広葉樹の社叢に覆われた三嶋大社、祓所神社側からの参道をすすむと、右手に緋鯉真鯉が群雄する本来の御神池がみえてまいります。
『類聚国史』には、この池の枯渇が天下の旱魃の兆しとなっていることを憂いて三嶋大神を鎮祭している旨の記事が天長四(827)年と元慶七(883)年の二度ほどあります。すなわちこれは三嶋大神が当地の湧水への崇敬と密接であることを示唆するものと思われ、留意すべきでしょう。
源頼朝が放生会を行ったとも伝わるこの池には、北条政子が殊のほか崇敬していたと伝わる厳島神社が浮かび、朱塗りの柱に白亜の壁面が社叢の緑に映えております。
時節柄、満開の桜も見事で、悪天候の鬱々とした風景を鮮やかに彩っておりました。
『類聚国史』には、この池の枯渇が天下の旱魃の兆しとなっていることを憂いて三嶋大神を鎮祭している旨の記事が天長四(827)年と元慶七(883)年の二度ほどあります。すなわちこれは三嶋大神が当地の湧水への崇敬と密接であることを示唆するものと思われ、留意すべきでしょう。
源頼朝が放生会を行ったとも伝わるこの池には、北条政子が殊のほか崇敬していたと伝わる厳島神社が浮かび、朱塗りの柱に白亜の壁面が社叢の緑に映えております。
時節柄、満開の桜も見事で、悪天候の鬱々とした風景を鮮やかに彩っておりました。
厳島神社への御挨拶を済ませ、総門の前に立つ私を惹きつけたのは、出雲を思わせる重厚な注連縄でした。三嶋大神の拝殿ならびに本殿は、その如何にも強力に張られた結界の内に堂々とした貫禄をもって構えております。社誌によれば、それら豪壮な社殿群は総欅素木造りなのだそうです。注目すべきは拝殿の奥にある本殿です。境内の説明板には、「全国的にみて拝殿の大きな神社は数多いが、本殿の大きさは出雲大社とともに国内最大級~」とあります。
三嶋大社は元の官幣大社で、延喜の制には名神大に列せられておりました。単に伊豆國一之宮にとどまらず、関東総鎮守、さらに境内に掲げられた由緒に「爾来日本総鎮守と仰がれ~」などとも記され、これでもか、というほどの大社ぶりを見せつけております。なにより、先に触れたように延喜式主税式において全国に四例しかない正税から祭祀料を割かれていた神社なわけでありますから、その格の高さは疑いようもありません。
何故、三嶋大社はかくも手厚く国家から厚遇されるに至ったのでしょうか。山人の自然崇拝としての大山祇命信仰という側面だけからでは説明のつかないことです。
『三島市誌』が最終的に説きたいところは、伊豆三島神こそが富士山を中心とする山祇の祖であって、伊豫三島神なり摂津三島神なりは伊豆のそれから分祀されたものか、いずれ伊豆より後に成立したものであるという部分であるようです。
なるほど、それであればこの社が別格となる意味もわかろうというものです。
では、何故それほどの有力社に平田篤胤の事代主神説が紛れ込み、それが現在の祭神にも併記されているのでしょうか。
同市誌によると、『東関紀行』や『源平盛衰記』などの記述が、伊豆の大山祇命が伊豫大三島から遷祀を受けたるがごとき錯覚を与え、史上の眼を覆った、とのことで、明治四年に官幣大社に列せられた後、元韮山県神社調査係の萩原正平が「二十二社本縁」説を提唱し、祭神八重積羽事代主命たるべきを教務省に上願し、受理されたようです。
その後、大正時代に至って再び祭神考究の議が起ったため、内務省神社局も旧来の大山祇命説を容認せざるを得なくなり、第二次大戦後の昭和二十二年、大山祇命説を支持する伊豆三嶋大社の矢田部盛枝宮司が旧祭神大山祇命を以て現祭神事代主神と二座主神の祭祀を営みたき旨の伺書を宮内省および神社庁に提出したようです。もとより異議のあるはずのない当局はそれを許可した、という顛末があったようです。
したがって、平田篤胤ら江戸時代の国学者による事代主説が正当な座まで浮上したのは伊豫神人の僭称を払拭せんがための萩原先覚の崇高なる祭祀精神の賜物であったようなのですが、はたして、そういったことでもない限り、事代主神は祭神としてふさわしくないものであったのでしょうか。
「三嶋」は、一般に伊豆諸島を指す「御島(みしま)」に由来するといいますが、山人による自然崇拝を主張する『三島市誌』はその海島的な由来は「採るに足らない妄説」として、富士山を中心に山神大山祇を祀る旧相模の三つの州(さと)、すなわち、「安思我良(あしがら)」、「珠流河(するが)」、「賀茂(かも)」なり、「伊豆」、「相模」、「駿河」、の「三州(みしま)」こそが正しいとしております。
当然ながら、事代主神に縁のある摂津国の三島ないし三島氏に由来するものであるはずはなく、それらに結びつけようとするのは江戸時代以降の事代主神説を唱える者のこじつけとも言われます。
しかし、はたしてそうなのでしょうか。
『三島市誌』が挙げた三つの州(さと)の内には「賀茂」という地名もありますが、賀茂も事代主神と密接な言霊です。他でもない『延喜式神名帳』には伊豆国“賀茂郡”の三島神とあるのであり、平田篤胤の事代主神説のはるか以前の延喜年間(901~923)には既に賀茂という地名があったわけです。
また、楽寿園内に鎮座する式内論社の広瀬神社と同名の大和盆地の廣瀬大社は、いうなれば畿内における事代主神信仰の地盤ともいうべき葛城の勢力圏に鎮座する名神大社です。
『三島市誌』の説くところは納得できますし、三嶋大神はなるほど山人の自然崇拝に起源があるのでしょう。
しかし、なんらかの形で事代主神の属性が関わっていて、それが故に本来地方的な三嶋神祭祀が国家的な神祀りにまで昇華したのではないでしょうか。
そのあたり、少々気になることがあるので、引き続き考えていきたいと思います。
何故、三嶋大社はかくも手厚く国家から厚遇されるに至ったのでしょうか。山人の自然崇拝としての大山祇命信仰という側面だけからでは説明のつかないことです。
『三島市誌』が最終的に説きたいところは、伊豆三島神こそが富士山を中心とする山祇の祖であって、伊豫三島神なり摂津三島神なりは伊豆のそれから分祀されたものか、いずれ伊豆より後に成立したものであるという部分であるようです。
なるほど、それであればこの社が別格となる意味もわかろうというものです。
では、何故それほどの有力社に平田篤胤の事代主神説が紛れ込み、それが現在の祭神にも併記されているのでしょうか。
同市誌によると、『東関紀行』や『源平盛衰記』などの記述が、伊豆の大山祇命が伊豫大三島から遷祀を受けたるがごとき錯覚を与え、史上の眼を覆った、とのことで、明治四年に官幣大社に列せられた後、元韮山県神社調査係の萩原正平が「二十二社本縁」説を提唱し、祭神八重積羽事代主命たるべきを教務省に上願し、受理されたようです。
その後、大正時代に至って再び祭神考究の議が起ったため、内務省神社局も旧来の大山祇命説を容認せざるを得なくなり、第二次大戦後の昭和二十二年、大山祇命説を支持する伊豆三嶋大社の矢田部盛枝宮司が旧祭神大山祇命を以て現祭神事代主神と二座主神の祭祀を営みたき旨の伺書を宮内省および神社庁に提出したようです。もとより異議のあるはずのない当局はそれを許可した、という顛末があったようです。
したがって、平田篤胤ら江戸時代の国学者による事代主説が正当な座まで浮上したのは伊豫神人の僭称を払拭せんがための萩原先覚の崇高なる祭祀精神の賜物であったようなのですが、はたして、そういったことでもない限り、事代主神は祭神としてふさわしくないものであったのでしょうか。
「三嶋」は、一般に伊豆諸島を指す「御島(みしま)」に由来するといいますが、山人による自然崇拝を主張する『三島市誌』はその海島的な由来は「採るに足らない妄説」として、富士山を中心に山神大山祇を祀る旧相模の三つの州(さと)、すなわち、「安思我良(あしがら)」、「珠流河(するが)」、「賀茂(かも)」なり、「伊豆」、「相模」、「駿河」、の「三州(みしま)」こそが正しいとしております。
当然ながら、事代主神に縁のある摂津国の三島ないし三島氏に由来するものであるはずはなく、それらに結びつけようとするのは江戸時代以降の事代主神説を唱える者のこじつけとも言われます。
しかし、はたしてそうなのでしょうか。
『三島市誌』が挙げた三つの州(さと)の内には「賀茂」という地名もありますが、賀茂も事代主神と密接な言霊です。他でもない『延喜式神名帳』には伊豆国“賀茂郡”の三島神とあるのであり、平田篤胤の事代主神説のはるか以前の延喜年間(901~923)には既に賀茂という地名があったわけです。
また、楽寿園内に鎮座する式内論社の広瀬神社と同名の大和盆地の廣瀬大社は、いうなれば畿内における事代主神信仰の地盤ともいうべき葛城の勢力圏に鎮座する名神大社です。
『三島市誌』の説くところは納得できますし、三嶋大神はなるほど山人の自然崇拝に起源があるのでしょう。
しかし、なんらかの形で事代主神の属性が関わっていて、それが故に本来地方的な三嶋神祭祀が国家的な神祀りにまで昇華したのではないでしょうか。
そのあたり、少々気になることがあるので、引き続き考えていきたいと思います。