多賀城市八幡の八幡神社が土地の古老に「泥八幡」と呼ばれていたことについて、おそらく大津波の記憶であろうことはほぼ確実と考えておりますが、東日本大震災前まで並行して考えていた試論もありました。我ながら捨てがたいものがあるので一応触れておきます。
かつて、末の松山の記事を書いた際に次のように含みを持たせておきました。
かつて、末の松山の記事を書いた際に次のように含みを持たせておきました。
――「末の松山」も、実は「陶(すえ)の松山」であったりすると面白くなってくるのですが・・・――
ここで言う「陶」は、言うまでもなく「陶器」なり「須恵器」なり、とにかく「やきもの」につながる「陶」のことでありました。
陶器は、水分を含んだ粘性のある土をあな窯などを用いて高温で焼き上げるわけですが、「末の松山」の「末」の本来の意味が「陶」であったのならば、「泥八幡」の「泥」はその示唆ではないのか、とも考えていたのです。
いわゆる泥八幡は、さしあたり陸奥國分寺建立時に勧請されたとも、豊前國宇佐郡から末の松山に奉遷されたとも、或は松島八幡が遷されたもの、とも言い伝えられております。
陶器は、水分を含んだ粘性のある土をあな窯などを用いて高温で焼き上げるわけですが、「末の松山」の「末」の本来の意味が「陶」であったのならば、「泥八幡」の「泥」はその示唆ではないのか、とも考えていたのです。
いわゆる泥八幡は、さしあたり陸奥國分寺建立時に勧請されたとも、豊前國宇佐郡から末の松山に奉遷されたとも、或は松島八幡が遷されたもの、とも言い伝えられております。
豊前國の辛島氏―秦氏―の私的祭祀に過ぎなかったヤハタ信仰が、宇佐神との習合によって伊勢につぐ国家第二の宗廟「宇佐八幡」として昇華し、八幡信仰として全国に約4万社、すなわち約11万と言われる全国すべての神社の四割をも占めるにまで至ったきっかけは、総國分寺たる東大寺の鎮守の座を獲得したことに尽きると思われます。
これらをプロデュースしたのは辛島氏でも宇佐氏でもなく、欽明朝―実際は敏達朝であろう―に中央から豊前國に派遣されたのであろう「大神比義(おおがのひぎ)」に始まる大神一族系八幡神職団でありました。
仏法の輸入や半島外交のジレンマなど社会情勢の不安にともない、朝廷としては従来のナチュラリズム・アニミズム的な神祀りに行き詰まりのようなものを感じ始めたのか、辛島氏が大陸から持ち込んでいたシャマニズムを欲したものと思われます。大神比義は両者のパイプ役を担って派遣され、宇佐に住み着いたようです。
大神氏にはそれを担わされるだけの理由、引き受けるだけの理由があったように思われます。
宇佐八幡研究の第一人者でもある中野幡能さんは『三輪高宮家系図』から大神比義を「大三輪神の氏人」としているのですが、だとすれば、大神氏はかりそめにも「大田田根子」の継承者であり、すなわち当時の国家の神祀りを牽引していた立場であったのかもしれません。少なからず責任を感じていたことでしょう。
さて、その大田田根子については、『日本書紀』に「即於茅渟縣(ちぬのあがた)陶邑(すゑのむら)得大田々根子而貢之」とあり、大田田根子が“陶(すえ)”邑にいたとされていたことがわかります。
また、書紀において大田田根子は自らが「大物主大神」と「活玉依媛(いくたまよりびめ」の子であると言い、母の「活玉依媛」は「陶津耳(すえつみみ)」の女(むすめ)であると言っております。
陶邑と大神氏について、大和岩雄さんは次のように語っております。
これらをプロデュースしたのは辛島氏でも宇佐氏でもなく、欽明朝―実際は敏達朝であろう―に中央から豊前國に派遣されたのであろう「大神比義(おおがのひぎ)」に始まる大神一族系八幡神職団でありました。
仏法の輸入や半島外交のジレンマなど社会情勢の不安にともない、朝廷としては従来のナチュラリズム・アニミズム的な神祀りに行き詰まりのようなものを感じ始めたのか、辛島氏が大陸から持ち込んでいたシャマニズムを欲したものと思われます。大神比義は両者のパイプ役を担って派遣され、宇佐に住み着いたようです。
大神氏にはそれを担わされるだけの理由、引き受けるだけの理由があったように思われます。
宇佐八幡研究の第一人者でもある中野幡能さんは『三輪高宮家系図』から大神比義を「大三輪神の氏人」としているのですが、だとすれば、大神氏はかりそめにも「大田田根子」の継承者であり、すなわち当時の国家の神祀りを牽引していた立場であったのかもしれません。少なからず責任を感じていたことでしょう。
さて、その大田田根子については、『日本書紀』に「即於茅渟縣(ちぬのあがた)陶邑(すゑのむら)得大田々根子而貢之」とあり、大田田根子が“陶(すえ)”邑にいたとされていたことがわかります。
また、書紀において大田田根子は自らが「大物主大神」と「活玉依媛(いくたまよりびめ」の子であると言い、母の「活玉依媛」は「陶津耳(すえつみみ)」の女(むすめ)であると言っております。
陶邑と大神氏について、大和岩雄さんは次のように語っております。
―引用:大和岩雄さん著『秦氏の研究(大和書房)』―
陶邑は、五世紀前後に渡来して、陶器製作に従事した人たちの居住地だが、陶邑製作の初期陶(須恵)器は、加羅地域の陶質土器と同じであることは、考古学者の指摘するところである。秦王国の人たちも、同じ加羅からの渡来人であったから、辛島氏の本拠地は「スエ」村といい、(現在の宇佐市末)、この地は今も「辛島」姓の人たちがいる。このように「スエ」を通して、大和の大神氏と辛島氏には回路がある。
陶邑は、五世紀前後に渡来して、陶器製作に従事した人たちの居住地だが、陶邑製作の初期陶(須恵)器は、加羅地域の陶質土器と同じであることは、考古学者の指摘するところである。秦王国の人たちも、同じ加羅からの渡来人であったから、辛島氏の本拠地は「スエ」村といい、(現在の宇佐市末)、この地は今も「辛島」姓の人たちがいる。このように「スエ」を通して、大和の大神氏と辛島氏には回路がある。
八幡祭祀の根源たる辛島氏と大神氏には「陶(すえ)」を通じて回路があり、辛島氏の本拠地たる宇佐のスエ村の「スエ」は「末」で表記されているようです。
多賀城の八幡(やはた)については、「八幡(やはた)」の地名や「猩々(しょうじょう)」が登場する伝説などから、秦氏の居住区であったのだろう、と推測しておきました。
泥八幡の「泥」がそれに関係するものかどうかはわかりませんが、当地に八幡(やはた)神を勧請したのは坂上田村麻呂でも源氏でもなく、秦氏系の住民ではあるのでしょう。
また、八幡沖遺跡で出土した素焼きの土器が、はたして陶器―須恵器―に通ずるものであるのかどうかもわかりませんが、スエ器の出土の有無にかかわらず、少なくとも「末の松山」の「末」がヤハタの神を奉ずる秦系住民の属性を介した言霊としての「陶」に因んだものと考えておく分には問題ないでしょう。
多賀城の八幡(やはた)については、「八幡(やはた)」の地名や「猩々(しょうじょう)」が登場する伝説などから、秦氏の居住区であったのだろう、と推測しておきました。
泥八幡の「泥」がそれに関係するものかどうかはわかりませんが、当地に八幡(やはた)神を勧請したのは坂上田村麻呂でも源氏でもなく、秦氏系の住民ではあるのでしょう。
また、八幡沖遺跡で出土した素焼きの土器が、はたして陶器―須恵器―に通ずるものであるのかどうかもわかりませんが、スエ器の出土の有無にかかわらず、少なくとも「末の松山」の「末」がヤハタの神を奉ずる秦系住民の属性を介した言霊としての「陶」に因んだものと考えておく分には問題ないでしょう。
『宮城懸神社名鑑(宮城県神社庁)』においてはばっさり否定された当該八幡神社の由緒でありますが、支離滅裂に羅列された内容の裏事情を個別に検証すればあながち捨てたものでもなさそうです。
陸奥國府が置かれる以前、以後、中世の多賀國府時代、南北朝時代、戦国時代、そして近世以降、陸奥國の中心たる多賀城周辺、いわゆる宮城府中の争奪戦は、実にめまぐるしいものがありました。長く厚みのある時間の層の中で、当地を管掌する人々も度々入れ替わっていたわけで、鎮守の神に対する解釈も幾度か変質していたことでしょう。
信ずるに足らないとされてはおりますが、泥八幡の前身として名の挙がる「松島八幡」は、『類聚国史』に舒明天皇三(631)年七月の勧請とあり、『塩松勝譜』においては松島の神祠仏閣中最も古きものと紹介されております。
前者『類聚国史』については、史料として賛否の分かれるところではありますが、何より舒明天皇三年は発祥の宇佐八幡の初見よりも早く、それ故に信ずるに足らないとされます。
後者『塩松勝譜』によれば、この社は松島の八幡崎に置かれ、寛永年間に現在地、すなわち五大堂の橋の間に遷されたようで、一方で推古帝25年に勅によって松島に置かれ、多賀城時代の坂上田村麻呂によって八幡村―現:多賀城市八幡―に遷された旨の説があることも併記しております。
はたして、これらは脈絡のない伝説でしょうか。
思うに、「八幡」という言霊にこだわってしまうから信ずるに足らないのであって、その前身となる地主神の話が八幡社の由緒に争奪されたと考えるならば、そこそこ信ずる価値もあるのではないでしょうか。
つまり、松島最古の神祀りであるということはおそらく本来の姿は「松島明神」か「葉山権現」のことであって、それが多賀城時代の田村麻呂によって八幡(やはた)に持ち込まれたのではないのでしょうか。
少なくとも、陸奥國分寺の南大門の真正面には「松島明神」を勧請したとされる「紫明神」が「椌木明神」という名で祀られておりました。
また、鹽竈神社―多賀城?―の四方の鎮めの神とされる東宮・西宮―志波彦?―・南宮・北宮にも、各々間接直接に紫明神―松島明神―に通ずるコンテンツ(?)が散りばめられております。
ともあれ、泥八幡の由緒の混乱は、八幡の民の氏神と田村麻呂によって松島から勧請されたなんらかの神が、貞観津波などの被災を機に合祀されるなどして生じたものなのではないのでしょうか。
陸奥國府が置かれる以前、以後、中世の多賀國府時代、南北朝時代、戦国時代、そして近世以降、陸奥國の中心たる多賀城周辺、いわゆる宮城府中の争奪戦は、実にめまぐるしいものがありました。長く厚みのある時間の層の中で、当地を管掌する人々も度々入れ替わっていたわけで、鎮守の神に対する解釈も幾度か変質していたことでしょう。
信ずるに足らないとされてはおりますが、泥八幡の前身として名の挙がる「松島八幡」は、『類聚国史』に舒明天皇三(631)年七月の勧請とあり、『塩松勝譜』においては松島の神祠仏閣中最も古きものと紹介されております。
前者『類聚国史』については、史料として賛否の分かれるところではありますが、何より舒明天皇三年は発祥の宇佐八幡の初見よりも早く、それ故に信ずるに足らないとされます。
後者『塩松勝譜』によれば、この社は松島の八幡崎に置かれ、寛永年間に現在地、すなわち五大堂の橋の間に遷されたようで、一方で推古帝25年に勅によって松島に置かれ、多賀城時代の坂上田村麻呂によって八幡村―現:多賀城市八幡―に遷された旨の説があることも併記しております。
はたして、これらは脈絡のない伝説でしょうか。
思うに、「八幡」という言霊にこだわってしまうから信ずるに足らないのであって、その前身となる地主神の話が八幡社の由緒に争奪されたと考えるならば、そこそこ信ずる価値もあるのではないでしょうか。
つまり、松島最古の神祀りであるということはおそらく本来の姿は「松島明神」か「葉山権現」のことであって、それが多賀城時代の田村麻呂によって八幡(やはた)に持ち込まれたのではないのでしょうか。
少なくとも、陸奥國分寺の南大門の真正面には「松島明神」を勧請したとされる「紫明神」が「椌木明神」という名で祀られておりました。
また、鹽竈神社―多賀城?―の四方の鎮めの神とされる東宮・西宮―志波彦?―・南宮・北宮にも、各々間接直接に紫明神―松島明神―に通ずるコンテンツ(?)が散りばめられております。
ともあれ、泥八幡の由緒の混乱は、八幡の民の氏神と田村麻呂によって松島から勧請されたなんらかの神が、貞観津波などの被災を機に合祀されるなどして生じたものなのではないのでしょうか。