Quantcast
Channel: はてノ鹽竈
Viewing all articles
Browse latest Browse all 165

伊豆國の三島:その2―氏子を抱える祓所神社―

$
0
0
 三島の街路網は潤沢な湧水や天然の水系の流路が基準となっているのでしょうか概して自然体で、難を言えば実に方位のつかみづらい市街地でありました。
 本降りの雨の中、片手で傘をさして片手で旅の荷物を持っていては地図を開くのも容易ではなく、予習しておいた記憶の地図を頼りに目的地に向かうにもいつしかカーナビに慣れてしまっていた私の左脳には出来ぬ相談となっておりました。そこでせめてもの慣れないスマホのGPS地図を利用したわけですが、カーナビとは異なり自分の向いている方向がつかみづらく難儀しました。傍目(はため)には冴えない濡れネズミのおじさんが雨の中やや薹(とう)が立ちはじめているポケモンGOを楽しんでいるように見えたかもしれません。
 それでもなんとかかんとか三嶋大社の社叢が見えてきましたが、実は予め地図で周辺の地理状況を確認していた際にちょっとした迷いも生じておりました。地図にみえる社殿の並びや御神池や参道の配置からみて、おそらく境内へは南から入るべきものと踏んでいたものの、境内の西側に祓所(はらへど)神社があってそれを経て入る参道らしきものが見受けられたからです。
 となれば、そちらから境内に入るのが筋なのかもしれない・・・、結局その迷いも解けぬうちに濡れネズミのおじさんは祓所神社の脇に到着してしまいました。
 それにしても、一般に祓所神社の類は参道入口の手水所の親分的な佇まいのところが多いのですが、こちらは池に浮かぶ小島にしっかりと確立された拝殿本殿の社殿建築物を構えており、それ自体で神祀りが成立している印象を受けました。これまでお目にかかった中でも、越の彌彦神社のそれや紀伊の玉津島神社のそれ―鹽竈神社―に匹敵する扱いかもしれません。
 この池は、常陸の鹿島神宮の御手洗池のようにここで身を祓い清めてから大神に参拝した名残だろうか、あるいは、下田から遷ってきたとも伝わる三嶋大神自体が、この祓所神社の元となるなんらかの地主神の鎮座地に被ったものなのだろうか、などと考えているうちに、吸い寄せられるようにそこから境内に入ってしまいました。

イメージ 1


 祓所神社の御由緒が掲げられておりましたので拝読してみると、御祭神は、もちろん瀬織津姫神・速秋津姫神・気吹戸主神・速佐須良姫神のいわゆる祓戸四座で、昔は桜川の清流が流れ込み、現在の社殿の立つ島を迂回していたようです。
 この島に國司の廳(ちょう)が祓所大神を鎭斎し、國司の三嶋大神参拝の折には必ず國の卜部をしてお祓いを行わしめたのが起源と傳えられているようで、以来、桜川は祓所川とも呼ばれたようです。
 その昔、此の島の西側には卜部が住んでいたようで、そのあたりの街区は裏町(うらまち)なり祓所町(はらへどまち)なり宮川町などと呼ばれていて、祓所神社の氏子区域となって祭典行事を行っているとのことです。
 由緒を信ずるならば、この祓所神社はあくまで三島の地に伊豆の國府が置かれた後に祀られ始めたものであるということになりますが、なにやら独立した氏子衆が成立しているようでもありますので、気になるところです。
 後にあらためて触れるつもりですが、当地からさほど離れていないところには延喜式神名帳に載る伊豆國田方郡広瀬神社の論社が鎮座しております。
 その鎮座地は明治維新に活躍した小松宮彰仁親王の別邸として造営された楽寿園の内であり、同園は現在入園料の発生する市民公園となっております。そこは富士山の基底溶岩流が生み出した伏流水の湧出地であり、伊豆國府所在地と推定される三島の発祥地はまさにここではなかったかと私は推測しております。

イメージ 2
楽寿園内小浜池対岸から楽寿館を望む

 三嶋大社の祭神は大山祇命と積羽八重事代主神の二柱とされておりますが、『三島市誌』などは平田篤胤ら江戸時代の国学者によるものとされる事代主神説には否定的で、鎌倉時代以来の大山祇命についてもいわゆる人格神ではなく上代の山人による富士山への自然崇拝のそれである旨を力説しております。
 後に触れるつもりなのでここでは深入りしませんが、私は事代主神説は妥当だと考えておりますし、また、内陸の三島の発展が富士山の伏流水の湧出という天然資源によるものとみているだけに、約60ページにおよぶ同市誌の当該論考がこの地の湧水に対する自然崇拝についてはほとんど触れていないことに違和感を覚えております。

 ともあれ、引き続き三嶋大社の境内に歩を進めたいと思います。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 165

Trending Articles