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“スエ”の松山

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 多賀城市八幡の八幡神社が土地の古老に「泥八幡」と呼ばれていたことについて、おそらく大津波の記憶であろうことはほぼ確実と考えておりますが、東日本大震災前まで並行して考えていた試論もありました。我ながら捨てがたいものがあるので一応触れておきます。
 かつて、末の松山の記事を書いた際に次のように含みを持たせておきました。

――「末の松山」も、実は「陶(すえ)の松山」であったりすると面白くなってくるのですが・・・――

 ここで言う「陶」は、言うまでもなく「陶器」なり「須恵器」なり、とにかく「やきもの」につながる「陶」のことでありました。
 陶器は、水分を含んだ粘性のある土をあな窯などを用いて高温で焼き上げるわけですが、「末の松山」の「末」の本来の意味が「陶」であったのならば、「泥八幡」の「泥」はその示唆ではないのか、とも考えていたのです。
 いわゆる泥八幡は、さしあたり陸奥國分寺建立時に勧請されたとも、豊前國宇佐郡から末の松山に奉遷されたとも、或は松島八幡が遷されたもの、とも言い伝えられております。

 豊前國の辛島氏―秦氏―の私的祭祀に過ぎなかったヤハタ信仰が、宇佐神との習合によって伊勢につぐ国家第二の宗廟「宇佐八幡」として昇華し、八幡信仰として全国に約4万社、すなわち約11万と言われる全国すべての神社の四割をも占めるにまで至ったきっかけは、総國分寺たる東大寺の鎮守の座を獲得したことに尽きると思われます。
 これらをプロデュースしたのは辛島氏でも宇佐氏でもなく、欽明朝―実際は敏達朝であろう―に中央から豊前國に派遣されたのであろう「大神比義(おおがのひぎ)」に始まる大神一族系八幡神職団でありました。
 仏法の輸入や半島外交のジレンマなど社会情勢の不安にともない、朝廷としては従来のナチュラリズム・アニミズム的な神祀りに行き詰まりのようなものを感じ始めたのか、辛島氏が大陸から持ち込んでいたシャマニズムを欲したものと思われます。大神比義は両者のパイプ役を担って派遣され、宇佐に住み着いたようです。
 大神氏にはそれを担わされるだけの理由、引き受けるだけの理由があったように思われます。
 宇佐八幡研究の第一人者でもある中野幡能さんは『三輪高宮家系図』から大神比義を「大三輪神の氏人」としているのですが、だとすれば、大神氏はかりそめにも「大田田根子」の継承者であり、すなわち当時の国家の神祀りを牽引していた立場であったのかもしれません。少なからず責任を感じていたことでしょう。
 さて、その大田田根子については、『日本書紀』に「即於茅渟縣(ちぬのあがた)陶邑(すゑのむら)得大田々根子而貢之」とあり、大田田根子が“陶(すえ)”邑にいたとされていたことがわかります。
 また、書紀において大田田根子は自らが「大物主大神」と「活玉依媛(いくたまよりびめ」の子であると言い、母の「活玉依媛」は「陶津耳(すえつみみ)」の女(むすめ)であると言っております。
 陶邑と大神氏について、大和岩雄さんは次のように語っております。

―引用:大和岩雄さん著『秦氏の研究(大和書房)』―
陶邑は、五世紀前後に渡来して、陶器製作に従事した人たちの居住地だが、陶邑製作の初期陶(須恵)器は、加羅地域の陶質土器と同じであることは、考古学者の指摘するところである。秦王国の人たちも、同じ加羅からの渡来人であったから、辛島氏の本拠地は「スエ」村といい、(現在の宇佐市末)、この地は今も「辛島」姓の人たちがいる。このように「スエ」を通して、大和の大神氏と辛島氏には回路がある。

 八幡祭祀の根源たる辛島氏と大神氏には「陶(すえ)」を通じて回路があり、辛島氏の本拠地たる宇佐のスエ村の「スエ」は「末」で表記されているようです。
 多賀城の八幡(やはた)については、「八幡(やはた)」の地名や「猩々(しょうじょう)」が登場する伝説などから、秦氏の居住区であったのだろう、と推測しておきました。
 泥八幡の「泥」がそれに関係するものかどうかはわかりませんが、当地に八幡(やはた)神を勧請したのは坂上田村麻呂でも源氏でもなく、秦氏系の住民ではあるのでしょう。
 また、八幡沖遺跡で出土した素焼きの土器が、はたして陶器―須恵器―に通ずるものであるのかどうかもわかりませんが、スエ器の出土の有無にかかわらず、少なくとも「末の松山」の「末」がヤハタの神を奉ずる秦系住民の属性を介した言霊としての「陶」に因んだものと考えておく分には問題ないでしょう。

 『宮城懸神社名鑑(宮城県神社庁)』においてはばっさり否定された当該八幡神社の由緒でありますが、支離滅裂に羅列された内容の裏事情を個別に検証すればあながち捨てたものでもなさそうです。
 陸奥國府が置かれる以前、以後、中世の多賀國府時代、南北朝時代、戦国時代、そして近世以降、陸奥國の中心たる多賀城周辺、いわゆる宮城府中の争奪戦は、実にめまぐるしいものがありました。長く厚みのある時間の層の中で、当地を管掌する人々も度々入れ替わっていたわけで、鎮守の神に対する解釈も幾度か変質していたことでしょう。
 信ずるに足らないとされてはおりますが、泥八幡の前身として名の挙がる「松島八幡」は、『類聚国史』に舒明天皇三(631)年七月の勧請とあり、『塩松勝譜』においては松島の神祠仏閣中最も古きものと紹介されております。
 前者『類聚国史』については、史料として賛否の分かれるところではありますが、何より舒明天皇三年は発祥の宇佐八幡の初見よりも早く、それ故に信ずるに足らないとされます。
 後者『塩松勝譜』によれば、この社は松島の八幡崎に置かれ、寛永年間に現在地、すなわち五大堂の橋の間に遷されたようで、一方で推古帝25年に勅によって松島に置かれ、多賀城時代の坂上田村麻呂によって八幡村―現:多賀城市八幡―に遷された旨の説があることも併記しております。
 はたして、これらは脈絡のない伝説でしょうか。
 思うに、「八幡」という言霊にこだわってしまうから信ずるに足らないのであって、その前身となる地主神の話が八幡社の由緒に争奪されたと考えるならば、そこそこ信ずる価値もあるのではないでしょうか。
 つまり、松島最古の神祀りであるということはおそらく本来の姿は「松島明神」か「葉山権現」のことであって、それが多賀城時代の田村麻呂によって八幡(やはた)に持ち込まれたのではないのでしょうか。
 少なくとも、陸奥國分寺の南大門の真正面には「松島明神」を勧請したとされる「紫明神」が「椌木明神」という名で祀られておりました。
 また、鹽竈神社―多賀城?―の四方の鎮めの神とされる東宮・西宮―志波彦?―・南宮・北宮にも、各々間接直接に紫明神―松島明神―に通ずるコンテンツ(?)が散りばめられております。
 ともあれ、泥八幡の由緒の混乱は、八幡の民の氏神と田村麻呂によって松島から勧請されたなんらかの神が、貞観津波などの被災を機に合祀されるなどして生じたものなのではないのでしょうか。


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松島八幡

仙台平野の五世紀:その1

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 五世紀頃に朝鮮半島から持ち込まれたのであろう「須恵器(すえき)―陶(すえ)器―」が、それまでのヤマトで生産されていた「土師器(はじき)」と決定的に違うのは、「窖窯(あながま)」を用いることです。窖窯とは、斜面にトンネル状の登り窯を造ったものです。
 土師器は野焼き、すなわち酸素が十分に供給される地表で焼き上げられるわけですが、須恵器は地下ないし半地下で酸素の供給が不足する閉ざされた窖窯で焼き上げられます。この方法だと地表よりもかなり高い温度で燃焼が進み、窯内部の酸素が不足することによって燃料からは二酸化炭素ではなく一酸化炭素が発生し、それが原料の粘土に含まれる酸化物をいい具合に争奪してくれて、より強度を高めてくれるらしいのです。

 『仙台市史』によれば、大王墓が集中する大阪平野南部の「陶邑(すえむら)古窯群」と呼ばれる大規模な須恵器生産地は、それを必要とした畿内政権のもとに組織されたものと考えられているのだそうです。

 余談ながら、このあたり極めて基礎的な部分で私の頭の中に葛藤があります。
 陶邑の地名は、はたして陶器―須恵器―の生産拠点であったが故にそう呼ばれるようになったのか、それとも逆に、陶邑が主生産地であったがために新技術による土器が地名を冠して陶器―須恵器―と呼ばれるようになったのか――。
 鶏が先か卵が先かみたいな葛藤ですが、これが案外重要で、解釈によっては編年の基準に影響を与えかねない部分となります。
 以前は単純に前者、すなわち、陶器―須恵器―の生産拠点であったが故に地名も陶邑になったものと捉えて疑問にすら思っていなかったのですが、ふとそれが矛盾をはらむ解釈であることに気づいたのです。
陶器の技術が持ち込まれたのは五世紀とされているわけですが、陶(すえ)を通じて辛島氏と回路があったと目される八幡信仰の仕掛人、「大神比義(おおがのひぎ)」の祖たる「大田田根子」は、『日本書紀』によれば人皇10代「祟神天皇」によって“陶邑”から招かれたとされておりました。
 問題はそこです。
 祟神天皇は一般的に四世紀初期の大王と考えられております。三世紀にまで遡るとする説すらあります。このあたりの年代設定は、間接的に邪馬台国論争にも影響するのでややバイアスがかかりかねないデリケートな部分でもありますが、少なくとも祟神天皇が五世紀以降の大王ということはまずあり得ないでしょう。
 仮に大田田根子の登場譚における陶邑が八世紀の『日本書紀』編纂時点の地名を用いただけなのであろうと考えてみたにしても、大田田根子の母の「活玉依媛(いくたまよりびめ)」が「陶津耳(すえつみみ)」の女(むすめ)であったということ、すなわち祟神天皇の時代に既に“陶”を名乗る一族が存在していたという部分については未解決のまま残ってしまいます。
 したがって、須恵器がヤマトに持ち込まれた年代も大田田根子の登場譚も信ずるならば、陶邑(すえむら)の地名は須恵器に因むものではない、と言っておくしかなくなります。
しかしどうなのでしょう。
 思うに、創作とまでは言わずとも、大田田根子登場譚のどこかに五世紀以降の情報の混乱、ないし後付の要素があるということなのではないのでしょうか。

 さて、件の陶邑窯は古墳時代を通じて列島の須恵器生産の中心の位置を占め続けていたようですが、その生産地はやがて地方へと広がっていったようです。
 しかし、関東や東北地方の集落から出土した古墳時代の須恵器の量はさして多くはないようで、『仙台市史』は、「(両地方において)須恵器生産が定着するのはかなり遅れてからであった」、としております。
 一方で同市史は、「そのようななかで、仙台市内では、全国的にみても古い時期の窯跡が見つかっている」、とも語ります。
「大蓮寺(だいれんじ)窯跡―宮城野区東仙台六丁目―」や「金山(かなやま)窯跡―太白区西多賀一丁目―」などがそれのようです。
 仙台市のHPによれば、大蓮寺窯跡は、古墳時代中期中頃の窯跡、飛鳥時代末から奈良時代前半の瓦・須恵器の窯跡、奈良・平安時代の窯跡の三時期に分けられるそうですが、そのうちの最初期、古墳時代中期中頃―五世紀中頃―のそれは、現時点における東北地方最古の須恵器窯跡になるようです。
 ただし、出土する器種からみてこれらの窯は古墳の築造に伴い古墳で使われる道具を作ることが主な目的であったと思われますから、操業期間は短く、一時的な生産で終わってしまったものとも考えられるようです。

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 興味深いのは『仙台市史』の次の考察です。

―引用―
~仙台平野の集落遺跡からは、同時期の土師器と同じ形で、同じ作り方で作られ、焼き方は須恵器と同じ土器が、数ヵ所の遺跡で見つかっている。このことは、須恵器生産に際して、土師器を作っていた人びとが動員された場合があったことを示している。

 古墳時代中期とあらばまだヤマトの直接支配が及んでいたわけでもないでしょうし、基本的には先住の土師器職人が新参の須恵器職人から窖窯の技術を会得してそれが拡散したのでしょう。
 旧技術の痕跡がさしたる段階を経ないままに新技術の痕跡に塗り替わっている場合、つい、先住民が駆逐されて新興集団に入れ替わってしまったかのようにも見えてしまいますが、必ずしもそうではないことを示す例かと思います。同一土民であっても、より優れた手法を知り得たならばそれに切り替わっていくのが自然の摂理と言えるでしょう。土師器職人らは陶(すえ)膳食わぬは男の土師(はじ)とばかりに積極的に新技術を吸収していったのだと思います。

 仙台平野では、四世紀末頃、すなわち古墳時代の前期に「遠見塚(とおみづか)古墳」や「雷神山古墳」といった東北最大級の前方後円墳が築造されたわけですが、それらの動きは五世紀前半に途絶したと考えられます。
 その途絶期を経て、古墳時代の後期、すなわち五世紀の中ごろからは東北地方南部全般にあらたな古墳築造の動きが現れます。
 仙台平野におけるそのムーブメントでは、前期のような大型の前方後円墳はみられず、それまで古墳の築造がみられなかった広瀬川の南側において、前方部が未発達ないし帆立貝形など、河内の大王墓周囲の陪塚(ばいちょう)などにみられるような一段階格式の低い形での古墳の築造が顕著となってきます。
 『仙台市史』は、「五世紀前半の途絶期を挟み、前期とは異なる場所での古墳の築造がみられることは、以前とは異なる首長層が台頭してきたか、あるいは、首長層と畿内政権との関係が、前代とは異なるものとなった可能性を示している」と分析しております。
 このあたり、私は、仙台平野の新しい首長層としてオホ氏が進出してきたものと考えております。

仙台平野の五世紀:その2

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 五世紀後半から六世紀にかけての仙台平野において、とりわけ広瀬川の南側で築造された古墳は、仙台市太白区大野田(おおのだ)周辺や、西多賀から大年寺山の麓にかけてのほぼ旧国道286号沿いに集中しております。
 現在、仙台市太白区の「地底の森ミュージアム」では「大野田・西多賀あたりの古墳」という企画展を開催しておりますが、まさにそれらの対象古墳です。再来週の日曜日―平成27年6月21日―までの企画のようなので、興味のある方は足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

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地底の森ミュージアム

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 さて、いわゆる西多賀あたりのそれらは往古の東街道であろうと思われますが、何故か活断層「長町利府線」とも重なり合います。その理由については以前私なりに推測しておきましたので割愛します。
 一方、「大野田(おおのだ)」の地名は、「王ノ壇(おうのだん)遺跡」の「王ノ壇」に因むと考えられておりますが、この地名は私が当地とオホ氏との関わりを勘繰る理由の一つでもあります。
 王ノ壇遺跡というと、どうしても名取郡の地頭北条氏にかかわるのであろう中世遺跡のイメージが先行します。
 中世遺跡は、北条氏の政所(まんどころ)と思しき屋敷を中心とした館跡と考えられます。
 『仙台市史』によれば、「少なくとも西辺を南北210m以上の全体区画溝で区画し、さらにその中を領主の屋敷を中心にいくつかの機能ごとに溝で区画されている」とのことで、「この中心区画の南側には名取川に注ぐと思われる水路に接し、物資の荷揚げ・集積場をもつと考えられる区画がある。さらに領主の館の北側には寺院の可能性のある区画が並ぶ」のだそうです。
 全体区画の外側には、隣接して浄土庭園を併設していたと思しき宗教施設や、多賀國府に通じていたのであろう奥大道と思しき幹線道路の遺構なども見つかっております。
 なにしろ北条氏が当地に館を構えたのは鎌倉政権発足後の話であるので、それ自体は六世紀前後の古墳群と直接関係するものではありませんが、私が注目するのは、浄土庭園を併設していたと思しき宗教施設の遺構です。
 ここからは、火葬されていない頭骨や、火葬骨を埋めた幅1m前後、長さ約20mの溝状の土坑、と、その上に阿弥陀堂と思しき仏堂、そしてそれと向き合う池らしきものがあったと推定されておりますが、重視すべきは、その施設が古墳の東半分を削り整備された庭園遺構であることです―※『仙台市史』には「西半を削り」とあるが誤りと思われる―。
 半分を削られていた古墳は「王ノ壇古墳」で、これが五世紀末から六世紀半ば頃のものと考えられております。何を隠そう、私はこの古墳こそが古くから「王ノ壇」と呼ばれていたものと考えます。

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 また、「奥大道」と目される幹線道の西側には、大野田古墳群の主墳と考えられる「春日社古墳」があります。
 この古墳の墳丘と周墓からは、形象埴輪、馬形埴輪、朝顔形埴輪、円筒埴輪の破片等が出土し、また、墳丘の頂部から見つかった二基の埋葬施設のうち、第二主体部南側から木製枠に動物の革を張り刺繍糸と漆で彩色された革盾が出土しました。
 さらに鉄矛一本と矢の先につけられる鉄鏃が30本出土しているようです。
 仙台市が設置している現地の説明板には、「出土した遺物から、5世紀後半から6世紀初頭に築造された古墳と考えられています」とありますが、「地底の森ミュージアム」で開催された企画展「大野田・西多賀あたりの古墳」における説明板やレジュメには「古墳時代中期(5世紀前半)と考えられています」とありました。
 ともあれ、周溝の内径32m外径47mは、円墳としては仙台市内最大のものであり、同時代の当地の首長の墳墓とみて間違いないことでしょう。

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 ちなみに、私の手元には、平成二十(2008)年七月十九日付河北新報朝刊の「砂押古墳 仙台最大直径25メートル円墳」という見出しの切り抜き記事があり、そこには「これまで市内最大だった春日社古墳(太白区、直径二十一メートル)を上回る」と記されてあるのですが、その後どういう顛末を経て未だに「春日社古墳」が最大とされているのかはわかりません。
 いずれ、この春日社古墳で私が注目するのは、その名にあるとおり、この古墳の上に春日神社が建っていたことです。
 もちろん春日神社は古墳の築造からだいぶ後世に建てられたものと考えるのが穏当でしょう。
 少なくとも、現在地に移転した春日神社の石碑に刻まれた由緒には、「古老の口碑により創建は永正二年中京より来られし藤原重保が春日大社を尊崇せられ勧請すと傳ふ」とあり、その勧請は永正二(1505)年であることがわかります。
 しかし、仮に後世であっても、この古墳の上に建てるべき祠の神は春日大社から勧請すべきと考えられたこと自体を重視するのです。
 このことにより、私は当該古墳群の被葬者が「春日」を代名詞にする「中ツ臣」氏族、すなわちワニ系氏族かオホ系氏族と考えました。

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春日神社
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 何故この社の主祭神が「天児屋根(あめのこやね)命」であるのに、その裔族である藤原氏と考えなかったのかというと、藤原氏が仙台平野において勢力をふるい始めるのは八世紀以降に当地が律令に組み込まれてからと考えているからです。おそらく「天児屋根命」は「春日神社」という社名からの後付の祭神ではないでしょうか。
 そもそも「春日大社」は、藤原氏の氏神である前に、鹿島大神、すなわち常陸―茨城県―のオホ系氏族の氏神を勧請した社であることを忘れるわけにはいきません。

仙台平野の五世紀:その3―奪われた常陸オホ氏の経歴―

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 陸奥國―福島県から宮城県―の太平洋沿岸部には、鹿島御児神など38社の鹿島大神の苗裔神が広く分布しております。
 すなわちオホ系氏族―神八井耳(かむやいみみ)命系譜―が当地へ進出していたであろうことは間違いありません。
 「思(しだ?)の國造―陸奥國志太郡:現大崎市付近か?―」や「伊久(いく)の國造―陸奥國伊具郡:現宮城県伊具郡か?―」といった、『國造本紀』における宮城県域と思しき國の國造が「天湯津彦(あめのゆつひこ)命」系譜であることとの整合性についてはまだ仮説立て出来ておりませんが、事実として宮城県沿岸部に鹿島の苗裔神が点在している事の意味は小さくありません。
 鹿島の苗裔神でありますから、当然鹿島神宮がある常陸(ひたち)國―茨城県―から分かれて土着した一派であるのでしょうが、なにしろ『常陸國風土記』における常陸のオホ系氏族―建借間(たけかしま)命や黒坂命など―の活躍は華やかでありました。
 宗家とまでは言いませんが、少なくとも八世紀以降の概念の中で、常陸(ひたち)のそれがかなりの有力な系統と考えられていたものと私はみております。
 その理由は、以前拙記事『5世紀のオホ氏』にて触れたとおりですが、主に鹿島神宮に関係する次の二点に集約されます。

・本来は「建借間命―那珂國造の初祖:オホ氏と同祖―」が奉斎していたと思われる「鹿島大神―香島の神―」が、辺境としては異常に格の高い扱いである

・後世の藤原氏が鹿島大神を自らの祖神春日大神として利用している

 あらゆる策を弄して人臣最高の地位にまで登り詰めた藤原氏が、辺境の鹿島神宮を自らの氏神につなげた事実は看過しがたいものがあります。
 七世紀、新興勢力の中臣(なかとみ)氏―藤原氏―は、事実上天皇であったのではないかと見まがうまでに隆盛を極めていた蘇我氏を無力化し、その蘇我氏になりかわり天皇の外戚筆頭氏族と化していったわけですが、その一連の企ての中で、自らの正当性を高めるために、かつての直属の上位氏族であった中ツ臣オホ氏の経歴を、常陸の鹿島大神ごとまるごと自らのものに取り込んだようです。
 藤原氏が頭角を現し始めた七世紀は『常陸國風土記』の編纂された頃でもありますから、風土記に語られるようなオホ氏の武勇伝はその時代既に昔ばなしであって、その威光も既に過去の遺物と化しつつあったことでしょう。
 しかし藤原氏は、出雲平定神としての鹿島大神―武甕槌(たけみかづち)神―像を創作し、また、『大鏡』の示唆から、始祖「中臣鎌足(なかとみのかまたり)―藤原鎌足―」の出身地を常陸國であるかの如く世に認知させようとしていたフシすらあります。
 そのおかげでオホ氏やワニ氏の代名詞でもあった「中ツ臣(なかつおみ)―神と天皇の間をとりもつ存在―」という“職掌”までもが「中臣(なかとみ)」の氏族名と混乱させられてしまうわけですが、それはつまり1300年も前に藤原氏が意図したところに現代の私たちまでまんまと嵌ってしまっているということなのかもしれません。
 始祖の鎌足が常陸國の人であったというのはおそらく偽りでしょうし、すべては常陸のオホ氏の経歴を鹿島大神の権威ごと自家のものに組み入れるための詭弁と考えられます。
 逆に言えば、自らの経歴として争奪したくなるほどのブランド力が常陸のオホ系氏族に内在していたものと私は見るのです。

 オホ系氏族が常陸に進出した時期は、『常陸國風土記』を信ずるならば、人皇10代祟神天皇の御代、「那珂(なか)の國造」の初祖となる「建借間(たけかしま)命」が遣わされたことに始まります。
 この「那珂の國造」は『國造本紀』における「仲の國造」でしょうから、「建借馬(たけかしま)命」が具体的に國造に定められたのは「志賀高穴穂朝」の御代であったことになります。
 志賀高穴穂朝は一般に13代成務天皇、あるいは12代景行天皇、あるいは11代垂仁天皇に該当するとされますので、いわゆるヤマトタケルの時代、年代的には四世紀前半といったところでしょうか。
 ちなみに、オホ系氏族のものと思われる「大生古墳群――茨城県潮来市―」は、現地の標柱や茨城県教育委員会のHPによれば古墳時代中期、すなわち五世紀前半頃のもののようです。
 一方、神道考古学者の大場盤雄さんなどは、六世紀中期から七世紀後半のもの、すなわち古墳時代後期と推定していたようです―大和岩雄さん著『日本古代試論(大和書房)』引用の『板野郡史』の記述より―。
 ただしこれは茨城県教育委員会の見解よりも10年ほど古い見解なので、さしあたり教育委員会を信じておくべきでしょうか。

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大生神社
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 なにしろ古墳時代中期と後期では最長で200年近い時間の差があります。ある人物が進出した時期とその人物が死して葬られた古墳の時期には当然ある程度の差異が生じるにしても、古墳の年代の推定同士がこれだけ違うとさすがに迷います。
 もし、大生古墳群が六世紀中期から七世紀のものであるならば、それより早い時代に推定されている仙台の大野田古墳群は私の憶測とは裏腹にオホ氏のものではない可能性が高まります。
 もちろん、そういう方向性でも考えておくことは大切ですが、さすがに七世紀後半まで下ることはないでしょう。七世紀後半であれば和銅三(710)年の勅を承けたであろう『常陸國風土記』の編纂時期ともさほど変わりません。その割に、同風土記におけるオホ系氏族の活躍は既に神話じみた伝説のようであります。
 例えば太田亮さんは『日本古代史新研究(磯部甲陽堂)』の中で、「此の二氏―物部と多―が常陸で活動した事、並に多氏の東夷征伐の事は、その風土記に伝えられて居るが、記紀には何等の傳説を残して居ない、これは二氏のそれが早くに忘れられた為であつて、傳説の残つている居るのよりは古かつたのではないはと思ふ」と語っております。
 また、『常陸國風土記 全訳注(講談社)』の秋本吉徳さんは、『常陸國風土記』の「信太(しだ)の郡(こほり)」の記事の古老の語りの中で「普都(ふつ)大神」、すなわち下総國―千葉県―「香取神宮」の神が現れることに着目し、「ここに言う古老がいかなる者かは判然としないが、その記事内容によれば、おそらく物部氏ゆかりの者と思われる」と語っております。

 鹿島の神と香取の神はよくセットで取り上げられますが、本来は前者がオホ氏の祀る神で、後者は物部氏の祀る神であったと思われます。その両者が何故同一とまで目されるようになったのでしょうか。最終的には藤原氏によるところが大きいのだろうとは思いますが、それ以前にもなんらかの関わりがあったものとみられます。もちろん両者の信仰圏の地理的な重複もさることながら、『先代旧事本紀[現代語訳](批評社)』を監修した安本美典さん、あるいは訳者の志村裕子さんなどは、『國造本紀』の注釈において次のように語っております。

―引用:『先代旧事本紀[現代語訳](批評社)』―
 鹿島神社は常陸と古代東北の磐城から陸前にかけての太平洋側に分布する。『神武紀』では皇子の神八井耳命は石城(磐城)・仲(那珂)・長狭の国造などの祖とあり、太氏の先祖とする。後裔の建借馬の命の系譜の人々が、当地方の鹿島神社を奉斎したものとみられる。さらに本書巻五からは、経津主の神を祀る香取神社を奉斎した物部氏が、鹿島の神と関わっていく様子が理解される(巻五物部十二・十三世参照)。その後は物部氏の衰退とともに中臣氏に委ねられた。巻一注87・89参照。

 何やら『先代旧事本紀』からは、オホ系氏族の鹿島神祭祀に物部氏の関わる様子が読み解けるようです。物部第十二・十三世の記事を読むならば、その時期は人皇24代仁賢天皇から26代継体天皇の頃、下っても29代欽明天皇の頃ということになるのでしょうか。
 これを宝賀寿男さんの『巨大古墳と古代王統譜(青垣出版)』所載の「上古代天皇の推定治世時期」の表に照らすならば、仁賢天皇の推定元年は西暦493年、欽明天皇のそれは同540年となります。
 そういったことを鑑みるならば、大生古墳群の築造年代は、やはり現地の標柱が記すところの古墳時代中期―五世紀前半―に妥当性があるように思います。

仙台平野の五世紀:その4―鹿島苗裔神の底力―

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 『日本三代実録』には、陸奥の苗裔神側が本家鹿島神宮から奉幣の使いが向けられた際、「旧例にない」として拒絶し、陸奥國の行政と結託して関を閉鎖してまで本家を追い返した旨が記録されております。※拙記事 『悩める鹿島神――御子たちの反抗期――』参照

 三代実録の貞観八(866)年正月の鹿島神宮の宮司の言上によると、鹿島神宮は延暦以前―以往―、大神の封物を割いて苗裔神に奉幣しておりましたが、延暦から(782~)弘仁の間(~822)に途絶え、諸神たちが祟りを為して物怪が頻繁にあらわれる事態になっていたようです。
 そこで嘉祥元(848)年、本家鹿島神宮側は、当国―常陸國?―の移状を請い、幣(みてぐら)を奉じて陸奥國に赴きました。
 ところが結果は冒頭に触れたとおり、“門前払い”であったのです。
 『延喜式神名帳』において、伊勢・香取と並んで“神宮”と記載されるほどの高い権威を誇る鹿島神宮神職団が、格下、ないし、せいぜい“分霊(わけみたま)”にすぎない苗裔神の鳥居をくぐることも、それどころか陸奥國との行政の関を通ることすらも叶わなかったのです。
 一体何があったのでしょうか。苗裔神側と陸奥國の行政は、一体何をそこまで怒っていたのでしょうか。
 その理由について三代実録は特に記しておりませんが、『新抄格勅符抄』などの史料に天平神護年間以降、鹿島神宮と春日大社が密接になっていく様が記されていることに注目した大和岩雄さんが、次のような事情を推察しております。

―引用:大和岩雄さん著『日本古代試論(大和書房)』―
延暦年間には春日祭料として鹿島、香取から神封物を毎年納送しており、春日神封も常陸にある。しかし陸奥と常陸の鹿島社の関係は、常陸の鹿島社が春日社と密接になるのに反比例して悪くなっている。延暦以降陸奥の鹿島社への神封物が絶えたとあるのは、春日社へ封物が行ってしまうために陸奥の三十八の分社に奉納されなくなってしまったのであろう。そのことへの不満が「絶而不奉、田是諸神爲祟」なのである。漸く嘉祥元年になって奉幣の便を向けたが、いまさら変質した春日風鹿島神宮の神官から奉幣を受けたくないことから「称無旧例不聴入関」となったのであろう。

 大和岩雄さんは、「この事実は常陸の鹿島神宮の奉斎がオホ氏系から中臣氏系に変ったことに対して、古くからの鹿島神を奉斎していた陸奥の人々の抗議である」と語っております。
 たびたび触れている『春日権現験記絵』によれば、鹿島神たる武甕槌(たけみかづち)の命は、はじめ陸奥國鹽竈の浦にあまくだった後に常陸國跡の社より鹿島に遷り、終に神護景雲元(768)年、法相擁護のため御笠山に遷ったのだといいます。
 つまり苗裔神が分布する陸奥の地脈は、そもそも春日大社の縁起上も侮れないものであるわけですが、ふと思うに、もしかしたらこれは祟る陸奥の苗裔神におもねって付け加えられた縁起なのでしょうか・・・。
 いずれ、関に入ることすら拒まれた本家側は、藤原氏を背景にした国家的な権威で威圧するでもなく、すごすごと引き下がり、関の外の川辺で奉幣して、そこに幣物を祓い捨てて帰っていきました。なんともいじらしいものです。
 結局、その後も鹿島神に祟られたのは追い返した陸奥國側ではなく、鹿島神宮側でありました。
 『日本三代実録』には、鹿島の宮司がおおよそ次のように言上したことが記されております。

 「その後、神の祟りがやみません。境内は旱(ひでり)や疫病に見舞われております。願わくば、陸奥國に関の出入りを承認するよう下知を出していただきたいのです。幣の料には鹿島大神の封物を用いて、苗裔神諸社に奉幣して神の怒りを解きたいのです」

 大和岩雄さんは、「このことは藤原、中臣用に変質した常陸の鹿島社に対する 本来の信仰を持つオホ氏系鹿島社の祟りである。藤原、中臣用の鹿島神宮にはまったく神威がなく、陸奥の鹿島御子神社の神威をたよるしかない春日風鹿島神の弱い立場をこの記事は示している」としております。
 なるほど全くそのとおりで、この一連の顛末は、オホ氏由来の鹿島神祭祀の本質が、この時代にあっては陸奥國の苗裔神側にあったことを物語っていると言っていいでしょう。
 ちなみに、宮司によるこの言上は、鹿島神宮の式年遷宮の用材の取得方法を変更したい旨を嘆願するための前置きでもありました。
 つまり、旧来、材に充てる栗樹などは、伝統的に常陸國の那珂郡の山から伐採したものを用いていたらしいのですが、なにしろその山は宮を去ること二百余里と便が悪いようなのです。
 かと言って、下手な用材で間に合わせようものなら更に祟られてしまう懸念があるからでしょう、なんとか宮の閑地に植林させてほしいと嘆願したのでありました。
 おそらく、実際には那珂郡―旧那珂國―の領主が用材の供出を拒んでいたのでしょう。
 なにしろ、旧那珂國の國造の初祖は「建借間(たけかしま)命」、すなわちオホ系氏族でありました。
 これらの顛末は、政治力が衰えても、伝統が重んじられる祭祀の分野においては、尚もオホ氏に分があったことを示しております。たとえ便が悪くてもオホ系氏族の本拠地から用材を供出しなければならなかった事情からみて、鹿島神宮の本質がやはりオホ氏の祭祀にあったこともあらためて認識させられます。
 また、苗裔神側が既に多賀城時代に入って久しい九世紀に至っても尚陸奥國の行政を動かすことが出来たことからすれば、おそらくは陸奥に分かれたオホ氏も相当な権力を有していたはずで、同族内においても常陸の宗家に比肩するような立ち位置にあったのではないでしょうか。
 その中で、鹿島神宮への抵抗劇の中心はなんといっても苗裔神38社のうち11社が鎮座する磐城郡のそれでしょう。おそらく彼らは、「石城(いわき)國造―磐城國造―」の裔であるのでしょう。なにしろ常陸國との境界でもあり、関の役人を直接的に操りやすい部分はあったものと思います。

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 しかし、ここで忘れかけていた私の脳内の混乱が蘇ります。
 それは、石城國造の系譜に関する混乱です。
 何故なら、私は石城國造について宝賀寿男さんの説に便乗して丈部(はせつかべ)系の氏族であろうと考えているからです。
 宝賀さんの説では、丈部氏は陸奥安倍氏の祖系と思しき一族であるわけですが、鹿島神とその苗裔神に関するこの一連の顛末からは、石城國造を『古事記』が伝えるとおりオホ系氏族であったと考えておく方が至極妥当であるように思えるのです。

仙台平野の五世紀:その5―石城國造家とは―

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 「石城(いわき)國造家」について、私は宝賀寿男さんの説に便乗して丈部(はせつかべ)氏であろうとしてきました。陸奥安倍氏や鹽竈神奉斎氏族について考えていく上で、最も辻褄の合わせやすい説がそれであったからです。
 しかし、あらためて振り返ってみると、宝賀さんが何故そのような結論に至ったのかについてはほとんど検証しておりませんでした。特段の問題もなかったのでそのまま鵜呑みにしていたのです。
 少なくとも、私が参考にした氏の論稿『塩の神様とその源流』を読む限りでは、どのような史料をもとにどのような考察を経てそのような結論に至ったのかについてまでは示されておりません。おそらく、他の稿の中で既にそのことについて論じていて、それをいちいち反芻していたら膨大な字数になり文章自体も煩雑になるので割愛されたのでしょう。
 このあたりの葛藤は、以前拙記事『カブト塚』の中でも語っておりますが、ここであらためて触れておきたいと思います。
 そもそも石城國造の祖については、『古事記』がはっきりと「神八井耳(かむやいみみ)命―オホ氏の祖―」である旨を明記しております。
 したがってそれを素直に信じておいても良さそうなものですが、紛らわしいことに、『先代旧事本紀』の『國造本紀』には「建許侶(たけころ)命」とあります。
 その一方で、『続日本紀』の神護景雲三(769)年三月の条に、陸奥大國造「道嶋宿禰嶋足(みちしまのすくねしまたり)」の申請によって、磐城(いわき)郡の人「丈部山際」に「於保(おほ)磐城臣」の姓が与えられた記事があります。
 これによって、石城國造の裔と思われる「磐城臣」が丈部氏から輩出されていた例のあることを知ります。石城国造家を丈部氏であるとする宝賀さんの見解はこのあたりに端を発しているのでしょうか。
 この「於保(おほ)磐城臣」に関連して、『姓氏家系大辞典(角川書店)』の太田亮さんは、同じ『続日本紀』の延暦十年の条に「大部善理(おほべのぜんり)は陸奥國磐城郡の人也」とあること挙げ、磐城臣を賜った「丈部(はせつかべ)」は「大部(おおべ)」の誤写である、としております。
 しかし、宝賀寿男さんの承認下にあるHPの管理人樹童さんは、この「於保」はオホ氏を指すものではなく「大」の意、すなわち磐城臣の宗家を指すものではないか、と考えているようです。
 このあたり、私論的には太田さんが正解であって欲しいという本音もあります。
 何故なら、仮にその丈部が大部の誤写から変化した氏族名であったならば、石城國造家をオホ氏の同系とする『古事記』の記述に一応の辻褄を合わせられそうだからです。
 その場合、建許侶(たけころ)命との整合性にこそ課題は残るものの、私の中での最大の葛藤は氷解します。
 いずれ、とりあえず私は先の事情から石城國造を丈部系氏族なのであろうと仮定しているわけですが、『日本三代実録』が記す鹿島苗裔神の抵抗劇をみる限り、当地においては9世紀に至っても尚オホ系氏族に底力があったことは否定できません。
 少なくとも、磐城郡を支配する磐城臣と鹿島苗裔神を奉斎するオホ系氏族との間に強固な協力関係が成立していなければ、国境の関まで閉ざした官民一体的な抵抗劇はあり得なかったはずです。
 ところで、そもそも鹿島神苗裔神を奉斎していたのは、はたして本当にオホ氏であったのでしょうか?
 実は、少し見かたを変えると、丈部氏が磐城郡周辺の鹿島苗裔神を奉斎していた氏族と考えてみても、あながち矛盾はなさそうなのです。
 何故なら、苗裔神はあくまで“御子神”であり、鹿島神そのものではない、とも考えられるからです。
 例えば、『鹽竈神社(学生社)』の押木耿介さんは、『常陸國風土記』にあらわれた社がいずれも「神子社」を名乗っていることへの説明として、本社の信仰が東へ移るとともに蕃人の神を「直に香島、香取の神の子分、子方と認める形に於て成立した」とする折口信夫の言葉―『風土記の古代生活』―を借用しております。
 それが正しければ、鹿島苗裔神の本質は鹿島神ではなく、陸奥の先住民の奉斎神であったということになります。
 その先住民の代表的な一系こそが丈部氏であったのではないか、とも考えられそうです。
 結局、先の「大(おほ)部」の発想とさして変わらないところに落ち着いてしまうわけですが、そのあたりに真実が埋もれている故なのかもしれません。

 ただし、その前提で論を進めるとワニ氏や「丸子(わにこ・まるこ・まりこ)氏」の素性との整合性にも影響を及ぼします。
 何故なら、丈部氏は一般に「阿倍臣」の部民とされているわけですが、私は、その実を阿部臣の同祖氏族ではないのか、と考えており、しかもその阿倍臣については、史料上いつの間にかフェードアウトした「和珥(わに)臣」の本宗家そのものではないか、と勘繰っているからです。※拙記事『孝元裔族と孝昭裔族の属性の混乱』参照
 また、先に触れた「道嶋宿禰嶋足」などの「牡鹿(おしか)連―陸奥大國造家―」や、「大伴安積連」などいわば「陸奥大伴氏」を輩出した丸子氏について、私はこれこそがオホ氏の裔であろうと考えておきました。※拙記事『陸奥国丸子氏の素性に関する一考察』参照
 関連して牡鹿(おしか)郡の延喜式名神大鹿島御児神社―宮城県石巻市―についてもこの一族が奉斎していた神と考えました。
 もしかしたら矛盾を大きく広げてしまっているだけなのかもしれませんが、一方で散らばって手つかずになっていた混乱が一つにつながりかけている感覚がないでもありません。
 すなわち、かつて私が想像したオホ氏とワニ氏の縁戚関係にもつながっていきそうに思えるのです。
 範囲があまりにも広がりすぎるので、これら相互の整合性については、後に稿をあらためて論立てを試みたいと思いますが、現段階で私が想像していることの結論だけ述べておくならば、オホ氏とワニ氏―阿倍氏―は10代祟神天皇以前の半出雲系祭祀天皇とその皇妃輩出氏族―あるいは女系の祭祀天皇に男精を供給した氏族―で、オホ氏の母系がワニ氏であったのではないか、そして丈部氏と丸子氏は彼らの子孫から分かれていった傍系氏族であったのではないか、ということです。

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夏井諏訪神社―福島県田村郡小野町夏井―の水芭蕉
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 では、そろそろ話を仙台平野の広瀬川以南に戻します。

仙台平野の五世紀:その6―カブト塚古墳―

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 先に、「大野田古墳群―仙台市太白区大野田―」の被葬者を、私はオホ氏であろうと考えておきました。
 最大の理由は、陸奥國の太平洋沿岸に鹿島の苗裔神が分布していることにありました。
 ところが悩ましいことに、『日本三代実録』や『延喜式神名帳』などの史料上、当地、すなわち古の「名取郡」に、鹿島系の社が見当たりません。
 しかも、皮肉なことに、「菊多郡―現:福島県いわき市―」から「牡鹿郡―現:宮城県石巻市―」までの太平洋沿岸各郡の中で、唯一「名取郡」にだけそれが見当たりません。
 ただ、それらの各郡はあくまで律令化が進んだ九世紀以降の行政区分の概念であり、古墳時代の仙台平野において特にその線引きはなかったことでしょう。なにしろ北隣りの宮城郡に3社、南隣りの亘理郡に2社の鹿島苗裔神の存在が確認できますし―『日本三代実録』―、亘理郡にあっては、『延喜式神名帳』にも三座が記載されております。
 つまり、郡域にとらわれず、亘理・名取・宮城の三郡をひとくくりでみるならば、5社ないし6社の鹿島苗裔神を数えるのです。十分に鹿島信仰の濃厚なエリアであったと言えるでしょう。

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 とりあえず、首長がオホ氏であったとみる仮説の傍証に、「王ノ壇」の名称と「春日社古墳」に春日社が勧請されている事実を掲げておいたわけですが、ひととおり石城國造家について語っておいたところで、もう一つ注目しておきたいものがあります。
 それは、「兜塚(かぶとづか)古墳」です。
 度々触れているとおり、仙台平野は、仙台市北東部の宮城郡利府町から南西部の名取市高舘にかけて、活断層「長町・利府線」や「大年寺(だいねんじ)山断層」によって袈裟(けさ)斬りのごとく分断されております。
 おおよそそれらの活断層を境に、西側は微高地として連なり、東側は河川の蛇行によって土砂が積み重ねられた臨海沖積平野で、古代には湿地帯が多かったものと思われます。
 そのため、縄文遺跡や古い街道は西側の微高地の際(きわ)に沿って展開し、それに沿うように築かれていった古墳も数ヶ所発見されております。
 それらの古墳は、五世紀前半に途絶した大型古墳の空白期を挟んで、五世紀後半からあらたに築造されたものであるわけですが、もしかしたら五世紀以前の遠見塚古墳を中心とした広瀬川以北の文化は、大津波に呑まれてしまったのではなかろうか、などと想像していたこともあります。
 何故なら、多賀城を壊滅させた貞観大津波の約400年前にあたる西暦430年頃にも仙台平野が大津波に呑まれたていたことが専門家によって指摘されているからです。
「産業技術総合研究所」「活断層・地震研究センター」、センター長岡村行信さんをはじめ、宍倉正展さん、澤井祐紀さん、行谷佑一さんらで結成された「海溝型地震履歴研究チーム」による2010年8月の調査より―
 したがって街道沿いの微高地に展開した古墳は、その恐怖を教訓にした築造であったのではなかろうか、などとも想像してみたのですが、遠見塚古墳を中心とした「南小泉集落遺跡」は、六世紀に入ってからもさらに拡大していたようなので、その論は捨てました。

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 それはともかく、活断層に沿って築造され続けた古墳の中で、最も東に位置するのが「兜塚古墳」であります。築造時期は大野田古墳群とほぼ同時期、すなわち五世紀後半と考えられます。
 これは、最も西に位置する「西多賀(にしたが)―仙台市太白区西多賀―」の「裏町古墳」の後に続いて築造されたと考えられるもので、いずれも帆立貝型、あるいはそれに類する古墳となっております。
 以前にも触れましたが、福島県いわき市平にも同音異字の「甲塚(かぶとづか)古墳」があります。そしてその被葬者は、「建許侶(たけころ)命」であるとされております。
 この人物は、「天照大神」と「素戔鳴(すさのを)尊」の誓約(うけひ)によって生まれたとされる神々の中の一柱「天津彦根(あまつひこね)命」の裔であるとされ、『國造本紀』においては「石城國造」の祖とされている人物でありました。
 甲塚古墳の被葬者がはたして建許侶命本人か否かはともかく、石城國造家に縁のある人物の墓であることは信じておいてよさそうに思えます。
 もしかしたら仙台平野の兜塚古墳の被葬者も、石城國造家となんらかのつながりを持つ人物であったのではないのでしょうか。
 そう考えさせられるのは、何もカブトの韻からの語呂合わせばかりが理由ではありません。先の西多賀の地名の由来となった「多賀神社」の存在も私の思考を挑発しているのです。

仙台平野の五世紀:その7―名取郡の多加(たか)神社―

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 名取郡―現在の宮城県名取市・岩沼市、仙台市南部―には、『延喜式神名帳』所載のいわゆる式内社が二座あり、そのうちの一座が「多加(たか)神社」となっております。
 この「多加神社」の論社は二つあります。
 一社は先に触れた「西多賀」の地名由来となった仙台市太白区富沢の「多賀神社」で、もう一社は名取市高柳町字下西の「多賀神社」です。
 両者ともヤマトタケルに関係する由緒が伝えられておりますが、『常陸國風土記』をみてもわかるとおり、ヤマトタケル伝説は常陸オホ氏の経歴にも少なからずシンクロします。
 タカあるいはタガと称される神社で『延喜式神名帳』に記載されている社は6社あり、そのうち半数の3社が陸奥國にあります。内訳は、今触れた名取郡の「多加神社」、その北隣り宮城郡の「多賀神社」、そして行方(なめかた)郡―現:福島県南相馬市および相馬郡飯舘村―の「多珂神社」です。
 特に行方郡のそれは、式内6社の中でも唯一の「名神大」であり、多賀神社の総本社とされる近江國の「多賀大社」が「小社」であったことを鑑みるならば多賀―多珂・多加―神の筆頭であったのかもしれません。少なくとも、延喜式制定時点での朝廷側の視点においては、多賀神奉斎氏族の中で最も奉っておきたい系統がこの地にいたのでしょう。
 多賀神系の神社については、以前、猛禽類の鷹と関連付けて稿を展開しておきましたが、行方郡の論社の、少なくとも南相馬市原町区のそれは「鷹の像」が御神体であるとも言われております。
 また、名取郡の論社においても、少なくとも仙台市太白区のそれには「大鷹宮」という別称が存在します。
 同じ「大鷹宮」と呼ばれる柴田郡の式内社「大高山神社」などは、多賀神とはやや毛色が異なるものの、最高格の「名神大」に位置づけられております。
 ただしこの社はいつの頃からか白鳥信仰の社に変質しており、名神大という格付けがはたして鷹神としての評価なのか白鳥神としての評価なのかはわかりません。
 記紀には、死後のヤマトタケルが白鳥と化す描写が記されており、それを受けて各地の伝説では白鳥にヤマトタケルの代名詞的な意味が付加されていることも多くなっております。
 『白鳥伝説(小学館)』の谷川健一さんの研究では、白鳥は「物部氏」の示唆であることが多いようですが、少なからず鹿島・香取の神を奉斎して北上したオホ氏・物部氏の姿が投影されているとみて良いのかもしれません
 このあたり、天岩戸神話に因んで猛禽類の神と密接な「忌部氏」や、場合によっては祟る鷹の伝説が付きまとう「秦氏―厳密には辛島氏―」を絡めながら精査していく必要もありそうですが、ともあれ、ここでは、行方郡の多珂神社にも名取郡の多加神社―多賀神社―にもヤマトタケル伝説が付きまとうということだけ注目しておきたいと思います。
 名取市内の多賀神社の鎮座地周辺は「皇壇原(こうだんはら)」と呼ばれておりますが、それはヤマトタケルが当地に祠を建てて病気平癒したという同社の起源譚に由来します。
 思うに、「皇壇原」の本来の訓は「おうだんはら」ではなかったのでしょうか。ふと先に触れた仙台市内の「王ノ壇―古墳―」を連想させられます。
 いみじくも―明治時代のこととは言え―仙台市内の「多賀神社」にはその「王ノ壇」の上に祀られていた「春日神社」が合祀されております。
 これらがオホ氏に関連するものかどうかはわかりませんが、「タカ(多加・多珂・多賀・高・鷹)」の地名や神社が、鹿島苗裔神とよく似たエリア、すなわち常陸國から陸奥國の沿岸部に分布していることもまた事実です。
 それらは常陸の多珂(たか)郡―多珂國―から移り住んだ開拓民の痕跡と考えられるわけですが、そもそも多珂國にはどのような人文が展開していたのでしょうか。
 『常陸國風土記』の「多珂(たか)の郡」の条には次のような記述があります。

―引用:秋本吉徳さん全訳注『常陸国風土記(講談社)』より―
 古老は伝えて言っている。―斯我(しが)の高穴穂の宮に天の下をお治めになられた天皇(成務天皇)の時代に、建御狭日(たけみさひ)命を多珂(たか)の国造(くにのみやっこ)に任命された。
~中略~
(建御狭日命という人は、これすなわち出雲臣と同族である。また、今現在多珂・石城といっている所がここにいう多珂の国である。土地の人々が語り伝えてきた言いならわしでは、「薦枕多珂(こもまくらたか)の国」という。)
~中略~
~その後、難波(なにわ)の長柄(ながら)の豊前(とよさき)の大宮に天の下をお治めになられた天皇(孝徳天皇)の時代の癸丑(みずのとうし)の年になって、多珂(たか)の国造(くにのみやっこ)石城直美夜部(いわきのあたいみやべ)と石城の評(こおり)の造部(みやっこべ)の志許赤(しこあか)たちが、惣領であった高向(たかむこ)の大夫(まえつきみ)に懇請して、(彼らの)統治する地域が(広大で)遠く隔っており、往き来するのさえ不便であるという理由で、(その所管の地を)分けて、多珂と石城の二郡を設置したのである。(その石城の郡は、今は陸奥の国の域内にある。)

 「出雲臣と同族」という記述に惹かれますが、それはともかく、これを信ずるならば、石城エリアは初め多珂國の内に含まれていて、孝徳天皇の時代、すなわち七世紀に、往来の便の悪さから二国ないし二郡に分けられたということになるようです。
 なにより、この記述からすると「多珂國造」は「石城國造」と同族であったものと思われますが、 “石城”を冠していることからすると多珂國造家の本拠は石城地区にあったものとみられます。
 もしかしたら「多珂」は石城國造一族の屋号のようなものであったのかもしれません。
 彼らは猛禽類の「鷹」をトーテムとする一族であったのかもしれませんし、あるいは、なんらかの他の意味を有する「タカ」に、「多珂」なり「多賀」と同様、同音の「鷹」も縁起物として崇敬されたのかもしれません。
 いずれにせよ、彼らにとって「タカ」は重要な言霊であったのだと思うのです。
 オホ氏と同祖系譜であろう石城國造家が、仮に想定どおり丈部氏と同族であったとするならば、もしかしたら、陸奥阿倍氏の家紋にみられる鷹の羽もこのあたりに由来するのでしょうか。
 いずれ、多珂國造に分かれた石城國造一族が、行方郡なり名取郡、そして宮城郡に進出したが故に、彼らのブランドでもある「タカ」の言霊が持ち込まれたのではなかろうか、と想像するのです。
 あるいは逆に、むしろ陸奥國側こそが「タカ」ブランドの起源の地であって、それが石城國造を通じて常陸側にもたらされたものなのかもしれません。

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     名取市高柳の多賀神社

 常陸から陸奥の「タカ」については、「多賀城」の「多賀」や「日高見(ひたかみ)國」の「高」は言うに及ばず、もしかしたら「尾張氏」の起源地とされる「葛城高尾張」の「高」や、ひょっとしたら伊勢神宮の「高宮」の「高」、「高皇産霊(たかみむすび)」の「高」にまで繋がるものなのかもしれませんが、話が広がりすぎるのでやめておきます。

仙台平野の五世紀:その8―多賀とニワタリ―

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 現在「多賀大社御分霊」をお祀りしている仙台市泉区の「二柱(ふたはしら)神社」は、明治の神仏分離令以前には「仁和多利(にわたり)大権現」を祀っていたとされ、それは「國分氏」の氏神とも言われておりました。
 神仏習合にせよ神仏分離にせよ、いわゆる方便によって神が仏に、あるいは仏が神に変質させられる際には、結び付けられる両者に少なからず何らかの共通する性格があったものと思われるわけですが、以前私は、仁和多利大権現が多賀大社の御分霊に結び付けられた理由について、おそらく社名の“二柱”に意味があるのだろう、としておきました。
 すなわち、国生みの夫婦神、「伊弉諾(いざなぎ)」・「伊弉冉(いざなみ)」の二柱を祀るとされる多賀社の属性から、さしあたりニワタリ信仰にも一対神の性格があったのだろう、と勘繰っておいたのです。
 それは、必ずしも私の勝手な想像ばかりではなく、一応はその二柱神社の宮司に投げかけた社名由来の質問への回答を踏まえたものでもありました。
 多賀大社から分霊された神社であるにも関わらず、何故「多賀神社」を名乗らなかったのか、不躾ながらも同社のHP上で質問してみたのですが、同社の宮司は懇切丁寧に返答くださりました。
 宮司は、「詳細は不明」としながらも、あくまで私見である事を前置きしたうえで、同社は多賀大社の直接分霊社であるため総本社の「多賀」の字をあてるのは恐れ多いと考えられたのではないか、また、ニワタリの「ニ」を冠に持ってきたかったのではないか、そして、そこに神様の単位である「柱」があてられたのではないか、という旨のことを語っていただきました。
 これを受けて、私は数字の「二」への着眼に少なからず自信を深めることになりました。
 鷹・白鳥の一対、二羽の鳥に「鶏」の韻が被り、そこになんらかの方便で弥勒(みろく)信仰の聖地「鶏足山(けいそくせん)」の「鶏足(けいそく)」が訓じられ「ニワタリ」の呼称が生じたのではなかろうか、と考えていた私には、少なからず追い風たり得る回答に思われたのです。
 その仮説についてはペンディングですが、ともかくもニワタリ信仰が多賀神に結び付けられた事例があったことについては事実です。
 もちろん、その一例をもってニワタリ信仰の全体を推し量ることは無謀ですが、二羽の白鳥、あるいは二羽の雀が祀られているという福島県相馬郡新地の「二羽渡(にわわたり)神社」などは、それを象徴的に示唆しているように思えております。

 何はともあれ、私は、陸奥國行方(なめかた)郡と名取郡の多賀社が、猛禽類の「鷹」と結び付けられていること、そしてそれら多賀神系の社にはおしなべてヤマトタケル伝説が伴い、ひいては「白鳥」の伝説とも隣り合っていることなどを鑑みて、少なくとも陸奥國の多賀社については鷹と白鳥の融合を象徴する意味合いが含まれていたのではないか、そして、ニワタリ信仰の原点も本来はそこにあったのではなかろうか、と考えるに至りました。
 例えば、全国各地に数多ある「白山神社」などは、「ハクサン」と呼ばれるものと、「シラヤマ」と呼ばれるものとがあって、後者は暗に被差別部落の神を指すという俗説の存在が民俗学的に指摘されているわけですが―前田速夫さん著『白の民俗学(河出書房新社)』参照―、これに類する事情が多賀神とニワタリ神の間にもあったのではないのでしょうか。
 二柱神社の宮司は、明治の世に多賀大社の御分霊を祀ることになった「仁和多利大権現」が、あえて「多賀」を冠さなかった理由について、「恐れ多いと考えられたのではないか」、としていたわけですが、“恐れ多い”という感覚の背景にはなにかやるせない事情があったのではなかろうか、と下衆に勘繰ってしまうのです。

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 それはされおき、白鳥や鷹がトーテムを指すものなのかどうかはわかりませんが、谷川健一さんの説を採用すれば白鳥は物部氏の示唆ということになります。
 その場合、鷹にはオホ氏の示唆を勘繰ってみるべきでしょう。
 オホ系氏族と思しき「石城(いわき)國造」が「多珂(たか)國造」と同族であったらしきことからすれば、十分妥当な想定と思われます。
 もちろん、白鳥がヤマトタケルの代名詞であることからすれば、それはオホ氏と被るところも大いにあるわけですが、ここはひとまず物部氏にあてはめておきます。
 何故なら、白鳥と鷹を明確に対比してみることでひとつの図式を浮き彫りにすることが出来そうだからです。
 例えば、柴田郡―宮城県柴田郡―の名神大「大高山神社」は、ヤマトタケルを祭神とする白鳥信仰の社ではありますが、「大鷹宮」という俗称からすれば、本来は鷹信仰の社であったと思われます。おそらく鷹信仰に白鳥信仰が上塗りされたのでしょう。
 つまり、先に陸奥の地に帰化していたオホ氏の色が、後発の物部氏の色に塗り替わったことを意味しているのだと思うのです。
 これは、多賀社にヤマトタケル伝説がつきまとっていることにも一脈通じるものがあると思います。
 想像をやや具体的に掘り下げるならば、白鳥に祖先の霊魂を重ね合わせる原始的な白鳥信仰の聖地たる仙台平野南部にオホ氏が進出し、それに伴いなんらかの意味を有するタカの言霊が持ち込まれ、同音の鷹への信仰が興隆したものの、後に物部氏が進出してきたことによってあらためて白鳥への信仰が第一義に復されたのではないでしょうか。

 考えようによっては、これはそのまま鹿島・香取の神にも置き換えられそうです。
 いみじくも、二柱神社の祭神は先に触れた伊弉諾(いざなぎ)神・伊弉冉(いざなみ)神のいわゆる多賀神に、武甕槌(たけみかづち)神・経津主(ふつぬし)神、すなわち鹿島・香取の両神を加えた四柱となっております。
 なにしろ先に触れたとおり、陸奥國における多賀神の分布は、鹿島・香取の苗裔神の分布とも重なります。
 鹿島神は言うまでもなくオホ氏でしょうが、この場合物部氏を示唆する香取神については、むしろ限りなくワニ氏に近い属性を想定しておいた方が自然かもしれません。
 香取神たる「経津主神」は、「石上(いそのかみ)神宮」の主祭神「布都御魂(ふつのみたま)」と同義であると考えられるわけですが、石上神宮の略史によればフツノミタマは物部氏の総氏神とされております。
 しかし、石上神宮の配祀神でもある「物部首(もののべのおびと)」の祖「市川臣命―日本書紀では市河―」は「春日臣―ワニ氏の裔族―」の一族であり、一説に霊剣「フツノミタマ」を神宝として物理的に納めた人物でもあります―『日本書紀』参照―。
 石上神宮が鎮座する布留(ふる)―奈良県天理市―の地の周辺が、大和盆地におけるワニ氏の根拠地であることを鑑みるならば、本来は物部氏というよりもむしろ春日臣、すなわちワニ氏の性格の方が強いのではなかろうか、とも思うのです。
 『矢本町史』は、「石巻桃生牡鹿地方、とりわけ矢本の地に大きな勢力をもっていたのは、大和の名族和邇(わに)氏の系統の者でなかったかと思われる」としているのですが、いみじくも、その傍証として、『延喜式神名帳』所載の牡鹿郡の式内社「鹿嶋御児神社・香取伊豆乃御子神社」の存在を挙げております。
 つまり、鹿島・香取系の神社を司祭する「中臣氏」を「和邇氏系の豪族」とする前提がそこにはあるのです。
 ここでの中臣氏を藤原鎌足の系譜と切り離して和邇氏として論じていることについてはさしあたり同調できるところではあるのですが、鹿島・香取の両神が単一氏族によって司祭されていたとみることには首肯がためらわれます。それについては、藤原氏の氏神に変質させられた後にその体になったもの、という認識が私の中にあるからです。
 しかし、ある意味で単一氏族と言い得るものなのかもしれない、という思いもなくはありません。
 何故なら、『先代旧事本紀』の巻五「天孫本紀」からは、香取の神を奉斎した物部氏が鹿島の神と関わっていく様子が理解されるようであるからです―安本美典さん監修・志村裕子さん現代語訳『先代旧事本紀[現代語訳](批評社)』―。
 これはすなわち鹿島・香取の同体神化とみることも出来ます。これを信じるなら、藤原氏が関わる以前に既に両神の異名同体化の傾向があったということでしょう。古くに常陸なり陸奥なりに進出したオホ氏の祭祀が、オホ氏自体の弱体化に伴い後発の物部氏ないしワニ氏の祭祀に取り込まれていった、ということなのかもしれません。
 このように、鷹信仰と白鳥信仰の相克、ないし融合は、オホ氏と物部氏、あるいはワニ氏の古代社会のそれを反映しているのではないのでしょうか。

 それが正しければ、陸奥大國造道嶋家を輩出した丸子氏をオホ氏の裔とみる私の仮説にも辻褄を合わせられるというものです。
 丸子氏について、私は、古くに鹿島御子神を奉斎して陸奥へと北上してきたオホ氏ではなかったか、と推定しておきました。陸奥に帰化した彼らが、中ツ臣氏族としての経歴を有するオホ氏宗家が零落した後、次代の中ツ臣氏族であるワニ氏の子部と化し、丸子(わにこ)氏を名乗ったのではないか、と考えたのです。
 牡鹿(おしか)連を輩出した丸子氏は、史料上、安積(あさか)郡―福島県郡山市周辺―にもその名を多く見られるのですが、奇しくも牡鹿・安積の両郡はニワタリ系の社寺が集中するエリアでもあるのです。
 特に牡鹿郡―宮城県石巻市周辺―に至っては、確認できる限りでニワタリ系社寺の最多集中エリアでありました。
 ちなみにニワタリ系の社寺は、管見ながら、福島・宮城の全域、及び岩手県南といった、すなわちほぼ古の陸奥國の内にしか見られません。
 それらを鑑み、私はニワタリを丸子氏がもたらした信仰と考えるに至るのです。
※拙記事『西の古四王、東のニワタリ』参照

青葉城の夜に想ふ

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 先日、夜の青葉城―仙臺城―を訪れる機会がありました。
 夜に訪れるのは初めてでしたが、藩祖伊達政宗公の騎馬像がライトアップされており、驚きました。
 地震被害からの復旧を終えた石垣がライトアップされている風景は日常的に目にしておりましたが、本丸内部の騎馬像まで照らされていたとは知りませんでした。夏休み期間限定のささやかなイベントなのでしょうか・・・。
 そういえば、付近の「八木山動物公園」については、三日間限定ながら夜の動物の様子を見られるようにする旨の記事が、先日の『河北新報』に掲載されておりました。
 その誌上で見たキリンとシマウマのライトアップ写真は実に幻想的で、おそらくその絵に魅せられた方も少なくないことでしょう。
 案の定、当日は大勢の家族連れやアベックが入口に行列を成しておりました。
 ありていに申しまして、出来れば私もこの目で観ておきとうございました。

 一方、私が訪れた青葉城は静かなものでした。

 ライトアップされた政宗公の後ろ姿などは、そこはかとなく哀愁が漂います。
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 その背中に、同じく我が仙台の偉大なる詩人「土井晩翠」作詞の名曲、『荒城の月』の情景が重なります。

 〽春高楼の花の宴 めぐる盃影さして 千代の松が枝わけいでし むかしの光今いづこ
 
 なんて素晴らしい詩でしょう。「滝廉太郎」の切ないメロディもまたいい・・・。
 芸術についてド素人の私が言うのもなんですが、いつの日かこの歌をテーマにじっくりと時間をかけて一枚の絵を描いてみたいと思うのです。
 この歌は時の移り変わりの描写が肝だろうと感じておりますが、いざその表現となると、思い浮かびません。
 結局、単純に二枚の絵が必要かもしれない、などと考えております。
 一枚は、大広間で盃を交わしながら談笑する武将たちのシルエットで、もう一枚は同じ構図ながらそこに武将の姿はなく、無造作に置かれた盃が松の枝の間をぬって差し込む月の光に照らされて影を落としている絵です。モノトーンを原則として、水墨画の技能があったならば、それで左右一双の屏風を拵えたいくらいです。

 荒城の月と言えば、30年ほど前までは、仙台駅前の「丸光百貨店」の屋上において、10時、12時、15時、17時にこの曲のサイレンが鳴り、市内のほぼ全域に響き渡っておりました。まさに仙台市民の郷愁に響く音の風景でありました。厳密には、サイレンそのものは21時にも流れておりましたが、何故かその回だけは『この道』が流れておりました。理由についてはわかりません。

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 ところで、暗闇に目が慣れてくると、仙台市街の夜景を眺めている仲睦まじいアベックの姿もちらほらと我が網膜に映りこみ、今ここは自分の居場所ではないことに気づくのでした。
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 それはともかく、久しぶりに青葉城を訪れて、ここに「白水稲荷大神」が祀られていることを思い出しました。
 現地の説明板にも記されておりますが、この神様は政宗が青葉城を築く以前からの屋敷神のようです。

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 『台原のあゆみ(台原地区町内会連合会)』所載の三原良吉さんによる「白水稲荷神社縁起考」によれば、仙台市青葉区台原の同名「白水稲荷神社」は、青葉城のそれが遷されたものと伝わっているようですが、なにしろ、以前取り上げたように、台原の同名社は「小萩物語」の一つの震源地でもありました。
 念のため補足しておきますと、「小萩物語」とは、奥州藤原三代秀衡の三男「和泉三郎忠衡」の遺児にまつわる伝説です。この伝説は、以前触れたように大きく二系統に分類されることが藤原相之助の論稿から推察し得ます。
 すなわち、加美郡の「清水寺」の文書に書き残されたものと、今触れた仙台市青葉区台原の「白水稲荷」の別当によってにじり書きされたメモによって知られるものとがあるのです。
 特に後者は、福島県いわき市の「白水阿弥陀堂」に由来する「徳尼(とくに)御前」の伝説が混濁したものと思われます。
 徳尼御前は、奥州藤原初代清衡、あるいは二代基衡の娘と言われており、嫁ぎ先の夫岩城何某の亡き後、その菩提を弔うために故郷平泉の金色堂を模した白水阿弥陀堂を建立した人物と伝えられております。
 奥州藤原氏の滅亡後、徳尼御前の縁故を引く白水阿弥陀堂の尼らの一部は八乙女尼ヶ澤―現:仙台市泉区南光台天ヶ沢地区―に落ち延びてきたらしいのですが、この地を選んだ理由は、この地が奥州藤原三代秀衡の右腕「信夫荘司佐藤基治」に縁ある地であったからと思われます。彼女たちは小萩物語に添えて滅ぼされた平泉の恨み節を語り継いでいったのでしょう。
 いずれ、前九年の役の際、石城の勢力が安倍氏に加担していたこと、そして白水阿弥陀堂にみられるように岩城氏が奥州藤原氏の娘を娶っていることなどを鑑みるならば、陸奥全域における石城勢力の存在感が侮れないものであったことは間違いありません。
 少なくとも五世紀から六世紀の仙台平野においては、石城(いわき)―現:福島県いわき市周辺―の人々が大きく関わっていたらしいと考えているわけですが、青葉城や台原の白水稲荷信仰の成立自体がそれを示唆するものかもしれない、とあらためて思うのでした。

奥州藤原氏初代清衡出生の秘密

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 久しぶりに高橋富雄さんの『奥州藤原氏四代(吉川弘文館)』を読んでおりましたら、以下のくだりが目に留まりました。

―引用―
 『中右記』の大治三年七月二十九日の記すところによって、藤原清衡は大治三年(一一二八)七月十三日に七十三歳を以て死去したことがわかる。もっとも高野山所蔵の『中尊寺経』の中『金字法華経』の奥書には、「大治三年戌申八月六日、平氏、藤原清衡尊霊当三七日一日之日書写了」とあるから、その死亡は大治三年七月十六日ということになる。その上七十三歳というのにも問題はないではない。というのは、その時には七十一歳でなければならぬ天治三=大治元年(一一二六)のその供養願文には、「己に杖郷(じょうきょう)の齢を過ぐ」とあって、杖国の齢を過ぐとはないし、それに近いともないので、天治三年にはまだ六十代であったのではないかとも思われるからである(『礼記』(らいき)によると五十を杖家、六十を杖郷、七十を杖国、八十を杖朝というのである)。しかしここではすべて『中右記』に従っておく。~以下省略~

 この書籍は10年位前に入手して読んでいたものですが、その時にはこの部分について特段気にも留めておりませんでした。尊敬する高橋富雄さんがそれ以上の深追いをしていないこともあり、私も余談の一つ程度に受け流していたのでしょう。
 しかし、数年前、藤原相之助の論に触れて衝撃を受けてしまったこともあり、今の私からすれば大変に重大な情報が含まれていたと言わざるを得ません。
 藤原相之助は次のように語っておりました。

 「平泉の初祖藤原清衡の母は、衣河の安倍頼時の女で、藤原秀郷の後裔亘理権太夫に嫁し、一子を擧げたが権太夫討死の後、連れ子をして出羽の清原武則に再嫁した。その連れ子が清衡であるとは従来の定説のやうですが、之は清衡が藤原氏と稱した理由の故事附けで、その實清衡は母の連れ子ではなくて武則の實子らしいのです。この事は清衡の死亡の年齢を逆算しても知れ、又金色堂の棟札によつても證せられます」

 武則は武貞の間違いと思われますが、ともあれ清衡が、実は藤原経清の子ではなく、清原武貞(武則?)の子であったというのです。それは年齢を逆算しても知れ、金色堂の棟札によっても証せられるとのことでありました。
 しかしこの件については、以前記事にしたとおり、結局は要領を得られないままに保留にしておりました。
※拙記事:『金色堂棟木墨書銘が語るもの』参照

 ここで、私自身の頭の整理のためにあらためて振り返っておきます。
 藤原相之助はさも当たり前のように清衡清原氏説を語っていたわけですが、それほど明らかなことなのであれば、何故定説になっていないのか、藤原相之助の論稿は昭和八年のものだというのに、何故これまで目に触れた研究諸氏の論稿にはなんら触れられていなかったのか、甚だ疑問でありました。
 もちろん、既に論破されているものを私が見落としていただけなのかもしれませんが、その論があまり問題にされていないのは、おそらく一つには、藤原清衡の生没年に関して大治三年に73歳で没したとする同時代の公卿「藤原宗忠」の日記『中右記』の記すところが定説となっているからでしょう。
 たしかに、清衡の年齢の根拠を『中右記』に求めている以上、没年から年齢を逆算してみたところで藤原相之助が指摘するようなことにはならないのです。
 つまり、没年の大治三(1128)年から73年遡ったところで、清衡の生年は天喜四(1056)年であり、それはまだ前九年の役の真っ最中でありますから、安倍頼時の娘であり藤原経清の妻である清衡の母は、まだ清原氏の戦利品として強奪される謂れはなく、敵将たる清原武貞の子を産むはずなどないのです。
 しかし、もしかしたら平泉中尊寺の金色堂の棟札ならば、すなわち都人の眼に触れることのない構造内部の棟札ならば、『中右記』のそれとは異なる真の情報があるのかもしれない、そう思った私は居ても立っても居られなくなりました。そのままじっとしていたら棟札を見たいあまりに幽体離脱でもしかねないので、私は急ぎ平泉に向かったのでありました。
 さすがに金色堂の構造内部にある棟札の実物こそは見れませんが、せめてものその写真の拝観は叶いました。
 以前触れたとおり、その際に筆写した内容がこれです。

天治元季(年?) 歳次 甲(申?)辰 八月廿日 甲 子 建立堂一宇 長一丈七尺 廣一丈七尺 ■(ホゾ穴?) 大工物部清國 小工十五人 大行事山口頼近 鍛冶二人 ■(ホゾ穴?) 大壇散位藤原清衡 女壇 清原氏 安部(倍?)氏 平氏
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 はて・・・、少なくともここに生没年に関わる情報はなさそうです。
 だとすれば、これを確認できたところで浅学な私にはそれのどこが「藤原清衡が藤原経清の子である」という定説を覆し得るものであるのかがわかりませんでした。
 しいて言うならば、おそらくは、「大壇散位藤原清衡」、すなわち大壇越(だんおつ)たる奥州王清衡の名の下に記された「女壇」なる三氏、すなわち向かって右から「安倍氏」「清原氏」「平氏」と記された部分になんらかの重大な解答があるのでしょうが、勘繰るだけにとどまらざるを得ませんでした。

 あれから二年以上の年月が過ぎました。
 ここにきて、たまたま読み返した前掲書のくだりに、実は看過しがたい情報があったことに気づいたわけです。
 それはこういうことです。
 大治三(1128)年に73歳で没したとする『中右記』を信ずれば、天治三(1126)年=大治元年(1126)年は71歳であるはずですが、高橋富雄さんによれば、その年の供養願文には「己に杖郷(じょうきょう=60歳)の齢を過ぐ」とだけあって、杖国(=70歳)の齢を過ぐとも、それに近いとも記されていないというのです。
 ということは、つまりその天治三(1126)年=大治元(1126)年にはまだ60代であったのではないかとも思われるわけです。
 しかも、「60歳を過ぐ」という言葉のニュアンスからすれば、その60代も後半ではなく、前半であったのではなかろうか、と勘繰れます。
 仮にその供養願文の天治三(1126)年=大治元(1126)年時点に60代前半、すなわち64歳以下であったとすれば、清衡の生年は康平六(1063)年以降に下るということになります。
 さて、何を隠そう、前九年の役が終わったのは康平五(1062)年であり、清衡の父とされる藤原経清が処刑されたのもその年です。

 なるほど・・・、たしかに藤原相之助が言うように、清衡の父は藤原経清ではなく、清原武貞(武則?)であったのかもしれません・・・。

会津へ―前編―

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 石城(いわき)國造家と仙台平野のつながりを探っている昨今ですが、「小萩物語」や「徳尼伝説」など奥州藤原氏の遺児伝説と共生する仙台市周辺の天神信仰は、一説に平(たいら)何某によって宇田郡―宇多郡:現:福島県相馬市周辺―から持ち込まれたものと伝わります。
 このことについて、天神信仰―アマテル信仰―の多くがなにやら江戸幕府によって北野天満宮に代表される菅原道真信仰にすり替えられたらしいとするならば、道真に全幅の信頼を寄せて彼を右大臣にまで引き上げた「宇多天皇」の“宇多”が語呂合わせされたものではなかろうか、と弱含みながらも一応の仮説を立てておきました。
 しかし、広義に石城エリアとして分類され得る福島県浜通り地方の宇田郡―宇多郡―なれば、その地からなんらかの人文が仙台平野に持ち込まれたとしても不思議ではありません。
 なにしろ、宇田郡の南隣にあたる「行方(なめかた)郡―現:福島県南相馬市周辺―」の「多珂神社」は、ヤマトタケル伝説や白鳥信仰、そして鷹信仰を匂わせている部分において、仙台平野の「名取郡―現:宮城県名取市と仙台市太白区周辺―」の「多可神社」と属性を共有します。
 そのようなことを考え続けている私の眼に、つい先日―平成二十七年八月二十五日―、『河北新報』朝刊のとある記事が飛び込んできました。それは会津若松市にある「福島県立博物館」の企画展についての記事でありました。

『被災地からの考古学1~福島県浜通り地方の原始・古代―主任学芸員 荒木隆』

 というわけで、会津に行って参りました。
 この博物館を訪れるのはおそらく約10年ぶりでしょうか。あらためて大変勉強になりました。
 今回得られた情報は、これから私の頭の中でなんらかのかたちにまとめていこうと思いますが、とりあえず、本稿では道中に感じたこと、考えたことなどを、小学生の絵日記風に書き殴っていきたいと思います。

【菅生PAで朝食を】
 秋雨前線が長引く憂鬱な早朝、渋滞嫌いの私は5時台にさっさと東北自動車道に入って会津に向かいました。
 しかし腹が減っていたので、早くも菅生PAに立ち寄り、海老天丼を食べました。あまり期待をしていなかったということもあってか、なかなかに満足の一品でした。なんと海老が三本も盛ってありました。しかも衣でごましたようなものではありません。ちゃんと先っぽまで目いっぱいの海老でした。味噌汁も海老ダシなのでしょうか、ほのかに潮を感じました。
 食後にはコーヒーを、ということで、当然ミル挽きのレギュラーコーヒーの自販機を探しました。残念ながら、このPAには私の好きなコーヒールンバの流れる機種がありませんので、今回は寡黙な機種にてブラジルエスプレッソを買い求め、再びドライビングに入ったのでした。

【仙台南~福島国見のザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード】
 仙台南ICから福島の国見ICの間は、東北自動車道全体を通して最も急カーブが多い区間だと思うのですが、アップダウンも激しく、単調な高速走行に慣れて速度に麻痺した状態でこの区間に入ってくると大変危険です。事実、このあたりでの交通事故はやたらと多く、頻繁に通行止めになっております。
 そんなこともあってか、以前は路面に注意を喚起する細工が施されておりました。断片的に舗装状態を変えて、あえて異音が発生するようにして、その音が三三七拍子に聞こえるようになっておりました。タンタンタン、タンタンタン、タンタンタンタンタンタンタン、と小気味よく音が鳴るので、つい途中で「よ!」、「は!」、「もう一丁」、などと合いの手を入れてしまうのですが、いつのまにかなくなってしまったようです。結構通っているわりには今回はじめて気が付きました。

【安積】
 安達太良(あだたら)付近でしょうか、どこかに「安積(あさか)」の表記を見かけ、このあたりの丸子氏が大伴安積連に改姓したんだよなぁなどと考えていると、ふと、これって「あづみ」とも読めるなぁ・・・と思いました。

【五百川】
 磐越自動車道に入ると、高速道路と並行して流れている「五百川」が「いおかわ」なのか「いもがわ」なのかをいつも考えておりました。安積原野を潤した人工的な安積疎水の開拓とも無縁でなかろうこの五百川、通り過ぎると毎度記憶から消えているので特に調べてみたこともありませんでしたが、今回何気なく、併記されているローマ字表記を確認してみました。するとなんと、「GOHYAKU GAWA」ではないですか・・・。「いおかわ」でも「いもがわ」でもなく、「ごひゃくがわ」であったようです。
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【磐梯山SA】
 磐梯山SAで一休みしました。
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鶴ヶ城かっこいい

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赤ベゴめんこい

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磐梯山しぶい

会津へ―後編―

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【会津慈母大観音像】
 磐梯山SAを出ると、いよいよ会津盆地へ下り始めます。会津盆地の広さは東京の山手線の内側がすっぽり収まるほどなのだそうですが、山間部から突如開ける眼下の風景はなかなか圧巻です。広大な田園風景と、時代によっては東北地方の首都であったと言っても過言ではない会津若松市の市街地が、雄大なスケールで広がります。一度、夜間に訪れたこともあるのですが、漆黒の闇から忽然と眼下に現れる会津若松の夜景はなかなか見事でした。
 会津盆地の風景の中で、独特な存在感を放っているのが会津慈母大観音像です。
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 実に巨大な観音様です。
 ただし、我が仙台に一時日本一の高さを誇っていた仙台大観音が現れて以降は、さすがに初めてみたときほどのインパクトはなくなりました。
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ちなみにこれが仙台大観音

 それでもこの会津慈母観音様が、会津に到着したことを実感させるランドマークであることには昔も今も変わりありません。

【鶴ヶ城】
 目的地の博物館に到着したのは8時50分頃でありました。
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 途中、ゆっくり休憩しながら向かってきたものの、9時30分の開館にはだいぶ早すぎます。幸い、博物館の駐車場は9時開場であったので、鶴ヶ城のまわりを一回り流してみると丁度いい感じで車を駐められました。
 それでも尚博物館の開館までは30分もあるので、久しぶりに徒歩で鶴ヶ城を散策してみました。
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この広い壕と高く積みあがった石垣は、目の当たりにするとさすがに迫力があります。
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天守閣は少しお色直ししたようで、以前より上品な感じを受けました。漆黒の七層であったと言われる蒲生氏郷の天守閣も見てみたかったものです。

【喜多方ラーメン】
 博物館の見学を終えると、まもなくお昼になろうとしておりました。
 先日、喜多方方面への会津縦貫道が開通したというニュースも新聞で目にしましたので、ここはその道路の走り初めも兼ねて喜多方ラーメンを食べることにしました。
 どの店もおしなべて美味しい喜多方ラーメンですが、14~15年前、ついに“また食べたくなる店”と出会いました。かと言って、決してグルメやら本格やら、そんな華美な言葉は似合わない、極めて大衆的な、飲んだ後に食べたくなるような、そんな喜多方ラーメンでありました。田舎くさい醤油と煮干しのうまみが、ネギもろとも喜多方のちぢれ麺にからむとたまらない、そんなラーメンでありました。学食のラーメンのような小ぶりなどんぶりなのでついついスープを飲み干してしまいます。
 元々、偶然立ち寄った店でした。詳細は覚えておりませんが、たしか夕方の半端な時間で、有名どころはどこの店にも入れず、妥協して入った店がそこだったのだと思います。目立たない横丁に貧相な店を構え、清潔感とはほど遠く、衛生的に決して褒められない、やる気のなさそうな店だったので、全く期待していなかったということもあるのですが、いざ食べてみたら、少なくとも私にとっては、今まで食べた喜多方ラーメンのどこよりもうまかったのです。
 しかし、はたして本当にそんなにうまかったのか、6~7年前、「徳一」のことを調べに来たときに確認しに来ました。
 店の場所がわかりにくいのですが、記憶だけを頼りになんとかまた見つけました。
 たしか、北朝鮮の放った弾道ミサイルがつい先ほど東北地方を横断したというニュース速報が店内のテレビで流れ、鼻から麺が飛び出るかと思った記憶もあります。
 それはともかく、そのときにここはやはりうまい、という確信を得たのです。そこで 、この店の名前と場所を今回この場にてご紹介しようと思っておりました。
 しかし、やめました。
 何故なら、今回食べてみて味が変わったと感じたからです。ダシの煮干しの個性が強くなりすぎているのです。もっと言えば、気になるくらい魚臭かったのです。
 どうしてしまったのだろう、最近の濃厚系の流行に迎合したのか、あるいは不衛生な雰囲気だし煮干しが腐りかけていたのか・・・。
 そういえば、来店三度目にして、はじめて私の他に客がおりました。
 ふと、窓ガラスに「食べログ」のステッカーが貼ってあることに気づきました。
 もしかしたら舌のこえたグルメな方に、さりげない隠し味の煮干しをさんざん褒められて、気をよくしてそれにすり寄ってしまったのだろうか・・・そんな勝手な想像をしながら、店を出ました。
 いつの日かまた来るかもしれません。その時は、ぜひ従前の味に戻っていて欲しいと願うのでした。
 
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ここに祈願しておこうか・・・。

13の頭骨

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 福島県立博物館の常設展に、福島県相馬郡新地町の「三貫地貝塚」における「人骨・犬骨埋葬状況」の縮尺1:1の復元模型が展示されており、次のような解説文がありました。

―引用―
 新地町三貫地貝塚の発掘状況は、昭和27年と29年に行なわれ、100体以上の人骨が出土しました。この模型は、埋葬状態の一部を復元したものです。一度葬った人の頭骨13個を円形に並べ、手足の骨を中央に集めた極めて珍しい埋葬例が発見されています。
 手足を折りまげて葬られている(屈葬)男性人骨のそばからは、犬の骨が出土しました。犬は狩りなどに役立つため、縄文時代から飼われていました。現在のシバ犬に似ています。

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フラッシュを焚かない条件で撮影を許可していただきました。
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 さて、13という数字の意味するところについて、以前私は次のように語っておきました。

 13という数字で、一般的にも有名なのは死刑台の13階段や、イエスキリスト処刑日の“13日の金曜日”という俗説などでしょうか。
~中略~
~この13という数字は世界中でよく用いられる数字です。しかし、これをもって全てがキリスト教、あるいは西洋の影響を受けたなどと言うのは論外です。何故なら、地球上に生活していれば普遍的にたどりつく数字だからです。
 時計やカレンダーなどが存在しない時代、人々は空のめぐり、特に月の満ち欠けを一つの基準にしたことでしょう。現代とは比べ物にならないほど、空のめぐりは日常にとって重要だったはずです。月はおよそ一ケ月で満ち欠けのサイクルを一巡します。それもそのはず、そのサイクルから一ケ月という概念が生まれているのだから当然でしょう。そして、それが12回繰り返されると、一年、つまり季節も一巡します。四季があまり明瞭ではない地域でも、日の出・日の入りの位置や星座のサイクルが、月のサイクル12回分で元に戻っていることには気付くはずです。これが12進法の起源であろうことは容易に推察できます。
 特に、人類が農耕を営むようになると、それらに一つの寿命のようなものを感じざるを得なくなってくると思います。
 例えば、北半球であれば、冬至を皮切りに、夏至に向かって太陽はどんどん高くなり、活動出来る昼間もどんどん長くなり、草木も生き物もどんどん活発になっていきます。
 やがて、秋になり収穫の時期を終え、冬の声が聞こえると植物も枯れ、動物も眠り、まるで大地が死んでしまったかのようになります。そして月のサイクルが12回めぐったころに、また冬至が訪れるわけです。
 さて、そうなると13とはどういう意味を持つのでしょうか。13とは当然最終12の後にある世界であり、ひとつには死後の世界、ひとつにはリセットされた新しい世界を指していると思われます。
 これが13の持つ“普遍的”な意味でしょう。13とは、全世界共通で“死と再生”を意味する“普遍的な数字”であると考えます。

 というわけで、この遺跡は、酋長なのか家長なのか、あるいは家族なのか、なんらかの人物に蘇ってきてほしいと願う、再生への祈りを込めた祭祀の跡なのではないか、と思いました。

桜井古墳群―福島県南相馬市―

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 「遠の朝廷(みかど)」たる「多賀城」や『延喜式神名帳』所載の宮城郡の式内社「多賀神社」の「多賀」は、おそらく名取郡―宮城県―の同「多加神社―現:多賀神社―」の「多加」や、行方(なめかた)郡―福島県浜通り―の同名神大「多珂神社」の「多珂」、さらにもしかしたら柴田郡―宮城県―の同名神大「大高山神社―大鷹宮―」の「高」なり「鷹」などの韻に好字の「多賀」をあてはめたものと思われるわけですが、大高山神社は置くにして、行方郡のそれは『延喜式神名帳』所載の全国の「タカ神」6社を見渡しても、唯一の“名神大”になっております。
 このことから、それがタカ神の筆頭格であった可能性も考えられるわけですが、少なくとも陸奥國の事情としては、行方郡における多珂神祭祀氏族が名取郡や宮城郡といった仙台平野にも土着していたことが窺われます。

 また、『奥羽観迹聞老志』や『封内風土記』、『封内名蹟志』などの江戸期の地誌は、仙臺藩祖「伊達政宗」以前に仙臺府城域―陸奥國分荘―を領した人物として、「島津陸奥守」、「結城七郎朝光」、「國分能登守」の名を挙げているわけですが、各地誌の表現からみて最も古いと思われる島津陸奥守は、天神社の由緒に関連する別伝において、天延年間(975年頃)に「平持村―あるいは平将春―」によって「宇田郡―現:福島県相馬市―」に勧請された同社を、文永元(1264)年(※)に宮城郡の國分荘に勧請した人物としても伝わっております。

 タカ神祭祀と天神信仰、この二つの事例が示唆するように、中世以前の仙台平野には、行方郡や宇田郡といった福島県浜通りとも小さからぬ民俗的交流が窺われるということです。
 この行方郡・宇田―宇多―郡の両エリアは、陸奥國に併合されて以降、新田川流域が行方郡―現:福島県南相馬市―、宇多川流域が宇多(宇田)郡―現:福島県相馬市―の二郡に分けられたものの、古くは『先代旧事本紀』の『国造本紀』に記録されたところの「浮田國造」に含まれていたと考えられており、ほぼ同一の文化圏であったと言って良いでしょう。
 このエリアで私が最も注目しているのは、「桜井古墳群」です。

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 この古墳群の一号墳は、東北地方には珍しい前方後方墳でありますが、築造時期は四世紀後半―古墳時代前期―と推定され、福島県浜通り地方における最大の古墳でもあることから、浜通り最大の勢力がこの地区を本拠にしていたと考えられます。

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 七号墳の棺の中からは、珠文鏡(しゅもんきょう)が出土しておりますが、東北地方の古墳から銅鏡が出土することも珍しいことです。

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 前方後円墳ではなく前方後方墳として築造されたことにどういった意味があったのかはわかりませんが、時期的には私が推定する五世紀以降のオホ氏の北上に先行するものであり、むしろ仙台平野の遠見塚古墳や雷神山古墳の被葬者たる首長層との関わりが気になるところです。
 現地の説明板には「北関東地方や東海・北陸地方と交流を行いながら、この地域を支配した首長と考えられます」とありますが、東海・北陸といえば、四道将軍の武淳川別命とその父大彦命のルートでもあります。言うまでもなく、武淳川別命や大彦命は、古代氏族阿倍氏の祖とされており、さしあたり長髄彦の兄安日彦の裔を自称する陸奥安倍氏もその系譜を併記しております。
 そもそも、福島県南相馬市原町区上渋佐地内に点在するこの古墳群が、何故「桜井古墳」と称されているのでしょう。往昔の地名が「桜井」であったのでしょうか。真相は未確認ですが、興味深いものがあります。
 何故なら、大和盆地の阿倍氏の本拠の地名がいみじくも「桜井」であるからです。

※ 上記「文永元(1264)年」について補足
 島津陸奥守の後であるはずの結城七郎朝光の入府時期が奥州藤原氏滅亡前後の文治年間(1185~1190)であった所伝からすれば、信じ難いものがあります。したがって私はこれを額面通りに受け止めず、「文永元(1264)年」が陰陽道上で変乱が多いとされる「甲子革令(かっしかくれい)」にあたっていたこと、加えて、特に「文永」の年号自体に土民の憚られる感情が込められて後付されたものとみております。
 文永年間、わが国はいみじくも甲子革令が現実化してしまったかのような史上未曾有の侵略に見舞われております。
 「元寇(げんこう)―文永・弘安の役―」です。
 元寇は、直接蹂躙された対馬・壱岐はもちろんですが、先に降伏して尖兵として利用された高麗にとっても悲劇でありました。
 その悲劇に、特に当地―陸奥國分荘―の土民が憚られる感情をもって共鳴し、それ故に「文永」の言霊が差し挟まれたのではなかろうかと私は考えているのです。
 何故なら、当地の土民は馬を通じて高麗文化と密接であったと思われるからです。
「陸奥國分寺」頒布の「木ノ下駒」添付の由来によれば、古来、陸奥國分寺の境内においては恒例の馬のせり市が立てられ、その市で多賀の国府は駿馬を選び買い上げ、時の帝へ献納する慣習があったといいます。
 國分寺を取り巻く周辺の宮城野の荒野には良質な駿馬が放牧されていて、『馬櫪神御由来記』には「陸奥は日本六十餘州の内馬生産第一にして、中にも宮城郡荒野の牧に出生の駒は其性第一」云々とあります。
 また、『封内風土記』の「土産」の項には栗原―現:宮城県栗原市―産の駿馬が極めて良質であることが特記されております。
 思うに、栗原で選び抜かれた駿馬が、國分寺周辺に放牧されて、そこで朝廷献上用に交配生産されていたのではないでしょうか。
 そのシステムには当然馬ばかりではなく、馬に精通した優秀な博労(ばくろう)―伯楽・馬喰―の存在も不可欠で、菊地勝之助さんの『仙臺事物起源考』には「国分寺附近には多数の馬喰も住居していたことは、口碑に伝わる「木の下馬喰」の称によっても知ることが出来る」とあります。おそらくは早くに信濃から移住していた高麗系の博労(ばくろう)が多数住居していたことでしょう。
 すなわち、当地の土民は高麗文化と密接であったはずで、元による日本侵略の尖兵とされて戦死した高麗人の痛みを他人事には思えない地域性があったものと想像します。このあたり、私論上における「モクリコクリの碑―伝:蒙古高句麗の碑―」の建立に関する事情にも通じます。

神名の商標登録

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 「神名が商標登録されている」

 そんな情報が私の耳に届きました。思わず耳を疑いましたが、調べてみると、なるほどA社がZ神を登録していることが確認できました。
 神名とは極めて広く一般的な名称であるはずで、それを特定個人なり法人なりが独占していいものなのだろうか、という疑問を抱きましたが、現に特許庁によって申請が認められ、登録が完了しておりますので、法的になんら問題がないということなのでしょう。
 そもそも商標権の意義とはなんぞや、特許業務法人「三枝国際特許事務所」のHPは次のように語ります。

―引用:特許業務法人「三枝国際特許事務所」HPより―
商標権は、指定商品または指定役務について登録商標を独占的に使用でき、第三者の使用を排除することができる強力な権利です。

 また、商標法第1条の規定には、次のようにあります。

―引用:同HPより―
この法律は、商標を保護することにより、商標の使用をする者の業務上の信用の維持を図り、もって産業の発達に寄与し、あわせて需要者の利益を保護することを目的とする。

 どうやら、特段、素人の私の感覚的な認識との齟齬はなさそうですが、はたして、一般名称たるべき神名が特定個人の会社に登録される事が、「需要者の利益を保護すること」になるものなのでしょうか。
 逆に言えば、特定の会社に登録されているという事は、以後、その神名はその会社の営利の範囲内でしか国民の前に現れ得ないということでしょう。
 それは、需要者の利益を侵害することにはならないのでしょうか・・・。
 もし、第三者がこれらを侵害した場合、どうなるのか。

―引用:同HP―
商標権の侵害を発見したら、以下の措置を1つ、または複数とることが可能です。
(1)差止請求
商標権が侵害または侵害されるおそれがある場合に、侵害の停止、予防を請求することができます。それに際して侵害行為を組成した物やそれに供した設備の廃棄や除却を請求することもできます。侵害者に故意または過失があることは要件とされません。
(2)損害賠償請求
故意または過失による侵害で生じた損害の賠償を請求することができます。他人の商標権または専用使用権を侵害した者は、過失があったものと推定されます。
(3)不当利得返還請求
侵害行為により商標権者の財産から利益を受けた者に対して、商標権者が被った損失を不当利得として返還請求することも可能です。
(4)信用回復措置請求
侵害により害された業務上の信用の回復に必要な措置(新聞等の謝罪広告、テレビにおける謝罪放送等)を命ずるよう裁判所に請求することができます。
(5)刑事上の救済
故意による侵害については、刑事告訴により刑事上の責任を問うこともできます。

 当然ながら、これは気を付けなければなりません。
 しかし、古来日本に伝わってきた神名が商標登録されているなど、一体誰が想像し得るでしょうか・・・。
 古来Z神を祀ってきた神社の御神符やお守りの類も抵触してしまうのでしょうか・・・。
 頒布とは言え、現実的には価額が提示され金銭の授受が発生していることには変わりありません。もちろん、それは神社を維持する上で必要なものです。
 一応、制約の及ぶ範囲も定められているようで、A社のZ神商標権行使の及ぶ範囲は、以下のとおりでありました。

―引用:独立行政法人工業所有権・研修館HP『特許情報プラットフォーム』より―
【商品及び役務の区分並びに指定商品又は指定役務】 【類似群コード】
35 織物及び寝具類の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,被服の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,履物の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,かばん類及び袋物の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,身の回り品の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,飲食料品の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,加工食料品の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,自動車の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,二輪自動車の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,自転車の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,家具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,建具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,畳類の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,葬祭用具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,電気機械器具類の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,手動利器・手動工具及び金具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,台所用品・清掃用具及び洗濯用具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,薬剤及び医療補助品の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,化粧品・歯磨き及びせっけん類の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,農耕用品の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,花及び木の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,燃料の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,印刷物の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,紙類及び文房具類の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,運動具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,おもちゃ・人形及び娯楽用具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,楽器及びレコードの小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,写真機械器具及び写真材料の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,時計及び眼鏡の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,建築材料の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,宝玉及びその模造品の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,香料類の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,ろうそくの小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,金属製彫刻の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,貴金属の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,宝玉の原石の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,書画の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,写真及び写真立ての小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,石製彫刻・コンクリート製彫刻・大理石製彫刻の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,額縁の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,石こう製彫刻・プラスチック製彫刻・木製彫刻の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,花瓶・水盤・風鈴の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,造花(「造花の花輪」を除く。)の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供

 なにやら、かなりの広範囲にわたるようです。神社が頒布する御神符の類が該当するのかどうかはわかりません。
 もしかしたら、これまで私が知らなかっただけで、他にもそういった例があるのかもしれない、そう思い、比較的認知度の高いと思われる神名を数例調べてみました。
 すると、実際にありました。
 各々の類似群コードは以下のとおりです。。

B社 Y神
 地下水汲み上げ式浄水装置の貸与,浄水装置の貸与,浄水処理,家庭用浄水器の貸与

C氏 X神の文字列を含むブランド
 飲食物の提供

D社 X神
 日本酒,洋酒,果実酒,中国酒,薬味酒

E社 W神
 日本酒,洋酒,果実酒,中国酒,薬味酒

F社 V神
 日本酒,洋酒,果実酒,中国酒,薬味酒

G氏 V神
 甘酒

 たしかに例はありましたが、A社のZ神のそれと比べて制約範囲の次元が違うのは一目瞭然です。
 これらは、おそらく苦心の末に完成させたオリジナリティに満ちた主たる商品があって、その自慢の商品の“疑い物(まがいもの)”を防ぐために、商品名としての神名を商標登録しているのでしょう。したがって、あくまでその商品との混乱が予想される物品に対して限定的な制約をかけているのです。
 しかし、A社が商標登録しているのは、どうやら“神名そのもの”です。
 アニメキャラやゆるキャラのように、創作されたオリジナル商品であれば理解できますが、A社は神名をそれらと同列に商標出願し、特許庁はそれを受け入れ、登録を認めたということです。

 特許庁は、はたしてそれを神名と認識していたのでしょうか・・・。

 神社庁はこの現実を把握しているのでしょうか・・・。

瀬織津姫神研究の未来

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 このほど、思うところがあり、実に久しぶりに「瀬織津姫」の文字列でインターネット検索をかけてみました。私が最後にこの文字列で検索をしたのは、いつであったでしょうか。少なくとも、2008年12月に当ブログ『はてノ鹽竈』を開設する以前のはずですから、ゆうに7年はブランクがあると思います。その頃から、この神名は徐々にスピリチュアルな方向でのみ利用されることが多くなり始めておりました。それもあって、私の検索意欲も減退していたのです。
 とはいえ、私は必ずしもスピリチュアルを否定しているわけではありません。神をも畏れぬ鬼畜な事件が多いこのご時世、天罰を畏れ、神羅万象に感謝する、いわばスピリチュアルな感覚を人びとが各々持ち合わせることは重要とすら感じております。
 しかし、それはそれ、これはこれ、です。
 少なくとも、学術的な研究には理にかなった普遍性こそが必須であることは言うまでもありません。
 久しぶりの検索・・・。驚きました。
 瀬織津姫は○○であるやら、△△は瀬織津姫であるやら・・・、世界がどうこう、宇宙がどうこう、とにかく初めてみる説が乱発されておりました。そして、たいていその論拠が示されておりません。
 曲りなりにも、かつてはこの私も瀬織津姫神についてそこそこ調べました。
 目的が他にありましたので、特化するには至りませんでしたが、フィールドワークや文献調査などにもそれなりに時間や労力、費用をかけ、手前味噌ながら、この神については月並み以上に詳しい方だとは思います。
 その私の調査経験から申せば、瀬織津姫について記された資料はそう容易には見つかりません。なのに、それらの論者は一体どこからそのような結論を導き出したのでしょうか。どこにそんなことが書いてあったというのでしょうか。単にネット検索で得たエセ情報を疑うこともなく適当に解釈したりはしていないでしょうか。
 中学生の頃、数学で「仮定・結論・証明」を習いましたが、今回あらたに目にした瀬織津姫に関する諸説のほとんどは、「結論」のみが記され、「仮定」や「証明」の部分が欠如していると言わざるを得ません。
 中には、「姫に導かれたのさ」という回答もあるかもしれません。
 残念ながら、私に姫―瀬織津姫神―の声が聞こえない以上、それを「嘘に決まっている」、と完全否定することは出来ません。もしかしたら本当に神の啓示であるかもしれないからです。
 しかし、それが神の啓示である確率とそうでない確率とで考えた場合、私は、そうでない確率の方が圧倒的に高いと思います。妄想なのか、嘘なのか、もしそこに営利が絡んでいるならば“嘘”の可能性が高まります。

 ましてや、発言者が神名をゆるキャラよろしく商標登録していたとあらば・・・・。

 いずれ、予想はしておりましたが、もう七年前の比ではありません。
 もはや、瀬織津姫を学術的に研究しようとする動きを見つけることは至難な事になってしまったようです。
 このままでは近い将来「瀬織津姫」という神名がオカルトグッズに成り下がってしまうのではないか、という懸念すら覚えました。

 日本の歴史にとって大変重要な神名であるというのに、このままでは真摯な研究者が自説の品を貶めたくないがためにその神名を忌避しかねないのではなかろうか・・・、ここにきて私はそう危惧し始めているのです。

仙臺城の築城時期に関する伝説:前編

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 仙臺(せんだい)城が初めて築かれたのはいつ頃なのでしょうか。
 もちろん、「仙臺」という地名は独眼竜「伊達政宗」による命名ですので、それ以前の「千体城」、「千代城」なり、あるいは「川内城」の時期もあったのか、とにかく、現在の「青葉山」の地に何某かの城舘が築かれたのはいつ頃なのか、という意味です。
 さしあたり『奥羽観迹聞老志』は、次のような伝説を紹介しております。

―引用―
或曰此城用明帝朝完所築中古島津陸奥守者始居茂嶺城―其城址今猶存―後遷此城文治中結城七郎朝光居此爾後荒廃己久永禄中國分能登守來居天正中嗣子彦九郎盛重繼而居先是黄門君在北目館慶長五年十二月二十四日依命移于此~以下省略~

 拙くも意訳しておきます。

一説に、この城は用明天皇の世に築かれ、中世には、茂嶺城―茂ヶ崎城:聞老志編纂現在城址現存―に居た島津陸奥守なる者が遷ってきた。
文治年中は結城七郎朝光が居城としていたが、その後久しく荒廃していたところ、永禄年中に國分能登守が入城し、それを天正年中、継子の彦九郎盛重が継いだ。
黄門君―伊達政宗―は、まず北目館を居城としていたが、慶長五年十二月二十四日、命によって仙臺城に移った――

といったところでしょうか。

 これを鵜呑みにするならば、なにやら、築城は人皇32代「用明天皇」の時代にまで遡るようです。
 一方、『奥羽観迹聞老志』の改訂・増補版的な要素のある『封内風土記』所載の伝説は、概略同じ内容ながらも築城の時期が遡ります。

―引用―
或曰。仙臺城。人皇二十七代繼體帝。瑞政中。始築此城號千代。三十二代用明帝御宇。安置千體佛于此府。改千代號千體。其後島津陸奥守某居之。島津移住西國之後。結城七郎政光居之。正親帝永禄中。國分能登守宗政居之。~以下省略~

 こちらも意訳しておきます。

一説に、仙臺城は人皇27代継体天皇の瑞政年中に築かれ、当初千代城と名付けられていた。
32代用明天皇の世には千体の仏が安置され、それに因み、千代は千体と改められた。
その後、島津陸奥守何某がここを居城とし、島津氏が西国に移住した後は結城七郎政光が居城とした。
その後、106代正親町(おおぎまち)天皇の永禄年中には國分能登守宗政が居城とした――

といったところでしょうか。

 『奥羽観迹聞老志』同様、人皇32代「用明天皇」の名は一応見えますが、それはあくまで仏が安置された時代としてであって、築城時期については更に遡り、人皇27代「継体天皇」の御世とされております。
 ただし、編者の「田邊稀文」自身はこの伝説に否定的な所感を挟んでおります。
 すなわち、この所伝では「瑞政」なる年号を掲げているわけですが、そもそも年号の制定は36代「孝徳天皇」の「大化」に始まるのであって、27代継体天皇の時代においてのそれは認めがたい、ということのようです。
 ちなみに田邊は更に、島津、結城の居城についても考察に値しないとしております。
 田邊の所感は穏当であり極めて的を射ているものの、島津・結城の話は置くにして、何故ここに「継体天皇」や「用明天皇」の名が持ち出されたのかを考えてみる価値はあるのではないでしょうか。仮にそれが誤り、あるいは偽りであったにせよ、そこには語り伝えてきた人びとのなんらかの意図があったはずです。

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 念のため、継体天皇や用明天皇がどういった天皇であったのか、簡略に振り返ってみましょう。

 まず継体天皇は、暴君と伝わる人皇26代「武烈天皇」に嫡子なく皇統が途絶えたが為、大連「大伴金村」によって越の国から発掘されてきた天皇です。
 15代「応神天皇」の五世孫という触れ込みで即位に至ったわけですが、さすがに五世孫ともなると血が遠いと言わざるを得ず、正史における武烈天皇の暴虐ぶりがあまりに際立ちすぎることも手伝い、ここに王朝交代があったとする識者も少なくありません。
 一方、用明天皇は、外来宗教である仏法を初めて公認した天皇でもあるわけですが、むしろ次代にあたる33代「推古天皇」の夫として、あるいは「聖徳太子」の父として、「太子信仰」の中でよく語られる天皇でもあります。
 ちなみに、現在に知られる継体天皇の系譜についての情報は、『釈日本紀』に引用がみられる『上宮記』によるところが大きいわけですが、これは記紀よりも古い史書と考えられております。
 「上宮」は現在の奈良県桜井市あたりにあったとされる聖徳太子が幼少期に過ごした宮のことで、『上宮記』の性格が聖徳太子の伝記であったのではなかったかと推察される所以でもあります。
 残念ながらこの文献の原典は鎌倉時代以降に散逸してしまったようです。
 単に太子信仰者によって残されてきたからかもしれませんが、現在に伝わる逸文の大部分は継体天皇と聖徳太子関連の系譜で占められます。
 聖徳太子はともかく、ここで何故継体天皇のことが詳しく書かれているのかはわかりませんが、両者の関係になんらかの重大な鍵があるのかもしれません。

 仙臺藩領内の北部、栗原周辺には、何故か武烈天皇の貴種流離譚伝説が点在しております。
 武烈天皇が故あって奥州に配流され、栗原にて崩御されたというものです。
 一方、仙臺藩領内の南部には、皇子時代の用明天皇が東国巡幸の際に当地の豪族の娘との間に私生児を残したと伝えられております。
 皇子が大和に帰ったまま一向に戻ってこないので、やがて娘は悲嘆にくれたまま亡くなりました。残された私生児は川に捨てられ、白鳥と化して父である大和の天皇に母の訃報を届けたというものです。
 これらの伝説は、仙臺城の築城時期が継体天皇の世なり用明天皇の世なりと伝えられていることと何か関わりがあるのでしょうか。
 さしあたり、用明天皇は太子信仰に代表される仏法の側面があるので、センダイの由来となった「千体の仏」から派生したものとも考えられますが、継体天皇についてはにわかにはこれといった因果が思い浮かびません。
 しいてあげれば、聖徳太子と継体天皇について詳細な『上宮記』が内包するなんらかのイデオロギーがこれらの伝説に影響を及ぼしているのかもしれません。

青葉城本丸大広間の平面遺構

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 青葉城祉―仙臺城址―に、本丸大広間の遺構を基にした平面の野外展示施設が整備されておりました。
 今年の夏、夜間に訪れた際にも気づいていたのですが、このほどようやく日中に訪れることが出来ました。
 四年前、この施設の計画を新聞記事で目にした私は次のように語りました。

―引用―
~遺構平面の野外展示という部分には大きく懸念するところもあります。野外に線引きするとなると、恐らく、本来広大なはずの大広間もかなり狭隘で貧相に感じることと、予言致します。家を建て替えされた方ならおわかりかと思いますが、既存建物の解体現場や、地鎮祭などで、壁や屋根がない状態で家や部屋の広さを確認すると、「え、こんなに狭いの?」とがっかりするものです。
~中略~
 くどくどと語りましたが、とにかく、平面スペースだけの野外展示では、どうしても小さく感じてしまう、ということだけは、覚悟しておかなければなりません。
拙記事『河北新報記事「仙台城跡、大広間整備へ」を見て』より

 さて、ついにその展示施設を見ることとなりました。

 「これは、でかい・・・」

 正直なところ、私は驚きました。
 期待をしていなかったということもあるのでしょうが、私の想像を上回るスケール感であったのです。
 野外の平面遺構でこれだけのスケール感であるならば、この建物が現存していたならば、相当な迫力があったことでしょう。



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私が最も注目している「上々段の間」は六畳間であったとのこと。
かつて、出稼ぎのために上京して、三畳一間に暮らした世のお父さんたちのため息が聞こえてきそうです。

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『千田家姿絵図』に描かれた本丸大広間。実に素晴らしい。


 徳川家を憚って天守閣が築かれなかったという青葉城・・・。
 しかし、当時この本丸御殿を見た人たちは、伊達政宗が天下人の域にあったことを思い知らされたに違いありません。
 明治の世に取り壊されてしまったことは実に残念です。

仙臺城の築城時期に関する伝説:後編

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 『封内風土記』は、仙臺城が人皇27代「継体天皇」の時代に築城されたという伝説を紹介しております。
 継体天皇の在位時期は6世紀前半のことと推定されているわけですが、その時期の仙台平野の様子について『仙台市史』は、「五世紀後半に多くの古墳が築造された仙台平野では、六世紀にはまた一転して、有力な古墳が造られなくなる」としております。
 26代「武烈天皇」の崩御から継体天皇の即位に関わる混乱が、仙台平野の支配勢力にも少なからず影響を及ぼし、それ故に有力な古墳が造られなくなった、ということになるのでしょうか。
 いずれ、『封内風土記』所載の伝説は、仙臺城の築城をその頃のこととしております。
 この時期、記紀相互の内容には注目すべき齟齬が生じております。
 度々触れていることですが、それは、継体天皇妃「ハエヒメ」の出自についての齟齬です。
 ハエヒメは『日本書紀』では継体天皇の妃として七番目に登場し、「“和珥(わに)”臣河内娘曰?恙(はえ)媛」と記されているのですが、『古事記』では「“阿倍”之波延比売(あへのはえひめ)」となっているのです。
 すなわち、『日本書紀』が“ワニ系”としているものを、『古事記』は“アベ系”としているのです。
 このことについて、黒沢幸三さんや水谷千秋さん、米沢康さん、吉永登さんらは、阿倍氏や蘇我氏など“六世紀以降に発展した氏族によるワニ氏所伝の改変”とみております。
 一方で、太田亮さんや宝賀寿男さんといった姓氏家系分野における新旧の大御所は、この「阿倍」はあくまで「和珥(わに)臣」系の「和阿倍(やまとあべ)臣」のことだとして、全く問題にしておりません。
 しかし、太田さんや宝賀さんが言うところの和阿倍臣の本拠は、孝元天皇裔族大彦命系氏族―阿倍臣や膳臣―の本拠と同じ「十市郡」であったようです。
 全く別系譜の“臣(おみ)”姓氏族が、同じ“阿倍”を名乗り、本拠までも同じ“十市郡で”あった、とは、偶然の一致にも程があるのではないでしょうか。
 したがって私は、和阿倍臣と阿倍臣をそう縦割りには区別など出来ないのではないか、と疑問を覚えました。
 26代継体天皇から29代欽明天皇までの四代の間に、記紀上からワニ氏本宗家の事績が消滅し、入れ替わるように蘇我氏が台頭を始めるわけですが、そもそも、皇妃輩出において最多を誇るワニ氏が、その座を新興の蘇我氏に簒奪されておきながら、さしたる軋轢もみられないままに忽然と史上から消えてしまっているのは不自然であり、それ故に私は蘇我氏に寄り添って伸長を遂げていったアベ氏こそがワニ氏の本宗家そのものであったのではないか、と勘繰り始めたわけです。
 このあたり、既に拙記事『ワニ氏はどこに消えたのか』『孝元裔族と孝昭裔族の混乱』でも語っておりますが、少なくとも継体天皇時代がワニ氏ないしアベ氏にとってなんらかの重大な転換期であったことは間違いないでしょう。

 ところで、以前私は、「蘇我馬子」はもしかしたら天皇であったのではなかろうか、と考えたことがありました。
 その試論は今も尚持ち続けておりますが、そう考えた理由は二つありました。
 一つには、「冠位十二階」に蘇我氏の名が一人も含まれていなかったということがあります。
 「冠位十二階」とは、豪族の力をおさえて天皇を中心とした統一国家をつくるために、豪族に色分けした冠を与えて位階を定めた最初のもので、「聖徳太子」が制定したと一般に理解されているものです。
 しかし、家永三郎さん編『日本の歴史(ほるぷ出版)』は、――『日本書紀』は、聖徳太子がしたことは、必ず「皇太子・・・・・・」と、主語をはっきり書いているのに、冠位十二階のところには、その主語がない――と指摘した上で、冠位を制定した主役は蘇我馬子ではなかったか、と推察しておりました。
 もちろん、だからといってすぐに「馬子が天皇であったのでは?」ということにはなりません。馬子は「臣(おみ)」や「連(むらじ)」より上位の「大臣(おおおみ)」であり、十二階の色を超えた紫冠の高い位であった、という理屈も成り立つからです。
 しかし問題はもう一つの理由です。
 それは、蘇我馬子による「崇峻天皇」の殺害です。
 正史『日本書紀』は、馬子が「東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)」に命じて「崇峻天皇」を殺害したことを明記しているわけですが、私は、正史―六国史―においてあからさまに天皇の殺害を明記した記事を他に思い浮かびません。
 なにより、主犯の馬子はこの大それた事件を引き起こしたにもかかわらず、糾弾されるどころかその後益々権勢を極めているのです。
 『日本書紀』は蘇我氏を滅ぼした新政権によって編纂されたものであり、多分に馬子を悪者に仕立てたい本音があったはずと思うのですが、不可解なことに、その本音に大変都合が良いはずの「天皇殺し」という前代未聞のスキャンダルについて、さしたる断罪もしていないのです。
 それどころか、むしろやむを得なかったかの論調ですらあります。
 蘇我氏を滅ぼした「中大兄皇子―天智天皇―」や「中臣鎌足―藤原鎌足―」らクーデター政権の後ろめたさが怨霊への懸念を生み、そうさせたのでしょうか。
 もちろんそういったことは大いに考えられるでしょうし、だとすれば本当に馬子が犯人だったのか、という疑念も禁じ得ません
 しかし、もし馬子が天皇そのものであったのであれば、馬子が犯人であったか否かなど関係のないことになります。
 人臣による天皇の殺害であれば、それは世論として断罪すべき許されざることですが、それが新旧天皇の相克の過程での事件であれば、世論は静観することでしょう。
 仮に、馬子が天皇で阿倍氏がワニ氏第一党の変質した姿であったとするならば、一見史上から消滅したかのワニ氏は、アベと名を変え相変わらず天皇家と密接に命脈を保っていたということになります。

 いずれ、馬子が天皇であったか否かの議論とは無関係に、私は、冠位十二階など聖徳太子の功績とされる事績のほとんどは、政治面では蘇我馬子、仏教の面では秦河勝のそれではなかったか、と疑っております。
 それらを馬子の功績にしたくない大化以降の政権が、おそらくは夭折したであろう同時代の「厩戸皇子(うまやどのおうじ)―聖徳太子―」なる親王のそれにすり替えたのではないでしょうか。
 太子信仰の底流にはそういった事情が紛れ込んでいるのではないか、誤解を恐れずに言えば、古代における太子信仰の本質は、蘇我馬子・蝦夷・入鹿の三代と秦河勝への、“顕在化が憚られる鎮魂”にあったのではないか、と想像しているのです。
 その想像が妥当な場合、憚られる鎮魂を推し進めたのはもちろん怨霊を恐れる大化以降の36代「孝徳天皇」、37代「斉明―皇極―天皇」、38代「天智天皇―中大兄皇子―」、「中臣―藤原―鎌足」ら、蘇我つぶしの面々であったでしょうし、そしてその実務を任わされたのは蘇我氏に寄り添っていた阿倍氏、特に「蘇我蝦夷」の盟友であり、36代「孝徳天皇」政権の左大臣でもあった「阿倍倉梯麻呂―内麻呂―」の裔孫ではないのでしょうか。
 孝徳天皇は、蘇我入鹿暗殺の「中大兄皇子―後の天智天皇―」派閥に、蘇我つぶしの事後処理を押し付けられたかの如く即位させられ、新皇居の難波宮もろとも使い捨てにされた天皇でもありました。
 倉橋麻呂は、愛娘「小足媛(おたりひめ)」を孝徳天皇に嫁がせていた縁もあってか、この悲劇のつなぎ政権において左大臣まで登り詰めております。
 そもそも彼は歴代蘇我政権における重臣でもありました。
 20年ほど前の推古天皇三十二年、蘇我馬子が天皇直轄領の「葛城県」の割譲を求める奏上のため「阿曇連」と「阿倍臣麿侶」を推古天皇の下に遣わしておりますが、一説にこの阿倍臣麿侶は倉梯麻呂と同一人物とも言われているようです―『日本書紀(岩波書店)』注釈より―。
 ちなみにこの奏上は拒否されております。
 なにしろ倉梯麻呂―内麻呂:阿倍大臣―は、「四天王寺」の五重塔内に小四天王像を安置した人物です―『日本書紀』―。思うに、継体天皇や聖徳太子について詳しい『上宮記』のイデオロギーは、主にこの倉梯麻呂裔孫によって伝えられていたものではないのでしょうか。

 先に私は、『封内風土記』に記された仙臺城の築城伝説には『上宮記』に内包されたなんらかのイデオロギーの影響があるのではないか、と疑っておきました。
 継体天皇の時代に築城された「千代城」が、用明天皇の時代に千体の仏が安置されたことによって「千体城」と改められた――とする伝説は、阿倍倉梯麻呂を祖とする人たちによるものではないのでしょうか。
 もしかしたら、それは「定慧」が開基したと伝わる「洞雲寺(とううんじ)―仙台市泉区山の寺―」にも関係した人たちなのかもしれません。
 「中臣―藤原―鎌足」の長男とされる定慧は、使い捨ての孝徳天皇から賜った寵妃との間の子であるが故に、遣唐使として体よく国外に厄介払いされたとも考えられているわけですが、その寵妃は阿倍の娘であったとも言われております。
 つまり、『日本書紀』のその後の記述からみて、阿倍倉橋麻呂が孝徳天皇に嫁がせた娘、小足媛であろうと推察されるのです。

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 はたして、仙台平野周辺に勢力をふるった人たちの中で、阿倍倉梯麻呂を祖と仰ぐのはどの一派でしょうか。
 「陸奥安倍一族」、あるいは、気仙郡司の「金為時(こんのためとき)」なり「金為家(ためいえ)」を輩出し、平安時代に衣川安倍氏と密接に勢力伸長を遂げた「金(こん)一族」あたりでしょうか。
 ちなみに、仙台平野某所の今野家もおそらくその末裔と思われますが、とある路傍の馬頭観音にかわいい人参を供え続けている家があります。どこまで遡れるものかはわかりませんが、古くは馬に精通した「馬喰(ばくろう)―博労―」の家柄であったようです。
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