日本三景松島には、「松島四大観(まつしましだいかん)」と呼ばれる四方からの眺望地があります。
すなわち、松島湾東の「大高森」、西の「扇谷(おおぎだに)」、南の「多聞山(たもんざん)」、北の「富山(とみやま)」の眺望を、各々「壮観―もしくは雄観―」、「幽観」、「偉観―もしくは美観―」、「麗観」と礼賛するところの総称的表現であるわけですが、これは、塩竈・松島を愛してやまなかったのであろう仙臺藩の儒者「舟山萬年―舟山光遠―」が文政五(1822)年に著した『鹽松勝譜(えんしょうしょうふ)』なる地誌に端を発しているものと思われます。
舟山萬年は、同書の「多門山―多聞山―」の項において「山上ノ眺ム所。東南ノ美極マル。蓋シ鹽浦松島ノ地。曲岸回渚連抱四合。穏然トシテ一大環ノ如シ」と賞賛し、その返す刀で「扇渓―扇谷―」「富山」「大高峯―大高森―」を「最モ顕ル者」として列記しております。
また、各々の項においても繰り返し「鹽松還海四山ノ一ニシテ」と説き、ここに松島四大観の原型が生じたものと思われます。
『仙臺叢書』編集主任であった鈴木省三は、明治四十(1907)年に「佐澤廣胖(さざわこうはん)」によって校訂された『鹽松勝譜(香雪精舎)』を、大正十五(1926)年に『仙臺叢書別集第四巻―解譯鹽松勝譜―』としてあらためて編集・発行したわけですが、その際に当該巻冒頭の「解題」において、「舟山萬年。~略~。而して松島の四大観を定む。曰く扇渓の幽観。曰く富山の麗観。曰く大高峯の雄観。曰く多門山の偉観是なり」と解説しております。宮城県教育委員会などは「四大観」の名称そのものの初出は舟山萬年ではなく鈴木省三のそれであろうと推察しております―『特別名勝松島保存管理計画』参照―。妥当でしょう。
すなわち、松島湾東の「大高森」、西の「扇谷(おおぎだに)」、南の「多聞山(たもんざん)」、北の「富山(とみやま)」の眺望を、各々「壮観―もしくは雄観―」、「幽観」、「偉観―もしくは美観―」、「麗観」と礼賛するところの総称的表現であるわけですが、これは、塩竈・松島を愛してやまなかったのであろう仙臺藩の儒者「舟山萬年―舟山光遠―」が文政五(1822)年に著した『鹽松勝譜(えんしょうしょうふ)』なる地誌に端を発しているものと思われます。
舟山萬年は、同書の「多門山―多聞山―」の項において「山上ノ眺ム所。東南ノ美極マル。蓋シ鹽浦松島ノ地。曲岸回渚連抱四合。穏然トシテ一大環ノ如シ」と賞賛し、その返す刀で「扇渓―扇谷―」「富山」「大高峯―大高森―」を「最モ顕ル者」として列記しております。
また、各々の項においても繰り返し「鹽松還海四山ノ一ニシテ」と説き、ここに松島四大観の原型が生じたものと思われます。
『仙臺叢書』編集主任であった鈴木省三は、明治四十(1907)年に「佐澤廣胖(さざわこうはん)」によって校訂された『鹽松勝譜(香雪精舎)』を、大正十五(1926)年に『仙臺叢書別集第四巻―解譯鹽松勝譜―』としてあらためて編集・発行したわけですが、その際に当該巻冒頭の「解題」において、「舟山萬年。~略~。而して松島の四大観を定む。曰く扇渓の幽観。曰く富山の麗観。曰く大高峯の雄観。曰く多門山の偉観是なり」と解説しております。宮城県教育委員会などは「四大観」の名称そのものの初出は舟山萬年ではなく鈴木省三のそれであろうと推察しております―『特別名勝松島保存管理計画』参照―。妥当でしょう。
さて、特に四大観のことを調べようと思ったわけでもないのですが、私はこのほどその『鹽松勝譜』、いえ厳密には『仙臺叢書別集第四巻―解譯鹽松勝譜―』をあらためて入手いたしました。ここにきてあらためて幻の「東鹽氏」について向き合ってみたくなったのです。
かつてこの地誌をはじめて手に取ったのは拙ブログを開設する前のことで、明治八(1875)年当時の権宮司「遠藤信道」の『鹽竈神社考』に多大なる影響を与えていたとされる『東鹽家(ひがししおや)文書』に興味があってのことでした。
遠藤信道は、鹽竈神社の神職として孫ほどの後輩にあたる大正十五(1926)年当時の宮司「山下三次」の『鹽竈神社史料』の中で痛烈に批判されていたわけですが、その批判の中で「東鹽家に傳はれる古文書に付ては、舟山萬年の鹽松勝譜第二、多賀神祠の條に、東鹽氏傳曰。云々を引用せるものにして、東鹽家そのものゝ存在も怪しく、随つて、その古文書なるものも、頗る疑はしきものなり」と『鹽松勝譜』が引き合いに出されておりました。なにやら、東鹽氏の存在は、『鹽松勝譜』と遠藤信道の論考にしかみられないもののようです。
山下三次の説くところは、江戸期から昭和にかけての歴代神職の論考と比べて最も理性的かつ客観的であったかに思えます。少なくとも方便のように「鹽土老翁神」に落ち着きつつあった別宮祭神について、縁起ではあくまで「岐神」であることを強調弁駁して憚らなかったわけでありますから、伊達綱村の定めた縁起を最も尊重していた宮司であったことは間違いないでしょう。
とはいえ、偽書と断罪されて切り捨てられてしまうとむしろ気になってしまうタチの私は、宮城県図書館に出向き『鹽松勝譜』を手に取って目を通してみたのでした。
しかし、あまりに予備知識に欠けていたこともあってか、当時の私には退屈な内容でしかなく、要領を得ぬままコピーをとることもなく返却をしてしまいました。後にブログ開設に至り、記事の展開上東鹽家に触れる段階になった折も、遠藤信道の『鹽竈神社考』や山下三次の『鹽竈神社史料』の記すところで足りると思われたため、あらためて『鹽松勝譜』を顧みることもありませんでした。
ところが何を思ったのか、ここにきてあらためて東鹽氏について考えてみたくなり、気が付けば「日本の古本屋」さんを通して『鹽松勝譜』を発注しておりました。
東鹽氏は実在したのか否か、仮に架空の存在であったにしても、それが少なくとも遠藤信道によって創作された存在でなかったことは半世紀も遡る舟山萬年が取り上げていたことからあきらかです。
遠藤信道は如何なる事情があって斯くも熱烈に東鹽氏の家伝を支持していたのであろうか・・・。
また、仮に実在していた氏族なら、何故史料からまるっきり消えてしまったのであろうか・・・。
現時点で特段の私論が固まっているわけでもありませんが、あらためて全編を通読してみて幾つか興味深い情報もありましたので、真偽のほどはともかく備忘録を兼ねて取り上げておきたいと思います。
かつてこの地誌をはじめて手に取ったのは拙ブログを開設する前のことで、明治八(1875)年当時の権宮司「遠藤信道」の『鹽竈神社考』に多大なる影響を与えていたとされる『東鹽家(ひがししおや)文書』に興味があってのことでした。
遠藤信道は、鹽竈神社の神職として孫ほどの後輩にあたる大正十五(1926)年当時の宮司「山下三次」の『鹽竈神社史料』の中で痛烈に批判されていたわけですが、その批判の中で「東鹽家に傳はれる古文書に付ては、舟山萬年の鹽松勝譜第二、多賀神祠の條に、東鹽氏傳曰。云々を引用せるものにして、東鹽家そのものゝ存在も怪しく、随つて、その古文書なるものも、頗る疑はしきものなり」と『鹽松勝譜』が引き合いに出されておりました。なにやら、東鹽氏の存在は、『鹽松勝譜』と遠藤信道の論考にしかみられないもののようです。
山下三次の説くところは、江戸期から昭和にかけての歴代神職の論考と比べて最も理性的かつ客観的であったかに思えます。少なくとも方便のように「鹽土老翁神」に落ち着きつつあった別宮祭神について、縁起ではあくまで「岐神」であることを強調弁駁して憚らなかったわけでありますから、伊達綱村の定めた縁起を最も尊重していた宮司であったことは間違いないでしょう。
とはいえ、偽書と断罪されて切り捨てられてしまうとむしろ気になってしまうタチの私は、宮城県図書館に出向き『鹽松勝譜』を手に取って目を通してみたのでした。
しかし、あまりに予備知識に欠けていたこともあってか、当時の私には退屈な内容でしかなく、要領を得ぬままコピーをとることもなく返却をしてしまいました。後にブログ開設に至り、記事の展開上東鹽家に触れる段階になった折も、遠藤信道の『鹽竈神社考』や山下三次の『鹽竈神社史料』の記すところで足りると思われたため、あらためて『鹽松勝譜』を顧みることもありませんでした。
ところが何を思ったのか、ここにきてあらためて東鹽氏について考えてみたくなり、気が付けば「日本の古本屋」さんを通して『鹽松勝譜』を発注しておりました。
東鹽氏は実在したのか否か、仮に架空の存在であったにしても、それが少なくとも遠藤信道によって創作された存在でなかったことは半世紀も遡る舟山萬年が取り上げていたことからあきらかです。
遠藤信道は如何なる事情があって斯くも熱烈に東鹽氏の家伝を支持していたのであろうか・・・。
また、仮に実在していた氏族なら、何故史料からまるっきり消えてしまったのであろうか・・・。
現時点で特段の私論が固まっているわけでもありませんが、あらためて全編を通読してみて幾つか興味深い情報もありましたので、真偽のほどはともかく備忘録を兼ねて取り上げておきたいと思います。