藩祖伊達政宗による仙臺城築城にともない移転せしめられた龍泉院は、仙台市若林区新寺の地に換地されたわけですが、近世以前、このあたりの地名は「八ツ塚」と呼ばれておりました。後にあらためて触れますが、かつてこの地に文字通りの八つの塚があったことに因むようです。
現在の新寺という地名は、仙臺開府以降に成った「新寺小路」なる通り名に因むわけですが、一般にこれは「元寺小路」に対して新しい寺小路であったからと理解されており、『残月臺本荒萩』には「寛永年中本寺小路より。寺院を此所へ移さる」とあり、『仙臺鹿の子』にはより具体的に「元寺小路昔寺町なり寛永十四年の頃八ツ塚へ移し侍丁となる故に元寺小路といふ」とあります。
しかし実際には、元寺小路にはその後も依然として寺が並んでおりました。
それは、寛永年間(1624~1644)より下る寛文年間(1661~1673)、及びそれ以降の藩政時代各年代の城下絵図からもあきらかであり、少なくとも、宝暦十三(1763)年から9年の歳月をかけて完稿したと考えられる『封内風土記』にて新寺小路に立ち並ぶ寺の縁起を確認してみた限り、東秀院のみが「舊くは谷地小路の東、門前の車地蔵に因み車地蔵と號された地に在ったものが、今の地―八ツ塚―に移った~(原文は漢文)」と、さしあたり元寺小路から移ったものと言えそうではあるものの、その他には見当たりません。
なにしろ漢文を模索しながらの解読なので、見落としもあるかもしれませんが、『仙台市史』所載の「仙台城下における寺社の移動と配置」の図でみても、旧地が元寺小路と思しき新寺小路の寺は、やはり、東秀院以外に見当たりません。
また、龍泉院の縁起を信ずるならば、元々仙臺城の地にあった龍泉院と長泉寺が八ツ塚―新寺小路―に移転させられたのは、仙臺城建設に伴う用地収用のためでありました。
ということは、城下の町割りにともなう元寺小路の成立とほぼ同時期、いえ、むしろそれよりも早く八ツ塚の地に新寺小路の基となるような体が形成され始めていたと考えられます。
では何故むしろ開発の古い可能性すらある新寺小路が、元寺小路に対して「新」であったのでしょうか。
シンプルに考えて、それよりも更に古くに元寺小路が成立していたからと考える他はありませんが、それはすなわち、仙臺開府以前から既にそこに寺小路があったことを意味します。
仙臺開府以前のこのあたりは何もない荒地であったとはよく言われる話ですが、実際にはやはり
以前私が推測したとおり、例えば國分彦九郎盛重の館なりなんらかの施設があったのではないでしょうか。そしてその周辺には幾ばくかの寺が建ち、少なからず寺町の体を成していたのではないでしょうか。ゆえに新寺小路に先んじていたことを意味する元寺小路の呼称が浸透し得たのではないでしょうか。
さて、仙臺城建設にともない移転を余儀なくされた龍泉院および長泉寺でありますが、何故この二寺院は「元寺小路」でも「北山」でも「向山」でもなく、「八ツ塚―後の新寺小路―」の地に換地されたのでしょうか。
まずは八ツ塚がどのような地であったかを確認しておきたいと思います。
八ツ塚の地は、地理的には、奥州藤原四代泰衡による対鎌倉戦の総司令部が置かれた國分ケ原鞭楯―現在の榴岡公園―の南麓であり、仙臺城からみれば陸奥國分寺の北側に広がる宮城野原に抜ける途中に位置しております。
地形的には、その西端が谷地小路にあたり、東端が長町利府断層線なる活断層の高低差であり、周囲よりは一段高い微高地であると言えます。
西端となる谷地小路はひとたび大雨でも降れば沼地と化す地勢に因む通り名であり、実際そのあたりには、例えば『仙臺鹿の子』に「影海」、『嚢塵埃捨録』に「影沼」、『残月臺本荒萩』に「懸沼」なる記載があり、なんらかの沼があったと考えられます。
ただ、これを沼であったと断言するのも実は難しいところがあります。何故なら、『残月臺本荒萩』には「新寺小路中ほど高き地形の所有り。此所より天氣未明に東を見れば。海上天に移りて見ゆ。今地をけずりたれば見えず」とあるからです。これを信じるならば、「懸沼」とは海になぞらえた蜃気楼への表現であるようにも思えますし、むしろ高い地形がけずりとられたが故にそれが見えなくなったとさえ記されてあります。
しかし、『嚢塵埃捨録』は「影海」のくだりで「昔惡蛇の住みたりし池なりと云ふ」と記しており、同「八ツ塚」のくだりにおいて、かつてそこに沼があって大蛇が住んでいた旨の伝説も記しており、両者はおそらく同じ伝説のことと思われます。
また、『仙臺鹿の子』には「天和年中の頃くほき所へ土を置きぬれは水かげうつらす今は影海見えす」とあり、やはりなんらかの沼があって、それが埋められたことを記しております。これを信じるならば、その沼は天和年中(1681~1684)以前の仙臺開府の頃―慶長年中(1596~1615)―にはまだ存在していたということになります。
最大公約数的に咀嚼するならば、やはりかつて沼は存在し、そこから立ち昇る湿気と黎明の薄明りとの屈折によって蜃気楼が発生し、それが丘陵地の稜線にあたかも海のごとく見えていたものが、天和年中に起伏を均して沼を埋めがために見えなくなった、といったところになりそうですが、おそらく、そういった現実的な視覚の話ではなく、八ツ塚に起因するなにかスピリチュアルな情景を伝えているのでしょう。
いずれ、起伏が均され沼が埋められたらしき天和年中は、丁度『先代旧事本紀大成経』が焚書発禁となった頃、それに伴い時の将軍綱吉のブレーンたる高僧潮音道海が首謀者の一人として幕府から謹慎処分とされ、にもかかわらずその正当性を各方面に主張していた頃でもあります。
すなわち、その潮音道海に影響を受けていたはずの仙臺藩主四代伊達綱村がせわしく領内の寺社の再編を行っていた頃ですから、もしかしたらこの沼はその政策理念のもとに埋められたのかもしれません。※
拙記事「先代旧事本紀大成経が流行した時代―序章―」参照 さて、八ツ塚と呼ばれた八つの塚について、木村孝文さんは『若林の散歩手帖(宝文堂)』の中で「大林寺、松音寺(長泉寺)、妙心院、愚鈍院の四ヶ所にあったことしか明らかでない」としておりますが、これはおそらく『封内風土記』に記載のものを拾ったものと思われます。
『嚢塵埃捨録』で確認してみると、この四寺に加えて、「成覺寺」「正雲寺」「大徳寺」「林松院」にもそれがあったことが記されており、さしあたり八つ全てが各々の寺院境内地にあったと考えられます。
いえ、むしろ、その塚がために寺が置かれ、それこそが新寺小路をその名の体と成らしめた由来になったのではないのでしょうか。