祀られていた事実は、荒雄川がかなりの暴れ川であったことを物語っており、もしかしたら、そのあたりが流域の悲劇の美女伝説に関係しているのかもしれません。
 三十六所明神の一社が祀られていたという古川清水地区の「抑の池(おさえのいけ)」の伝説には、村一番の怜悧(れいり)な娘が大蛇に人身御供として差し出されるくだりがあります。物語は月並みながら大蛇を出し抜き娘も村も助かるというハッピーエンドなわけですが、当地には大蛇を切り刻んだ「マナ板橋」と伝わる場所があり、何を隠そう、それより上流の岩出山真山地区の諏訪神社入口の「マナ板橋」では、「ここを通る女のうち、三人目の女を捕えてマナ板橋で切り刻んで諏訪神社に犠牲として供献した―『古川市史』―」と伝わっております。おそらく抑の池でも本来はそれに近い生々しい祭祀が行われていたのでしょう。
 思うに、そういった村の娘たちの悲劇が、王昭君や小野小町などの悲劇的な美女伝説を甘受しやすい民心の下地になっていたのではないでしょうか。
 石上神宮の由緒によれば、先の布留御魂大神、すなわち天璽十種瑞鳳に宿られる御霊威は、「死(まか)れる人も生き反(かへ)らむ」と天津神が饒速日命に教え諭して授けられたものでありました。荒雄川の旧河道に名付けられたフルカワの地名には、娘を人身御供に差し出した邑人のせつない思いが反映されていたのでは、などと勘繰るのはあまりに抒情的すぎるでしょうか。

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主祭神を瀬織津姫とする大崎神社。
 最上氏や大崎氏の祖となる奥州管領「斯波家兼(しばいえかね)」が「名生(みょう)城」を築いた際にその守護神とされたもので、三十六所明神の一社に旧大崎村内の各神社を合祀し、名生城内の熊野神社の社地に遷座、合祀されたもののようです。
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瀬織津姫は撞賢木厳之御魂天疎向津媛なのか―後編―

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 セオリツヒメをムカツヒメとする『ホツマツタヱ』――。
 記紀以前に成立していたという触れ込みで、かつ、日本文化の発祥地をヒタカミ―東北地方―と説くこの文献史料は、東北人の私にとって、大変魅力的なものではあります。全体が五七調でテンポよく歌のようにまとめられていることから、おそらくはなんらかの口誦口伝を音韻のままに表記した名残なのでしょう。
 情としてこの文献の伝えるところが真実であってほしいという願望も、正直なところ私にはあるわけですが、現実的には、滋賀県高島市の藤樹記念館に保管されているという現存最古の写本―和仁估安聡(わにこやすとし=三輪安聡)本―の自序に記されたところの安永四(1775)年あたりが、この文献の遡れる上限ではないでしょうか。
 もちろん、独特なヲシテ文字や伝える内容すべてがその頃に初めて創られた類のものではないでしょうが、仮に景行天皇五年に大田田根子によって原典が編纂されたという触れ込みに信をおいたにしても、それが一字一句微塵の齟齬もなく安永年間の写本に受け継がれているとみるのは、さすがに正直すぎるでしょう。
 なにしろ現存『古事記』ですら少なくとも平安時代初頭の弘仁年間(810~823)に書き換えられたものであろうことが、大和岩雄さんの『新版・古事記成立考』などによって検証されております。
 例えば、現存『古事記』に出てくる「高御産巣日(たかみむすび)神」の表記が、持統朝(687~697)に成立した原『古事記』には存在しなかったことを大和さんは論証しております。詳細は割愛しますが、それを信ずるならばタカミムスビは、日女(ひるめ)を皇祖神化するアマテラス王権御用神話のために、原『古事記』の「高木(たかぎ)神」が女神アマテラスに対応する皇祖神と化されたものであり、少なくとも『日本書紀』以降の表現方法、ということになります。
 その「タカミムスビ」という表現方法が、記紀より古いはずの『ホツマツタヱ』の核にはっきりと用いられているというのも如何なものか。
 とはいえ、仮に『ホツマツタヱ』の成立が江戸時代安永四(1775)年までしか遡れなかったのだとしても、鈴木重胤の『日本書紀伝』の文久二(1862)年よりは一世紀近くも古いわけですので、セオリツヒメをムカツヒメとする概念は、撞賢木厳之御魂天疎向津媛=天照大神荒魂という鈴木重胤発の概念を経由せずとも存在していたということにはなります。
 さしあたり私は、この「ムカツヒメ」がはたして『日本書紀』に現れたところの「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」と同義であるのか否かの検証が必要と考えました。
 と申しますのも、もしかしたら「ムカツヒメ」の意味するところが単に「皇后」のことであるかもしれないからです。
 もしその懸念どおりであれば、「皇后」を意味していただけの「ムカツヒメ」が全て「瀬織津姫」のことを指すと誤解されて論が進められる恐れがあります。ただでさえマリアやらシリウスやら、もはや笑うしかないほどに飛躍した論が蔓延(はびこ)っているわけですから、せめてここはしっかりと確認しておきたいところです。
 幸い、先の安永四年の写本、いわゆる「和仁估安聡本」は印影版が普及しており、しかもそれは宮城県図書館でも閲覧可能でありましたので、予め池田満さんの『ホツマ辞典(展望社)』や鳥居礼さんの『ホツマ物語(新泉社)』などから当該関連箇所を絞り込み、写本原文に目を通してそのニュアンスを確認してみました。
 そこにはヲシテ文字に音韻が付され、漢訳文が併記されておりました。
 音韻は次のとおりです。

 「スナヲナル セヲリツヒメノ ミヤビニワ キミモキザハシ フミヲリテ アマサガルヒニ ムカツヒメ ツヰニイレマス ウチミヤニ」

 ちなみに鳥居さんの『ホツマ物語』はこの部分を次のように訳しております。

 「アマテルはセオリツヒメの上品な美しさに、思わず宮殿の檜造りの階段を踏み下りてしまった。アマテルはセオリツヒメと向かい合った。そして、后のうちでもっとも高い位の内つ宮―正室―にすることを決めた」

 池田さんも、『ホツマ辞典』の「ムカツヒメ」の項に次のように記しております。

 「アマテルカミの12妃のうち、セオリツヒメを殊のほか愛しんだアマテルカミは、階段を自ら降りて行って、迎え入れたと伝えられている。この故事から、セオリツヒメにはムカツヒメの名が付いた。アマテルカミに一対一で向かい合いたるヒメの語意」

 なにやら、皇后を意味する音韻としては「ツヰニイレマス ウチミヤニ」があり、それとは別に、「向き合う姫」という意味をなす「ムカツヒメ」という音韻があるようです。
 また、「階段を下りる」と直訳された、おそらくは「天下り―降臨―」の示唆と思しき「アマサガル」の音韻も付されているようですが、意図してかせずしてか、「アマサガルヒニ ムカツヒメ」と、さも「天疎向津媛(あまさかるむかつひめ)」と言わんばかりに音韻が連続して用いられております。
 したがって、さしあたり、『ホツマツタヱ』が記すところの「ムカツヒメ」は、たしかに「瀬織津姫」の個体を指しており、かつ、『日本書紀』に登場した「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」のことと捉えて良さそうに思えます。
 しかし、はたしてこれを素直に瀬織津姫=撞賢木厳之御魂天疎向津媛を傍証するものと認めて良いものなのでしょうか。
 むしろ、『ホツマツタヱ』の和仁估安聡本の刊行経緯なり『日本書紀伝』の鈴木重胤の天照荒魂説自体が、良くも悪くも江戸時代中期の賀茂真淵の『国意考』や、本居宣長の『古事記伝』に象徴される、いわゆる古道思想に端を発した国学の隆盛に刺激されて生まれた思想表現の各々の形に過ぎなかったりはしないか、という思いがくすぶっていることも正直なところです。

街路樹の乳銀杏

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 JR仙台駅の北側にあって、西口と東口を連絡する跨線橋「宮城野橋:通称X橋(えっくすばし)」が、いよいよ本格的に付け替えられようとしております。
 芭蕉の辻を起点にした仙台は、南北を貫く奥州街道と東西を貫く大町及び名掛丁を軸に城下町の平面が広がっていたわけですが、明治時代に東北本線が開通したことによって、東西軸が分断されました。もちろん、かつての中心市街地は東北本線がほぼ東端でもありましたのでさしたる不自由もなかったのでしょうが、戦後市街地も拡大し、自動車社会になるにつれ、このことは市民にとっての大きなストレスになっていきました。
 特に、かつては駅裏でしかなかった仙台駅東口の新都心化が進むにつれ、そのストレスは増大するばかりでありました。
 したがって、片側3車線、計6車線の堂々たる跨線橋に生まれ変わる宮城野橋には、仙台市民が長年悩まされてきた都心東西軸の動脈硬化の改善に、大いなる期待がかかっているのです。

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現在の宮城野橋周辺
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 宮城野橋は、藩政時代以来城下を並行していた二筋の街道が、東北本線の複線化などに伴い、交差する跨線部のみが一筋に集約された橋であり、その独特な形状から、俗にX橋などと呼ばれてきたわけですが、宮城野橋解体のニュースを目にしてそれがX橋のことであったとは気づかなかった市民も多かったようです。そのくらい市民には通称のX橋のほうが浸透していたのです。
 このX橋、少年時代の私にはどうにも「X」形状には見えず、これは線対称に横置きした「一対のY: >--< 」ではないか、などと屁理屈をこねたりもしておりましたが、付近に住んでいた親戚宅を訪れるたび、橋のたもとにあった歩行者用の階段から橋上に昇って往来する列車を眺めるのは好きでありました。
 とはいえ、以前は子供がうろうろすべきではない古さびれた夜の街でもありました。現在でこそ周辺には綺麗な高層ビルも林立しておりますが、夕暮れ時には謎の御婦人が誰を待つともなく立っていたりと、少なくとも平成に入って間もない頃までは戦後の場末感がありました。
 うろ覚えではありますが、かつて、吉川団十郎さんの「仙台の女(ひと)」という歌に、

〽エックスばぁ~しを (パパヤ~) 歩い~てい~ると~ (パパヤパヤ~) 橋~のたも~とに~(パパヤ~) 年増ぁ~が一人~(パパヤパヤパヤ) 流した横目で 手~を振り振り 「あんちゃん! 今晩つぢあってけさい~ん」

という感じの歌詞がありました。いみじくもその情景をよく表していると思います。
 戦後まもない頃には進駐軍も闊歩していたようで、正義感あふれる日本の柔道青年が素行の悪い一人の米兵を橋の下に投げとばしたという逸話も耳にしておりました。
 ふと、柔道青年はその後何事もなかったのだろうか・・・、その米兵の命に別状はなかったのだろうか・・・、などと余計な心配をしながら橋の下の線路を眺めていたことも思い出します。

 先日、そんなことを懐かしく思い出しながら信号待ちをしていると、ふと、宮城野橋のたもとの広瀬通の街路樹の銀杏に、「気根」があるのを見つけました。
 俗に「乳」と呼ばれるものです。

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 こういった銀杏はたいてい「乳銀杏(ちちいちょう)」などと呼ばれ、乳の出ない御婦人が願をかける信仰の対象となることが多く、ひいては子育てや安産の神として崇敬されることも多いわけですが、仙台市内でも宮城野区銀杏町には樹齢1200年の「苦竹の乳銀杏(にがたけのちちいちょう)」と呼ばれる巨大なそれがあり、やはり厚く信仰されております。
 それにしても、戦後に植えられた街路樹でそれを見かけたのは初めてです。
 もちろん、これまで街路樹をそういう目で見ていたこともなかったので、もしかしたら他にもまだあるのかもしれませんが、その後、思い出すたびに意識的に探してみている限りではまだ見つけておりません。
 このお乳が、どのような原因で成長するのか私にはわかりませんが、何やらありがたくなってきます。
 しかし、残念ながらこの乳銀杏は宮城野橋の架け替えに伴う道路改良工事によって伐採されることが決まっているものなのです。

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 よりによって、何故この銀杏が乳銀杏になってしまったのだろう・・・。

 なんともせつない気持ちがよぎります。

冠川の甲羅干し現場

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 ある晴れた昼下がり、田子(たご)地区-仙台市宮城野区―の七北田川(ななきたがわ)の河川敷でカメさんよろしく甲羅干しをしました。
 思えばこのあたりは、鹽竈神社の不思議を探らんとする私が、それまでの妄想や図書館での調査からついに外へと踏み出した最初期のフィールドワーク現場でもありました。まだデジカメなど持っておらず、ブログという言葉すら知らず、全くもって純粋な知的好奇心のみでの行動でありました。
 当時の私は、冠川(かむりがわ)神話にたいそう惹かれておりました。
 「七北田川(ななきたがわ)」は旧(ふる)く「冠川(かむりがわ)」と呼ばれていたわけですが、それは、現在鹽竈神社の隣に鎮座している志波彦神社の神が、この川に冠を落としたことに因むと伝わっております。とるにならない素朴な神話のようですが、これが思いのほか不吉な話である可能性に私は気づきました。冠はそれを被る人物の地位を象徴するもののはずですが、それを川に落としてしまったという情報は、信心深い古代人の心象にどのように映っていたものか・・・少なくとも、現代まで語り継がれている事実を鑑みるならば、それは相当ショッキングな“事件”であったに違いない、と私は考えたのです。
 今、記事を書いている時点での私は、信濃系の馬産文化との濃厚な関係が推察される「瀧澤(たきざわ・りゅうたく)」の言霊と、そこから派生したと思しき「柳沢(りゅうたく・やぎさわ)」や「八木沢(やぎさわ)」などの言霊への検討の過程で、もしかしたら「蟹守=掃守(かもり・かんもり・かもん)」なり「神降(かみふり)」の韻が、「冠(かんむり・かむり)」に変化して、後世に冠にこじつけた神話が後付けられた可能性もあるかもしれない―拙記事「兜と冠と蟹守」参照―とも思い始めているのですが、当時は、蝦夷の王家と思しき志波彦の失脚神話という方向でのみ発想を突き進めておりました。もしかしたら冠は斬り捨てられた生首への間接的な表現ではなかったか、すなわち、神と崇め奉られる以前の敗者の酋長としての志波彦の斬首現場が、この川のどこかであったのではないか、と考えていたのです。
 ひとまず私は、乗っていた馬が川底の石につまずいて冠を落とした志波彦神が、怒って川底の石を全て拾わせ積ませた場所と伝えられている石留神社―仙台市泉区石止-、あるいは、渡ろうとしたときに風で冠が飛ばされた、と伝えられている今市橋(いまいちばし)付近-仙台市宮城野区岩切―のいずれかがその現場と疑いました。
 なにしろ今市橋付近の八坂神社は、明治七(1874)年以前の志波彦神社の旧鎮座地でもあり、現在も境内には冠川神社という名で志波彦神が祀られており、私は石留神社が死の現場で八坂神社が墓ではなかったか、と一応の仮説を立てました。
 甲羅干し現場の田子地区はそれらの下流にあたるわけですが、その対岸の多賀城市新田地区には流れてきた冠を狐がくわえて上ってきたという伝説もあります。
 伝説地には祠が建てられており、冠川稲荷社と名付けられております。
 江戸時代に流路が変えられる前の冠川は、その周辺の南安楽寺あたりから左折し、東流していたとされております。そしてそれは多賀城市八幡あたりからはおおよそ現在の砂押川の流路となって、最終的には湊浜(みなとはま)―宮城郡七ヶ浜町:仙台港付近―から仙台湾に注いでおりました。
 南安楽寺周辺より上流へは川舟が遡ることが出来ず、そのあたりで湊浜からの商人船なども荷揚げせざるを得なかったものと考えられております。したがって、このあたりに陸揚げ港と市場―冠屋(かぶりや)市場―が開かれていたものと考えられます―参考:『仙台市史』―。
 それらを鑑みるならば、おそらくは中世の多賀國府もこのあたりにあったのでしょう。
 したがって当地の冠川稲荷社は、産土神たる志波彦神が國府や市場の鎮護として祀られた名残なのであろう、と私は考えております。

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参考その1:『仙台市史通史編2古代中世』より

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参考その2:『仙台市史通史編3近世1』より
※両方とも仙台市史所載の図ですが、流路の推定にはやや齟齬があるようです。

 久しぶりに冠川稲荷社を訪れてみたくなった私は、対岸への橋を渡らんと堤防の遊歩道、すなわち〽ある晴れた昼下がり市場へ続く道~を歩き始めました。
 「田子大橋」とは名ばかりの“狭い橋”を渡っていると、橋の下には数匹の鮭が身をよじるように泳いでいるのが見えました。産卵していたのでしょうか。
 おだやかな風景に見惚れてしまい、立ち止まって欄干にもたれて川にそよぐ秋風の揺らぎに身を任せました。やおらスマホのカメラ機能にて風景を撮影していると、ウォーキング中のややお歳を召した男性に声をかけられました。

「いい景色ですよねぇ~。この橋に来るといつもカメラを持ってくればよかったって思うんですよ・・・。でもいつも忘れてきてしまうんですよねぇ・・・。そこに鮭がいるんですが、見えますか?ここで産卵して、あと死んでしまうんですよねぇ・・・」

 ありがとうございます。何か優しい気持ちになれました。つい、映画『おくりびと』のワンシーンを思い出しましたが、私が本木雅弘さんにでも見えたのでしょうか・・・いえ、言葉が過ぎました・・・すみません・・・。
 さて、橋を渡り切ると、すぐに冠川稲荷社が見えます。
 はて?
 なにか、だいぶ雰囲気が変わっておりました。
 以前訪れたときには、住宅街の真ん中にあってちょっとした林に囲まれていて、いかにもそこに神社がありますよ、という雰囲気を醸し出していたはずですが、なにやら妙にさっぱりしておりました。
 樹木が全て伐採されて、祠が四方から丸見えの状態になっていたのです。
 さきほど視聴したNHK大河ドラマ『真田丸』で、外堀のほとんどを埋められた大坂城が丸裸にされておりましたが、まさにそのような印象を受けました。
 たしか以前に画像を撮っていたはず、と思い、帰宅後探してみたところ、結局は使っていなかったものの、2008年12月の拙ブログ開設時、当座の記事に必要と考えていた画像を一気に撮影しまくった際の画像フォルダに保存されておりました。
 そして、やはり私の記憶に間違いはなく、この祠は樹木に囲まれておりました。

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2008年12月

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現在

 明治期、神社合祀に強く反対をしていた南方熊楠(みなかたくまぐす)の真意は、むしろ森林伐採への反対にこそあったようでもありました。熊楠の理念からすると、社殿が残っていても周囲の森が失われたら意味がない、ということになるかもしれません。中沢新一さんの『熊楠の星の時間(講談社)』には、芳賀直哉さんの『南方熊楠と神社合祀―いのちの森を守る闘い(静岡学術出版)』を参照しながら、こんなことが書かれてありました。

―引用―
〈第八点〉合祀は、天然風景や天然記念物を滅亡させてしまう。
 熊楠がいちばん言いたかったのはこれでしょう。熊楠はこう書いています。「天然風景は、曼荼羅である。天然自然のうちに抱かれ、真理を感得することもまたできよう」。「天然記念物を手厚く保護する外国と、我が国の合祀の蛮行には驚き呆れる以外にない」。
 日本の古くからの森林は、神社に残されてきました。それを伐採消滅させてしまうことによって、何が奪われるのでしょうか。曼荼羅にも喩えられる植物相を中心にして形成されてきた、世界の全体性が破壊されてしまうのです。

 冠川稲荷社のあたりは、特に東日本大震災の大津波に呑まれたわけでもないはずなので、おそらく他になにかよんどころのない事情があってこのような状態になってしまったのでしょう。残念ではありますが・・・。

吉岡の島田飴に想う

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 毎年12月14日、吉岡八幡神社―黒川郡大和町吉岡―で「島田飴まつり」という縁結びの行事が開かれます。宮城県民は、暮れになると新聞やニュースでその時節の到来を知らされます。
 例年この日に高島田髷に似せてつくられた飴が吉岡八幡神社に奉納されるというもので、縁結びに御利益があるというその飴は、同日に縁日でのみ希望者にも数量限定で販売されるようです。数年前、車のラジオで耳にして初めてこのまつりの存在を知りましたが、実はなかなかに古い由緒があるようです。

―引用:まほろばホールHPより―
 元和年間、吉岡がまだ今村と呼ばれていた遠い昔のとある暮れ12月14日。八幡さまの神主が、偶然横丁で見かけた高島田髷の凛とした美しい花嫁にこころをうばわれ、恋慕の情に絶え難く、まもなく病に臥せってしまいました。
 神主の病の噂はたちまち村中に広がり、皆々は名主の家に寄り集まって話し合い、高島田髷に似せた飴をこしらえて神社へ奉納し、神主の快気を祈ることにしました。
 神主はこの島田の飴を大変気に入って薬がわりに服用すると、不思議と効験あらたかで、たちまち病は快気しました。
 神主は村の皆々のまごころに深く感謝し、以来毎年歳の暮12月14日を例祭日とし、「相思の仲」の若者たちの幸せを祈ろうと、縁結びの神事を催すようになりました。
この縁に因み、今でも歳の暮12月14日には吉岡八幡神社境内に島田飴の店や縁日が賑やかにひろげられ、たくさんの参拝者が良縁に恵まれるよう島田飴を求め、八幡さまに祈願するようになったということです。

 吉岡地区は、当地の実話をもとつくられた『殿利息でござる!』という映画が公開されたこともあり、全国的にも知名度が高まっていると思われますが、島田飴の由緒といい、つくづくここの村人はまとまりがあって優しかったのだな、と感じさせられます。
 由緒では、八幡神社の神主の恋煩いがこの縁結び神事の発端となっているようですが、それはそれで信じるとして、私は、どうしてもこの地で病没した「飯坂の局(いいざかのつぼね)」とその生家飯坂家の悲運になにかしら起因していたのではないか、と勘繰ってしまうのです。
 なにしろ、吉岡八幡神社は元々飯坂氏の氏神であり、飯坂の局とともに吉岡へと遷ってきた神社といっても過言ではありません。
 飯坂の局は、その名のとおり、岩代國信夫(しのぶ)郡飯坂(いいざか)―現:福島県福島市内―を本拠としていた飯坂氏の女性で、仙臺藩祖伊達政宗の側室として伊達家に迎え入れられました。
 宇和島伊達氏の祖となった秀宗-政宗長男―の生母であったとも言われておりますが、秀宗は史料によって「新造の方―猫御前―」の子とされております。
 しかし、『伊達略記』には新造の方と飯坂の局が同一人物として記されており、『伊達治家記録』によれば新造の方も飯坂家から出た女性であるようですので、吉岡八幡神社の神事の本質を飯坂家の悲哀に結び付けて想像を膨らませる分には包摂され得る範囲の内と言えるでしょう。
 飯坂の局の養子とも言われる吉岡城主伊達宗清は、独眼竜政宗の三男で、同長男秀宗―宇和島藩祖―の同母弟とされているわけですが、母方の実家である飯坂家に嗣がいなかったためか祖父であり頭首である飯坂宗康の養子に入りました。すなわち祖父の養子に入ったということになるのでしょうか・・・。だとすれば、つまり、飯坂の局の養子とされる宗清は、その時点で一旦母の弟となったわけであり、その後、あらためて母の嗣として養子に入ったということになります。もしかしたらその複雑な相続がために飯坂の局と新造の方の情報には混乱があるのかもしれません。
 飯坂の局と吉岡地区を抱える黒川郡は、実は彼女が政宗の側室となる以前から因縁めいたものがあったようです。
 室町時代中期以降、黒川地方を管掌していたのは足利家の血脈で奥州探題斯波氏の流れをくむ大崎氏から分かれた黒川氏でありました。
 ここで、紫桃正隆さんの『政宗に睨まれた二人の老将(宝文堂)』の内容を参考にしながら、飯坂家と黒川家の因縁の物語を語ってみたいと思います。
 時は戦国時代、その黒川家当主の叔父株で早くから家を出ていた黒川式部なる人物が、飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を強めていた米沢―山形県米沢市―の伊達家に仕えておりました。式部は年齢も三十路を過ぎてやや高齢になっていたものの、働き者で周囲からの信頼も厚く、伊達政宗―輝宗?―も良縁があれば推挙してやろうと常々心にかけていたのだといいます。
 そこに、信夫の飯坂家が男子に恵まれず娘に婿を欲している情報が入りました。政宗―輝宗?―は大いに喜び、すぐに両家を取り持ちました。
 ただ、娘はまだ十歳を過ぎたばかりで、夫婦の契りにはまだ早すぎるということで、さしあたり婚約だけで済ませていたのだといいます。
 ところがこの娘、成長するにつれその美貌と妖艶さに磨きがかかり、親の飯坂左近太夫は老いぼれた黒川式部にくれてやるのが惜しくなってしまったのだそうです。そこで妙案が浮かんだのだといいます。
 それは、この娘を主家である伊達の御曹司、すなわち政宗公に献上してしまおう、ということでありました。嗣子のことは娘の腹から生み出された胤の一人でももらい受けられれば将来的にみてももうけものであるし、相手が政宗であれば、黒川家も文句をつけられないだろう、という目論見があったようです。
 政宗もひどいもので、娘の美貌にすっかり魅せられてしまい、自分がとりもった縁談であるにもかかわらずそれを反故にして飯坂氏からの提案を快諾したのだそうです。
 もちろん、この娘こそが「飯坂の局」です。
 これを恨んだ黒川式部は、その夜のうちに伊達家の居城のある米沢を出奔し、越後に落ちたのだといいます。
 その情報に、式部の甥である黒川晴氏―月舟斎―の心中には怒りがくすぶりました。後に伊達と大崎が戦となった際に、彼が大崎軍に寝返ったのはこの一件のためだとも言われ、いずれ彼の寝返りが屈強な伊達軍にまさかの黒星をつける最大要因となりました。
 さて、皮肉にも、飯坂の局は晩年を因縁の黒川の地に過ごすこととなります。
 不幸なことに、飯坂の局の養子となった伊達宗清も嗣子にめぐまれず、飯坂の局の姉「債」が嫁いだ桑折家の一族から「定長」という人物を養子に迎え入れても名跡にめぐまれず、政宗の次男すなわち仙臺藩主二代「忠宗」の子「宗章」を迎えて胆沢郡前沢―岩手県奥州市―に移封されたものの、宗章は16歳で夭折し、悲願は実りませんでした。やむなく原田甲斐宗輔の次男、輔俊を迎え入れたものの、周知のとおり、寛文事件に連座して切腹の憂き目に会っております。
 このような次々と発生する不幸なアクシデントのため、寛文十一年、飯坂家はついに断絶となったのでありました。
 紫桃さんは次のようにまとめております。

―引用:『政宗に睨まれた二人の老将』より―
 黒川月舟は自重すれば自分が黒川領三万石を全うできることも知っていた。しかし敢えてそれを放棄し、滅亡の道へと突走った。以上の経過を総括すると、黒川氏の運命を左右したキーポイントは、飯坂の局という女性の去就にかかっていたとも極論できるであろう。
~中略~
 飯坂の局は在地の飯坂から米沢へ、そして松森へ、黒川領へと、運命の糸に引かれて一歩一歩黒川領内へと入ってくる。そしてこの地に病没する。
~中略~
~飯坂家の胤(たね)は続いて稔らなかった。~まことに戦慄すべき不幸の中で飯坂家が絶えるのであった。
<権勢の府は衆怨の府>という諺がある。その頃は既に飯坂(伊達)家の領地となっていたが、もと黒川家の地下人(じげにん)たち、百姓たちは果してどんな感慨をもってこの悲劇を見守ったことであろうか。
 人の世にはかかる不思議な歴史的因果がつきまとうものである。それは一つ天の摂理でもあるのだ。人々は今を悲しみ、今を喜ぶ。だが、それはすべて明日につながるものではない。明日は晴れか、雨か、それを知る者は居ないのだ。黒川盆地の歴史的変転歴史的因果の“真相”を知るもの、それは山肌にうっすら雪を置き、冷たく厳しくそそり立つ、七ツ森の秀峰だけであろう。
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七ツ森


 いかがでしょうか。
 もちろん、縁結びの島田飴とはなんら関係がない歴史絵巻であるのかもしれませんが、先の吉岡八幡神社の神主を黒川式部に、高島田髷の凛とした美しい花嫁を飯坂の局に置き換えてみてもこの神事の由緒として成立しそうな気もするのです。
 もし、世間に飯坂家の断絶が黒川家の怨嗟によるものと受け止められていたとしたならば、この神事は島田飴に擬された飯坂の局を神主に擬された黒川式部に差し出して慰めようとした領民の優しさなのかもしれない・・・などとも考えてしまうのです。

冬の鹽竈櫻の御前にて

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 鹽竈様へ年末の御挨拶に行ってまいりました。
 ほんのり前夜の雪の残る早朝の境内は、氷点にも満たない厳しい寒さではありましたが、その凛とした冷気がむしろ心地よく、重苦しい曇天が徐々に晴れゆく東の空からは、いよいよ朝日が差し込んできました。

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 ふと、私は鹽竈櫻の前で立ち止まっておりました。
 花はもちろん葉すら着飾ることもない殺風景な冬の鹽竈櫻ではありますが、その容姿の是非にかかわらず、得難い気づきと絆を与えてくださった偉大な御神木に、私はただただ手を合わせたいのです。

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 あけくれにさぞな愛て見む鹽竈の桜の本に海人のかくれや

 これは平安時代に堀河天皇が詠まれた歌です。
 天皇があたかも日課のように鹽竈なり鹽竈櫻のことを想い愛でておられたことがよくわかる歌ではありますが、「海人のかくれや」とはなんぞや・・・。
 かつて鹽竈神社の不思議に着目するも、特段意識することもなく通り過ぎていた歌でありましたが、約七年前に「海人のかくれや」を意識したその刹那より、私はこの鹽竈の地に海人の属性を窺える陸奥安倍家の祖先が眠っておられると確信するようになりました。
 そして何やらそのことを、堀河天皇はごくあたりまえに認識されていたようでもあります。
 堀河天皇の即位は応徳三(1086)年、すなわち、後三年の役が終わる前の年です。
 堀河天皇の在位はその年から嘉祥二(1107)年の崩御までの間ということになりますが、崩御の翌年となる天仁元(1108)年から、後三年の役の最終勝者となった奥州藤原初代清衡は平泉中尊寺の造営に着手しております。あたかも戦乱に翻弄された半生を嘆くかのように浄土のかたちを自らの京(みやこ)平泉に持ち込んだ清衡ではありますが、堀河天皇もまた、長きにわたって奥羽に繰り広げられた戦乱を嘆かれていたのでしょう。そして、滅ぼされた奥州の王家への鎮魂の想いをこの歌に込められたのでしょう。
 なにしろ鹽竈神社右宮一禰宜新太夫家小野氏が鹽竈神社に関わったのも、おそらくその頃からでありました。
 あくまで私の仮説ですが、それ以前の鹽竈神社は、江戸期に設けられた別宮は言うに及ばず、左宮・右宮にすら分かれておらず、のちの左宮一禰宜安太夫家阿倍氏こそが主たる社家であり、禰宜であったのだと思います。
 しかし思うに安太夫家は賊として滅ぼされた安倍家の同族であり、前九年の役以降の鹽竈祭祀が風前の灯火(ともしび)であったのだろうことは想像に難くありません。
 おそらくは、朝廷から異例の待遇を受けてきた鹽竈祭祀の停滞を憂いたであろう多賀國府によって小野氏は招かれ、新太夫家として鹽竈祭祀の実質を継承させられたのではないでしょうか。
 なにしろ小野氏は、阿倍氏ともなんらかの関係があるのであろう中ツ臣氏族―神と天皇の間を取り持つ氏族―和珥(わに)氏の裔でもあります。
 ただ、伝統的な神事の本質上安太夫家を鹽竈から外すわけにいかないため、左宮・右宮の両宮に分けて安太夫家・新太夫家を各々の一禰宜にしたのではなかろうか、というのが現時点での私の考えです。※拙記事「鹽竈神社と鼻節(はなぶし)神社:後編」参照
 これらのことは、すべて鹽竈櫻をきっかけに発想したことでありました。
 もちろん、全く見当違いな論かもしれませんが、もしこれらが真実であったならば、鹽竈櫻はなにゆえ何の霊力もない昭和枯れすすきのような私にこのような気づきを与えてくれたのか・・・、もし私に何か為すべき役割というものがあるとするならばわかりやすく導いて欲しい・・・などと、唯物思考から今一つ抜けきれていないはずの私が柄にもなく思った此度の参拝でありました。

大祓詞と「神漏岐(かむろぎ)・神漏美(かむろみ)」

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 今年もいよいよ年の瀬となっておりますが、大晦日には全国各地の神社で「年越の祓」が行われます。神職の方はもちろん、きっと多くの方々が「大祓詞(おおはらえのことば)」を奏上されることでしょう。
 そのような時節柄、私も大祓詞全文に目を通しているのですが、あらためてこの祝詞の司令神が「神漏岐(かむろぎ)」「神漏美(かむろみ)」であることに気付きました。
 それどころか、実はこの祝詞には「天照大神」も「高皇産霊尊」も登場していないことに、今更ながら気付いたのです。
 これまでは、つい祓戸神としての「瀬織津比賣と云ふ神」にばかり注目しておりましたので、見落としておりました。
 小野善一郎さんの『あなたを幸せにする大祓詞(青林堂)』によれば、「大祓詞」の文献上の初見は、『日本書紀』の「乃(すなわ)ち天兒屋命(あめのこやねのみこと)をして、其の解除(はらへ)の太諄辞(ふとのりと)を掌(つかさど)りて宣(の)らしむ」と言われているようです。
 なお、『古事記』にも「天兒屋命(あめのこやねのみこと)、太詔戸言禱(ふとのりとごとほ)き白(まを)す」とありますが、これについては「祓え(解除:はらえ)の祝詞の旨が記載されていないので、一般にはこれを初見とするのは難しいとされているようです。
 いずれ、『日本書紀』よりも古くにこの祝詞が成立していたというところがミソで、天照大神や高皇産霊を司令神とする観念が『記』『紀』によってもたらされたものであることをあらためて実感させられました。
 ここでふと、大和岩雄さんが自著の『日本神話論(大和書房)』で語っていたことを思い出します。大和さんは看過し難い指摘をしておりました。

―引用―
~天皇の即位の宣命や祝詞などの「語り」では、降臨の司令神はカミロキ・カミロミなのである。『日本書紀』が成立したのは、養老四(七二〇)年五月二十一日である。聖武天皇の即位は神亀元(七二四)年二月四日で、『紀』の成立から三年九ヵ月後だが、正史の『紀』の降臨の司令神をまったく無視し、カミロキ・カミロミを降臨の司令神にしている。聖武天皇の次の孝謙天皇、さらに淳仁天皇も『紀』の降臨の司令神の「高皇産霊尊」も「天照大神」も無視した詔勅を発布している。この事実については今迄ほとんど指摘されず、無視されてきた。

 ちなみに、大和さんは、このカミロキを「撞賢木厳之御魂」、カミロミを「天疎向津媛」と指摘しており、興味深いものがあります。

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冬至前日の松島の日の出

御用氏子の憂鬱―東照宮と天満宮の間で―

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 藩政時代「御宮町」と呼ばれていた「宮町―仙台市青葉区宮町―」は、仙臺藩主二代伊達忠宗が徳川幕府におもねり東照大権現―徳川家康の勅諡号―をお迎えせんと城下北東部に新たに縄張りした門前町であったわけですが、言い換えれば、それは「仙臺東照宮」の氏子の町として形成されたニュータウンであったということでもあります。
 しかし、新興祭祀の神社を新設するというのは単にハードの部分さえ作れば勝手に機能してくれる類のものではありません。現在でこそ地域の氏神としてしっかり根付いて多くの市民から親しまれている仙臺東照宮ですが、おそらく草創期には怪しげな新興宗教となんら変わりがなかったことでしょう。
 神社の管理運営には、すべからく氏子の信心と労力が不可欠なわけですが、御宮町の町人からしてみれば、それまで存在しなかった神社の門前町に強権的に移住させられて、以後貴殿らはこの社の氏子である、などといわれても、ほとんどの者がそれを義務感以上の感情では奉祀できなかったものと想像します。
 例えば、同じ徳川時代に至って政策的に檀家制度を整えられた寺院の場合であれば、そこにご先祖様のお墓も用意されたわけですから、さほどの抵抗もなくそれに親しむことは出来たことでしょう。しかし、いかに祭神の本質が神君家康公とはいえ、自分たちと血縁はもちろん地縁すらもない神仏に対して公儀の域を超えて手を合わせることが出来ていた者などどれほどいたのでしょう。奉職を強制された町人やそこから選ばれた検断・肝入といった町役人、ひいては町奉行、仮に、一門、藩主に至るまでの武家社会全体を見渡してみたとしても、ほぼ皆無であったのではないでしょうか。したがって、おそらく東照宮の別当寺として開基された「仙岳院(せんがくいん)」には氏子の墓地も用意されて、そのまま檀家としても組み込まれたのだろうとは思うのですが、そのあたりは未確認です。
 いずれ、宮町町人は、「御用捨(ごようしゃ)」といって諸役負担が免除され、かつ軽微な年貢負担のみが課された耕地を与えられたり、本来課せられるべき諸役を免除されるなど藩によって特別に優遇されてはいたようです―『仙台市史』参照―。
 思うに、偉大すぎた藩祖政宗公亡き後の伊達仙台藩にとって、いわば東照宮御用特区の整備は、徳川幕府との円滑な関係を維持する上で最重要に位置づけられたプロジェクトであった事でしょう。実際に運営するのは東照宮と人的組織が一体の仙岳院であったわけですが、仙岳院が藩内寺格最高位の御一門格に位置づけられたのはそれ故でしょう。
 さて、草創期の御宮町の町人は、そもそもどういった人たちで、どこから移住させられたのでしょうか。正確にはわかりませんが、実はそれを推し量る材料がないでもありません。享保十四(1729)年に起きた御宮町検断罷免事件にそれを透かし見ることが出来そうです。
 『仙台市史』は、町方社会の中における御宮町の特殊性をみるくだりの中で、その事件を取り上げております。
 事件は、「榴岡天満宮(つつじがおかてんまんぐう)」が御宮町の者をみずからの氏子とみなし、守り札を配るなどの宗教的行為を行ったことに端を発しました。
 これは問題となって当然でしょう。藩の特命プロジェクトを覆しかねない横恋慕を仕掛けているに等しいからです。
 ところが、この一件について町奉行が御宮町の上・下の街区の各々の検断(けんだん)―警察権のある町内会長のようなもの―に問い合わせたところ、両者ともに、御宮町の者は天満宮の氏子である、と回答したようなのです。しかも驚くことに町奉行はそれをすんなり承認しました。
 さすがにこれには東照宮側も黙ってはいられません。
 東照宮別当寺の仙岳院は、御宮町が東照宮の門前町であることと、町人が東照宮の氏子である旨を主張しました。もちろんこれは藩にも受け入れられ、藩上層部は町奉行の判断を誤りと裁定を下しました。
 なにしろ仙岳院は仙臺藩内最高の寺格を誇る御一門格の寺なのです。町人あがりの検断が勝てる相手ではありません。仙岳院は両検断を罷免し、町奉行へは事後報告で済ませたとのことです。
 しかし、藩上層部に誤判断と裁定された上に、検断の罷免という重要案件を事後報告で簡単に済まされてしまっては、町奉行のメンツが立ちません。さすがに後任の人事については譲らなかったようです。仙岳院は東照宮御用を理由に御宮町町人から選出すべしと主張したようなのですが、町奉行はそれを否定し、あてつけのように天満宮氏子意識をもたないであろう外部の人材を強行選任したようです。
 ちなみに、新任の検断は国分町肝入りと染師町元検断であったようですが、このような御宮町と関係の希薄な検断が就任するといった事などを機に、東照宮御用を根拠にしていた御宮町の特権も徐々に忘れられ、他の町と同質化していったようです。
 ともあれ、この事件の顛末から、御宮町の町人は自分たちが榴岡天満宮の氏子であるという意識の強かったことがよくわかります。
 榴岡天満宮は、本来仙台東照宮の場所―國分荘玉手崎―に鎮座していた天神社が、東照宮の創建にともない社地を退かせられ、榴岡(つつじがおか)、すなわちかつて平泉軍が対鎌倉軍の総司令部を置いた「國分ヶ原鞭楯(こくぶがはらむちだて)」の地に移転させられた上で天満宮と化したものであります。
 おそらく東照宮の氏子として御宮町に集められた町人は、本来、小萩伝説を通じて平泉滅亡を憂い伝えていた國分荘玉手崎なり玉田横野一帯の里人であり、すなわち國分荘玉手崎時代の天神社の氏子であったのでしょう。
 もしかしたら、新設の仙岳院が全く地縁のない平泉中尊寺の別当職を兼任しその運営および寺領支配を行うに至った理由もそこにあったのかもしれません。

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仙臺東照宮本殿

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東照宮からみた御宮町

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東照宮前の仙山線の踏切。
余談ながら私はこの風景が好きです。日常生活ではわずらわしいばかりの踏切ですが、その新設は現行法令において厳しく制限されていると聞いたことがあります。将来的に消えゆく懐かしい風景と思えば、これもまた風情なのかもしれません。

定義(じょうぎ)さんと平家落人伝説の謎

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 数年前、仙台で一人暮らしをしている他県出身の若い方からアドバイスを求められたことがありました。

 「今度両親が仙台に遊びに来るのですが、どこに連れていったら良いと思いますか?」

 聞けば、青葉城―仙台城―や松島は、彼と落ち合う前の行程に入っていると思う、とのことでありました。牛タンや寿司といった食事も、おそらくその段階で済ませてくるだろう、とのこと・・・。
 仙台は、住みたい街としては常に全国でもトップクラスに位置づけられているのですが、めぼしい観光スポットはいみじくもその青葉城と松島くらいしかない、とはよく揶揄されるところです。しかも、その青葉城などはもともと天守閣が存在していないばかりか、石垣以外の表面的な城郭遺構は戦後に再建された大手門隅櫓くらいしかなく、よほどの歴史好きでもない限りインパクトに欠けていることは否めません。
 むしろ伊達政宗公の廟所である瑞鳳殿や大崎八幡宮の方が、黒漆に極彩色の派手な彫刻が映えて素人ウケするのではないかと思い、それを一応提案してみたのですが、それはおそらく前日の行程に入っていると思う、とのことでありました。
 いよいよ「息子の顔を見るだけで十分満足でしょう」、とお茶を濁すしかなくなってしまいましたが、私ごときに言われたくもない話であったことでしょう。
 そのときふと、「定義如来(じょうぎにょらい)―仙台市青葉区大倉字上下―」が頭をよぎりました。
 (それだ・・・!)
 地元では訛って「定義(じょうげ)さん」と親しまれ、その周辺地名までが「上下(じょうげ)」と訛ってしまった定義如来(じょうぎにょらい)は、平家落人伝説に由来する古刹霊場であるわけですが、なにしろ、門前町には地味ながら根強い人気の「三角定義油揚げ」の定義豆腐店もあり、その場で揚げたての美味しい油揚げが食べられるのは大いに魅力的です。
 それを提案してみたところ、彼の心に大いに響いたようで、心なしか瞳がきらきらと輝いたようにも見えました。

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 そんなことを思い出しながら、先日久しぶりに定義を訪れ、その揚げたての「三角定義油揚げ」を食べました。
 地吹雪の中の定義豆腐店は、本来の朝八時の開店まではまだ10分近くも時間があるにもかかわらず、既に数組が中のテーブルで食べておりました。少なくとも盛岡ナンバーと秋田ナンバーの車を見かけましたので、おそらく観光客でしょう。
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揚げたての三角定義油揚げと温かい豆乳

 惜しむらくは、皆さん油揚げを食べるとそそくさと帰ってしまわれたことです。
 地吹雪が億劫ということもあったのでしょうが、せっかくここまで観光に来られたのであれば、揚げたての「揚げまんじゅう」も美味しいですし、仙台味噌を塗りたくって焼き上げた「焼きめし―焼きおにぎり―」も美味しいので、是非ご賞味していって欲しいところです。
 何より、ここは定義如来の門前町です。
 やはり定義さん、すなわち、そこに眠る「平貞能(たいらのさだよし)」公にはせめてご挨拶をしていって欲しいな、と思いました。

 ところで、定義には不思議なことがあります。八年前、私は以下のような記事を書きました。

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 宮城県仙台市郊外、広瀬川の上流に「定義(じょうぎ・じょうげ)」という聖地があります。ここには現在「定義山西方寺」というお寺がありますが、「定義如来」とも呼ばれております。ここは宮城県内の「平家落人伝説」の最たる場所であり、「平貞能(さだよし)」が落ち延びてきた場所と伝わっております。まずは現地においてあるリーフレットから定義如来の歴史を引用しますのでご覧ください。

――引用――
 今から約八百年前、平重盛公(内大臣・小松殿)が平和祈願のため中国の欣山寺に黄金を寄進。その際に送献されたのが、阿弥陀如来の宝軸でした。
 平家が、壇ノ浦の戦いに敗れた後は、平重盛公の重臣・肥後の守平貞能公がこの宝軸を守り、源氏の追討を逃れるため名も定義と改め、この地に隠れ住みました。それが定義如来という呼び名の由縁でもあります。
 貞能公は建久9年(1198年)7月7日御年60才で亡くなられましたが、墓上には小堂を建て如来を安置し、後世に伝えていくことを従臣たちに遺言。それを守り、宝永三年(1706年)には早坂源兵衛が出家し、極楽山西方寺の開創となりました。

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定義山山門

 というわけで、定義とは、貞能(さだよし)が源氏の手を逃れるための変名「定義(さだよし→じょうぎ)」に由来しております。そして、貞能が持ち込んだ阿弥陀如来の宝軸が「定義山西方寺」のご本尊ということになるわけですが、現在そのご本尊は近年新たに建立された本堂に移されておりますので、元の本堂は「貞能堂(さだよしどう)」として、純粋に貞能の墓及び位牌を祀るお堂になっているのです。私はここを参拝していて妙に気になるものに遭遇しました。
 貞能堂は堂の内部まで上がりこめるのですが、どうも正面の祭壇(?)にはそれらしいものが見当たりません。しかし、向かって左側の実に中途半端な場所に仏壇のようなものがあり、はっきりと貞能公と明記された位牌がありました。

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 これがそうなのでしょうか。なにか違和感を覚えた私は、その場に座り込み、現地で購入したオフィシャル(?)な小冊子、西沢勇さん著『“秘境”定義谷 平家落人伝説と定義如来』を確認してみました。すると小冊子には以下のように書いてありました。

――引用――
平貞能位牌堂
 平貞能の墳墓は本堂の左中央に位置している。これは始め遺言通り墳墓の上に小堂を建て、阿弥陀如来の御尊像を安置していたが、後世になって、本堂が北方へ拡張された為に、自然中央位置より離れ現在の処になったものである。

 つまり、堂内部左側の半端な場所にある位牌がそれらしいのです。そこで私はその位牌に拝礼をすべく、正面にまわり賽銭箱に浄財をしようとしたのですが、どうにも拝みづらいのです。何故なら、位牌と賽銭箱の直前に邪魔な柱があるからです。

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 とにかく、正面からは拝めませんので、その柱を避け、斜めから拝むしかありません。
 どうにも気になり寺務所で関連グッズを頒布されていた方に質問したのですが、怪訝そうに「サヤ堂が拡張されたから」との一点張りで、どうにも要領を得ません。その後いろいろ文献を探してみましたが、邪魔な柱の理由を見つけることが出来ませんでした。これまで、誰もこれを不思議だと思わなかったのでしょうか。
 定義が現在に至るまで根強く信仰される所以は、本来この墓の主である貞能がいたればこそであって、その貞能の遺言があればこそ全てが成り立っているのではないのでしょうか。阿弥陀如来の宝軸も大切ですが、同じくらい貞能公の遺言や位牌も重要なはずです。少々辛口に言わせてもらえば、本堂の拡張よりもこの墳墓の真上にある位牌こそ優先されるべきで、拡張するにしても位牌ありきの設計をすべきなはずです。
 ふと、現地で入手したリーフレットをよく読むと次のように書いてありました。

――引用――
貞能堂(旧本堂)
 自然の丘を利用して貞能公の遺言通りに墳墓を中心にたてられた旧御廟の「さや堂」(建物を風雨などから保護するため、外側から覆うように建てた建築物)という形を取って昭和二年に建立されました。御廟の左側に結界があり、仏壇が安置されており、その真下に、貞能公のお墓があります。
 境内には鐘楼があり、旧暦の大晦日には除夜の鐘が鳴り響きます。

 この“邪魔な柱”のことかどうかはわかりませんが、少なくとも明確に“結界”と書いてあります。この柱がそうだとするならば、つまり、あえてこの場所に柱がくるような設計がなされたということです。昭和二年に初めてそうなったのか、それ以前もそうだったのかは確認できておりませんが、とにかく何故平貞能の霊が結界によって閉じ込められなければならなかったのか、とても不思議です。
 確かに貞能は落人となって源氏の世に恨みをはせながら他界したことでしょう。しかし、定義では、あくまで貞能の遺言によりその従臣たちが供養していたわけで、彼らが貞能の怨霊を恐れ、結界を張る理由などないのです。現在もこの定義界隈で貞能を供養しているのは、貞能の従臣の末裔の方々です。とにかく不思議です。

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貞能堂(旧本堂)※中央のお堂

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山門の中心線とずれている貞能堂の中心軸


※ 行間等を一部修正し、画像も追加しております。

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 結界の柱の謎はいまだ解けておりません。

 ところで、定義への入口、大倉ダムの麓に鎮座する「小倉(おぐら)神社」は、貞能が「平氏の守護神の霊璽」を祀ったものとされておりますが、『宮城縣神社名鑑(宮城県神社庁)』に記された祭神は「大巳貴(おおあなむち)神」であります。つまり興味深いことに、ここでは平家の守護神が出雲の大巳貴神とされているのです。
 さらに、同名鑑が記す配祀には仙台周辺としては珍しく「饒速日(にぎはやひ)神」の神名がみられ、大変気になるところではありますが、これはおそらく大正時代に合併した船形山神社の祭神であったのでしょう。

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大倉ダムの冬景色

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小倉神社の冬景色

 ちなみに、仙台の奥座敷といわれる「秋保(あきう)地区―仙台市太白区秋保―」にも平家落人伝説があり、南北朝時代から戦国時代にかけて活躍がみられる秋保氏や馬場氏は、いみじくも平重盛の裔とされているわけですが、宝賀寿男さんなどはその実を安倍貞任の弟・磐井五郎家任の後裔とみております―『阿倍氏(青垣出版)』―。
 例えば、中世、磐城(いわき)地方―福島県いわき市―に勢力を誇った「岩城氏」も、「海道平氏」などと呼ばれ、「平将門」討伐に活躍した「平繁盛―桓武平姓常陸大掾―」の裔を称しておりましたが、太田亮さんは「其の系疑はしき點多ければ、或は多臣姓・或は凡河内流磐城臣・即ち石城國造の後にあらざるかと考へらる」としておりました―『姓氏家系大辞典(角川書店)』―。
 いみじくも私は、石城國造家を、原鹿島神奉斎のオホ氏や陸奥丈部(はせつかべ)氏、ひいては陸奥安倍氏や鹽竈神社左宮一禰宜安太夫家の発祥を考える上で重要な鍵と位置付けているわけですが、定義や秋保の平家落人伝説は、その実、陸奥安倍氏のそれが意図的に暗渠化されて伝わっているものなのかもしれない、とも思い始めております。

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秋保氏と縁ある秋保神社の神輿。
 東日本大震災で被災して新調できずにいたところを、九州は宮崎県の「高千穂神社」が寄贈してくださったようです。温かいお話です。

 

荒雄川の河畔:前編―王昭君伝説―

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 宮城県大崎市に、「青塚古墳(あおつかこふん)」という古墳があります。
 直系60メートルほどの円墳にみえるのですが、昭和五十五(1980)年の調査によって、周壕の形から前方後円墳であった可能性の高いことがわかっております。前方部らしき部分は人為的な削平を受けてその痕跡が確認できないようですが、おそらくは主軸の全長が約90メートルの東北屈指の前方後円墳であったものと考えられます。出土品から、築造時期は東北最大の雷神山古墳―宮城県名取市―とほぼ同じとみられ、四世紀代に遡り得るものとも考えられております。
 いみじくも本日付けの河北新報朝刊の一面に「大崎耕土」の「世界農業遺産申請」の記事があり、ぜひ認定されて欲しいものですが、この青塚古墳を抱える大崎平野は、「荒雄川(あらおがわ)―江合川(えあいがわ)―」と鳴瀬川の流域に広がる沖積平野で、宮城県内としては仙台平野と並ぶ古墳地帯であります。このエリアは日本最北の古墳地帯とも言われておりますが、昭和二十四(1949)年に岩手県奥州市胆沢区の「蝮蛇塚(へびづか)」が前方後円墳であると確認されているので、古墳単体としての最北はそちらになります。「角塚古墳(つのづかこふん)」と呼ばれているものがそれです。
 しかし、如何せん岩手県内ではそれ以外の前方後円墳が確認されておらず、角塚古墳については特殊な個体と捉えておく方が妥当なようで、やはり古墳“文化”ないし古墳“地帯”の北限としては、依然として青塚古墳のある宮城県北部の大崎平野と考えておくのが妥当なようです。
 さて、青塚古墳は、江戸時代には既に「青塚」と呼ばれ何某かの墓と認識されていたことが、『奥羽観迹聞老志』や『封内風土記』などの記述によってわかります。
 『封内風土記』には「上代葬王昭君地也。昭君死于胡地。憐之遂葬諸漢界。號青塚。」とあり、なにやら「王昭君」の墓という伝説であったようです。
 王昭君は中国四大美人として「楊貴妃」らと並び称されてきた人物ですが、『広辞苑』の記述はこうです。

―引用―
【王昭君(おうしょうくん)】
前漢の元帝の宮女。名をしょう、字を昭君という(一説に名を昭君、字をしょうとも)。元帝の命で前33年に匈奴(きょうど)の呼韓邪単于(こかんやぜんう)に嫁し、夫の死後その子の妻となったという。中国王朝の政策の犠牲となった女性の代表として文学・絵画の題材となった。元曲「漢宮秋」はその代表。

 もちろん、青塚古墳がそのような前漢時代の悲劇のヒロインの墓であるなどとは信じがたいわけですが、何故そのように伝えられてきたのかを考えておく必要はあるでしょう。
 とはいえ、その原因は『封内名跡志』なり『封内風土記』によって既に解決されているようにも思えます。『封内風土記』は当該項で次のように記します。

―引用―
熊野神社。在古塚上。同上。寺一。青塚山養生寺。~中略~
塚一。名跡志曰。邑中有古塚。東西三十間。南北五十間。相傳。上代葬王昭君地也。昭君死于胡地。憐之遂葬諸漢界。號青塚。杜少陵詠懐古跡。第三首曰。一去紫臺連遡漠。獨留青冢向黄昏。青冢王昭君墓也。此地亦附會其義。而強稱其名乎。其邑落有青塚城址。且今塚上立熊野権現社。

 要点を拙くも意訳しておきます。なにしろ浅学で漢文を解読する学習など何十年も前の高校時代の授業以外では経験しておりませんので、細部において解釈が誤っている可能性もありましょうが、ご容赦ください。

―意訳―
~前略~
塚が一つあるが、それについて名蹟志は次のようにいう。
邑には東西55メートル、南北91メートルの古塚がある。上代に王昭君を葬った地と相伝られている。昭君は胡地―匈奴(きょうど)?―で没しており、これを憐み漢の境界に葬ったわけだが、それを青塚という。例えば杜少陵―杜甫―が詠んだ「懐古跡」の第三首にこんな詩がある。
「ひとたび紫台を去りて朔漠連なり(漢の宮殿を去って匈奴に嫁いで以来、果てしなく広がる北の砂漠に暮らした)、独(ひと)り青塚を留めて黄昏に向(あ)り(今はたそがれの弱々しい光の中にわずかに青塚を留めるばかり)―詩訳はウィキペディアから拝借―」
すなわち、当地の青塚が王昭君の墓というのは、王昭君の墓が青冢(せいちょう)という名であるが故の牽強付会であろう。
~以下省略~

 そもそも何故この塚は「青塚」などと呼ばれるようになったのでしょうか。
 理由を考えてみました。

1、本来は「王塚」あるいは「大塚」であったものが訛って「あおつか」となったのではないか

2、付近に小野小町の墓と伝わる場所もあり、なんらかの悲劇の美女伝説の下地があったのではないか

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 小町伝説については、このあたりに小野一族がいたとみるのが穏当でしょうが、ひとつ注目しているのは、当地の式内社「新田郡子松神社」です。
 この「子松」を、小町から訛ったものとみるべきか、逆に子松の韻から小町伝説が生まれたとみるべきか、仮に後者だとしたら、子松とはどういう意味なのか・・・。
 実は、私は後者をとり、子松神社は本来「高麗神社(こまつじんじゃ)」であったのではないかとみているのです。
 現在新田字鹿島に鎮座している延喜式式内社「新田郡子松神社」の論社の「子松神社」の祭神は「武甕槌(たけみかづち)大神」でありますが、これは康永二(1343)年に大崎氏の家臣新井田氏が夜烏邑(よがらすむら)―当地の旧地名―に居城を構えて狐松神霊を邑上に遷座して「鹿島大明神」と称したことに由来しているものと思われ、必ずしも本来的なものが継承されているものかどうかは定かでありません。
 なにしろこのあたりは栗原エリアに隣接しており、古くから高句麗人も多かったのではないかと思うのです。

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荒雄川の河畔:後編―三十六所明神―

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 荒雄川(あらおがわ)―江合川(えあいがわ)―流域は、奥州藤原政権下においては照井王国でもありました。
 度々触れているとおり、「大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)」を輩出したと自称する照井氏は、高句麗系渡来人と密接、あるいはそのものであったのではないか、と私は考えております。
 例えば、照井太郎高直を供養したものとされる宮城県栗原市金成(かんなり)町有壁(ありかべ)の五輪塔は、このあたりでは珍しい“積石塚”の上に立てられておりました。
『日本歴史大辞典(小学館)―CASIO製電子辞書「EX-word」所収―』は、「積石塚」を次のように説明しております。

―引用―
つみいしづか【積石塚】
墳丘を石で覆った墓。河原(かわら)石や山石、割石(わりいし)で墓槨(ぼかく)を覆うという風習は世界各地で普遍的であるが、一定の地域・時期に発達する積石塚には系統関係がみられる。遼東半島の積石塚は紀元前8~4世紀の青銅器時代の多葬墓である。高句麗(こうくり)では紀元前後に遼東半島の積石塚や⇨支石墓を祖型として出現し、円形の積石塚から方形の基壇積石塚に変化する。高句麗の積石塚は大同江・漢江流域にまで分布し、文化圏・政治的領域圏を表わす。~以下省略~

 これが論証というわけでもありませんが、少なくとも積石塚が高句麗に顕著な埋葬習慣であったということくらいは留意しておきたいところです。
 先に触れた「王昭君(おうしょうくん)」は、「匈奴(きょうど)」の「呼韓邪単于(こかんやぜんう)」に嫁がせられたとのことでした。匈奴とはモンゴル高原に一大勢力を築いた遊牧国家であり、歴代中国王朝を脅かしていた北方騎馬民族でありました。それ故に歴代の中国王朝は「万里の長城」の整備を怠るわけにはいかなかったのです。
 匈奴からすれば世界一の文明国たる中国王朝は垂涎の存在でもあり、中国王朝からすれば北方の匈奴はおとなしくしていてもらいたい筆頭の存在であったようです。なにしろ匈奴は強く、武闘派の楚王「項羽」を下して皇帝の座についた「漢の高祖―劉邦―」ですらも完敗しております。北方へ退却する囮の匈奴軍を追撃した高祖はまんまと謀略にはまり、「白登山」にて匈奴軍精鋭の騎兵に包囲され、そのまま七日間も孤立するという絶体絶命の危機を体験しております。高祖は贈賄作戦によって辛うじて脱出に成功し首都長安に逃れたものの、これ以上の匈奴との対峙は不可能と悟らざるを得ず、以降様々な貢物はもちろん、帝室の女を匈奴の単于(ぜんう:君主の意)に贈り姻戚関係を結び続けるというおよそ皇帝とは思えない屈辱的な外交政策をとらざるを得なかったようです。「前漢(=西漢)」の「元帝」が匈奴の呼韓邪単于に皇女の王昭君を贈ったのもその代表的な例といえるでしょう。

 さて、陸奥の栗原に土着していた信濃系の馬産民は、元をただせば「天武天皇」の政策に基づき信濃に徴集養成された亡国の高句麗系騎馬民の裔であろうというのが私の仮説ですが、それらと極めて密接な存在と思われる照井一族の英雄「阿弖流為(あてるい)」を降伏に導いたのは、「東漢(やまとのあや)氏」の裔である征夷大将軍「坂上田村麻呂」でありました。
 大和の「檜隈(ひのくま)」を本拠地にしていた「東漢(やまとのあや)氏」は、「後漢(=東漢)」の「霊帝」の裔を称しておりますが、その実は扶余系の騎馬民族と思われます。事実、彼らは藤原広嗣の反乱の際に騎兵として登場しております。
 彼らの本拠の「檜隈(ひのくま)」については、『日本書紀』に「呉人(くれひと)を檜隈野(ひのくまの)に安置(はべらし)む。因りて呉原(くれはら)と名(なづ)く」とあるのですが、「呉原」は現在の奈良県高市郡明日香村の「栗原」のことで―『日本書紀(岩波書店)』―、「呉人」は高麗、百済の扶余系朝鮮人をさします―大和岩雄さん『日本古代試論(大和書房)』―。
 その扶余系騎馬民族の裔とみられる坂上田村麻呂が、阿弖流為の投降を実現させたわけですが、いくら英雄田村麻呂とはいえ、多賀城への就任まもない彼が、10年以上も前任者らの手に負えなかったまつろわぬ勇者阿弖流為との交渉を短期間で円滑に進めることが出来たのは、他ならぬ阿弖流為が田村麻呂の氏素性に親近感を覚えたからではなかろうか、と私は考えております。
 ともあれ、その東漢氏が後漢霊帝の裔を称していることから推察するに、北方騎馬民族の流れをくむ扶余高句麗系帰化人は漢族たらんとするフシがあったようです。
 青塚古墳の被葬者の属性は今一つわかりませんが、少なくとも「青塚」の名は漢族気分を気取る彼らによって名づけられ、伝えられたのではないでしょうか。

 ところで、藤原秀衡の命によって照井太郎高直が造営したとされる「佐沼城―宮城県登米市佐沼―」には「照日権現(てるひごんげん)」が祀られております。これは照井氏の守護神とされておりますが、長崎県対馬市の「阿麻弖留(あまてる)神社」の例から、照日権現は「天照御魂(あまてるみたま)神」のことと考えられます。すなわち『日本書紀』でいうところの尾張氏の祖神「天照国照彦天火明(あまてるくにてるひこあめのほあかり)命」のこととはよく言われるところです。『先代旧事本紀』はこの神を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひ)尊」と表記し、物部氏の祖神「饒速日(にぎはやひ)尊」のこととしております。
 はたして、それらが本当に同体異称の神であるのかはわかりませんが、少なくとも男性太陽神への信仰―アマテル信仰―であるという部分は共通しております。
 だからといって、これらが全て「好太王碑(こうたいおうひ)―広開土王碑―」なり「檀君神話」などにみられる朝鮮系の日光感精神話なり天神信仰なりに起因するものと判断するのは早計でしょうが、環日本海エリア全般に、各々近似する太陽信仰が浸透していたことは疑いようもない事実であり、物部氏や尾張氏の祖神とされる饒速日(にぎはやひ)尊なり火明命が日本に発祥したのか朝鮮に発祥したのかはわかりませんが、少なくとも天照御魂神という性格をもって日本に帰化した有力な渡来系氏族からも崇敬されていたフシがあったことは間違いないでしょう。
 それを踏まえたうえでの戯言ですが、もしかしたら、大崎市の中核「古川(ふるかわ)」の地名の本来の表記は「布留川」であったのではないでしょうか。
 すなわち、それは奈良県天理市の「石上(いそのかみ)神宮」の鎮座地「布留」を流れている川の名と同名ということです。布留は「布留御魂(ふるのみたま)大神」を意味しますが、それは、「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)」なる十種の神宝に宿る御霊威を称えた神名で、『先代旧事本紀』や、神宝がおさめられた所と由緒に伝う石上神宮では、それらは天降らんとする饒速日(にぎはやひ)尊に天津神(あまつかみ)が授けたものとされております。
 平成の大合併で生まれた大崎市にあって「古川」はその中核で、東北新幹線の駅もある宮城県北の旧「古川市」のことであるわけですが、『古川市史』が記すその地名の由来は、「昔、荒雄川は、現在の市街地を流れていたといわれる。その川跡に人が住み、やがて村が形成された~」ことにあるようです。
 当然ながら「布留」のことなどどこにも出てきませんが、その地名由来にからむ荒雄川の川筋には、かつて「瀬織津姫神」が三十六ヶ所にわたって祀られ、「三十六所明神」と呼ばれておりました。
 瀬織津姫を饒速日の后神とみるイデオロギーがそこに介在していたならば、古川の古は布留であったのではないか、という推測もあながち外れてはいないように思えます。
 三十六所明神は、江戸時代寛保三(1743)年に荒雄川上流岩出山池月地区の式内社「荒雄河(川)神社」に合祀されました。
 かつて私は、鎮守府将軍となった奥州藤原氏三代秀衡がこの荒雄河(川)神社を奥州一之宮に定めたことをもって、奥州藤原氏の崇敬する神が瀬織津姫であったと断定して論を進めましたが、あらためて考えてみるに、三十六所明神の合祀が江戸時代のこととするならば、その500年以上も前の奥州藤原時代の荒雄川神社の祭神には瀬織津姫が含まれていなかった可能性もあります。
 もちろん、瀬織津姫を祀る三十六所明神が同じ瀬織津姫を祀る件の荒雄川神社に集約されたという可能性もありますが、例えば、境内案内に「祭神は須佐雄尊と瀬織津姫尊で~」とあるところの「須佐雄尊」を祀っていた荒雄川神社に、三十六所明神が合祀されたことをもってはじめて瀬織津姫神が加わっただけである可能性もあります。
 なにしろ、荒雄川源流の地「鬼首(おにこうべ)」の「荒雄岳」にも同名の社があり、岩出山池月の社が里宮と呼ばれているのに対して、鬼首のそれは奥宮ないし嶽宮と呼ばれているのですが、この奥宮の祭神は大物忌神であり、須佐雄尊ですらなく、瀬織津姫の名はみられません。奥宮と里宮がまったく異なる神を祀っているというのもいかがなものか・・・。
 しかし、『古川市史』に奥宮・里宮・三十六所明神ともに荒雄川そのものを祀ったものという旨が記されていることを鑑みれば、やはりそれらの本質はすべて同じ性格の川神とみるべきでしょう。
 例えば、三十六所明神が里宮に合祀された150年後の明治二十五・六年ごろ、古川小林地区の有志が、鬼首におもむき、荒雄川神社より分神を勧請し、地区の河添いに石の祠を建てて奉納し、河川の安全を祈願した、という逸話が『古川市史』にあります。この逸話からすると、少なくとも流域の住民は“河川の安全祈願”のために、あえて奥宮から分神を勧請したわけであり、奥宮を荒雄川の水神の最たる存在とみていたことが推察されます。

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荒雄川神社の里宮
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 いずれ、川神の性格を有する瀬織津姫神が三十六ヶ所にもわたって祀られていた事実は、荒雄川がかなりの暴れ川であったことを物語っており、もしかしたら、そのあたりが流域の悲劇の美女伝説に関係しているのかもしれません。
 三十六所明神の一社が祀られていたという古川清水地区の「抑の池(おさえのいけ)」の伝説には、村一番の怜悧(れいり)な娘が大蛇に人身御供として差し出されるくだりがあります。物語は月並みながら大蛇を出し抜き娘も村も助かるというハッピーエンドなわけですが、当地には大蛇を切り刻んだ「マナ板橋」と伝わる場所があり、何を隠そう、それより上流の岩出山真山地区の諏訪神社入口の「マナ板橋」では、「ここを通る女のうち、三人目の女を捕えてマナ板橋で切り刻んで諏訪神社に犠牲として供献した―『古川市史』―」と伝わっております。おそらく抑の池でも本来はそれに近い生々しい祭祀が行われていたのでしょう。
 思うに、そういった村の娘たちの悲劇が、王昭君や小野小町などの悲劇的な美女伝説を甘受しやすい民心の下地になっていたのではないでしょうか。
 石上神宮の由緒によれば、先の布留御魂大神、すなわち天璽十種瑞鳳に宿られる御霊威は、「死(まか)れる人も生き反(かへ)らむ」と天津神が饒速日命に教え諭して授けられたものでありました。荒雄川の旧河道に名付けられたフルカワの地名には、娘を人身御供に差し出した邑人のせつない思いが反映されていたのでは、などと勘繰るのはあまりに抒情的すぎるでしょうか。

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主祭神を瀬織津姫とする大崎神社。
 最上氏や大崎氏の祖となる奥州管領「斯波家兼(しばいえかね)」が「名生(みょう)城」を築いた際にその守護神とされたもので、三十六所明神の一社に旧大崎村内の各神社を合祀し、名生城内の熊野神社の社地に遷座、合祀されたもののようです。
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