『鹽松勝譜』は、「神竈祠―御釜神社―」の項にて、「神廟ヲ去ル南二丁餘。店ノ間ニ祠アリ之ヲ祀ル。蓋シ古昔ハ神廟此地ニアリ當時神釜ヲ以テ神ノ體トナスト、僧宗久東遊紀行ニ見ユ」、すなわち、宗久の紀行文から鹽竈神社は元々御釜神社の地に鎮座していたとする説を主軸としております。
舟山萬年はここで宗久を引き合いに出しているものの、その後の記述などを鑑みるに、むしろ『奥羽観迹聞老志』の佐久間洞巌の説くところに大きく影響を受けているようです。
『鹽松勝譜』は、鹽竈神社の祭神については、基本的に左宮:武甕槌命、右宮:経津主命、別宮:岐神、と仙臺藩主四代伊達綱村の定めた「元禄縁起」に則っているのですが、岐神については、元禄縁起が別宮祭神の一説に同体異称として掲げるところの、猿田彦、事勝国勝、鹽土老翁、岐神、興玉命、太田命のいわゆる「鹽竈六所明神」六座のうち、興玉命、太田命を除いた三座―岐神を含めて四座―と、縁起にはみえない鹽屋王子、道祖神とその妻神、さらには志波彦神の四座を加えた七座を同体異称の神として括弧書きに添えてあります。
つまりこれは岐神を数えれば計八座を同体異称とみるものであり、あきらかに六所明神の「六」という数なり言霊なりへのこだわりなどなく、総社説の方便となり得る語呂合わせ的な「禄所(ろくしょ)」論に展開する気配はみじんもなさそうです。
このような『鹽松勝譜』が、“鹽竈神社の前身”と説くところの「御釜神社」について、同書の当該項に次のように記されております。
舟山萬年はここで宗久を引き合いに出しているものの、その後の記述などを鑑みるに、むしろ『奥羽観迹聞老志』の佐久間洞巌の説くところに大きく影響を受けているようです。
『鹽松勝譜』は、鹽竈神社の祭神については、基本的に左宮:武甕槌命、右宮:経津主命、別宮:岐神、と仙臺藩主四代伊達綱村の定めた「元禄縁起」に則っているのですが、岐神については、元禄縁起が別宮祭神の一説に同体異称として掲げるところの、猿田彦、事勝国勝、鹽土老翁、岐神、興玉命、太田命のいわゆる「鹽竈六所明神」六座のうち、興玉命、太田命を除いた三座―岐神を含めて四座―と、縁起にはみえない鹽屋王子、道祖神とその妻神、さらには志波彦神の四座を加えた七座を同体異称の神として括弧書きに添えてあります。
つまりこれは岐神を数えれば計八座を同体異称とみるものであり、あきらかに六所明神の「六」という数なり言霊なりへのこだわりなどなく、総社説の方便となり得る語呂合わせ的な「禄所(ろくしょ)」論に展開する気配はみじんもなさそうです。
このような『鹽松勝譜』が、“鹽竈神社の前身”と説くところの「御釜神社」について、同書の当該項に次のように記されております。
―拙くも意訳―
僧宗久は東遊紀行にて次のように語っている。
「日暮れ鹽竈浦に至り神廟に謁したところ、その御神体は塩の釜であった。そこで廟前に座って夜を徹した・・・云々」
御釜神社の縁起によれば、鹽土老翁神はこの浦に初めて神降り、塩を焼く術を民に教え、それ故にこの浦は鹽竈浦と称されたようである。その塩の竈―釜?―は今尚存在している。
佐久間洞巌は、鹽竈社址考にて次のように語っている。
この器はまさしく太古神代の遺産で、その悠久なることは三種の神器にも引けを取らない。その尊きこと神代に神明が造りしものであり、その貴重なこと人間が塩を煮る実利を得た起源のものである。どうして王権の象徴のごとくあらんことを望もうか。製塩作業の効率のためなればそれは渚にあり、民を救うためなれば高所から見下ろさずに同じ目線にあるのである。
また、こうも言う。往昔老翁がこの海岸に降り、初めて塩を煮て民に教えた。生命は食をもって養われるが、その食が塩によって美味になることも老翁の教えによって初めて天下に知らしめられ、生きとし民の喜びとなった。故にその器を尊んで神明と賞し、その地を鹽竈浦と名付けたのである。まさに神の塩によるものなのである。よって後世その厚徳を貴び、その成功を重んじ、ここに祠を建て、竈の神体を崇奉せし所以である。宗久紀行を以って考えるに、当時は古い器を指して御神体といい、民の崇敬は尚往時のごとしであったのだろう。
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僧宗久は東遊紀行にて次のように語っている。
「日暮れ鹽竈浦に至り神廟に謁したところ、その御神体は塩の釜であった。そこで廟前に座って夜を徹した・・・云々」
御釜神社の縁起によれば、鹽土老翁神はこの浦に初めて神降り、塩を焼く術を民に教え、それ故にこの浦は鹽竈浦と称されたようである。その塩の竈―釜?―は今尚存在している。
佐久間洞巌は、鹽竈社址考にて次のように語っている。
この器はまさしく太古神代の遺産で、その悠久なることは三種の神器にも引けを取らない。その尊きこと神代に神明が造りしものであり、その貴重なこと人間が塩を煮る実利を得た起源のものである。どうして王権の象徴のごとくあらんことを望もうか。製塩作業の効率のためなればそれは渚にあり、民を救うためなれば高所から見下ろさずに同じ目線にあるのである。
また、こうも言う。往昔老翁がこの海岸に降り、初めて塩を煮て民に教えた。生命は食をもって養われるが、その食が塩によって美味になることも老翁の教えによって初めて天下に知らしめられ、生きとし民の喜びとなった。故にその器を尊んで神明と賞し、その地を鹽竈浦と名付けたのである。まさに神の塩によるものなのである。よって後世その厚徳を貴び、その成功を重んじ、ここに祠を建て、竈の神体を崇奉せし所以である。宗久紀行を以って考えるに、当時は古い器を指して御神体といい、民の崇敬は尚往時のごとしであったのだろう。
佐久間洞厳は『奥羽観迹聞老志』の中で、今の鹽竈神社は慶長十二年に太守黄門伊達政宗卿の移転にかかるもの、と論断していたわけですが、『鹽竈神社史料』の山下三次は、佐久間洞巌の論拠は観応年間―南北朝時代―の宗久の『都のつと』の記事のみであるといい、「其の論遽極めて薄弱なるに拘はらず、その説大に流布し、世間の學者、皆之に依り、本社を遷造する時、神竈を舊祉に留め、呼んで神竈社と云ひ、神體と神宮と相離るゝに至れり、と信ぜり」と揶揄したうえで、遊佐好生や吉田東吾らの否定論を引き合いに弁駁しております。
遊佐好生は、「非祭弁駁撥正」にて、御釜神社の境内が古来の大社のそれにしては極めて狭いことと、留守家為が領していたころの別当法連寺秘蔵の鹽竈社図から政宗以前に既に一森山に鹽竈神社が存在していたことがわかる旨を論じております。
吉田東吾は、宗久と同時代の文書に左右両宮の見證があることなどをもって、政宗が慶長年中に一森山に祠殿を起こしたとするは誤りである、としております。
また、当の山下三次は、鹽竈神社所蔵の奥州探題吉良貞経による立願の文書―延文五(1360)年卯月二十八日付吉良貞経願文―は御釜が立願によって鋳造されていた例を示すもの、すなわち「鋳釜獻進」の古俗を証明するもので、宗久が「鹽竈の神體はこの釜なり」としていることを疑うべし、と論を展開しております。
すなわち、宗久の文脈から、宗久が一夜を徹したその場所には社殿がなく直に神竈を拝したものとみて、神社にしてその社殿を設けなきは古来極めて特殊稀有であり、ましてや正税から一萬束もの稲を奉ぜられた程の鹽竈神が、たとえ年代が遷り南北朝の時代になれども、社殿もなく露出のまま安置されている御釜のことを指すとは常理上信じることが出来ない、というのです。
山下三次は、熱田宮における草薙(くさなぎ)御劔や、石上神宮における布都御魂(ふつのみたま)劔、出石神社における天日槍のもたらした八種の神寶などを引き合いに、「皆之を社殿に奉安して、御霊代となせり。豈獨りこの鹽竈神のみ、社殿なきの理由もあらんや」と力説しております。
仮に佐久間洞巌が生きていたならば、彼はおそらく、「製塩の利そのものが既に神聖なのであって、俗な権威の形など鹽竈神には必要がない」、とでも反論していたことでしょう。
しかし山下三次は、「御釜をもって直ちに鹽竈神を祭りしか、或いは神社として別に奉祀せる外、貴重の神器として永く尊崇し来れるは深く考究を要する問題にして、軽々に宗久紀行の記事のみを憑據として之を推断するは、甚だ早計に過ぎる」と、いわば当地に一泊したに過ぎない旅の者の紀行文の情報からのみ事の全体を推断している愚についても強く批判しており、それはそのとおりだな、と私も思います。
ただ、佐久間洞巌がそこまで浅はかであったとも思えず、御釜神社を鹽竈神そのものと推断するに耐え得るなんらかの論拠もあったはずと考えるわけですが、引き続きそのあたりに触れていきます。
遊佐好生は、「非祭弁駁撥正」にて、御釜神社の境内が古来の大社のそれにしては極めて狭いことと、留守家為が領していたころの別当法連寺秘蔵の鹽竈社図から政宗以前に既に一森山に鹽竈神社が存在していたことがわかる旨を論じております。
吉田東吾は、宗久と同時代の文書に左右両宮の見證があることなどをもって、政宗が慶長年中に一森山に祠殿を起こしたとするは誤りである、としております。
また、当の山下三次は、鹽竈神社所蔵の奥州探題吉良貞経による立願の文書―延文五(1360)年卯月二十八日付吉良貞経願文―は御釜が立願によって鋳造されていた例を示すもの、すなわち「鋳釜獻進」の古俗を証明するもので、宗久が「鹽竈の神體はこの釜なり」としていることを疑うべし、と論を展開しております。
すなわち、宗久の文脈から、宗久が一夜を徹したその場所には社殿がなく直に神竈を拝したものとみて、神社にしてその社殿を設けなきは古来極めて特殊稀有であり、ましてや正税から一萬束もの稲を奉ぜられた程の鹽竈神が、たとえ年代が遷り南北朝の時代になれども、社殿もなく露出のまま安置されている御釜のことを指すとは常理上信じることが出来ない、というのです。
山下三次は、熱田宮における草薙(くさなぎ)御劔や、石上神宮における布都御魂(ふつのみたま)劔、出石神社における天日槍のもたらした八種の神寶などを引き合いに、「皆之を社殿に奉安して、御霊代となせり。豈獨りこの鹽竈神のみ、社殿なきの理由もあらんや」と力説しております。
仮に佐久間洞巌が生きていたならば、彼はおそらく、「製塩の利そのものが既に神聖なのであって、俗な権威の形など鹽竈神には必要がない」、とでも反論していたことでしょう。
しかし山下三次は、「御釜をもって直ちに鹽竈神を祭りしか、或いは神社として別に奉祀せる外、貴重の神器として永く尊崇し来れるは深く考究を要する問題にして、軽々に宗久紀行の記事のみを憑據として之を推断するは、甚だ早計に過ぎる」と、いわば当地に一泊したに過ぎない旅の者の紀行文の情報からのみ事の全体を推断している愚についても強く批判しており、それはそのとおりだな、と私も思います。
ただ、佐久間洞巌がそこまで浅はかであったとも思えず、御釜神社を鹽竈神そのものと推断するに耐え得るなんらかの論拠もあったはずと考えるわけですが、引き続きそのあたりに触れていきます。