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屋上ヘリポート

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 仙台の官庁街にどこからともなくヘリコプターが飛んできました。

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 もしや、どのビルかのヘリポートに着陸するのでは・・・。

 都心の高層ビル屋上にヘリコプターが着陸する場面など、ハリウッド映画か西部警察でしか見たことがなかったので、思わず童心に帰ってドキドキしてきました。

 ドコモビルか、県庁か、はたまた先日完成した合同庁舎か・・・。私は慌ててデジカメを構えました。

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 どうやら合同庁舎のようです。

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 無事着陸!

 素晴らしい!

 感動した!

 お見事でございます。実に良いものを見せていただきました。

仙台城下四ツ谷用水第一支流に想う

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 仙台の市街図を眺めていて、気になっていたことがありました。
 やや不整形ながらも碁盤目状に街路が張り巡らされた城下町にあって、「元寺小路(もとでらこうじ)―青葉区本町―」の周辺だけがその調和を乱していたことです。

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アエル最上階から望む「元寺小路」。仙台人には「家具の町」と言った方がしっくりくるかもしれません。

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勾当台公園(こうとうだいこうえん)の古図広場に掲示された「安政地図」

 もしかしたら元寺小路は、伊達政宗の町割り以前から存在した古道だったのではなかろうか、その形を生かさざるを得なかった理由もあるのではなかろうか、私はそう勘繰っておりました。
 そしてそれは半分正解でもありました。
 一帯は上町段丘と中町段丘の境界にあたり、元寺小路はその段丘崖の自然地形の縁辺に沿って線引きされていたのです。
 さらに元禄四~五年頃の地図や天明六~寛政元年頃の地図でよくよく見ると、それが水路に沿っていたこともわかります。
 ただ調べてみると、この水路はさしあたり仙台城下に縦横無尽に張り巡らされた「四ツ谷用水(よつやようすい)」の第一支流としての位置づけであったようで、だとすれば、この不調和な街区一帯も、碁盤目状の他の街区と同様、伊達氏以降に町割りされたものである可能性が高まります。

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アエル前の広場のモニュメント
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 この四ツ谷用水第一支流は、広瀬川上流の郷六(ごうろく)地区にて導水された四ツ谷用水本流から、覚性院丁で分かれて土橋通を南下、続いて北三番丁で左折して東進、新坂通を右折して南下、さらにまたすぐに北二番丁で左折して東進、その後二日町あたりで上町段丘にぶつかり、段丘のへりに沿って南下します。そして現在の勾当台公園内を流れ、自然地形の生かされた流路で件の元寺小路と並走していたようです。
 ちなみにその先はJR仙石線の旧経路と絡み合いながら「孫兵衛堀」なり「蒲生川(かもがわ)」などと呼ばれ、「鞭楯古塁(むちだてこるい)」、すなわち奥州藤原四代泰衡による対鎌倉戦の総司令部「國分原鞭楯(こくぶがはらむちだて)」の址たる「榴岡(つつじがおか)公園」の麓を流れ、現在の仙台育英高校から宮城野の乳銀杏、宮城野区役所の北西側を抜け、最終的には四ツ谷用水本流と同様、梅田川に収束されていったようです。

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四ツ谷用水第一支流のルート

 仙台の城下町は、「荒巻村」や「小田原村」などから成る「陸奥國分荘」に築かれたわけですが、その地名からすると中世以前は木ノ下の「陸奥國分寺」の荘園であったのか、少なくとも國分寺で開かれていた恒例の馬市を支える荒駒の放牧地が、この台地上に展開しておりました。
 そしてこの地は、伊達政宗による開府以前には國分一族が領しておりました。
 國分一族は、入り婿の形で最後の頭首となった政宗の叔父「盛重」が、政宗の逆鱗に触れてしまったことで滅ぼされてしまったわけですが、後に盛重の妾の子の「伊賀重吉」が、母の実家である木ノ下の國分寺院主坊に隠棲していたところを狩りの途次の政宗に発見されます。これを憐れんだ政宗は母子を保護し、荒巻村の「西北ハ熊野堂ヲ境、東へそかひ形ニ車地蔵辺マデ手広ノ地」、すなわち、件の元寺小路に沿った上町段丘一帯を与えました。城下には国分衆の居住区―国分町―も整備されていたはずですが、伊賀重吉はおおよそこの元寺小路の左岸一帯を与えられたのです。
 もしかしたら、城下草創期に宗教施設―寺院―が集められたこのあたりには、國分家内の多数の反対を横目に伊達家からの押しかけ代官として強引に入ってきた「伊達彦九郎政重」、すなわち後の「國分彦九郎盛重」の居館でもあったのだろうか、などと勘繰っておりました。
 しかし、先日放映されたNHKのTV番組『ブラタモリ』の仙台編を視ていて、それは妥当ではないかもしれない、と考えさせられました。
 この番組の主旨を信じるならば、少なくとも仙台城下が乗る段丘面の台地上に國分氏時代の市街地など到底存在し得ないようであったからです。
 番組は、四ツ谷用水ありきで仙台城下が築かれた旨で語られておりました。
 すなわち、一般に台地上は地下水が地中深く、河川との高低差も激しく、多くの人口を養うには向いていないというのです。それ故に日本の大都市は主に沿岸部の河口に発展していったわけで、仮に内陸であっても、京都などのように、その発展には盆地や扇状地など水利に恵まれていることが必須条件であるというのです。
 したがって、内陸の台地上に当時としては全国有数の5万もの人口を擁する大都市の出現を可能にしたのは、地形を知り尽くした藩祖伊達政宗によって敷設された四谷用水の恩恵であった――、というのが番組の主旨でありました。
 なるほど、納得がいきます。
 だとすれば、四ツ谷用水敷設以前には、到底市街地など築かれようもなかったことでしょうし、水利の不自由さを鑑みれば多くの家人を抱えるようなVIPの屋敷も考えにくく、先の元寺小路もただの段丘崖のラインであったのかもしれません。聚落らしきものがあったとしても、せいぜい放牧に関係した作業小屋程度のものが点在した寒村に過ぎなかったのかもしれません。
 しかし、実はそう考えるのにも疑問が残るのです。
 何故なら、川村孫兵衛重吉による四ツ谷用水本流開削は、文献や古図などからおおよそ元和六(1620)年頃、すなわち、慶長八(1603)年の伊達政宗の入府後、約17年もの年月を経てようやく着手されたものと推測されているからです。
 念を押しておきますが、本流の“完成”ではありません。開削に“着手”されたのが政宗入府の約17年後なのです。
 なにしろ、政宗入府の際には、旧府城の岩手沢―宮城県大崎市岩出山町―などから2万~3万人もの家臣団なり商人なりが仙台城下に移転してきたものと考えられております。
 四ツ谷用水本流開削の着手すらされていない17年間、彼らの水利はどのように担保されていたのでしょうか。
 これはつまり、この段丘面の都市化にとって必ずしも四ツ谷用水の整備が前提ではなかったことを物語っているのではないのでしょうか。
 しかも、仙台城下の町割りは「芭蕉の辻」が起点であるわけで、もし、城下の都市生活に四ツ谷用水が必須であったのならば、本流に近い八幡町や北六番丁方面から町割りされて家臣団や商人らが張り付いていたはずではなかろうか、とも思うのです。

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仙台城下の発祥地にふさわしく、芭蕉の辻には天下の日本銀行があります。
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 「芭蕉の辻」が町割りの起点であった理由について、仙台圏の地質研究のスペシャリストたる奥津春生さんは次のように語っておりました。

―引用:奥津春生さん著『大仙台圏の地盤・地下水(宝文堂)』より―
例えば大町と国分町との交差点である芭蕉の辻を開発拠点としたのも、地盤と水の調和からみると、ここ以外に適地がないことを発見したからで、ここに今日の中心街発展の基盤があったわけである。これ以外の大部分の土地は低湿地で、常にじめじめした谷地の性質をもっていた。これは地表にわき出た湧水(清水)が数多くあったためで、清水小路、鹿の子清水、山上清水などの地名が残っているのはこのためである。
このような事情から、土地の開発には、まず堀を掘って、これらの湧水を誘導・排出して地下水面を下げる必要があった。ここに着目したのが初代伊達政宗で、当時のすぐれた土功家(土木技術者)である川村孫兵衛重吉に命じて用・排水の設計をさせた。その一部は着工され、四ツ谷用水の水路の基本形となったようである。重吉の構想は四代綱村の代になって孫にあたる子の吉(※ママ:元吉のタイプミス?)の手で能率的に進められ、四ツ谷堰、ずい道、用水堀が完成した。

 なにやら奥津さんは、水不足を前提とした『ブラタモリ』の主旨とは反対に、城下の建設にはまず“排水”があった、とみたようです。
 なにしろ40年前の論考なので、最新の研究結果に基づいたであろう『ブラタモリ』への指摘には心もとない部分があるかもしれませんが、私はむしろ奥津さんの見解こそが妥当に思えております。それでこそ3万もの領民が藩主に伴って一斉に城下に移住できたというものでしょう。
 中には、「清水小路や鹿の子清水などの清水は四ツ谷用水がもたらしたものではないか」、「城下の浅井戸が四ツ谷用水の副産物としてもたらされたという認識がなかったのではないか」、という指摘があるかもしれません。
 しかし、奥津さんは、「藩政時代に建設された四ツ谷用水の水路が走っている所では、人工的な地下水かん養の作用があるため揚水量が多くなり、一部には湧水もみられる」、とも語っておりますので、その点は十分折込済みのようです。
 それに乗じて私論をいうなら、四ツ谷用水の第一支流の原型は古来の自然河川であったのではないでしょうか。
 後に四ツ谷用水の一部とみられることになったその河川が、開府以前から中町段丘の地下浅部の礫(れき)層に自由地下水の帯水層をもたらしていたのではないのでしょうか。
 つまり、新しい城下町の建設にあたって、まずは芭蕉の辻周辺の湧水調整のために、中町段丘上を流れていた幾筋かの自然河川を最低限の土木工事で統廃合し、一流路に集約して宮城野方面に誘導・排出したものこそが、この四ツ谷用水第一支流だったのではないのでしょうか。

※末筆ながら、今回やや否定的に取り上げてしまいましたが、『ブラタモリ』は私の興味のツボをつく大好きな番組であることを付け加えておきます。

仙台城下町の原地形

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 書店で何気なく手にとった『仙台市史―通史編4:近世2―』に興味深い情報があり、思わず衝動的に購入しました。
 仙台開府以前にさかのぼった原景観が推定されていたのです。
 ベースは、元禄年間(1688~1704年)から享保年間(1716~1763年)にかけて書かれたとされる『東奥老士夜話(とうおうろうしやわ)』の記述ですが、市史によれば「このような開発談は、その時の苦労を強調するために、もとの状況を過度に悪く書いているものが多いが、『東奥老士夜話』の場合、現在の地形図や地質調査の結果と突き合わせていくと、ほぼ正確な記述であることが浮かび上がってくる」とのことで、結論からいうと、「全体に、現在の市街地は一部を除いて湿地だらけであった」ようです。
 なにやら、前回とりあげた、城下の建設にはまず排水が必要であった、としていた40年前の奥津春生さんの論は妥当であったと言えそうです。

―引用:『仙台市史―通史編4:近世2―』―
~かつての仙台では、段丘崖や断層に沿って、いたるところに地下水が湧き出していた。たとえば、長町・利府断層隆起帯の西端にあたる清水小路は、地名が示しているように湧水の多い場所であった。『東奥老士夜話』には当時、清水小路の屋敷にはおおかた「谷地」、すなわち湿地が残っていたと記されている。そのほか、『東奥老士夜話』に湿地の存在が記述されている河原町の町裏と土樋真福寺通は、中町・下町段丘の段丘崖にあたり、勾当台と木町通の間にあったという大沼である「不動沢」は、上町・中町段丘崖の湧水がもとになっていたと考えられる。このような小河川や湧水の影響の少ない、北鍛治町より西、勾当台から南にある未開拓地が葦原の「野谷地」であったと考えられる。
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 やはり、四ツ谷用水の整備を待たずとも、藩祖伊達政宗、及び数万の家臣団なり御用商人らが入府するための最低限の地勢条件は整っていたのでしょう。
 また、市史の記述や図版に目を通していて、奥州藤原四代泰衡が、対鎌倉戦の総司令部を置いた「國分ヶ原鞭楯―現:榴岡(つつじがおか)公園―」周辺の原地形にも興味をそそられます。
 せっかくなので、そのあたりも市史から引用しておきます。

―引用:前掲市史―
 たとえば、榴ヶ岡は上町段丘の一部である。だが、長町・利府断層線の西側には幅約一キロメートルの隆起帯があり、その上に位置する榴ヶ岡は、台原段丘に相当する高さに押し上げられ、標高四〇メートルを超す独立丘陵状の地形となっている。市街地北部を東流する梅田川(藤川)の水はこの榴ヶ岡丘陵に行く手を阻まれ、その丘陵北東に渓谷を形成して、東に抜けている。四方に「類山」がないというのは―注:『東奥老士夜話』の記述のこと―、城の防御上問題となるような、榴ヶ岡に連続した高地がないことをいっていると考えられる。かつて藤原泰衡が源頼朝の軍を阻むためにここ榴ヶ岡に鞭楯を置いて、丘陵の東を回る当時の幹線道である奥大道を押さえようとはかったが、これも榴ヶ岡のこうした地形を考慮してのことであったのだろう。このような地形からみて、梅田川に増水が起きると、榴ヶ岡北東の渓谷が隘路となり、あふれた水は容易に清水沼に流れこんでいたと考えられる。その結果、清水沼は「大沼」となって、西の方へ広がり、その水は榴ヶ岡西の鞍部を越えて南西の連坊小路まで続いていたのであろう。

 ということは、梅田川にわずかな細工をするだけで北部から西部を溢水させることが出来ることになります。
 なにしろ、一帯は荒駒の馬柵(まぎ)であり、兵の頭数さえあれば即席で国内随一とも評された奥州馬の騎馬軍も編成できたはずで、当然泰衡には攻守に俄然優位となる目論見もあったことでしょう。
 都市化された現在では想像し難いものがありますが、榴ヶ岡丘陵は城塞として思った以上の好立地であったようです。
 仙台に城を築くことになった伊達政宗は、本来この榴ヶ岡丘陵を第一候補に考えていたものの、徳川家康との駆け引きの結果、現在の青葉山に築くことになった旨の伝説が存在しますー『仙臺名所聞書』ー。
 もし、榴ヶ岡丘陵に居城が築かれていたならば、おそらくは城を中心とした町割りが施され、現在とはだいぶ様相の異なる市街地になっていたことでしょう。

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いにしえの不動澤の周辺―仙台市青葉区:その1

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 仙台市青葉区春日町に、その町名由来となった「春日神社」があります。
 往古、櫓丁(やぐらちょう)―現:同区立町―の「柳清水」のほとりに鎮座していたものが、安永五(1776)年四月十七日の町内全焼の際に類焼したそうで、同九年の三月には再興して近年に至ったものの、昭和20(1945)年七月十五日の仙台空襲で全焼、のち、昭和34(1959)年の十月に復興遷座し、現在に至るようです―昭和29年版『仙臺市史』・宮城県神社庁HPより―。
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 この春日神社の御神体は、翁の面二個であるとされているようなのですが、思うに、本来の御神体は旧鎮座地の「柳清水」そのものであったのではないでしょうか。

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春日神の顕現・・・?
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 「柳清水」は、藩政時代の仙台城下において、「山上清水―青葉区八幡―」、「鹿の子清水―青葉区米ケ袋―」ととも、「仙台三清水」に数えられた清水でありました。
 元禄八年頃に著された『仙臺鹿の子』には、「元やくら丁本木町の近所北側の邊より清水出る國分町邊にて底樋を通して此水を呑む」とあり、明治32年の増補版の大内源太右衛門なる自称平民による注釈には「(按)今の元櫓丁之れなり之の水を柳清水といひ今尚清泉わき出て盡くるとなし」とあります―復刻版『増補 仙臺鹿の子 全 (仙台郷土研究会)』―。
 藩政時代にはよほど重宝した清水であったようです。
 また、この春日神社の由緒には、「文治年中源義経の奥州下向の節、同社に詣でたる時、此の柳に駒を繋いだので、“駒つなぎの柳”ともいわれた」というくだりがあります。
 もちろん、実際に義経が立ち寄ったのか否かはわかりませんが、仮に文治年中に駒をつなげるほどの柳がその地にあったのだとすれば、その地が当時既に湿潤であったことを示唆します。本来乾燥しがちな台地上なわけですから、そこに湧水があったと考えるのが自然でしょう。
 だとすれば、この伝説は柳清水の恩恵が藩政時代以降の四ツ谷用水の副産物ではなかったことを物語っていたことになります。

 さて、この清水の水源として、私は『東奥老士夜話』が伝える「不動澤」を疑っております。
 『東奥老士夜話』は、「勾當の臺と木町通の間。不動澤と申候而大沼のよし。道家源左衛門屋敷裏に。不動澤の跡御座候よしなり。」と、仙台開府以前の原景観として勾当台(こうとうだい)と木町通の間に「不動澤」と呼ばれた大沼が存在していたことを伝えております。
 柳清水からみて、北方1キロメートル弱ほどになるのでしょうか、実際の地質なり地形から推察を試みた『仙台市史―通史編4:近世2―』の図版では、おおよそ現在の仙台市役所北西部一帯が水色でマーキングされておりますが、同市史が語るように、上町段丘と中町段丘の境の段丘崖の湧水がもとになっているのでしょう。

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 前に触れたとおり、北二番丁を東進した四ツ谷用水の第一支流は、二日町あたりで上町段丘にぶつかり、段丘のへりに沿って南下しながら現在の勾当台公園内を流れていたわけですが、少なくともこのエリアの流路はいにしえの不動澤そのものを治水したものと言ってよさそうです。

 思うに、仙台開府以前の上町段丘と中町段丘の境の段丘崖沿いには、規模の大小こそあれ、この不動澤のような湧水が断続的に連なっていたのではないでしょうか。

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勾当台公園(こうとうだいこうえん)には四ツ谷用水の流路が復元されております。
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公園内では中町段丘と上町段丘の高低差が一目瞭然です。

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官庁街の真ん中にある勾当台公園は野外イベントも多く市民の憩いの場です。
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いにしえの不動澤の周辺―仙台市青葉区:その2

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 『東奥老士夜話』が伝える「不動澤」の浸水域は、現在の二日町(ふつかまち) ―青葉区二日町―のほぼ全域を占めていたようですが、この町のとある裏道を入った公園の片隅に、「村境榎(むらさきえのき)神社」なる祠が祀られております。

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 なにしろすぐに大沼と化すような場所であったようですから、古くからの神社があったとは考えにくいものがあります。とすればこの神社の勧請は不動澤の治水後のこと、すなわち藩政時代以降のことなのだろう、と思わざるを得ないわけですが、案の定、実は第二次大戦前には違う場所にありました。
 昭和29年版の『仙臺市史』によれば、「北一番丁を勾當台通りから少し西に榎の古木があり、下に村堺榎神社の小祠があった」とのことで、かつては仙台市役所のあたりにあったようです。
 その地は、西から東に走る北一番丁の道筋が中町段丘から上町段丘の勾当台(こうとうだい)に乗りあがっていく場所であり、藩政時代には四ツ谷用水の第一支流が自然地形に逆らわず流路を曲げている場所でもありました。
 思うに、おそらくは往古の不動澤が生み出していた大沼のほとりでもあったことでしょう。

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 ご神木と思しき榎の古木は戦災で焼失しており、神社そのものも昭和29年発行の『仙臺市史』上では「廃社」の条に挙げられております。
 平成27年1月15日付「河北新報夕刊」のシリーズ記事「までぇに街いま」によれば、現在のそれは昭和30年代に地元の「二日町親和会」によって再興されたものであるとのことでありました。
 遷座前の「村境榎神社」の鎮座地について、前述同市史には「昔仙臺と荒牧邑との堺であつたという」と記されております。
 一方で、木村孝文さんの『青葉の散歩手帖(宝文堂)』には、「小田原村と荒巻村との村境であったという」とあり、前述夕刊記事や同社境内の石碑に刻まれた由緒にもその旨が刻まれております。
 はて、「仙臺と荒牧邑の堺」と「小田原村と荒巻村との境」とでは少なからず趣が異なります。この齟齬はどう捉えるべきでしょうか。
 もしかしたら、早くに仙台城下に組み込まれていた小田原村の一部が荒巻村と接していたところの境界、ということなのでしょうか。
 『仙臺名所聞書』や『残月臺本荒萩』によりますと、仙台城下は、往昔の荒巻村・小田原村・南目村・小泉村・根岸村の「五ケ村入り合いの地」であったようです。
 両文献とも、城下におけるそれら五ケ村各々の境界について記しておりますが、『残月臺本荒萩』の記す荒巻村と小田原村の範囲は次のとおりです。

―引用:『仙臺叢書(仙臺叢書刊行會) 復刻版(宝文堂)』所載『残月臺本荒萩』―
一 御城下は。 宮城郡國分荒巻村。小田原村。南目村小泉村、名取郡根岸村。以上五ケ村入合の地なり。
一 荒巻分は。 東照宮より南へ。御宮町・六番丁西側斗り、又同社より北六番丁を西え八幡町限り。中島丁淀川岸限り。川内皆御城半分、片平丁米ケ袋、北は杉山臺南は廣瀬川岸限り。若林御藏あてに西通。東は東七番丁うら六道辻。東六番丁を限り。皆々荒巻村也。右之内に。小名多し。
~中略~
一 小田原村分。 一西は東六番丁通。御宮町東裏。荒巻村境切。南は原の町。鐡砲町北裏切。西は東七番丁車地藏より南え。東七番丁通。夫より六番丁六道の辻通。西の方に成て。荒巻村境より東は皆小田原村分也。右の内小田原といふは。東北は野を限り。西は御宮町東うら切。南は御旅宮北裏。東六番丁東うら鐡砲町北うらより。東原ノ町御米藏。北向小田原通を押廻。西の方皆小田原といふ也。

 やや文脈の解読に難儀するものの、これを見る限り、荒巻村と小田原村の境は、「東照宮」から南に延びる東六番丁の東裏、すなわち宮町通の東裏を、鉄砲町の北裏の「車地蔵」につきあたるまでの線がそうであり、もしかしたら、それより南の「六道の辻―現在のJR線北目ガードあたり」まで延びているようにも見えます。つまり、東七番丁と東六番丁の間のみが、小田原村として凸状に南隣りの南目村に食い込んでいるかのようにも読み取れます。
 いずれ、このラインが荒巻村と小田原村の境界であったなら、二日町の村境榎明神はこのライン上のどこかから遷座されたということになります。
 一方、安永七(1778)年頃に書かれたであろうこの『残月臺本荒萩』よりもさらに70年~90年ほど遡った元禄年間(1688~1704)頃に書かれたであろう『仙臺名所聞書』は次のように記します。

―引用:『仙臺叢書(仙臺叢書刊行會) 復刻版(宝文堂)』所載『仙臺名所聞書』―
~荒巻村権現の社より。南へ六番丁通り之邊迄。同六番丁通を西へ。二日町東裏切に南へ。高城通を同心町と云。同心町より東三番町通りへ。いれ合新傳町北裏に付東五番町邊を。清水小路六道辻六番町と。七番町の間の邊より。若林御米藏當に。西の分米ケ袋川内北山杉山共に。荒巻之分なり。小田原村西は荒巻村切。南は原の町通り鐡砲町北裏切。西の方にて車地藏より・南へ七番丁六道辻通りへ出る。荒巻村東の分は。小田原分なり。~

 荒巻村と小田原村の境界については特に変わりないように見えますが、目を引くのは、荒巻村の西端が二日町の東裏までとされているところです。先の『残月臺本荒萩』では八幡町まででありました。
 もう一つ文献をみてみましょう。元禄八(1695)年頃と推定される『仙臺鹿の子』には次のとおり記されております。

―引用:『復刻版 増補 仙臺鹿の子 全 (仙台郷土研究会)』―
御府は五ケ村入合の所なり荒巻村小田原村南目村小泉村根岸村なり荒巻権現の社より南へ六番丁通り邊まで同六番丁通を西へ二日町東裏切に高き通を同心町へ同心町より東三番丁通りへ入り新傳馬町北裏に付き東五番丁邊を清水小路六道の辻六番町と七番丁の間の邊より若林御米藏あてに西の分米ケ袋川内北山杉山共に荒巻村まて小田原村西は荒巻村堤切り東は原の町通り鐡砲町裏切り西の方にて車地藏より南へ七番丁六道の辻通りへなり出て荒巻村界より東の分は小田原村なり~

 ここでも八幡町ではなく二日町の東裏が境界となっているようです。
 これらを咀嚼するに、おそらく、成立の古い『仙臺名所聞書』と『仙臺鹿の子』が仙台開府後比較的初期における城下隣接各村の残存部分の境界を記しているのに対し、成立が新しい『残月臺本荒萩』の方は、むしろ仙台開府以前の城下町域における古い村域を記しているのでしょう。
 そう解釈することによって、村境榎明神が「仙臺と荒巻邑の境」でありながら「小田原村と荒巻村との境」であることの意味がみえてきます。
 つまり、古くは「小田原村と荒巻村の境」に鎮座していた村境榎明神が、なんらかの事情によって二日町、すなわち「仙臺と荒巻村の境」に遷されたということなのでしょう。
 そしてそこは、不動澤が生み出す大沼のほとりであったと思われます。
 それを前提に推論を展開するならば、おそらく、「村境榎明神」の旧鎮座地は、鉄砲町から南、「六道の辻」迄の東六番丁沿線東側、すなわち、「谷地小路」と呼ばれた東七番丁沿線の西側であったのものと思われます。
 何故なら、「谷地小路」の名が示すとおり、そのあたりは梅田川の増水にともなう清水沼の氾濫域であったと思われるからです―平成版『仙台市史 通史編4 近世2』―。

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 『仙臺名所聞書』や『仙臺鹿の子』と同時代に書かれたと思われる『東奥老士夜話』には、「原の町北裏清水沼むかしは大沼にて。西の方へ押廻し。孝勝寺通邊は不及申。連坊小路のあなた迄。見切かたきほどの沼やちに御座候」、「八十年ほど以前。原の町御取立西の方沼やち埋立上候。材木をわたして其上を通り候よし」、「谷地小路清水小路大やち」などとあり、清水沼の浸水域が現在の榴岡公園西側から仙台駅東口を経て連坊小路のあたりまで広がっていたことを伝えております。
 おそらくは、その浸水域自体が荒巻村と小田原村、はたまた南目村の村境とされ、その水害への鎮めの水神が村境の標となっていたのではないのでしょうか。
 もっといえば、「六道の辻」こそが、村境榎明神の名残の地名であるのではないでしょうか。

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 「六道の辻」について、先の『仙臺鹿の子』には「六道の辻は清水小路北詰の角をいふ六方へ六筋わかりたる街なれば六道の辻といふ又或る説に來世六道を此所へ立つ故に六道といふ此説たしかならず」とあります。このたしかならぬ説の「来世六道」云々にこそ、私は「村境」と通じるものを感じるのです。
 いずれ、城下の建設に排水が必要となったとき、すぐに大沼を生み出してしまう不動澤のほとりにも同種の神祀りが必要とされて分祀ないし遷座されたか、あるいは不動澤のほとりに古来鎮座していたなんらかの祠に六道の辻の神仏が合祀されたのではないのでしょうか。

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 『仙臺鹿の子』には、荒巻村の境として「二日町東裏切に高き通を同心町へ」とありましたが、この「高き通」は間違いなく勾当台に連なる上町段丘上のラインでしょう。
 なにしろ市役所付近は、中町段丘上の北一番丁が上町段丘、すなわち勾当台に乗りあがっていく場所、すなわち不動澤の推定浸水域の東端のほとりにあたります。
 村境榎明神は、本来は谷地小路や不動澤の水害を鎮める水神として祀られていたのものが、結果として村境であったのではないか、と私は推測するのです。

ムラサキの神への試論

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 昭和29年版『仙臺市史』は、「村境明神」なる項を設け、「往時の村境に立っていた明神~」として、「連坊小路の紫明神、本櫓町の紫明神、市役所構内の榎明神等々」、「城取明神」、を列記しております。
 しかし、管見のかぎり、「村境」なり「紫」なりと表記される「ムラサキ神」が、必ずしも村の境に祀られていたようには思えません。「村境」の字面に振り回されてはいけない気がしてなりません。
 例えば、松島町高城の「紫神社」などは、本来は「松島明神」であったものが治承四(1180)年現在地への遷座の後に「村崎明神」に改められたといいます。
 いみじくもそれは、仙台市青葉区春日町の「春日神社」と同様、文治年間(1185~1190)の源義経奥州下向伝説に彩られており、すなわち、奥州下向の源義経が立ち寄った際に、境内のフジ数百株が紫に咲き乱れていて紫の雲がたなびくようであったので、「村崎明神」の名が「紫明神」にあらためられた、ということでありました―『宮城郡誌』・昭和35年版『松島町誌』―。

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 おそらく、フジのくだりは「ムラサキ」の名称からの後付けでしょうが、この松島明神を安倍宗任が配流先にても崇敬していた事実や、宗任の兄、安倍貞任の後裔を称する「藤崎氏」が「藤(ふじ)」の一文字を冠している事実を鑑みるならば、これをいたずらに軽んじるわけにもいきません。
 なにしろ、私が、安倍貞任後裔氏族の祖「安日―安日彦―」との因果を疑っている越の魔王「阿彦」の伝説の中で、越中の地主神「姉倉比賣神」は、神の水として最も優れているのは「藤井」の水であると神託を下しておりました。
 そして私は越中や丹後における探索によって、「藤」が「比治の眞名井」の「比治(ひじ)」の意とされていた例も知りました。古来高貴な色とされてきた「ムラサキ」ではありますが、もしかしたらその根本は「藤」の言霊に秘められたなんらかの神性を示唆する隠語なのかもしれません。
 それらの事情を鑑みるならば、強い神威を持つ神があえて魔除けの神徳を期待されて村境に祀られたものは、すべからく「ムラサキ明神」などと呼ばれたものかもしれませんし、あるいは、ムラサキを冠された神のすべてが松島明神と同じ神で、その本性は黄泉の国との境界を担う「岐神」なのかもしれませんが、真相は私にはわかりません。
 とりあえず、現状の私個人の仮説としては、ムラサキ明神には成立過程の異なる幾とおりかが存在するのではないか、と想定しております。

 具体的には、おおよそ、次のように分類を試みるものです。

1、松島明神系の紫明神。
  松島明神と同じ神が、松島明神と同期して紫明神と呼ばれているもの

2、志波明神が変質した紫明神。
  本来「志波(しば)明神」であったもの
 
3、祭神の如何に関わらず、村境に祀られたもの

 各々補足をしますと、「1」は、松島の地主神である松島明神を勧請した神社が、松島明神の紫神社化に合わせてムラサキ明神を称し始めたのではないか、という意味です。
 「2」は、本来は「志波(しば)大神」、すなわち宮城郡の名神大社たる「志波彦(しわひこ)神」なり、栗原郡の名神大社たる「志波姫(しわひめ)神」なりであったものが、同音異字の「柴(しば)大神」と表記されているうちに、その表記の類似性から「紫(むらさき)大神」と誤読、ないし誤表記されたものが定着してしまったものもあったのではないか、という意味です。
 この着想は、鹽竈神社の社家を勤めたこともある七ヶ浜町東宮浜の「柴(しば)家」の氏神「“紫”根明神」の祭神が、「志波彦神」であったことから得たものです。
 この柴家の氏神の表記については、「紫(むらさき)根明神」であったり「柴(しば)根明神」であったりと混乱がみられます。おそらく「柴(しば)」が正解でしょう。
 柴家は、本来「志波姓」で表記すべきものを、神号と姓を同じくすることを憚って「柴姓」にしたと代々言い継がれているようです。
 逆に、「志波大神」自体の発祥として、本来「紫(むらさき)明神」であったものが「柴(しば)明神」となり、やがて「志波」が当て字されたことも考えてみましたが、松島明神の紫明神化伝説が文治年間のこととされているのに対して、それ以前の『延喜式』で既に「志波」で表記されているので、可能性としては低いでしょう。
 最後にもう一つ、「3」はそのまま、如何なる神かを問わず、村境に祀られたものがすべからく抽象的に「村境明神」と呼ばれたものもあったのではないか、という意味です。

 鶏が先か卵が先か、といったような部分もありますが、ムラサキ明神の属性はこれらが相互に混乱してきたのではないのでしょうか。

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は天照大神の荒魂ではない?

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 昨年のことになりますが、書店で見かけた大和岩雄さんの『日本神話論(大和書房)』に目を通してみると、撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)が天照大神の荒魂ではない旨の論が展開されておりました。あまりに衝撃を受けた私は迷わずその書籍を購入しました。
 撞賢木厳之御魂天疎向津媛は、『日本書紀』の神功皇后摂政前紀において仲哀天皇が熊襲征伐をしようとした際に現れた神ですが、通説では、その後神功皇后が難波に向かう際に現れた天照大神の荒魂のこととされております。
 この天照大神荒魂を瀬織津姫のこととして論を展開していたのが『エミシの国の女神(風琳堂)』の菊池展明さんでありました。
 『神道五部書』の『倭姫命世紀』の伊勢荒祭宮の項や『大和志料』の語る広瀬神社の項における荒祭神社が、荒祭宮の祭神を「皇大神宮荒魂」なり「天照大神の荒魂」であるとした上で、「瀬織津比神」と同体であることを記していたことが最大の根拠でもありました。
 瀬織津姫は天照大神の荒魂であるから、その天照大神の荒魂と同じとされている撞賢木厳之御魂天疎向津媛も当然瀬織津姫のことである、という前提は、菊池さんの瀬織津姫論に欠かせないものとなっております。
 およそ10年ほど前、『エミシの国の女神』の読後、その出版社である風琳堂の社長、すなわち通称風琳堂主人さんに問い合わせをして直接瀬織津姫について学んだということもあり、瀬織津姫は撞賢木厳之御魂天疎向津媛であって、かつ天照大神荒魂である、ということは私の中で基礎認識となっておりました。
 しかし、大和岩雄さんは、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛は天照大神の荒魂ではない」とも受け取れる論を展開していたのです。
 厳密にいえば、大和さんが明記しているのはあくまで「撞賢木厳之御魂天疎向津媛は広田神社の祭神ではない」ということなのですが、その理由に天照大神の荒魂を撞賢木厳之御魂天疎向津媛とする通説への否定が含まれております。
 そもそも、この通説が何に因るものなのかというと、幕末の国学士鈴木重胤の『日本書紀伝』―文久二(1862)年―の主張にある旨を大和さんは語っております。
 岩波書店版の『日本書紀』は、「天疎向津媛」について頭注で「~天照大神の荒魂と同じか~」と「か」を付しながら鈴木重胤の説を引いているわけですが、小学館版の頭注は「天照大神の荒魂をさす」と鈴木重胤の説を全面的に受け入れております。
 大和さんによれば、鈴木重胤は国学を政治利用していた国士で、長州藩士などのいわゆる「勤皇」の志士に影響を与え、文久三(1863)年に反勤皇派によって自宅で斬殺された人物なのだそうです。
 そのような鈴木重胤にとって、伊勢神宮の祭神は「皇祖神天照大神」でなければならなかったわけですが、『紀』が伊勢の神として「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」という“天照大神ではない”神名を書いているので、根拠もないのに荒魂説を主張し、広田神社の祭神に仕立てたのだそうです。
 参考までに、大和さんが掲げる「荒魂説に根拠がない」理由は以下のとおりです。

―引用:『日本神話論』―
一、『紀』の神功皇后摂政前紀は、「伊勢国の百伝ふ渡逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神」と、明記しており、伊勢神宮の所在地の神であり、どこにも摂津国の広田神社との関係は記していない。
二、神功皇后紀の摂政元年二月条に、「『我が荒魂をば、皇后に近くべからず。当に御心を広田国に居らしむべし』と、天照大神が言ったとあるので、勤王の国士を認ずる鈴木重胤は、伊勢神宮の祭神は「天照大神」という神名以外はないという先入観で、同じ神宮皇后紀に載る伊勢神宮の祭神の「荒魂」に、強引に結び付けたのである。「荒魂」の「荒」を『「遥」に后ひ居たまふ義』などと書いて、まったく意味が違う言葉を無理に結び付けており、説得力がない。
三、広田神社は『延喜式』「神名帳」に載る「名神大社」で、西宮市大社町に鎮座する。『住吉大社神代記』には、「広田社の御祭の時の神宴歌」として、「墨江に筏浮かべて渡りませ住吉の夫」とあり、伊勢神宮ではなく住吉神社にかかわる神社である。神功皇后摂政前紀の新羅遠征伝承に、住吉神が登場しているから、住吉神に関係がある広田神社の神が、伊勢神宮の神の荒魂になったのであって、「荒魂」は伊勢に鎮座する「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」ではない。
四、神功皇后摂政前紀はこの記事に続けて、「尾田の吾田節の淡郡に居す神」を書いているが、この「淡郡」は志摩国であることからも、その前に書かれている神が伊勢の神であることはあきらかである。
五、決定的なのは「神風の伊勢国の百伝ふ渡逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神」と伊勢神宮の祭神であることを明記している事実である。この事実を無視して摂津国の生田(ママ:広田か?)神社の祭神にするのは、暴論である。しかしこの暴論が通説化しているのは、伊勢神宮の祭神名は「天照大神」以外にはないという常識が定着しているからである。

 なるほど、あらためて『日本書紀』に目を通してみましたが、たしかに撞賢木厳之御魂天疎向津媛を天照大神の荒魂だとする根拠はどこにもありません。
 また、神功皇后の時代における天照大神が必ずしも伊勢の神と認識されていたとは限らないかもしれません。
 さて、このあたり、『古事記』はどう書いているのでしょう。
 なにしろ、撞賢木厳之御魂天疎向津媛は、『日本書紀』においては熊襲征伐をもくろむ中で現れましたが、『古事記』では現れておりません。
 しかし、同場面にて神名を尋ねられた神、すなわち「底筒男・中筒男・上筒男の三柱―いわゆる住吉神―」は、ひとまず「天照大神の御心なり」と語っております。私などはこれをもって荒魂とみるべきかとも思うのですが、『日本書紀』において名を顕された神には天疎向津媛と住吉神以外にも、「尾田の吾田節の淡郡にいる神」がおり、「天事代虚事代玉籤入彦厳事代主神」もおります。したがって、ここで無条件に天疎向津媛だけに決め打ちしてしまえば恣意的な理論と誹りを受けかねないことでしょう。
 いずれ、記・紀の記述だけからは大和さんの否定論に異を唱えるのは難しいと思いましたので、鈴木重胤の『日本書紀伝』が世に出た文久二(1862)年以前に「荒魂説」はなかったのか、を考えてみました。
 まず、根本史料たる『倭姫命世紀』と『大和志料』について考えてみますが、『大和志料』は明治期のものなので当然鈴木重胤説以降のフィルターにかかります。
 一方の、『倭姫命世紀』は偽書と言われようとも鎌倉時代には成ったものとされております。ここでは内容の真偽が問題ではなく、荒魂説の概念が鈴木重胤説以前に存在したかどうかに注目しているので、その部分についてはフィルターを通過していると言えます。
 また、菊池展明さんの『円空と瀬織津姫(風琳堂)』によれば、中世の成書とされる『天地霊覚秘書』には、神宮の「第一荒魂荒祭神」を瀬織津姫とし、この神は「焔魔法王所化也」といった記述がみられる、とのことでした。
 だとすれば、これも中世における瀬織津姫を荒魂とみる概念の存在を証明することになります。
 ただ、これを『真福寺善本叢刊 第6巻( 臨川書店 )両部神道集( 国文学研究資料館/編)』所載のそれで確認してみたところ、たしかにその旨は翻刻されているのですが、底本現物の写真をみると、当該部分は欄外に補記されたものでありました。一旦成書となった後に何者かが補記したことは間違いありません。
 問題は、その補記がいつの時代に書き足されたものか、ですが、残念ながらそれを探る術はありません。
 ところで、ここで重要なことに気づきます。
 その『天地霊覚秘書』にせよ『倭姫命世紀』にせよ、「瀬織津姫」が「八十枉日神」であり「天照大神の荒魂―皇大神宮荒魂―」であるということは書いてあっても、それが「撞賢木厳之御魂天疎向津媛」のことだとはどこにも書いていないのです。

―『倭姫命世紀』より―
荒祭宮一座 皇大神宮荒魂。伊邪那岐大神所生神。名八十枉日神也
   一名瀬織津比神是也。御形鎮座。
 
 なにしろ、撞賢木厳之御魂天疎向津媛が瀬織津姫であるためには、まず撞賢木厳之御魂天疎向津媛が天照大神の荒魂でなければなりません。
 また、広田神社の祭神が撞賢木厳之御魂天疎向津媛であるためにも、その前提として撞賢木厳之御魂天疎向津媛が天照大神の荒魂でなければなりません。
 しかし、現在のところそれを裏付ける文久二(1862)年以前の情報を私は知りません。どうやら大和岩雄さんの論を受け入れるしかなさそうです。
 今後、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛=天照大神の荒魂」あるいは「天照大神荒魂=広田大神」という概念に立脚した瀬織津姫論については、よほど注意して文脈を読む必要がありそうです。

務古の水門に祭られた神々

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 撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)を天照大神の荒魂とみる通説が、幕末の国学士鈴木重胤の『日本書紀伝』に因むものとするのが大和岩雄さんの論でありました。
 『日本書紀伝』に目を通していないのでそれに因むのかどうかはわかりませんが、岩波書店版『日本書紀』の校注陣―坂本太郎さん・家永三郎さん、井上光貞さん・大野晋さん―には次のような言い分もあるようです。

―引用:『日本書紀(岩波書店)』―
~皇后が務古水門で祀った神神は、㈠天照大神、㈡稚日女尊、㈢事代主神、㈣住吉三神であるが、これは、皇后の新羅征討に先立ち橿日宮で名をあらわした、㈠五十鈴宮にまします神、㈡淡郡にまします神、㈢厳之事代主神、㈣住吉三神に対応する。~以下省略~

 「務古の水門(むこのみなと―摂津国武庫郡:兵庫県尼崎市―)」で祀られた神々は、「天照大神」、「稚日女尊」、「事代主尊」、「表筒男・中筒男・底筒男の三神―住吉三神―」、でありました。その際、天照大神は「我が荒魂をば~」と語り、反対に住吉三神は「吾が和魂をば~」と語っております。
 一方、仲哀天皇紀において、「群臣に詔して、熊襲を討つことを議らしめたまふ」ときに、橿日宮にて神功皇后に神託した神々は、その時点ではなんという神であるかを名乗っておりません。
 それが、のちの神功皇后摂政前紀において問われて初めて、「神風の伊勢国の百伝ふ渡逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命―以下:天疎向津媛―」、「尾田の吾田節の淡郡に所居る神―以下:淡郡の神―」、「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代主神―以下:厳之事代主神―」、「日向国の橘小門の水底に所居て、水葉も稚に出で居る神、表筒男・中筒男・底筒男の神―以下:住吉三神―」の六柱(?)の神名が明かされました。それで全てなのか、その他に神がいるのかどうかについては明かされておりません。もちろん、務古の水門で祀られた神々がそれらと同じ神々とも語られておりません。
 しかし岩波版の校注陣は、橿日宮で名をあらわした神々を務古の水門で祀られた神々にそのまま対応させました。

㈠ 天疎向津媛 → 天照大神―御心を広田国に居らしむべし
㈡ 淡郡の神 → 稚日女尊―活田(いくた)長峡(ながさ)国に居らむとす
㈢ 厳之事代主神 → 事代主尊―御心の長田国に祠れ
㈣ 住吉三神 → 住吉三神―大津の淳名倉(ぬなくら)の長峡(ながさ)に居さしむべ

 なるほどそのまま素直に受けとめておいてもよさそうではあるのですが、はたしてどうなのでしょう。㈢と㈣の神名はほぼそのままなので、さしあたり問題ないものの、なにしろ㈠と㈡を対応させるにはそれなりの理由を必要とします。仮に㈠は鈴木重胤の荒魂説を用いたとしても、㈡の「淡郡の神」は何故「稚日女尊」になるのでしょう。
 「淡郡の神」について、私などは「淡(粟)島神」などとも呼ばれる「少彦名命」あたりを頭に浮かべておりましたが、岩波版の校注陣は「粟島坐伊射波神社―伊雑宮か―」のことと捉えているようです。なるほど、妥当かもしれません。
 この淡郡の神について、卜部兼方の『釈日本紀』は、尾田吾田を地名として、延喜式神名帳の阿波国阿波郡の「建布都(たけふつ)神社」をあげているのですが、吉田東吾の『大日本地名辞書』は、志摩国答志(たふし)郡、「伊雑(いざは)宮」の項にこの箇所を引きます。
 さしあたり岩波版の校注陣は、鎌倉時代の『釈日本紀』の説を捨て明治期の『大日本地名辞書』の説を採っておりました。校注陣は、『皇大神宮儀式帳』や『延喜式大神宮式』などに同国同郡、粟島坐伊射波神社とあり、大神宮の遥宮とみえ、『倭姫命世紀』において倭姫命が伊雑の乎田にこの宮をはじめて造った、とあることを補強として、淡郡の神は「おそらくこれをさす」としているのです。
 とすれば、この校注陣は伊雑宮の祭神を生田神社と同じ稚日女尊とみなしていることにもなるわけですが、はたしてそうなのでしょうか。「橿日宮」で名をあらわした神々と「務古の水門」で祀られた神々とを同じ神々とみなせばそういうことになります。
 いずれ、それらの神々が同じ顔触れである旨は記紀のどこにも書かれていないこと、又、ここで出てくる淡郡の神が鎌倉時代の卜部氏に「建布都神」とされていたことは軽んじるわけにいかないように思えております。

杜の都から森の都を想う

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 「熊本地震」被災地の皆さま、このたびは大変な苦痛と先の見えない心労の日々をおくられていることと思います。謹んでお見舞い申し上げます。
 震度7のニュースがラジオで耳に入って以降、数日はテレビ・ラジオ共にNHKばかり視聴しておりました。
 NHKは緊急地震速報をそのまま全国に流していたため、仙台に居ながらも緊迫感だけは現地に同期しておりました。もちろん、次の瞬間にはほぼ間違いなく新たなインパクトに襲われる該当地域の方の切迫したそれとは比較にならないわけですが、少なくとも宮城県に住むものとしては、いちいち5年前の東日本大震災のあの感覚に引き戻されていた感がありました。
 それにしても震度七・・・。
 これはほとんどの人たちが一生涯体験することなどないであろう危険な最強震度でありますが、そんなものに二日連続で見舞われた皆さまの精神状態は如何ばかりのものであったのでしょう。
 一日も早く日常に戻れますよう、お祈り申し上げます。

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 少し熊本について語りたくなりました。
 東北人の私が、遠き九州の「熊本」という地名を初めて知ったのはいつのことなのか・・・。
 生まれながらに地図好きであった私でありますから、かなり幼い頃から知っていたことは間違いありませんが、案外「肥後てまり唄」の 〽 あんたがた どこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ ~ の歌詞から知ったのかもしれません。
 そんな私が、拙くも「都市地理学」に興味を持ち始めたのは40年ほど前になりますが、当時、日本の都市の人口ランキングをみていてひとつ気になっていたことがありました。
 「熊本」なる大都市の存在です。
 当時の日本の都市の人口上位20位は、おおよそそのまま人口50万人以上の都市でもあったわけですが、その中に熊本も含まれておりました。
 東京や大阪のような1000万人を超える巨大な都市圏域内であれば、母都市の市街地が広大に連続しておりますので仮に衛星都市であってもそのくらいの人口を抱え得るでしょうが、それ以外の地域であれば、たとえ県庁所在地であってもなかなか50万の壁は超えません。熊本市は熊本県の県庁所在地ではありますが、東京・大阪などの巨大都市圏はおろか、いわゆる太平洋ベルト地帯からも外れているわけであり、そこで50万もの人口を抱えているというのは実は異例なことと言って良いかもしれません。少なくとも、熊本が単なる県庁所在都市でないことはあきらかです。
 ちなみに、昭和五十(1975)年の国勢調査の内容を確認してみると、上位20都市は以下のとおりでありました。

1、東京、2、大阪、3、横浜、4、名古屋、5、京都、6、神戸、7、札幌、8、北九州、9、川崎、10、福岡
11、広島、12、堺、13、千葉、14、仙台、15、尼崎、16、東大阪、17、岡山、18、熊本、19、浜松、20、鹿児島

 この中で、札幌、仙台、鹿児島も巨大都市圏や太平洋ベルト地帯からは外れているわけですが、札幌と仙台は、福岡や広島と共に広域四大中心都市と呼ばれる都市でありますから特段不思議はありません。つまり、各々北海道地方や東北地方の政治・経済・文化の中心都市であり、例えば高等裁判所や管区気象台のような、各々の地方全域を統括するような国の出先機関や、大手企業の母店的機能の支社・支店が集中しておりますので、ある程度人口が多くなって当たり前なのです。
 それからすると、鹿児島はたしかに不思議であります。しいていえば鹿児島が維新立役者となった島津薩摩藩77万石の本拠であったことは大きいでしょう。
 実は、その薩摩への抑えとして重視されていたのが熊本でありました。
 現在の熊本は、関ケ原の戦いの後、その功によってこの地を与えられた加藤清正によって築かれたわけですが、幕府がここに名将加藤清正を置いたのは、最大に警戒しなければならない島津がその先にいたからに他なりません。
 このあたり、東北地方における会津に似ているかもしれません。
 豊臣秀吉による天下統一後の会津は、徳川家康と伊達政宗を分断する抑えとして蒲生氏郷や上杉景勝など名だたる武将が置かれていたわけですが、徳川政権下に至り、二代将軍秀忠の子保科正之がこの地に置かれました。当然、伊達への抑えの意味もあったことでしょう。保科正之は会津松平家の祖となったわけですが、以降会津若松は戊辰戦争で理不尽に蹂躙されるまで、奥州の要として君臨しておりました。
 それはともかく、直近の平成二十七年の国勢調査での人口は熊本が74万、鹿児島が60万ですが、雇用都市圏人口でみるならば熊本は100万を超え、70数万の鹿児島との差はだいぶ開きます。
 もちろんこの両都市は九州のみならず国内でも指折りの大都市と位置付けて良いと思うのですが、九州には、先に触れた福岡があり、更に四大工業地帯の一角を担う北九州工業地帯の母都市北九州もあったのです。それらの強力な引力に飲み込まれることもなく、特に熊本などは100万を超える雇用都市圏を維持しているわけですから、何か特別な理由がなくてはなりません。
 調べてみると、その理由を垣間見れるような情報がありました。
 現在NHK福岡局が担っている九州管内放送関係業務は、実は平成四(1992)年まで熊本局が担っていたのだそうです。旧陸軍の第六師団が置かれていたこともそうですが、実はかつての熊本には九州全域を管轄するような国の出先機関が集中していたのです。なるほど、現在の熊本大学は旧制第五高等学校でありました。熊本はわりと近年まで九州の広域中心都市的な立ち位置であったようです。
 熊本市民には、福岡に対する対抗心が強い方も少なくないようで、現在でも熊本こそが九州一の都市、と自負している方々もたくさんいらっしゃると聞きます。若い女性のファッションセンスに関しては、国内屈指の芸能人畑たる福岡よりもあか抜けていると耳にしました。
 あらためて九州の地図を眺めてみると、熊本は九州各地に最も均等に連絡できる場所だということに気づきます。
 外洋から奥まった内湾の島原湾は港に適しておりますし、外敵の侵入に対しても警護しやすく、何より海の幸に恵まれております。
 また、阿蘇の外輪山一帯に降り注いだ雨は、地下に浸透し20年もかけて平野部に達するのだそうですが、驚くことに、熊本の水道水はその地下水だけでまかなわれているのだそうです。

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 この地の利は、古代においてより魅力的であったはずで、おそらく阿蘇國造もそのあたりを利用して繁栄したのでしょう。
 思うに、もし九州が独立国で本州とも大陸とも交流しないでいられるなら、熊本ほど九州の首都にふさわしい場所はないのではないでしょうか。
 今回被災した阿蘇神社は、阿蘇國造の祖速瓶玉神―阿蘇津比古命―がその両親を祀ったことに始まるとされております。阿蘇國造の更なる祖は信濃國造の祖と同じ神八井耳命とされており、すなわちオホ氏の同祖系譜です。阿蘇神社へはいつの日か訪れてみたいと思っていただけに、今回の被災は実に残念に思っております。復旧が叶うことを、切に願っております。

長阿比古(ながのあびこ)

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 『先代旧事本紀』の「國造本紀」に、「長阿比古(ながのあびこ)」なる人物の名が見えます。「都佐(とさ)國造」の「小立足尼(おたてのすくね)」の“同祖”として引き合いに出されているのです。
 小立足尼は、「三島溝杭(みぞくい)命」の九世孫で、志賀穴穂朝―成務天皇?―の御代に都佐―土佐?:高知県高知市付近―の國造に定められたとのことですが、私の好奇心はむしろ引き合いに出されたところの「長阿比古」という名に向きます。言うまでもなく、「長髄彦(ながすねひこ)」なり「安日(あび)―安日彦(あびひこ)―」なり、あるいは「阿彦(あひこ・あびこ)」なりを彷彿とさせる名前であり、それらに対する何某かの示唆を期待してしまうからです。
 そのあたりの妥当性を探るべく、まず、同系の旨が明記されている「三島溝杭命」の属性についてなぞっておきます。
 「三島」は地名であり、つまり溝杭命は摂津三嶋―大阪府北東部―を本拠にしていた豪族であるわけですが、いみじくも当地には『延喜式』の「神名帳」に載る「溝杭神社」があります。同社が鎮座する茨木市―大阪府―のHPによれば、主祭神は「五十鈴媛命」と「玉櫛媛命」とのことです。
 「五十鈴媛命」は、『日本書紀』において人皇初代「神武天皇」の正妃となった「姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)命」のことで、「玉櫛姫命」はその母親です。玉櫛姫命は「三嶋の溝樴姫(みぞくいひめ)」とも表記されております。
 一方、『古事記』は、この「姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)命」を「比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)」と記しているわけですが、それが「三島湟咋(みぞくひ)の女(むすめ)」であることについても明記しております。
 つまり、神武天皇の正妃は、摂津三嶋の豪族である溝杭命の娘と“とある男性”が結ばれて生まれた娘であるわけですが、ここで注目しておきたいのは、その“とある男性”の素性、すなわち玉櫛姫の夫、すなわち神武天皇の舅(しゅうと)の素性です。
 『古事記』はそれを「美和の大物主神」とし、『日本書紀』も同じく「大三輪の神」としているわけですが、紀においては「又曰(またいはく)」とした上で「八尋熊鰐(やひろわに)」に化けた「事代主神」とも記します。
 事代主神は出雲の大国主神の子とされておりますので、大三輪の神の属性と重ねんとする『記』・『紀』のこのくだりには私としては十分得心がいくのですが、事代主神を鴨族なり葛城族なりと関わりの深い大和地方の地主神「一言主神」として出雲と切り離そうとする論者からすると、このくだりは捻じ曲げられた国譲り神話の副作用に映るようです。もちろん事代主神が鴨族なり葛城族によって祀られていたらしき痕跡は事実として認め得るべきことであり、言わんとするところもわかるのですが、殊更に出雲と切り離して捉えるべきではないとも私は考えております。

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葛城一言主神社
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葛城一言主神社には何故か祓戸社が二つありました。
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 ところで、『続日本後紀』に摂津国の人「長我孫子葛城(おさのあびこのかつらぎ)」という人物が同族三人と合わせて「長宗宿祢(ながむねのすくね)」を賜姓するくだりがあります。
 「長我孫子葛城」とは、いかにも前述の「長阿比古」を彷彿とさせる名でありますが、このくだりによると、長我孫子葛城は「事代主命八世孫、忌毛宿祢苗裔也」なのだそうです。長我孫子葛城自身が八世孫なのか、その祖先の「忌毛宿祢」が八世孫なのかは判然としませんが、いずれ事代主の子孫ではあるようです。
 先の都佐國造「小立足尼」は、事代主神の舅たる三島溝杭命の「九世孫」でありました。
 つまり、長我孫子葛城を事代主神の「八世孫」と捉えれば、両者は同世代ということになり、長我孫子葛城は『先代旧事本紀』に載る「長阿比古」と同一人物である可能性もあります。
 また、「八世孫」が忌毛宿祢のことを指していたのだとすれば、事代主神の系譜に「長」なり「阿比古―我孫子―」なりと称する人物が、ある程度信頼できる文献に記録された人物だけでも複数存在していた、ということになります。
 思うに、「ナガ」なり「アビ」は、この一族にとって継承すべきなんらかの重要な言霊なのではないでしょうか。「長宗宿祢」なる賜姓もその示唆に富むように思われます。「長」の称号を持つ系譜の「宗家」が宿祢姓を賜ったようにも解釈できるからです。
 事代主神に由来するものなのか、三島溝杭一族に由来するものなのか、少なくとも『日本書紀』の神功皇后摂政元年の務古水門(むこのみなと)のくだりで、事代主神は「吾をば御心の長田國に祠れ」と求めておりましたが、いみじくもその地名にも「長」の言霊が含まれております。
 また、溝杭神社周辺は「安威(あい)川」の流域となっており、三嶋溝杭一族はこの水系の用水に縁ある豪族とも考えられておりますが、「安威(あい)」の語感が「アビ」に似ているのは偶然でしょうか。
 『出雲と大和のあけぼの(大元出版)』の斎木雲州さんの聞き取り調査によれば、鳥取県米子の「粟嶋神社」付近に住む陸奥安倍一族の末裔と称する旧家の老人は、粟嶋神社に祀られている「スクナ彦―少彦名―」を「事代主神」のことであるとし、自分たちの先祖だとしておりました。
 度々触れているとおり、「秋田氏」や「藤崎氏」など、いわゆる「安倍貞任」の末裔を自称する一族は、自らの始祖を記・紀に登場しない長髄彦の兄「安日(あび)―安日彦・安日王―」であるとしておりますので、事代主神の系譜や関連する地名に「ナガ」なり「アビ」なりの言霊が適宜刻まれていることとも辻褄が合いそうです。

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三春秋田家は菩提寺の山号に「安日」を用いて憚りません。

 「長」が蛇を意味する「ナーガ」であろうとはよく論じられているところですが、「國造本紀」には、そのものずばり「長」を國名とする「長國造」の存在も確認できます。
 「國造本紀」によれば、志賀高穴穂朝の御代に「観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)」の九世孫「韓背足尼(からせのすくね)」を以て國造に定め賜られたのだそうです。
 太田亮さんは、『姓氏家系大辞典(角川書店)』の中で、「長國造」の氏姓を「長我孫」、或は「長公」とし、「都佐國造の長阿比古と同族」としております。
 また、安本美典さん監修・志村裕子さん訳の『先代旧事本紀[現代語訳](批評社)』は、「都佐の国造」の項にて「長阿比古と同じ先祖(阿波国那珂郡にあたる長の国造家)」と括弧書きの補足を加えて訳し、「長阿比古」を「長の国造家」の人物としております。
 その根拠については各々共に記しておりませんが、事代主神や三島溝杭命と「長」の言霊になんらかの因果があるとみるならば、至極妥当に思えます。
 長國は現在の徳島県南部の「那珂川」流域と思われるわけですが、「那珂川」の「那珂(なか)」は國名の「長」と無関係ではないでしょう。
 また、そのエリアよりやや北側の山間部に阿波國名方郡の延喜式内社の「御間都比古神社」があり、当地開拓の祖「御間都比古色止命(みまつひこいろとみこと)」を祀っているとされておりますが、この「阿波國名方郡」の「名方(なかた)」もそれに因むものでしょう。
 なにしろ、私は「ミマツヒコ」という名前が気になります。
 何故なら、『日本書紀』が「和珥臣(わにおみ)等始祖也」と記す人皇五代「孝昭天皇」の和風諡号が「観松彦香殖稲(みまつひこかえしね)天皇」であり、ここに「観松彦(みまつひこ)」の言霊が含まれているからです。
 一般に「イロト」は同母の弟なり妹なりを意味しますから、「観松彦色止命」が孝昭天皇の同母弟なり同母妹なりであった可能性、あるいは孝昭天皇の母系が「ミマツヒコ」なる人物の系譜である可能性を私は疑ってみるのです。
 あくまで私論ながら、以前私は、人皇二十六代「継体天皇」の妃「ハエヒメ」の記・紀における出自の齟齬から、阿倍氏こそが史上から自然消滅した和珥臣の本宗家ではないか、と疑っておきました。
 阿倍氏は、人皇八代「孝元天皇」の第一皇子の四道将軍「大彦命」を祖とする氏族でありますが、秋田氏や藤崎氏ら陸奥安倍一族が主張する系譜からすると、大彦命は長髄彦の兄安日と表裏の関係にあるという推察も可能です。
 同じく陸奥安倍氏の子孫を自称する先の鳥取県米子の粟島神社近隣旧家の老人は、長髄彦を大彦命のこととし、一方で自らの祖が事代主神であると発言されていたといいますが、先に触れたとおり、三嶋溝杭命の娘と結ばれる際の事代主神は「八尋熊鰐(やひろのわに)」に化けていたとされておりました。
 ワニの一面を持つ事代主神、その裔孫とみられる長阿比古が、和珥(わに)臣の祖でもある孝昭天皇の同母弟の可能性をも秘めた観松彦色止命の裔孫である長國造と同祖とされている事実は、はたして阿倍氏を史上から忽然と消えた和珥臣本宗家そのものであろうとみる私論の補強になり得るものなのでしょうか。
 検証不十分ながらもここに備忘録として記事化しておいた次第です。

小西幸雄さん著『真田幸村と伊達家(大崎八幡宮)』を拝読して

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 NHK大河ドラマ『真田丸』、毎週楽しく視聴させていただいております。
 主人公の真田信繁―幸村―を演じる堺雅人さんは、おらがまち―仙台―を舞台にした映画『ゴールデンスランバー』を観て以来大好きな俳優さんとなっております。
 当該映画でヒロインを演じていた竹内結子さんが、今回の大河ドラマでは茶々―淀殿―役として出演しております。奇しくも、映画同様、堺さんと奇縁な役柄であるところは面白いと思っております。
 それよりもなによりも、最も私のツボをついているのは信繁の父真田昌幸を演じる草刈正雄さんの演技です。三谷幸喜さんのうまさでもあるのでしょうが、あのどこか憎めない愛くるしいうさん臭さは最高です。正直なところ、このドラマを視るまで真田真幸には卑怯で不義理なイメージしかなく、あまり好きではありませんでしたが、草刈さんの怪演をみているうちに好感しかもてなくなってしまいました。考えてみれば、戦国時代にお家を守るためにはあのくらいの卑怯さも「さもありなん」なはずです。それを再認識させられております。
 さて、今回の放送―平成28年6月19日放送回―ではいよいよおらがまち仙台のお殿様、伊達政宗も現れました。
 ナレーションでも示唆されておりましたが、主人公の真田信繁―幸村―と伊達政宗は大坂夏の陣で一戦交えることになります。
 しかし、この両雄の戦いに決着はつきませんでした。いえ、あえて決着をつけなかったと考えるべきなのかもしれません。
 七年前、私は次のようなことを書いておりました。

~ 幸村は自分の娘をこの戦場きってのアイドルであり、最後のライバルでもある小十郎に託しているのです。これは、政宗に託したものと考えてよろしいでしょう。
 何故、幸村はたった今死闘を繰り広げた片倉小十郎に自分の娘を託すのでしょうか。
 相手は世に名高い血も涙も無い“狂気の政宗”の腹心なのです。世間が言うような“梟雄”政宗ならば、幸村の娘を手に入れたとなれば、それを盾に幸村を追い詰めてくることさえ考えられたはずです。単なる美談なのでしょうか。いえ、真田幸村の末裔は今でも宮城県内に連綿と生き続けておりますから、間違いなく事実なのです。
 大坂の陣当時の情勢を冷静に眺めてみますと、実は、政宗は天下の趨勢を掌握する生涯最大のチャンスを見据えていたと思われるのです。
 大坂の陣の際、政宗は娘婿である家康6男「松平忠輝」軍の参謀として参戦しております。政宗が幸村を追撃しなかったのは、この忠輝を危険極まりない幸村とぶつけるのを避けたとも言われております。
 幸村はその後総大将家康めがけてまっしぐらに突進し、あと一歩で家康の首を獲るところまで行きました。過激に考えるならば、もしかしたら政宗はそれを期待していたのでしょうか。
 しかし、その突進が誰も予想出来ないほどの意表をつくものであったことからすると、さすがに政宗も「幸村が家康の首を獲ってくれる」というところまでは期待していなかったことでしょう。
 それでも、あわよくば、そうなったときに幸村を味方にしておこう、という企みは少なからずあったことと考えられます。私は、もしかしたら政宗と幸村の間には密約があったのではないか、とすら考えております。政宗ならやりかねません。
 あるいは、時代の趨勢を見据えた幸村が、暗黙のうちに政宗の本音を読みとり娘を託したものかもしれません。
※ 拙記事「宮城県白石市――片倉小十郎の周辺の女性――」より
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 この記事から約6年、昨年入手した小西幸雄さんの『真田幸村と伊達家(大崎八幡宮)』に、実に興味深い説があることを知りました。

―引用:『真田幸村と伊達家(大崎八幡宮)』―
 それでは幸村は、なぜ阿梅の保護を片倉重綱に託したのであろうか。これについては、「片倉重綱の人柄を見込んでとする説」(『老翁聞書』、『仙台士鑑』、『史伝片倉小十郎景綱』)、「重綱の背後にいる政宗への期待説」(紫桃正隆著『仙臺領国こぼれ話』)そして「同じ信州、同じ諏訪神人という同郷同職説」(海音寺潮五郎)『実説武侠伝』)であるが、私が最も興味引かれる説は、この「同郷同職説」である。
 真田氏は信濃小縣郡真田郷の地士であり、滋野系海野氏の庶流とされている。滋野氏は早く中世武士としての位置を確保していたが、その一部は牧官という前代の職掌を離さず、依然として陰陽の業をよくする巫祝(ふしゅく)の徒として活躍した。やがて修験派の諏訪神人として、その布教に国々を歩いていたといわれる。(福田晃著『神道集説話の成立』)
 一方、片倉氏の出自は、「諏訪神氏分流白石藩主男爵片倉家系図」によると、その遠祖を建御名方神にはじまる片倉辺命は、信濃国諏訪部の守谷山の南麓に居住する国津神系の豪族であり、その一族は代々諏訪社大祝(おおはふり)・副祝を勤めてきた。鎌倉時代の弘安六年(一二八三)に死去した景継の代になって、はじめて片倉氏を称したという。
 このように真田氏と片倉氏とは、その祖が同じ信州の出身であるだけでなく、同じ修験派の諏訪神人であったという同郷同職の共通性を持っていたことから、両家は親しく交際し、幸村と重綱は懇意であった可能性があるのである。

 念のため、阿梅とは幸村の娘です。
 さて、なるほどこれは腑に落ちます。
 ただ、藩主政宗はなにしろ親戚縁者ばかりか父や弟を殺してまでお家を守ってきた人物です。いくら片倉家が政宗の右腕であったとしても、言うなればたかが家臣の同郷同職という縁だけでは徳川家康の命をあと一歩まで追い詰めた怨敵の子を匿うというリスクに対して首を縦にふったとは思えません。
 政宗は大坂方の浪人を多数召し抱えたとされておりますが、同書によれば、「いずれも幕府に届けたうえで行っている」のだそうです。
 ところが、「仙台真田家だけは、幕府に対しまったく秘密にしており、特別扱いであった」とのこと・・・。
 もしかしたら、政宗はこのことを知らなかったのでしょうか。いえ、それは考えにくいものがあります。
 何故なら、「仙台真田系譜」を信ずるならば、片倉久米介と名乗ることとなった真田大八―守信―が、片倉重綱の所領一万三千石のうちから、食客禄として一千石も分領されていたようだからです。
 小西さんは、「重綱の所領に対する比率の高さから考えれば、重綱には別途、政宗から御内侍金(ごないしきん)が出ていた可能性があり、しかも守信一代限りではなく、二代辰信(ときのぶ)の正徳二年までの九十七年間も支給されていたことからすれば、政宗の遺命から出ていると考えるのが妥当であると思われる」としております。
 そしてそこに至る顛末について次のように推測しております。

―引用:前述同書―
 ~幸村は、五月六日の道明寺の戦いの夜、阿梅を片倉重綱の陣所に投降させて、「明七日を決戦の日と定め、幸村の一身に代えて家康公御一人のお命を頂戴する覚悟である」ことを伝えたのではなかろうか。
 これに対して政宗は、大八はじめ幸村子女の保護を約束し、存分に働かれるように伝えたものと思われる。そして、この「武士の約束」こそが、食客禄千石の意味であろうと思われるのである。しかし、幸村は五月七日の決戦において、ついに今一歩のところで家康の首をとることができなかった。

 なるほど、あり得たかもしれません。

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 さて、同書のおかげでもうひと押し思うところが出てまいりました。それについては、稿をあらためて展開したいと思います。

伊達家による真田幸村遺児保護についての試論

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 大崎八幡宮―仙台市青葉区―が発行する「仙台・江戸学叢書」シリーズのナンバリング「65」として、昨年発行された小西幸雄さんの『真田幸村と伊達家』は、仙臺藩祖伊達政宗家臣の片倉小十郎重綱が大坂の陣において激戦を展開したばかりの敵方真田幸村からその娘「阿梅」の保護を託された理由として、次の3つの説があることを紹介しておりました。

1「片倉重綱の人柄を見込んでとする説」(『老翁聞書』、『仙台士鑑』、『史伝片倉小十郎景綱』)
2「重綱の背後にいる政宗への期待説」(紫桃正隆著『仙臺領国こぼれ話』)
3「同じ信州、同じ諏訪神人という同郷同職説」(海音寺潮五郎)『実説武侠伝』)
 
 いずれ劣らぬ魅力的な説でありますが、さしあたり、従前からの私論としては、「重綱の背後にいる政宗への期待説」が最も近いといえるのでしょうか。
 ちなみに著者の小西さんが最も惹かれるのは「同じ信州、同じ諏訪神人という同郷同職説」とのことでした。
 しかし、これらに疑問がないわけでもありません。
 何故なら、少なくとも同書の当該箇所だけでみる限り、いずれの説も幸村が重綱を選んだ理由にしかなってないからです。
 かつて私は、勇猛な幸村の遺伝子を政宗が欲した旨の推測を挙げておきました。
 しかし、政宗の切り札―であったろう―松平忠輝を失脚させるという、幕府側の先廻りによって、完全に野望が潰えた後も尚、系図を改竄してまで徳川家康の天敵血族を延々匿った政宗の動機は何であったのでしょうか。
 もちろん、その答えこそが小西さんが推察するところの「武士の約束」なのかもしれません。
 つまり、家康と刺し違えるつもりの幸村の覚悟を、重綱の陣営に投降した阿梅を通じて伝え聞いた政宗が、秘密裏に幸村の子女の保護を約束し、それを守ったのではないか、ということです。
 基本的に賛同するものですが、実は私の頭の中には別な角度からの思惑もよぎっております。
 結論から言うならば、このことはもしかしたら、信濃と奥羽をつなぐ古来の馬産文化に関わりがあるのではないか、と想像しているのです。

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白石城
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 かつて私は、「瀧澤(たきざわ・りゅうたく)」、「柳澤(りゅうたく・やぎさわ)」、「八木沢(やぎさわ)」という言霊の因果について論じておりますが、特に「藤原秀衡の八木沢牧場――その7:信濃系移民の気配――」という記事の中では、奥州藤原氏の牧場伝説が存在する仙台市泉区上谷刈八木沢地区に、かつての上谷刈村一村鎮守としての八木沢神社があって、その御神体が兜であること、一方、瀧澤一族ゆかりの信州上田の八木沢にはその名もずばり兜神社が存在すること、について触れました。
 言わずもがな、信州上田は真田家の本拠でもあるわけですが、いみじくも小西さんは次のように記しておりました。

―引用:『真田幸村と伊達家』―
真田氏は信濃小縣郡真田郷の地士であり、滋野系海野氏の庶流とされている。滋野氏は早く中世武士としての位置を確保していたが、その一部は牧官という前代の職掌を離さず、依然として陰陽の業をよくする巫祝(ふしゅく)の徒として活躍した。やがて修験派の諏訪神人として、その布教に国々を歩いていたといわれる。(福田晃著『神道集説話の成立』)

 真田家の祖先とされる滋野(しげの)氏の一部が、「牧官」なる前代の職掌を離さなかった、とあります。
 信濃の滋野氏は、紀國造の裔たる楢原國造の流れをくむ滋野朝臣が牧監―牧官―として信濃に下向したものとも伝わっているようですが、すなわち、勅営的な信濃の馬産業を管掌する一族であったと考えられます。
 もしかしたら、小勢力に過ぎない真田一族が甲斐の武田家から重宝されていたのは、戦巧者の側面もさることながら、むしろ、信濃の馬産業に関するなんらかの鍵を握る一族であったが故ではないのでしょうか。
 それを踏まえると、同書に列記された「真田左衛門佐幸村の子女」13名のリストに添えられたとあるさもない記述が気になり始めます。
 六女「御田」と四男「幸信」の菩提寺についての記述です。
 同書によって初めて知ったことなのですが、彼女らの菩提寺「妙慶寺」は、秋田県由利本荘市にあるようなのです。
 言わずもがな、由利本荘市の一帯、すなわち、かつての由利郡は、戦国時代にあっては信濃系移民による由利十二頭がしのぎを削っていたエリアでありました。
 唯一、信濃系ではなく地元勢力たる伝統を主張していた由利中八郎末裔の瀧澤氏についても、かつて触れたように遡れば信濃にたどり着くものと思われます。
 羽後國由利郡瀧澤邑―秋田県由利本荘市―に起ったとされる瀧澤氏は、元をたどれば信濃國小縣郡瀧澤邑―長野県上田市周辺―に発生した中原姓の瀧澤氏が羽後國由利郡に土着し由利氏を名乗っていた一族であったと推察されるからです―拙記事:「藤原秀衡の八木沢牧場――その6:瀧澤の由利氏」参照――
 いずれ由利郡は古来、信濃系移民が多く住む地域でありました。はたして御田や幸信の菩提寺がその由利郡に所在していることは偶然なのでしょうか。

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法体の滝

 御田の経歴について簡略に辿ってみたいと思います。
 彼女は伊達家に保護された阿梅と異なり、徳川方による残党狩りを逃れ転々と身を隠していたようです。
 やがて探索にかかり捕えられたわけですが、徳川方についていた叔父の真田信之―幸村の兄―のとりなしによって処分は軽減され、江戸に送られ大奥勤めをすることになったと伝わっているようです。
 なにやらこの大奥勤めのキャリアが縁となり、御田は久保田藩―秋田藩―に迎え入れられることになったようです。
 御田は、久保田藩主佐竹善宣の弟である宣家―宣隆―の側室となるわけですが、宜家との間に生まれた子重隆は、佐竹宗家の継嗣問題の事情で事実上の支藩である亀田藩の家督を継ぐこととなりました。
 亀田藩の藩主は本来岩城氏であるのですが、豊臣秀吉による北条征伐直後の混乱期に当代藩主が病死したことを受け、佐竹一族の人間が岩城家を継ぐ形になっていたようです。
 ともあれ、亀田藩主を継ぐこととなった重隆がまだ赤子であることもあってか、両親である宣家と御田も岩城氏としてこの藩に入ることになったようです。
 以上の御田の経歴はウェブ上で見かけた複数の情報を咀嚼してみたものですが、おしなべて出典についての記載がないため、どこまでが史料上で確認できる情報なのかは定かではありません。
 いずれ、その亀田藩の藩庁こそが由利郡に所在しました。
 いろいろな事情はあるにせよ、そもそも御田が由利郡を抱える佐竹家に見初められたのは、はたして大奥勤めの立ち居振る舞いだけが理由であったのでしょうか。
 伊達家は栗原郡を、佐竹家は由利郡を、各々が古来信濃系の移民の土着する独特な文化圏を抱えておりました。
 あくまで想像ですが、この文化圏の手綱をいかに上手く操るかは、藩政にとって極めて重要な命題であったとみております。
 奥州藤原王国滅亡の際、主君泰衡を侮辱した敵方の総大将源頼朝に啖呵をきった由利八郎が、それでも尚鎌倉の御家人として厚遇され、そのまま旧領の由利郡を任されたのも同じ理由ではないかと考えております。
 例えば、かの勝海舟は中国人について次のように語っておりました。

 「シナ人は、また一国の天子を、差配人同様に見ているよ。地主にさえ損害がなければ、差配人は幾ら代わっても、少しもかまわないのだ。それだから、開国以来、十何度も天子の系統が代わったのさ。こんな国体だによって、戦争をするにはきわめて不便な国だ。それだから日本人も、こないだの戦争〔日清戦争〕に大勝利を得たのよ。しかし戦争に負けたのは、ただ差配人ばかりで、地主は依然として少しも変わらない、ということを忘れてはいけないよ。―『氷川清話 付勝海舟伝 勝部真長編(角川書店)』より―」

 さすがは明治維新プロデューサー然の卓見ですが、戦乱の時代の領民も案外そんなものなのではないでしょうか。
 ましてや、伊達仙臺藩領の栗原郡なり佐竹久保田藩領の由利郡なり、古来栗駒山麓一帯に繁栄してきた主役はおそらく信濃系の地主たちでありました。
 なにしろ彼らは単なる地主ではなく、最高の軍事兵器でもあった高麗馬由来の奥州馬に精通した特殊技能集団でもあったはずです。
 あくまで想像でしかありませんが、もし真田幸村が、諏訪神を奉斎し信濃牧監の流れをくむ滋野朝臣の裔であることが事実ならば、その遺児を保護することは、この特殊技能集団の手綱を握る上で極めて有効であったのではないのでしょうか。

龍泉院のこと:その1

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 大正年間に仙台叢書刊行會によって刊行された『仙台叢書』において、「本書は何人の著作なりや明かならざれども安永年間に成りしものなり凡そ仙臺の神社佛閣名所舊跡は悉く之を記して遺さず~」、と紹介されたところの『残月臺本荒萩』に、次のような記述を見つけました。

―引用:『仙台叢書』所載『残月臺本荒萩』より―
私傳曰。熊野大神社は。今新日形丁に在り。曹洞宗玄光庵寺内に建給ふ。大社鎮守神也。其昔北三番丁二日町西側北角。今升屋と言酒屋也。本升屋惣兵衛と言へる者の屋敷なり。右玄光庵の寺内にて大地也。本より右玄光庵の鎮守にて。大社大地なり。右此社地は。右升屋惣兵衛屋敷角より。北三番丁北側を西へ。木町通迄眞直に。木町通より北へ。東側を押通。北七番丁迄眞直に。北七番丁南側東角より。東へ南側を北鍛治町迄押通し。北鍛治町西側南角より。西側一通北三番丁。右升屋惣兵衛角迄。東西南北引廻して。右の内皆玄光庵の古寺内也。然るを慶長七年戌寅年に。玉造郡岩手山より。總御人數御取移に付。右の寺内を崩して。侍丁町屋敷となる也。

 なにやらここには、現在、通町―仙台市青葉区―地内に佇む熊野神社、及びその別当寺たる玄光庵(げんこうあん)が、慶長七(1602)年に大幅縮小される以前の広大な社寺域が記されてあります。
 仙台に土地勘のない方には全くピンと来ない未知の条里解説でしょうが、土地勘のある方はこれが相当に広大な範囲であることに驚かれたことと思います。
 これをさしあたり江戸時代元禄期(1688~1703)の城下絵図に落とし込んで鑑みるに、目視の限りは龍寶寺(りゅうほうじ)―及び大崎八幡宮―のそれよりやや広く、仙岳院(せんがくいん)―及び東照宮―のそれに匹敵する面積と言えそうです。
 ちなみに、仙岳院のそれは二十五もの僧坊を抱える特殊な陸奥國分寺のそれをのぞけば城下最大に見受けられます。
 開府早々に崩されてしまったとはいえ、それに匹敵する面積とはただ事ではありません。
 なにしろ元文二(1737)年に書かれた『伊達吉村諸士諸寺院会釈覚書』の語るところでは、仙岳院―天台宗―の寺格は藩内の序列において最高位に位置づけられておりました。
 当時仙臺藩領内に飲み込まれていた平泉の中尊寺―天台宗―の別当職を兼任し、その寺領も支配していたことを鑑みるならば、藩内におけるこの仙岳院の寺格の高さは推して知るべしといったところでしょう。
 これに龍寶寺―真言宗―、定禅寺(じょうぜんじ)―真言宗―、千手院―真言宗:亀岡八幡宮別当寺―が続き、つぎに松島の瑞巌寺―臨済宗―、瑞鳳寺―臨済宗―といった伊達家の菩提寺などが七ヶ寺、更に國分寺―真言宗―や鹽竈神社別当の法蓮寺―真言宗―、資福寺―臨済宗―など、それら主要寺院「十七ヶ寺」は、「御一門格」として待遇されておりました。これは武士の「一門並」であり、「公儀の御寺―仙臺藩の公的な寺院―」として厚遇されていたのです―『仙台市史』より―。


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玄光庵と熊野神社

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勾当台公園内古図広場の安政地図に落とし込んでみた慶長七年以前の社寺の範囲

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かつての升屋惣兵衛の屋敷は現在娯楽遊戯施設になっております。

 詳細は省きますが、『仙台市史』は、『藩臣須知(別本)』を基に「御一門格」の下の「御盃頂戴格」、および「着座格」として四十三、更にその下の「御召出格」相当として三十六の寺院を列挙しております。
 しかし、そのリストの中に玄光庵―玄光寺―の名は見えません。なにか違和感を禁じ得ません。
 藩の公的儀礼に招かれなかったであろう玄光庵―玄光寺―が、くどいようですが後の御一門格のほとんどを上回る広大な社寺域を所有し得ていたのです。
 このことは陸奥國分荘の史料の空白を埋め得る何らかの示唆ではなかろうか・・・。
 少し調べてみると、玄光庵は仙台市若林区新寺に現存する曹洞宗の寺「龍泉院」の別院「玄光房」が独立したものであったことがわかるのですが、実はこの龍泉院、仙臺城大手門付近にあったものが、府城建設―拡張?―に伴い現在地に移転させられたもののようなのです。
 何より、ここが最も重要なのですが、この龍泉院は、元々は奥州藤原三代秀衡が創建した天台の巨刹であったと伝えられているのです―旧版『仙臺市史 資料編』所載「龍川院縁起」より―。

龍泉院のこと:その2

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 龍川院ならびにその別院―玄光房・大満房―の移転縮小に関して、実は、私はあわよくば宮城県内の天台寺院、特に安養寺の消滅になんらかの因果を見出したく期待しております。
 前に触れたように、松島延福寺や安養寺などの消滅した天台寺院は、奥州藤原氏滅亡後にその重臣たちの剃髪隠棲を受けいれていたのではなかろうか、と勘繰っているからです。
 もし彼らがなんらかの形で追捕を逃れて温存されていたならば、単に奥州全域に顔が効くばかりではなく、鎌倉幕府への恨みを鬱屈させたままの高度な政治勢力であり、奥州でひとたび反乱が勃発すればまたたくまに強力な軍団を組織し得る存在でもあったはずです。言うなれば大河兼任の乱の再発です。
 五代執権北条時頼が天台延福寺を滅ぼして臨済円福寺として再興させたのは、その隠れた政治勢力の解体をもくろんだものではなかろうか、と私は勘繰っているのです。
 そのようなわけで、仙臺藩の公的儀礼に招かれることなどなかったであろう「玄光庵―仙台市青葉区通町―」が、仙臺開府後早々には切り崩されていたとはいえ、後の御一門格筆頭「仙岳院(せんがくいん)―仙台市青葉区東照宮―」の境域に匹敵するそれを領していた旨が伝わっていたことには興味を惹かれます。
 この玄光庵は、「龍川院―龍泉院:仙台市若林区新寺―」の別院「玄光房」が独立したものであるわけですが、本院たる龍川院―龍泉院―は、本来仙臺城大手門前にあったと伝わります。
 佐藤正美さんが発行・編集人となっている『100年前の仙台を歩く 仙台地図さんぽ(有限会社イーピー 風の時編集部)』所載の大正元年の地図で確認すると、「旧城門―追手御門:大手門―」の門前「工兵第二大隊營」敷地内―現:仙台国際センター敷地内―に、「龍川カ松 又大下馬ノ松 俗ニ番所ノ松」と見えます。
 このことは、「城門前に古松あり、世俗之を愛鑑し毎□獨酒十斤を以つて培養せしむ、松下に斥候處を設けて松樹番所と號す」と記す「龍川院縁起」の記述にも合致します。
 いにしえの龍川院―龍泉院―はたしかにこの地にあったのでしょう。

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「龍川カ松 又大下馬ノ松 俗ニ番所ノ松」跡
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 「龍川院縁起」は次のように伝えます。

―引用:『仙臺市史 資料編』所載「龍川院縁起」―
龍泉院建立年月日を知るに由なしと雖も、藤原秀衡の創建にして天台の巨刹と見えたり、後頽廢に及ひしを永正十三年三月本山宗得寺五世融室梵□禅師之を再興し―ママ:『封内風土記』には「宗禅寺五世祝和尚開山」とあり―、曹洞宗に改む、今の仙臺城青葉城は當城―ママ:「當院」の誤写か?―の舊跡なり、慶長年中伊達政宗公築城の地を卜し、要害の勝地なりとして玆に築くや、龍泉長泉の二寺を移轉せしめむ、城門前に古松あり、世俗之を愛鑑し毎□獨酒十斤を以つて培養せしむ、松下に斥候處を設けて松樹番所と號す、今の牙城は長泉寺の舊跡にして外城は當院の舊跡なり、又別院に大満房[虚空蔵山大満寺縁起に天正元年龍川院三世景山和尚中興]、玄光房[喜福山玄光庵縁起ニ元亀三年龍川院二世明屋和尚開山]等ありて、千体佛を安置せり、故に之を以つて城に名付け千代の久遠に傳へんが為に千代と號す、後仙臺にあらたむ、(下略)

 なにやら、そのまま俗に言う「仙臺の地名由来」に深く関わる寺院であったことがわかりますが、それはさておき、龍川院は、奥州藤原三代秀衡創建の天台の巨刹が頽廃(たいはい)―退廃―していたものを、永正十三(1516)年に宗禅寺の五世何某和尚が、曹洞宗の寺として再興したもののようです。
 玄光房は、その56年後の元亀三(1572)年に龍川院の二世の和尚によって開山されたわけですから、これも当然曹洞宗の寺といって良いでしょう。
 つまり龍泉院並びに玄光房は、伊達政宗が当地に府城を建設し始めた慶長五(1600)年の時点において曹洞宗の寺であったことがわかります。
 ということは、これらの移転縮小に関して天台寺院云々は関係なく、あくまで純粋に仙臺城普請に伴う土地収用及び換地であったと言えそうです。
 さて、成仏されない問いは残り続けます。
 玄光庵は龍泉院の別院玄光房が独立したものであったわけですが、それが何故に本院である龍泉院よりもはるかに広大な城下最大級の換地を受けるに至ったのでしょうか。
 あくまで想像ですが、もしかしたらその換地の場所に古くからの熊野神社があったからではないでしょうか。
 『残月臺本荒萩』は、「本より右玄光庵の鎮守にて。大社大地なり」と前置きをした上で「右此社地は~」と先の条里解説を続けていたわけで、玄光庵自体が鎮守の大社たる熊野神社の社地に移転して築かれたもの、と読むことも出来ます。
 『封内風土記』には、「在玄光庵中。同上。傳云。此社舊北七番丁。井上九郎兵衛宅地。而同處成田萬之丞宅中。有御手濯。 往古有祝部移巫女等。自何比荒廢移社于今地乎。共不傳。」とあります。
 つまり、熊野神社はかつて北七番丁の井上九郎兵衛宅にあり、また、同所の成田萬之丞宅には御手濯―御手洗池(?)手水社(?)祓所(?)―があり、往古祝部巫女などが存在していたものの、いつ荒廃して現在地に移ったのかは不明である、とのことです。
 なにしろ、この熊野神社は仙臺城下の底地の大部を成す宮城郡荒巻村の総鎮守でありました。
 境内に掲げられた由緒には、「第八十三代土御門天皇の御代御勅宣を以って宮城郡荒巻邑総鎮守として奉祀すべき~」とあり、また「縁起曰」として、「荒巻邑堺際者西、郷六折立立川限東、藤松限北、根白石早川限南ハ鎰取堺此地、出産之者、皆産子也」とあります。
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 荒巻邑に生まれたものは全員「産子(うぶこ)―氏子―」である、などと、あらためて表現されるとなかなかの迫力を感じますが、建久九(1198)年、後鳥羽天皇の譲位によって四歳にして践祚、即位して、そのわずか12年後の承元四(1210)年には父後鳥羽上皇から強制的に弟順徳天皇に譲位させられた「土御門天皇」の“勅宣”とは、なんとも微妙です。
 いずれ、奥州藤原氏滅亡からまもない頃に勧請されたということなのでしょう。
 ここにはやや思うところがあります。
 「囚人佐藤荘司。名取郡司。熊野別當。蒙厚免各歸本處云云」といった記述が『吾妻鑑』にあるからです。

仙臺七夕を満喫して

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 久しぶりに都心部の仙台七夕を観てまいりました。
 実は数年前、Aさんからこんな話を聞きました。
 Aさんの知人に、神奈川県平塚市在住の方―以下Bさん―がいらっしゃるとのことで、丁度仙台七夕の時節に訪ねてこられたので、せっかくなので七夕祭りを案内されたのだそうです。
 すると御覧になられたBさんは、「完全に平塚の負けだわ」とおっしゃったのだそうです。
 言うまでもなく、平塚は、七夕祭りにおいて仙台同様に有名な街であるわけですが、Aさんがその理由を尋ねると、「全て和紙で作られている・・・」と答えられたそうです。
 それを聞いた私は、「え?平塚の七夕飾りは何で作られているというのですか?」とAさんに聞き返したところ、曰く、「メラミン」なのだそうです。
 メラミン・・・?給食のトレーや輸入システムキッチンの天板などに使われているあのメラミン・・・?
 その後ウィキペディアで確認してみたところ、厳密には「ソフトビニール」であったようですが、なにしろ夜間に電飾を施すので、和紙ではダメなのだそうです。
 たしかに、七夕は星まつりでありますので、電飾を施して夜間に演出するというのはある意味では理に適っていて、それはそれで充分に風情があるように思いますし、一度観てみたいとも思いましたが、なるほど、私たち仙台人がごく当たり前に眺めてきた和紙の飾りは、必ずしも当たり前ではなかったのでありました。
 もちろんBさんにとって仙台はアウェイであり、少なからずこちらに気遣われた上での発言ではあるのでしょうが、褒めていただいた「和紙」を意識し始めたここ数年の私は、じわじわと仙台七夕祭りを愛おしくなり、また吹き流しの和紙そのものを堪能したくなってきておりました。
 そして昨年、共同研究者のH.O.氏が見せてくれた梅原鏡店さんの飾りの画像がさらに私の心を揺さぶりました。
 それは昨年度の金賞を受賞した作品とのことでしたが、全体に落ち着いた紫色が印象的で、和紙の風合いがより上品に演出されておりました。
 実物を観てみたい。たゆたう和紙に触れてみたい。
 しかし既に七夕の最終日であり、もう間に合いませんでした。
 来年は絶対に観に行こう、一年前にそう決めて、ついに今年の仙台七夕の日を迎えたのでした。

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せっかくなので、旅人気分で仙台駅からスタートしました。

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心なしか、松本零士さんあたりが考案しそうなデザイン・・・「機械化母星・・・メーテル・・・」というアナウンスが聞こえてきそうです。

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これは涼しげ。

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これも涼しげ。

 ふと気づけば、目の前に『ジョジョの奇妙な冒険』の飾りがありました。
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 そういえば、先日の河北新報朝刊にも取り上げられてました。
 なにしろ、『ジョジョの奇妙な冒険』は、仙台出身の漫画家、荒木飛呂彦さんの人気作品で、現在深夜にTVアニメが放映されており、実は毎週録画して視ております、はい。
 河北新報の記事その他によれば、七夕期間中からしばしの間、都心部を中心に様々なイベントが展開されているとのことでした。
 特に現在放映中の第四部の舞台「S市杜王町」は、地名なり名産品なり、仙台をモデルにしていると思しきフシもあり、イベントはそれに大いに便乗して展開しているようです。大変良い事だと思います。それでこそ、他県のファンもわざわざ仙台を訪れてみたくなるというものです。
 同様に、やはり仙台が舞台であるという『ハイキュー』というバレーボールのアニメ―漫画―関連のグッズ販売や七夕飾りもありました。
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これも大変人気がある作品と聞いております。
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 思えば昨年、とある商店街の振興組合が、新たな客層の開拓を目指して国民的人気のアイドルアニメ『ラブライブ!』に着眼し、アニメ制作側にオリジナル七夕飾りの出展を要請したところ、それが受け入れられて実現したという旨の記事が『河北新報』の記事にありました。
 いわゆるオタクの経済効果を侮ってはいけません。気に入ったものには惜しみなく財を投入するのがオタクです。もしかしたら、萎縮した日本経済を支えているのはオタクマネ―であるかもしれません。
 したがって、その最たる層への訴求を試みたことは、商店街の戦略として蓋し妙案であったとは評価しているのですが、一方で、あれ?『Wake Up, Girls!』は・・・?とも思ってしまいました。
 なにしろ『Wake Up, Girls!』ははっきり仙台を舞台にしたアイドルアニメで、そもそも復興支援のために企画されたコンテンツと聞きます。
 コンテンツの立案者でアニメ監督の山本寛さんをはじめ、アイドルユニットを兼ねている可愛い声優さんの方々、その他関係者の方々は宮城県や仙台市などの「官」とも連携して意識的に仙台の聖地化に御尽力くださっているのです。実にありがたいお話ではないですか。せっかくの地元コンテンツ、こちらも大いに活用してほしいものです。

 さて、マーブルロードおおまちのアーケードの西端、その辻から一番町のアーケードに切り替わるわけですが、人混みの先に圧倒的な存在感の飾りが目に入りました。
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 仙台市教育委員会のそれでした。
 結論からいうと、私の中ではこれが今回の最高の作品であったと思います。まるで仙台市内の小学生たちが総力で何かを訴えかけてくるようでした。
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 その余韻に浸っていると、一番町側のアーケードに入ってすぐに、一転して祭りの興奮を鎮めるような神々しい白装束のような飾りが現れました。
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 拉致被害者の会のものでした。
 そこには切実な訴えがあります。あるいはこれこそが七夕のあるべき祈りの姿なのかもしれません。

 飾りはまだまだ続きます。

 斬新という意味で群を抜いていたのは、笹かまぼこをイメージした鐘崎さんのこの飾りでしょう。↓
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 なんとも可愛らしく、楽しい気分にさせられました。目に入るや思わず笑う方も結構おりました。

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↑これは猫?

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なるほど・・・。

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これは今までありそうでありませんでした。

 なんじゃこりゃ!
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これが児童館の作品というのもなんともおませな・・・。おそらくオリンピックに合わせてリオのカーニバルをイメージしたのでしょうか、いずれ、これを見つけたお子様たちのテンションは類をみないほどに高まっておりました・・・。

 いよいよアーケード街も終わり、勾当台公園の出店を巡って締めることにしました。ビールと牛タンを買い求めたものの、飲食コーナーのテントは満員だったので、適当なベンチを探すことにしました。
 するとそこに・・・。
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 なんと・・・こんなところに出展していたとは。このこけしは何?
 ともあれ、ほっとしました。

 結構歩いたつもりですが、スマホの万歩計で約9000歩。10000歩を歩くというのは結構大変なようです。
 いずれ、大変楽しい地元観光となりました。
 仙台七夕祭りは明日までです。事情の許す方はぜひ訪れてみてください。仙台人からのお願いでした。

龍泉院のこと:その3:囚人佐藤荘司

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 『吾妻鏡』には次のようなくだりがあります。
 「囚人佐藤荘司。名取郡司。熊野別當。蒙厚免各歸本處云云」
 拙くも読み下すならば、「囚人佐藤荘司と名取郡司、及び熊野神社の別当は、厚い情けによって特に赦免を蒙り、各々本拠に帰ることとなった云々・・・」といったところでしょうか。
 『吾妻鏡』は、これより先に「佐藤荘司以下18名の首を阿津賀志山の山上経ヶ峰なるところに梟(さら)す」といった旨を記しているわけですが、はたして、佐藤荘司は殺されたのか生かされたのか・・・。
 これについて、藤原相之助は次のように語ります。

―引用:『郷土研究としての小萩ものがたり(伊藤春雄:友文堂書房)』―
~佐藤荘司は信夫の佐藤荘司ばかりでなく、佐藤一族の荘司は各地にあつたのですから、十月に原免―ママ:厚免の誤写(?)―を蒙つたのは佐藤基治ではありません。名取の佐藤荘司です。この人は名取の郡司、名取の熊野別當と共に、無抵抗で降人に出て居たので赦されたものと見えます。獨り名取郡に佐藤荘司があつたばかりでなく、本吉郡にも佐藤一族の荘司があつたようです。同郡の飯塚村にも、小泉村にも信夫舘と傳へられるところであります。之は佐藤荘司の居舘跡でせうが、信夫の佐藤荘司の名が高くなつた為に、佐藤荘司とは信夫の荘司のことだと合點して信夫舘と云たものと見えます。

 藤原相之助は、降伏して厚免を蒙ったのは“名取の佐藤荘司”であって、“信夫の佐藤荘司”ではない、と主張しております。
 なるほど、であれば『吾妻鏡』の記述は混乱でもなんでもないということになります。
 いずれ、信夫荘司佐藤基治が生かされていようが殺されていようが、奥州において佐藤荘司と呼ばれる佐藤氏は、奥州藤原氏の同族と言って良い一族であったようです。
 例えば、太田亮さんの『姓氏家系大辞典(角川書店)』引用の『奥州御舘系図』には、「清衡(奥州御舘。奥州押領の間、八幡太郎と、後三年合戦・これ有り。後に義家に随ひ、郎従と爲る。此の時、又奥州出羽兩國を押領す) ― 基衡、弟忠繼 ― 繼信(佐藤三郎兵衛)、弟忠信(四郎兵衛)」とあります。
 これをみると、源義経のボディーガードとして活躍した佐藤繼信・忠信兄弟の父親は、奥州藤原二代基衡の弟忠繼ということになるようですが、周知のとおり、いわゆる定説となっているのは、信夫荘司佐藤基治を彼らの父と記す『吾妻鏡』のそれです。
 いずれが正しいのかはわかりませんが、佐藤一族が奥州藤原初代清衡の直系として記されていることは重視すべきと考えます。
 なにしろ、『嚢塵埃捨録(のうじんあいしゃろく)』にも、奥州藤原二代基衡について、「此國の官領“佐藤”左衛門尉藤原基衡」とあり、同様に三代秀衡についても、「“佐藤”陸奥守兼鎮守府将軍。藤原秀衡~」とあります。
 鎌倉軍に投降した「佐藤荘司・名取郡司・熊野別当」といった、おそらくは奥州藤原氏直系の残党であったであろうこれら名取郡の面々は、本拠―名取―に戻されたとはいえ、その後どのような立ち位置で鎌倉時代を生き延びていったのでしょうか。
 思うに、熊野神社預かりの神職なり僧職を本業として鎌倉幕府に仕えていったのではないでしょうか。

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名取熊野本宮

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名取熊野新宮

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名取熊野那智の滝


 何を言いたいのかというと、この囚人佐藤荘司こそが、秀衡創建と伝わる天台の巨刹龍泉院を僧として管掌し、後に仙臺城下となる荒巻村に、この村に生まれたものは皆産子(うぶこ)―氏子―である、とその縁起に言わしめるところの熊野神社―仙台市青葉区通町―を勧請したのではなかったか、ということです。
 もしその推測が妥当であったならば、和泉三郎忠衡の娘を守りながら落ち延びていた乳母の小萩や、未亡人となってしまった平泉政府の高官の奥方らが、巫女なり尼なりに転身し、引き寄せられるように國分荘玉手崎周辺に集まってきたのは、彼の手引きであったのではないか、と考えてみたのですが、確証を得られてはおりません。

龍泉院のこと:その4:八ツ塚―前編―

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 藩祖伊達政宗による仙臺城築城にともない移転せしめられた龍泉院は、仙台市若林区新寺の地に換地されたわけですが、近世以前、このあたりの地名は「八ツ塚」と呼ばれておりました。後にあらためて触れますが、かつてこの地に文字通りの八つの塚があったことに因むようです。
 現在の新寺という地名は、仙臺開府以降に成った「新寺小路」なる通り名に因むわけですが、一般にこれは「元寺小路」に対して新しい寺小路であったからと理解されており、『残月臺本荒萩』には「寛永年中本寺小路より。寺院を此所へ移さる」とあり、『仙臺鹿の子』にはより具体的に「元寺小路昔寺町なり寛永十四年の頃八ツ塚へ移し侍丁となる故に元寺小路といふ」とあります。
 しかし実際には、元寺小路にはその後も依然として寺が並んでおりました。
 それは、寛永年間(1624~1644)より下る寛文年間(1661~1673)、及びそれ以降の藩政時代各年代の城下絵図からもあきらかであり、少なくとも、宝暦十三(1763)年から9年の歳月をかけて完稿したと考えられる『封内風土記』にて新寺小路に立ち並ぶ寺の縁起を確認してみた限り、東秀院のみが「舊くは谷地小路の東、門前の車地蔵に因み車地蔵と號された地に在ったものが、今の地―八ツ塚―に移った~(原文は漢文)」と、さしあたり元寺小路から移ったものと言えそうではあるものの、その他には見当たりません。
 なにしろ漢文を模索しながらの解読なので、見落としもあるかもしれませんが、『仙台市史』所載の「仙台城下における寺社の移動と配置」の図でみても、旧地が元寺小路と思しき新寺小路の寺は、やはり、東秀院以外に見当たりません。
 また、龍泉院の縁起を信ずるならば、元々仙臺城の地にあった龍泉院と長泉寺が八ツ塚―新寺小路―に移転させられたのは、仙臺城建設に伴う用地収用のためでありました。
 ということは、城下の町割りにともなう元寺小路の成立とほぼ同時期、いえ、むしろそれよりも早く八ツ塚の地に新寺小路の基となるような体が形成され始めていたと考えられます。
 では何故むしろ開発の古い可能性すらある新寺小路が、元寺小路に対して「新」であったのでしょうか。
 シンプルに考えて、それよりも更に古くに元寺小路が成立していたからと考える他はありませんが、それはすなわち、仙臺開府以前から既にそこに寺小路があったことを意味します。
 仙臺開府以前のこのあたりは何もない荒地であったとはよく言われる話ですが、実際にはやはり以前私が推測したとおり、例えば國分彦九郎盛重の館なりなんらかの施設があったのではないでしょうか。そしてその周辺には幾ばくかの寺が建ち、少なからず寺町の体を成していたのではないでしょうか。ゆえに新寺小路に先んじていたことを意味する元寺小路の呼称が浸透し得たのではないでしょうか。
 さて、仙臺城建設にともない移転を余儀なくされた龍泉院および長泉寺でありますが、何故この二寺院は「元寺小路」でも「北山」でも「向山」でもなく、「八ツ塚―後の新寺小路―」の地に換地されたのでしょうか。
 まずは八ツ塚がどのような地であったかを確認しておきたいと思います。
 八ツ塚の地は、地理的には、奥州藤原四代泰衡による対鎌倉戦の総司令部が置かれた國分ケ原鞭楯―現在の榴岡公園―の南麓であり、仙臺城からみれば陸奥國分寺の北側に広がる宮城野原に抜ける途中に位置しております。
 地形的には、その西端が谷地小路にあたり、東端が長町利府断層線なる活断層の高低差であり、周囲よりは一段高い微高地であると言えます。
 西端となる谷地小路はひとたび大雨でも降れば沼地と化す地勢に因む通り名であり、実際そのあたりには、例えば『仙臺鹿の子』に「影海」、『嚢塵埃捨録』に「影沼」、『残月臺本荒萩』に「懸沼」なる記載があり、なんらかの沼があったと考えられます。
 ただ、これを沼であったと断言するのも実は難しいところがあります。何故なら、『残月臺本荒萩』には「新寺小路中ほど高き地形の所有り。此所より天氣未明に東を見れば。海上天に移りて見ゆ。今地をけずりたれば見えず」とあるからです。これを信じるならば、「懸沼」とは海になぞらえた蜃気楼への表現であるようにも思えますし、むしろ高い地形がけずりとられたが故にそれが見えなくなったとさえ記されてあります。
 しかし、『嚢塵埃捨録』は「影海」のくだりで「昔惡蛇の住みたりし池なりと云ふ」と記しており、同「八ツ塚」のくだりにおいて、かつてそこに沼があって大蛇が住んでいた旨の伝説も記しており、両者はおそらく同じ伝説のことと思われます。
 また、『仙臺鹿の子』には「天和年中の頃くほき所へ土を置きぬれは水かげうつらす今は影海見えす」とあり、やはりなんらかの沼があって、それが埋められたことを記しております。これを信じるならば、その沼は天和年中(1681~1684)以前の仙臺開府の頃―慶長年中(1596~1615)―にはまだ存在していたということになります。
 最大公約数的に咀嚼するならば、やはりかつて沼は存在し、そこから立ち昇る湿気と黎明の薄明りとの屈折によって蜃気楼が発生し、それが丘陵地の稜線にあたかも海のごとく見えていたものが、天和年中に起伏を均して沼を埋めがために見えなくなった、といったところになりそうですが、おそらく、そういった現実的な視覚の話ではなく、八ツ塚に起因するなにかスピリチュアルな情景を伝えているのでしょう。
 いずれ、起伏が均され沼が埋められたらしき天和年中は、丁度『先代旧事本紀大成経』が焚書発禁となった頃、それに伴い時の将軍綱吉のブレーンたる高僧潮音道海が首謀者の一人として幕府から謹慎処分とされ、にもかかわらずその正当性を各方面に主張していた頃でもあります。
 すなわち、その潮音道海に影響を受けていたはずの仙臺藩主四代伊達綱村がせわしく領内の寺社の再編を行っていた頃ですから、もしかしたらこの沼はその政策理念のもとに埋められたのかもしれません。※拙記事「先代旧事本紀大成経が流行した時代―序章―」参照
 さて、八ツ塚と呼ばれた八つの塚について、木村孝文さんは『若林の散歩手帖(宝文堂)』の中で「大林寺、松音寺(長泉寺)、妙心院、愚鈍院の四ヶ所にあったことしか明らかでない」としておりますが、これはおそらく『封内風土記』に記載のものを拾ったものと思われます。
 『嚢塵埃捨録』で確認してみると、この四寺に加えて、「成覺寺」「正雲寺」「大徳寺」「林松院」にもそれがあったことが記されており、さしあたり八つ全てが各々の寺院境内地にあったと考えられます。
 いえ、むしろ、その塚がために寺が置かれ、それこそが新寺小路をその名の体と成らしめた由来になったのではないのでしょうか。

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明治時代に廃された長泉寺の跡地に遷された松音寺の境内に設置された碑に刻まれた安政の地図に、八ツ塚を落とし込んでみました。

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龍泉院のこと:その5:八ツ塚―後編―

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 八ツ塚の地名由来となった八つの塚は、『仙臺鹿の子』には「或る人の塚」とあり、『嚢塵埃捨録(のうじんあいしゃろく)』には「山伏八人を埋めたる塚」とあり、『残月臺本荒萩』には「國司の塚」とあります。
 『嚢塵埃捨録』の「山伏八人」とは、当地の沼の大蛇を咒咀(じゅそ)して退治したという八人の山伏です。彼らは、大蛇を退治した際にその毒気にあたり、死んでしまったのだそうです。
 また、元ネタは不明ながら、七北田刑場―仙台市泉区七北田字杉ノ田―の火炙りの刑の真似事をして焼死した子供を供養したもの、という伝説もあるようです。
 八ツ塚所在地の一つとされる正雲寺境内の六地蔵の後ろには、首の欠けた古い八体の地蔵があるのですが、先の木村孝文さんの『若林の散歩手帖(宝文堂)』によれば、それらは身代わりに建てた八つの地蔵塚のそれと伝わっているようです。

―引用:『若林の散歩手帖』より―
 昔、七北田の刑場で重罪人の火炙りの刑が行われた。それを見た者の中の子供らが七北田から帰って、火炙りの真似事をし、一人の子供を罪人に擬して、ぐるぐると縛りつけ、藁や杉葉を集めて火をつけた。火は見る見るうちに燃え出し、遂に中の子供は無残にも焼け死んでしまった。子供たちはどうすることもできず、そっと埋めて帰った。夜になって一人の子供が帰らないので騒ぎだし、八方捜索して灰燼の中から死体が発見され、ことの次第が判明した。子供の親達は申し訳ないと、供養のためと身代わりに八つの地蔵塚を建てて弔ったという。
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 なんともやるせない悲痛な物語です。
 多かれ少なかれ、幼い子供が時としてこのように無垢な残虐性を暴発させてしまうことは認めざるを得ないところでありますが、ここには美化されることもなく痛々しくもあからさまなリアリティがあります。おそらく実際にそういった事故があったのでしょう。身代わりということは、八体の首の欠けた地蔵の数は遊びに加わった子供の頭数ということなのでしょうか。
 しかし、なにしろ七北田刑場は元禄三(1690)年に米ケ袋―仙台市青葉区―から遷された刑場であります。つまり、新寺小路が成ったとされる寛永年間(1624~1644)より新しいものです。さすれば、それ以降に八ツ塚が築かれたという話には違和感があります。
 城下米ケ袋から郊外の七北田への刑場の移転については、五代将軍徳川綱吉による生類憐み関係の発令の数々―第一声は貞享二(1685)年―を受けて城下から隔離したのではないか、というのが私論なのですが、仮に、子供たちの悲痛な事故が、七北田刑場ではなく移転前の米ケ袋でのそれを目撃したことによるものとした場合、それは憐み政策によって戦国の気風が激変する以前の事故ということになります。
 すなわち、刀の試しものや家族計画の間引きなど、とにかく人の命が軽々と失われていた時代です。こう書くと誤解を招くかもしれませんが、よほどの名のある家の家督でもない限り、単に一人の子供の悲痛な事故をきっかけとした供養塚がその後永く地名として残るとも思えません。
 また、安永七(1778)年頃に成ったとされる『残月臺本荒萩』に「國司の塚」と記されていた八ツ塚が、成書以前のたかだか90年以内に築かれたものとも思えません。
 したがって、おそらく、地蔵の頭数「八」という数字が、たまたま八ツ塚のそれと一緒だったので、伝説が混乱したのでしょう。私はやはり、「国司の塚」という伝説が限りなく真実に近いと考えます。
 以前も触れましたが、この長町利府活断層線のラインは、特に広瀬川以南―旧国道286号沿い―において集中して古墳が発見されております。それらは5世紀末から6世紀にかけてのものとされておりますが、築造時期はともかく、思うに、八ツ塚もその埋葬供養観念の延長上にあったものと捉えて良いのではないでしょうか。

龍泉院のこと:その6:六道の辻

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 現在、仙台市若林区新寺にある龍泉院の本堂は、新寺通―旧新寺小路―側、すなわち南側を向いておりますが、本来の正門は西側道路に面した山門のようです。元禄期の城下絵図の表記も西を頭にしておりますので間違いないでしょう。
 その西入りの山門の両脇には、「龍泉院六地蔵」と名付けられた六体の地蔵が左右三体ずつに分かれて並んでいるのですが、これがために龍泉院は通称「六地蔵」と呼ばれております。しかし六地蔵が山門に並び始めた歴史は意外に浅く、明治以降になります。これらは、本来付近の「六道の辻」にありました。

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「龍泉院六地蔵」

 「六道の辻」については、『仙臺鹿の子』に「六道の辻は清水小路北詰の角をいふ六方へ六筋わかりたる街なれば六道の辻といふ又或る説に來世六道を此所へ立つ故に六道といふ此説たしかならず」と記されております。
 現在の現地は、俗に「北目ガード」と呼ばれる頭の低い鉄道高架下を、窮屈な歩道と自転車道、そして東向き一方通行の車道に分離された北目町通(きためまちどおり)が潜り、辛うじて仙台駅の東西を連絡しているわけですが、明治時代の鉄道開通、及び仙台駅の完成によって、周辺の街区が著しく変化しているので、「六方へ六筋わかりたる街」の面影は微塵もありません。
 ただ私は、この「六方へ六筋わかりたる街」よりも、むしろ、「たしかならぬ説」と否定されたところの「来世六道」云々こそが本来の「六道の辻」の命名由来であっただろうと考えております。

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「北目ガード」

 なにしろ清水小路や谷地小路の通り名も示すとおり、六道の辻の東側一帯はひとたび大雨が降れば大沼と化す場所でもあったと思われます。
 城下北部を東流している梅田川は、宮城野区原町付近で榴ヶ岡丘陵に阻まれ、一部渓谷を形成しながら東に抜けているのですが、『仙台市史』によれば、往古、増水の際にはその渓谷が隘路となり、あふれた水が清水沼―現:清水沼公園―に流れこみ、その結果清水沼は大沼となり、更に西へ広がり丘陵西部の鞍部を乗り越えて南西の連坊小路のあたりまで続いていたものと考えられるようです。おそらくは先に触れた影海―影沼・懸沼―をも飲み込む大沼が現れていたということでしょう。
六道の辻はその大沼の西の畔にあたると推測されます。

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 以前にも触れたとおり、この大沼は仙臺開府以前の小田原村と荒巻村と南目村の村境にあたり、特に六道の辻は現在仙台市青葉区二日町に鎮座する「村境榎神社」の元の鎮座地であったのであろうと私は推察しております。
 なにしろこの村境榎神社は、かつて「小田原村と荒巻村との境」にあったと伝わる一方で、「仙臺と荒巻邑の境」にあったとも伝えられております。両地はどう解釈しても同一地にはあてはめ難く、私は、「小田原村と荒巻村との境」を「六道の辻」、「仙臺と荒巻邑の境」を「仙台市役所北東角」と読み、同社鎮座地の変遷を伝えているものと最大公約数的な解釈を試みているのです。
 八ツ塚―仙台市若林区新寺―のあたりは古くから霊地であって異界なり冥界なりとみられていたフシがあり、だからこそ影海―影沼・懸沼―のような得体のしれないものが伝えられ、故に「六道」なのでしょう。さすれば八ツ塚の北から南西までを包むように溢れ出す大沼は、さしずめ三途の川に擬されていたのかもしれません。
 仙臺城建設に伴い立ち退くこととなった龍泉院と長泉寺は、そのような所に換地され、新寺小路の先駆となったわけです。

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「松音寺山門」

 龍泉院と共に移転せしめられた長泉寺(ちょうせんじ)は、明治時代に廃されております。底地にはかつて連坊小学校のあたりにあった松音寺が遷されてきました。その松音寺の山門は、伊達政宗公の隠居屋敷「若林城」の城門なのだそうです。

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「長泉寺横丁」

 廃された長泉寺の名は現在街路名にのみ残されております。
 今、包丁一本をさらしに巻いて「こいさん」とつぶやいてしまった方、お気持ちはわかります。

瀬織津姫は撞賢木厳之御魂天疎向津媛なのか―前編―

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 前に、大和岩雄さんが『日本神話論(大和書房)』の中で論ずる――「撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」が「天照大神の荒魂」である根拠がない――旨について語りました。
 簡潔にいうならば、その概念は幕末の国学士鈴木重胤によって創られたものであったというものでした。
 そこで私は、それ以前、すなわち、それが主張された鈴木重胤の『日本書紀伝』―文久二(1862)年―以前にその概念が存在しなかったかを探してみたわけですが、見つけられませんでした。
 そうなってくると、天照大神の荒魂のこととされる瀬織津姫についても、撞賢木厳之御魂天疎向津媛である根拠が失われるわけなので、その概念に立脚する瀬織津姫論は見直されなければならないと考えざるを得なくなりました。
 そもそも、瀬織津姫が何故撞賢木厳之御魂天疎向津媛のことと捉えられてきたのかというと、鎌倉時代の神道五部書などの史料で瀬織津姫が天照大神の荒魂とされていた前提の上に、『エミシの国の女神(風琳堂)』の菊池展明さんが天照大神の荒魂=撞賢木厳之御魂天疎向津媛という幕末の鈴木重胤発の定説的概念を結び付けたことに起因していると考えられます。
 はたして、それ以外にそれを結びつけるような史料などはないものでしょうか。
 実は『ホツマツタヱ』にもその概念らしきものはあります。
 何を隠そう、『ホツマツタヱ』におけるセオリツヒメは、アマテルの后となることによって「ムカツヒメ」と呼ばれております。
 おそらく菊池展明さんは、識者から偽書として無視されがちな『ホツマツタヱ』の記述を論拠にすることを憚り、それに頼らない論を打ち出されたのでしょう。
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