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鹽松勝譜をよむ:その3―千賀の由来―

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1、「千賀(ちが)」の由来
 塩竈湾には「千賀(ちが)ノ浦」という別名があります。甲子園大会の常連校である仙台育英高校の校歌でも耳にしますが、江戸後期の旅行家「菅江真澄」などはこれを「血鹿の浦」と表現しておりました。
 『鹽松勝譜』は、その「ちが」を「千家」と表記し、家がおよそ千戸あったから「千家鹽竈」という俗称が生じた旨を記しております。
 その由来が正しいのか否かは定かではありませんが、「千家」という表記だけみると、「千利休」を祖とする茶道の家元、あるいは出雲國造家末裔で現在も出雲大社の祭祀者である「千家(せんげ)氏」なども想起せられます。特に後者については鹽竈神社の属性に見え隠れする出雲色を鑑みてもそれらしくこじつけられそうです。
 しかし、その方向には今一つ私の嗅覚が反応しません。
 何故なら、千家氏が千家を名乗り始めたのは祖たる出雲國造家が「北島氏」とに分かれた南北朝の頃であり、であればそれは留守氏が鹽竈神社を管掌し始めた以降のことでありますので、もしこの一族が塩竈の俗称に影響を及ぼし得るなんらかの事績を残していたのであれば『餘目記録』など留守氏の記録にその情報があっても良いはずだと思うからです。ましてや、さらに時代が下る千利休などは言うに及ばずでしょう
 ひとつの憶測として、もしかしたら筑前―福岡県―の「志賀(しか)」に由来している可能性はなかろうか、という思いはあります。
 『万葉集』に「志賀の海人は藻刈り塩焼きいとまなみ~」という歌があるのですが、いみじくもこの古代製塩の形を現代に伝えているのが鹽竈神社の例祭における「藻塩焼神事」であります。
 筑前といえば、「前九年の役」の戦後処理で、奥州の雄「安倍宗任」が最終的に「筑前大島―福岡県宗像市―」に配流されております。宗任はその地にて生涯を終えたようです。そこは宗像大社の中津宮が鎮座する島ですが、宗任は私的に「松島明神」を祀っていたようであり、宗任にとって松島が望郷の地であったことは想像に難くありません。
 そもそも、何故宗任は伊予に流され、その後筑前に再配流されたのでしょう。
 もしかしたら、古来大陸交通の要衝を鎮護し強大な存在感を示し続けていた宗像大社管掌勢力と陸奥安倍氏の間に顕在化が憚られるいわば禁忌的な海人の絆があり、その絆に対して朝廷側が忖度(そんたく)を働かせたのではないでしょうか。
 仮に憶測どおり塩竈を指す千賀が志賀に由来していたとするならば、それは「前九年の役」の首魁を宗像祭祀の下に収束させた不文律の情報と同根のものが地名に影響したものとは考えられないでしょうか。
 ちなみに、鹽竈神社に派遣されていた在庁官人に「志賀氏」の名が見えます。
 古川左京の『鹽竈神社史』所載の「志賀家関係記録」には、「志賀家は在廳官人の末裔にて社人の列に入れるものなれば自ら勢力ありて、留守家時代には其の勢力を代表せしかば、一の禰宜以下の社人全部其家に出入して之を尊重せしが如し。従つて伊達家時代に入り所領を召し上げられしも、猶ほ社人の筆頭なりき」とあって、一時は相当の権勢を誇っていたようです。
 太田亮の『姓氏家系大辞典(角川書店)』の記述から、この志賀家は藤原姓と思われますが、『鹽竈神社史』所載の志賀家の由来には、人皇十四代仲哀天皇の御世に鹽竈大明神が陸奥に下向された際、志賀家の祖「志賀兵衛介」がその第一の臣として随伴していた旨が伝えられております。
 さすがにそれをそのまま信ずるにはためらわれますが、鹽竈神社に「志賀」の言霊となじみ得るなんらかの属性があったればこそ中世以降の藤姓在庁官人の何某かが志賀を名乗り始めたということはあり得るでしょう。
 もちろんあくまで憶測であり、結局は『鹽松勝譜』が記すところの「家凡そ千家故に千家鹽竈ノ名アル也」というベタな地名由来がそのまま真実なのかもしれませんが・・・。

※ ちなみに、この俗伝をとりあげた舟山萬年自身は「何ソ啻ニ千家ノミナランヤ」と所感を付しております。

イメージ 1
多聞山より千賀ノ浦を望む

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